国境へ その2
1991年 2月27日 0512時 イラク 砂漠
"チーム・コブラ"が接敵したのはタワカルナ師団の中でも最前方、つまりクウェート侵攻の主力を務めるはずだった部隊だ。だが、後方と側面からアメリカ軍とイギリス軍の部隊に支援してくれるはずの本隊を攻撃され、補給路が絶たれた事もあって完全に疲弊していた。イラク軍は遂には前線部隊を切り捨て、後方に残った主力だけを生き残らせる戦術を取り始めたようだ。だから、クウェート侵攻の先鋒を務めるはずだった部隊もまた"捨て駒"にされてしまっていたのだ。しかし、そのことを知っていたのは後方に逃げた共和国防衛隊の主力部隊やイラク軍の司令部だけであった。
イラク軍は完全に不意を突かれた形になった。T-62やT-55の主砲はクウェートとの国境の方向に向けていたため(まさか多国籍軍がサウジアラビアから自分たちの後ろに回りこんで攻撃してくるとは思ってもいなかったようだ)、全くもってこの攻撃に対して迎撃する準備ができていなかったのだ。
イラク軍の姿を見た時、クロードは少し驚いた。敵戦車の砲塔がこちら側ではなく、自分たちが向かってきている方向とは逆方向を向いていたのだ。敵は無防備な戦車の後ろ側をさらけ出している。だが、少し思案してその答えにすぐに行き当たった。自分たちはイラク軍の後方から回りこんでクウェートへ向かう進路を取っていったため、必然的にクウェートへ向かおうとしているイラク軍の背後を取る事になるのだ。だから、このチャンスを逃す手は無いと、攻撃を開始させた。
「全車両、射撃自由!味方を撃たないように注意せよ!」
「HEAT装填!やっちまいましょう!」
バーキンの元気の良い声がインカムに響いた。
戦車は正面の装甲板が最も頑丈になるように造られている。基本的に、正面で向き合って撃ち合いになることを想定しているからだ。そして、次に厚いのが側面で背面、下面、上面の順で薄くなっていく。全周の装甲板を同じくらい分厚くするのが理想的ではあるが、そうしてしまうと重量がかさみ、結果として機動性にしわ寄せが来る。大出力のエンジンを搭載すれば良いという考えもあるが、現在の技術ではせいぜい1500馬力で68tの戦車を最高時速70km程度で走らせるのが関の山だ。しかも、それは最新鋭のM1A1のスペックであって、旧型のT-62等にそれを求めるのはどだい無理な話だ。
背面から撃たれたT-62やT-55が爆発する。イラク軍が攻撃に気づいたのは、またもや味方の戦車が吹き飛ばされた後だった。戦車長たちは慌てて超信地旋回をさせようとしたが、戦車の車体部分が砂に埋められて砲台となっていたため、対応が遅れた。隊長車がようやく砲塔を回し始めた頃には、次々と味方の戦車が爆発して破壊されていた後だった。やがて、その隊長車もAPFSDSの餌食となり、イラク軍の戦車隊長は痛みを感じる間もなく死亡した。
1991年 2月27日 0543時 サウジアラビア
多国籍軍司令部では次々とイラク軍を撃滅させた、またはイラク軍が撤退しているとの報告が入っていた。クウェート国内に残っているのは、前線部隊のみで殆どが引き払い始めているようだ。しかし、多国籍軍司令官はイラク軍、特に共和国防衛隊を完全に撃滅したいと考えていた。そこで、イラク国内に展開している部隊にはそのまま進軍するように命令を出した。しかし、そうはいかなかった。
アメリカ国内ではクウェート解放がほぼ確定的になっていたため、ホワイトハウスとペンタゴンのお偉いさんたちは、今日中に休戦をさせる意向だった。そこで、イラク/クウェート現地時間の2月27日遅くか28日未明に停戦させるよう決定したのだった。アメリカ国内では、爆撃された後の黒焦げになったトラックの映像がテレビで放映され(撤退するイラク軍のトラックであったが、何故かマスコミは民間人を誤爆したかのように放送した)、戦争に対するイメージが悪くなったというのだ。そこで、大統領は参戦している各国首脳に停戦に関する協議を開始したのだ。
1991年 2月27日 0611時 イラク 砂漠
敵はまだ立ちはだかってはいたが、抵抗らしい抵抗は無かった。おまけに、歩兵部隊などは、戦車やヘリの姿を見た途端、AKを放り出して降参する有り様だった。そのため、戦闘部隊が捕虜を移送するためにヘリを呼び出す、という事が続発した。チヌークやブラックホークにはイラク兵捕虜が次々に載せられ、サウジアラビアの捕虜収容所に移送されて行った。
もうすぐゴールであるクウェート国境が見えてくる。明日にはクウェート国内に突入できるだろう。だが、また天候が悪くなってきた。空に灰色の雲がかかり、霧雨が降ってきたのだ。しかし、昨日の朝とは違って激しい降雨にはならなかった。"チーム・コブラ"のメンバーは今日が最後の戦いになることは誰も知らなかった。




