わたしの葉月ちゃん
放課後の教室で、葉月ちゃんが綺麗な長い髪をブラシで梳かしていた。他に誰もいない教室の、少し暗い室内。葉月ちゃんは机の上にコンパクトミラーを立てて、鏡に映る自分の姿を覗きながらブラシを動かし続ける。彼女の黒い髪がさらさらと流れる様子を、わたしはその傍らでうっとりと眺めた。
葉月ちゃんの鏡のカバーには女の子に人気の猫のキャラクターが描かれていて、そういえば、葉月ちゃんはこのキャラクターが昔から大好きだったなあと、わたしは思い出す。小学校の頃も筆記用具やお弁当箱、手提げ袋にこのキャラのグッズを使っていた。変わらない葉月ちゃんが可愛くて思わず頬が緩んだ。
わたしは頬杖をつきながら「随分気合いが入ってるねー」と葉月ちゃんに話しかけてみる。でも、葉月ちゃんはヘアメイクに夢中で、わたしの言葉に気付かなかったみたいだ。髪を梳かし終えると、化粧ポーチから取り出したチークで頬の色味をつけ、マスカラで睫毛を整える。
そんなことしなくても十分可愛いのにな、葉月ちゃんは。サラサラの長い黒髪。眉の位置で切り揃えられた前髪の下には、長い睫毛に縁取られた大きな栗色の瞳。すっと通った鼻に、薔薇の蕾のようなピンク色の唇。ほっそりした体に、すらりと長い手足は白磁のように白く透き通って見える。このクラス――ううん、この中学校きっての美少女だとわたしは思っている。
夏服のブラウスをだらしなく着て、スカートも短くて、それは葉月ちゃん本来の清純な雰囲気を損ねているような気もするけど、それは葉月ちゃんの好みだし、わたしはそこまでは口を出さないことにしている。
わたしは再び「もしかして、デート? それともいつもの連中とカラオケ?」と問い掛けてみたんだけど、真剣な表情でお化粧する葉月ちゃんには届かない。わざとなのかな?
中学に入るちょっと前くらいから葉月ちゃんは冷たくて、わたしのことをよく無視するんだ。お友達との付き合いにも誘ってくれないし。家が近所同士で、それまでは大親友だったのにな。
可愛い葉月ちゃんに、地味なわたしは不釣り合いだったのかもしれない。胸の奥がヒリヒリするように寂しいけれど、仕方がないのかなあ。
「あ、葉月、いた! 何やってんの、早くおいでよ」
教室のドアが開いて、女の子が顔を出した。葉月ちゃんのクラスメイトの晶子ちゃんだ。葉月ちゃんが今仲良くしているお友達。おしゃれに敏感で、わたしとは階級が違う感じの人だ。わたしは遠慮して葉月ちゃんから距離を取り、教室の端に寄った。
「竜太くんも待ってるよ」
「すぐ行く!」
葉月ちゃんはコンパクトミラーと化粧ポーチをカバンに押し込み、ガタガタと音をたてて席を立った。わたしの方は見向きもしないで、晶子ちゃんと教室を出ていく。
葉月ちゃん、やっぱり、竜太くんのこと好きなのかなー。
竜太くんなんて、ひょろ長くてちょっと顔がいいだけが取り柄で、チャラいし、勉強もイマイチだし、我がままだし、そんなにいい男には思えないんだけど。どうしてあんな奴がいいんだろう。
なんだか、胸の奥がきゅっとする。締め付けられるみたいに痛い。ヒリヒリするように痛い。擦り傷だらけの心臓が、海に投げ捨てられたみたいに痛い。
ねえ、葉月ちゃん。どうしてわたしを見てくれないの。昔みたいに話してくれないの。笑顔を見せてくれないの。
ねえ――。
葉月ちゃん、わたしは葉月ちゃんが大好きすぎて、辛いよ。
ねえ、葉月ちゃん。お願い、わたしと一緒にいて。ずっと、一緒にいられると思っていたのに。ねえ――。
学校を出たわたしは、葉月ちゃん達のグループと一緒に行動した。とは言っても、少し離れて彼女達の後ろをついて行っているだけなんだけど。
葉月ちゃんは女子三人、男子三人のグループで楽しげに話しながら駅前の通りを歩く。その中にはもちろん、葉月ちゃんの想い人の竜太くんもいて、葉月ちゃんは竜太くんの隣でご機嫌な笑顔を浮かべている。
あんな顔、いつ頃からか、わたしには見せてくれなくなったのに、あの男には見せるのか。
気持ちがへこむ。
女子達のいつもより一オクターブ高い声と、男子達のいやらしい目つきが滑稽で、同時にわたしの神経を逆撫でした。楽しそうな笑い声がわたしの胸をザクザクと切り裂いていった。
それでも、葉月ちゃんはやっぱり特別だ。ぱっちり開いた瞳が竜太くんを追いかける。竜太くんに話しかけられて嬉しそうにはにかむ。悔しいけど、恋をする葉月ちゃんはキラキラしていて綺麗で、目が離せなかった。
彼女たちは制服のままファストフード店に立ち寄った。わたしはさすがに店の中には入れず、外で待つことにした。
ファストフード店は一階の外壁がガラスだったから、こっそりと様子を覗うことができた。飽きもせず、おしゃべりしたり、笑ったりを繰り返す葉月ちゃんたち。明日から夏休みだから、出掛ける予定なんかをウキウキと相談しているのかもしれない。
竜太くんがたまに葉月ちゃんの頭を撫でたり、手に触れたりするのが不快だった。葉月ちゃんのサラサラの髪や透き通った素肌が、排せつ物で汚されるみたいに見えた。
わたしは見ていることしかできない。
彼女達と友達付き合いができていれば、まだよかったのかもしれない。でも、祖母との二人家族で、祖母の僅かな年金とパート給金に頼る生活では、クラスメイトにとって当たり前の遊びがわたしにはできなかった。カラオケなんて無理だし、ファストフードすらほとんど利用したことがなかった。入ったことがない場所に、今更馴染むことはできないのだ。
それに、わたしはクラスメイトから嫌われていたし。
お金がないせいもあって、わたしはよくいじめられていた。他のみんなが持っているようなキャラクターものやおしゃれなデザインの文房具なんて買えなかったし、中学生になってからは制服になってマシにはなったけど、小学生の頃はいつも同じ洋服を身に着けていた。そういえば、子供の頃、夏祭りにみんなで浴衣を着て行こうということになったんだけど、うちにはそんなものを買う余裕なんてなかったから仲間外れにされたことがあったな。まあ、わたしにはお祭りで遊ぶためのお金自体なかったんだけど。
からかわれていじめられて、わたしはよく泣いていたものだけど、小さい頃の葉月ちゃんはそんなわたしを庇ってくれた。いじめた人間を糾弾して、泣いているわたしのことは頭を撫でて慰めてくれた。
「誰? 由美ちゃんをいじめたのは! 許さないから!」
「泣かないで由美ちゃん。葉月はずっと由美ちゃんの味方だからね」
大好きな葉月ちゃん。
その葉月ちゃんを今は外から見ているしかない。悔しくて涙が出そうだ。飼い主に「待て」を言われて涎を垂らす犬のように、わたしは店内の葉月ちゃんを見つめた。ファストフード店のロゴが大きくプリントされたガラスの壁にへばりついて、ロゴの影に隠れながら、わたしは葉月ちゃんを見つめ続けた。
夏休み、女の子の肌を黒く焼こうと、燦々と陽光が降り注ぐ季節。空がやけっぱちのように青くて、蝉の声がうるさくて、市営プールは子供たちの歓声でいっぱいで、大人たちは道路の照り返しに顔を顰めながら通りを歩く。そんな季節に葉月ちゃんはというと、あまり宿題には手を付けないで、のびのびと遊び歩いていた。女の子とつるんで買い物に行ったり、アイスクリームを食べたり、ネイルを褒め合ったり。たまには男の子も混ぜて遊びに行く。近くのショッピングモールやプール、映画館。楽しいイベントが目白押しだ。
わたしはその全部について行った。彼女達の後ろから一人で。入れない場所は外で待っていた。
葉月ちゃんは楽しそうに笑う。女友達と秘密のおしゃべりをしながら笑う。男友達のボケに皆で笑う。竜太くんに髪を撫でられて笑う。
後ろから、ずっと見てた。隠れてずっと見ていた。葉月ちゃんの笑顔だけを見ていた。
葉月ちゃんはたまに、誰かの視線を感じたみたいにわたしの方を振り返ることがある。でも、かくれんぼが大得意なわたしのことは見つけられないみたい。怪訝な表情で周囲を見回す姿もまた可愛らしい。
「どうしたの、葉月?」
「ううん。なんでもない」
人影が見あたらないことに安心した葉月ちゃんは再び前を向いて歩き出す。花柄のワンピースを着た、少しだけ日焼けした背中が揺れる。その背中を、わたしはゆっくりと追う。こっそりと後ろをついていく。目線はずっと、葉月ちゃんから反らせない。
今日の葉月ちゃんは男友達も含めてお祭りに行くんだって。
「ねえ、ママ、浴衣着せてよ」
「これから、ママ、パートなの。自分で着なさい」
「えー」
そんな微笑ましいやり取りをわたしはこっそりと盗み聞いている。
仏頂面の葉月ちゃんが自分の部屋に帰ってきた。Tシャツと短パンを脱いで下着姿になる。すらりとした身体に、ピンク色の上下お揃いなブラとショーツがお似合いだ。
鼻歌を歌いながら着替える葉月ちゃんを、わたしは唾を飲み込みながら覗いている。
子供の頃に何度も来た部屋だからね。こうやって、中の様子を盗み見ることもお手のものなんだ。
着物用のスリップを着て、お友達と一緒に買った新しい浴衣に袖を通す葉月ちゃん。白地に赤い花が散った柄は、黒髪の葉月ちゃんによく似合う。
ショッピングモールで買ったお手軽浴衣だから、帯は巻いてリボンに成形された部分を差し込むだけの簡単仕様。多少手間取ったものの、葉月ちゃんはなんとか格好の付く形に浴衣を仕上げると、机の前に座った。化粧鏡を取り出して、念入りにお化粧を始める。下地の上にファンデーションを塗り、アイメイク、アイブロウを丁寧に引く。付け睫毛とマスカラで睫毛にボリュームを出すと、元々ぱっちりとした目がさらに印象的になった。チーク、リップはピンク系。可愛らしい葉月ちゃんにピッタリの色だ。ネイルは既に前に女友達とお揃いにしたものを付けてあるけど、今日はペディキュアを自分で塗るようだ。椅子の上に体育座りみたいな格好で、ペディキュアの瓶を片手に、真剣な表情で足の爪を真っ赤に染めていく。わたしはこの時の葉月ちゃんの表情が好き。
お化粧が終わると、葉月ちゃんは髪を結い上げてお団子を作る。器用だなあ。眉の位置で切り揃えた前髪は、櫛を使って丁寧に整えた。
「やば。もう行かないと」
葉月ちゃんは傍らの時計を見て慌てて立ち上がる。籠バッグにスマートフォンや財布、その他のものを突っ込み、外出の準備を始めた。
さて。わたしもそろそろ覗き見はやめにしよう。
わたしも今日はお祭りの会場に行くことにした。あそこは大切な思い出のある場所。特別な場所で、葉月ちゃんが来るのを待つことにしよう。
小学生の頃、時々わたしは同級生に仲間外れにされていた。お祭りの日もそうだった。
「お祭りにはみんなで浴衣で行こうって決めたのに、なんで由美ちゃんは普段着なの?」
「だって……うちにはないから……」
わたしがそう答えると、同級生の女の子達は首を傾げた。
「ママが買ってくれないの?」
「うちはお母さんがいないし……」
「うちもママがいないけど、パパが『大切な娘のため』って買ってきてくれたよ!」
父子家庭でも裕福な暮らしをしている女の子は、そう言うと真っ赤な浴衣の袖を振って見せた。周りの女の子たちがにやりと笑う。
「じゃあ、由美ちゃんは大切な娘じゃないんだ!」
「きゃはは!」
女の子たちの高い笑い声が響く中で、わたしは下を向くことしか出来なかった。悔しくて悲しくて、目に涙が溜まった。
「ごめん! 遅くなっちゃった!」
わたしが泣くのをを我慢していると、遅れていた葉月ちゃんがやって来た。紺地に花火の柄の浴衣姿だった。
「由美ちゃん……どうしたの?」
ぱっちりとした葉月ちゃんの瞳が、心配そうにわたしの顔を覗きこむ。わたしは泣き出しそうなのを悟られたくなくてそっぽを向いた。
「みんな、何かあったの?」
不穏な空気を感じた葉月ちゃんはみんなの方を向く。みんなはニヤニヤ笑っていた。
「だって由美ちゃんが浴衣を着てこないから」
「家族が浴衣も買ってくれないなんて、大切にされていない子供ってことでしょ」
「もともと浴衣で行こうっていう約束なんだし、浴衣で来なかった由美ちゃんは置いていこうよ」
葉月ちゃんはみんなの言葉を聞いてから一呼吸置くと、わたしに向かって言った。
「一緒に行こう、由美ちゃん」
そう言って、わたしの手を掴んだ。
「あんな人達放っておいて、わたし達だけでお祭りに行こうよ」
葉月ちゃんはわたしの手を引いて、お祭りの会場である神社に向かって歩き出した。ぽかんと口を開ける同級生の女の子たちを置き去りにして。
わたしがびっくりして葉月ちゃんの顔を覗くと、目を吊り上げて怖い顔をしていた。
「わたしの幼馴染を悪く言う人達は嫌い」
そう言った葉月ちゃんの顔は、怒りの表情を浮かべているのにとても綺麗な顔だった。
わたしはもう片方の手の甲で涙を拭い、葉月ちゃんに手を引かれるまま、神社に向かって歩いた。
綺麗なお化粧を施し、白地に赤い花の柄が散った浴衣を着た葉月ちゃんが夜の境内に入ってくる。いつもだったら暗くて静かな夜の神社は、提灯に灯った光と、たくさんの屋台の明かりで煌々と輝き、多くの人でごった返していた。たくさんの人が騒ぐ声と、太鼓と笛の音が明るい夜の空に響き渡る。
お化粧と結い上げた髪型からいつもより少し大人に見える葉月ちゃんは、今にも花開こうとする大輪の花のように、たくさんの人達の中にいても一際可憐だった。もちろん、一人ではなくて、いつもつるんでいる友達と一緒。葉月ちゃんの隣には竜太くんがいた。
竜太くんも浴衣姿だった。グレーの変な図形柄みたいなやつ。ヒョロヒョロ痩せた体に襤褸布を纏っているみたいに見えてイマイチだ。モデルか芸能人の真似をしているんだろうけど、麦わら帽子と黒縁眼鏡を付けているのがめちゃくちゃダサイと思うんだけど。葉月ちゃん的には素敵な浴衣男子に見えるのだろうか。
まあ、彼の批判はこのくらいにしておいてあげよう。
今日はわたしも浴衣だ。おばあちゃんが生地を買って仕立ててくれたんだ。紺地に朝顔の柄。おねだりしたことはなかったんだけど、いつも羨ましそうに周りの人を見ていたのに気が付いていたのかもしれない。少し無理をしてくれたみたいだった。「これを着て、みんなと遊んでおいで」って言ってくれたおばあちゃん。友達の輪に混じれていないから、なんだか申し訳なくなってしまうんだけど……。
一人でいるわたしとは裏腹に、葉月ちゃん達は楽しそうに露店を見て回っている。射的や輪投げで歓声を上げ、たこ焼きを分け合い、焼きトウモロコシにかぶりつく。ずっと笑顔で、楽しそうな笑い声が漏れていた。
かき氷屋さんの前で立ち止まった葉月ちゃんは、イチゴ味のかき氷を買う。昔から好きだったもんね、イチゴ味。思わず、懐かしさに頬が緩む。
と、かき氷を買わなかった竜太くんが葉月ちゃんに何かを耳打ちする。
葉月ちゃんは少し困ったような顔をして、でも、はにかんで恥ずかしそうに笑いながら、自分のストロースプーンで一口かき氷を掬うと、竜太くんに差し出した。濃い桃色に染まったその一口を、竜太くんはぱくりと食べる。他の友達がその様子を見て囃し立てた。二人は半分恥ずかしそうに、半分嬉しそうに笑う。
わたしは鼻の下を伸ばす竜太くんを挽肉にしてやりたい気持ちになる。
どうして。
どうして、あそこでああやってかき氷を食べさせてもらうのはわたしじゃないんだ。
カンカン照りの天気の日、小学校の友達と別れ、わたしの手を引いてお祭り会場の神社にやって来た葉月ちゃんははしゃいでいた。葉月ちゃんは紺地に花火の柄の浴衣の裾を巻き上げながら、あちこち見て回った。
昼のお祭り会場は、子供がたくさんでにぎやかだった。葉月ちゃんはお面やくじ引きの露店を物色したり、お好み焼きやじゃがバタのお店から立ち上る匂いを嗅いだりして楽しそうだった。迷った末、がま口のお財布を出して、チョコバナナとヨーヨーを購入していた。
一方のわたしは、はしゃぎながらもお小遣いがないから空腹を我慢していた。葉月ちゃんと一緒にヨーヨー釣りをしてみたかったけど、それも見送った。
「由美ちゃん、やらないの?」
「うん……わたしはいいや……」
わたしは少し硬い笑顔で遠慮した。
「ちょっと疲れたね。そうだ、公園行こうよ」
そう言った葉月ちゃんは、神社を出る前にイチゴ味のかき氷を買った。わたし達は連れだって、高台の神社から少し下った位置にある公園へと向かった。ブランコと滑り台、いくつかのベンチが並ぶ公園は、神社に人を取られたせいか、わたし達の他に人はいなかった。
わたし達はベンチに腰掛けた。擦り切れたスカートにTシャツ姿のわたしの隣で、紺色の浴衣姿の葉月ちゃんはイチゴ味のかき氷を頬張っていた。
「由美ちゃん、食べる?」
「ううん。いいよ。葉月ちゃんのだもん」
わたしは首を横に振った。本当は暑くて喉が渇いていて、食べたくて仕方がなかったのだけれど。
「そう?」
葉月ちゃんはストローのスプーンでシャリシャリとかき氷を崩し、口に運んだ。
「あー、キーンてする!」
そう言って、眉間を押さえる葉月ちゃん。
「大丈夫?」
「うーん……ちょっと辛いかも……。ねえ、由美ちゃん、この残りは二人で分けて食べない?」
「いいの?」
「うん」
葉月ちゃんはスプーンに濃い桃色のかき氷を一口乗せて、わたしの方に差し出した。わたしが口を開けると、それはわたしの舌の上に収まった。そのかき氷は、舌が溶けてしまいそうなほど甘くて、わたしは驚いて目を見開いた。
「どうしたの?」
「おいしい! こんなにおいしいかき氷は初めてだよ、葉月ちゃん!」
「変な由美ちゃん」
そう言って葉月ちゃんは優しく微笑んだ。
今思えば、何も食べられないわたしに遠慮なく食べさせるために、葉月ちゃんはわざと頭が痛くなったふりをしてくれたのかもしれない。
一つのストロースプーンで、わたし達はイチゴ味のかき氷を分け合って食べた。
「ありがとう、葉月ちゃん」
「ううん。わたしも頭痛くなったから助かったよ。ありがとう」
葉月ちゃんの笑顔は、びっくりするくらい綺麗だった。思わず見惚れて、数秒固まったわたしを葉月ちゃんが心配するくらい。
そして多分、この時から、わたしにとって葉月ちゃんは特別な女の子になったんだ。
あの思い出の公園の思い出のベンチに、今は葉月ちゃんと竜太くんが座っていた。友達と別れて、夜の公園で二人きりだ。ちゃっかり手を握り合っている。
恥かしそうに俯いている葉月ちゃんは天女のように美しいけど、憎らしい。ソワソワしている竜太くんのことは人喰い鮫のいるプールにでも突き落としてやりたい気持ちが湧く。
わたしはいつからか、葉月ちゃんから邪険にされるようになった。いつからなのか、どうしてなのかは、はっきりとはわからない。他の女子と対立してわたしと仲良くするのに疲れてしまったのかもしれないし、わたしの気持ちに気付いて距離をとるようになったのかもしれない。そういえば、「二人はレズだ」なんていう噂を流されたこともあったっけ。それがいやだったのかもしれない。
中学校に上がる少し前くらいの時期かな。教室で放課後、たまたま二人だけになった時に葉月ちゃんに訊かれたことがある。
「ねえ、由美ちゃんて、もしかして、わたしのこと好きなの?」
「え?」
わたしは狼狽して、「いやー」とか「えっとー」とか言って、適当に話題を変えようとしたんだけど、葉月ちゃんは許してくれなかった。
「正直に教えてよ。わたしは別に女の子が女の子を好きになってもいいと思うし、差別はないよ。それに、二人の間で秘密は無しにしようよ」
そう言われて、わたしはとうとう「葉月ちゃんが好きだよ」と告白してしまった。
「ふーん」
葉月ちゃんはそれだけ言って、教室からさっさと出て行ってしまった。その表情の冷たかったこと。氷の彫像のようだった。
どうして正直に言ってしまったんだ!
わたしは何度も後悔した。やり直せるならやり直したいと、何度も神様に祈ったけれど、無駄だった。
これ以前からも葉月ちゃんからは少し距離をとられていたのだけど、この時からなのかもしれない。葉月ちゃんがわたしを面と向かって邪険にするようになったのは。
夜の公園のベンチでは、竜太くんが葉月ちゃんの細い肩に手を回していた。得意げにニヤニヤ笑っているのがムカつく。
わたしが後ろから覗いているというのに、いい気なものだね。縊り殺してやろうか。
この憎しみは、竜太くんが葉月ちゃんに手を出そうとしているからだけではない。わたしは男が嫌いだ。わたしが女の子を好きだからという理由だけではなく、少しトラウマがあるからだ。
わたしと距離を取り始めた葉月ちゃんは、今まで敵対していた周りの女子のグループに近付くことになった。だから、当然、彼女達と一緒にわたしに嫌がらせをするようになった。それが彼女達に馴染むための、一番手っ取り早い方法だったのだろう。
持ち物を隠されたり、汚されたり。トイレに閉じ込められたこともあったし、裸で教室に置き去りにされたこともあった。
同級生の女の子達にそういうことをされるのは苦痛でしかなかったけど、葉月ちゃんにされるのは嫌じゃなかった。本当のことを言うと、少し興奮していた。
教室で葉月ちゃんに雑巾を絞った後のバケツの水を掛けられて、わたしは思わず微笑んでしまった。そうしたら、気持ちが悪いと、他の女子に叩かれた。それは嫌だったから顔を顰めたんだけど、それに葉月ちゃんが加わった時には嬉しくなってしまった。無意識にニヤニヤしてしまったらしくて、気持ちが悪いとさらに殴られた。
葉月ちゃんはわたしのことを無視することもあったけど、そんな時にもわたしはずっと葉月ちゃんのことを見つめていた。放課後はずっと葉月ちゃんの後を付いて回って、帰宅も家が近くだから後を追う形になった。葉月ちゃんは「キモイ」と言って、随分お怒りモードだったけれど、わたしはそれをやめることができなかった。
中学のある時期から、わたしが「させ子」だという噂が出回るようになった。それか、「援助交際をしている」とか。葉月ちゃん一筋のわたしがそんなことをするはずがないし、本当にしていたら、もっと余裕のある生活を送っているのになあ。あとは「セックス依存症だから千円でやらせてくれるらしい」というのもあったかな。多分、葉月ちゃん達が面白半分に流した噂だと思う。
それらの話を真に受けて、迫ってくる男の子がいたのには困った。わたしは葉月ちゃん以外の人間とするつもりはないから丁重にお断りしていたんだけど、強硬手段に出る男の子もいて。そういう時は大声で暴れた。それで教師や他の生徒が駆けつけてくることもあるんだけど、その度に「あの子はそういう子なんだ」という印象がついてしまうという悪循環だった。
そんなある日、夏休みにわたしが家で宿題をしていると、珍しく葉月ちゃんが尋ねてきた。
「あのね。実は頼みがあるんだ。わたしの知り合いの男の子のことなんだけど」
葉月ちゃんが言うには、ある男の子に彼女ができて、キスとかそれ以上のことをしたいけど、初めてだから自信がない。だから、練習相手が欲しいというのだそうだ。
「由美ちゃん、その子の相手をしてくれる?」
いくら葉月ちゃんの頼みとはいえ、さすがのわたしも顔を顰めた。
「あのね、実は……その相手に弱みを握られてね。でね、みんなにばらされたくなかったら、俺の練習相手をしろって言われて……」
わたしは「ぶち殺してやる」と呟いて駆け出しかけたんだけど、葉月ちゃんに腕を掴まれて制止された。
「やめて! 暴力なんか振るったら、もっとひどい目に遭わせられるかもしれない」
わたしは葉月ちゃんの言葉に従って体の力を抜いた。よく考えれば、そもそも相手が誰なのかすら聞いていなかったし。
「わたし、練習相手なんて無理。でも、秘密をばらされるのはいや。こんなこと誰に相談していいかわからなくて……」
葉月ちゃんは大きな目を潤ませてわたしを見た。きらきらと輝く瞳が綺麗で、わたしは胸の奥がぎゅっと痛くなった。そして、気がついたら「大丈夫。安心して、葉月ちゃん。その男の相手はわたしがするから」と言っていた。
「え! そんな……大丈夫?」
びっくりして目を見開く葉月ちゃんに、わたしは「大丈夫だよ」と笑って頷いた。
「ありがとう、由美ちゃん。その……今までごめんね。これからはずっと一緒にいよう。今年お祭りは一緒に行こうね」
葉月ちゃんはわたしの手を取ってそう言った。優しい感触。暖かくて柔らかくて、葉月ちゃんの手のひらの感覚はわたしの心を温かく満たしてくれた。彼女のためならなんだってできる。そう思った。
これがほぼ一年前のこと。一年前の、お祭りより一週間前くらいの出来事だった。
夜の公園のベンチでは、竜太くんが葉月ちゃんにキスをしようとしていた。
葉月ちゃんの肩を片手で抱いて、もう片方の手で彼女の髪や頬を撫でる。竜太くんが「目を閉じて」と言うと、葉月ちゃんはうっとりとその瞳を閉じた。竜太くんは自分の伊達眼鏡を外し、自分も目を閉じて葉月ちゃんの桃色の唇に自分の唇を近づけていく。
けれど。
ふと、何かの視線を感じたように、竜太くんはその動きを止めた。目を開いて、目玉を動かしながら傍らを見る。誰もいないはずの、ベンチの背もたれ側を。
竜太くんの目が見開かれた。顔が引き攣り、口の端が痙攣したようにヒクヒクと動く。
「ぎああああ、ぎゅあわあああああ!」
竜太くんは聞いたことのない悲鳴を上げると、ベンチから立ち上がった。驚いて目を開けた葉月ちゃんを置いて、竜太くんは絶叫しながら夜の公園を走り去っていった。
状況を掴めない葉月ちゃんは、自分の浴衣や周りをキョロキョロと見回すんだけど、特に何の異常も見つけられないみたいだった。
「え、なんなの、これ?」
葉月ちゃんは不満げに眉間に皺を寄せる。そうか、葉月ちゃんには、やっぱりわたしが見えていないんだな。こんなに近くに――すぐ隣にいるのに。薄情な葉月ちゃんらしくて、わたしはちょっとだけ笑った。
「あの男、どういうつもりなの」
頬を膨らませる葉月ちゃんに苦笑する。
あんまり竜太くんを責めないであげてね。だって、女の子にキスしようとしたら、その隣に突然、ぼうっと、血塗れの女の子が浮かび上がって見えたんだから。
おばあちゃんに仕立ててもらった浴衣を左前に着たわたしは、葉月ちゃんの背後に回る。夜の公園に一人残されてしまった葉月ちゃんにわたしは後ろから抱きついた。わたしに抱きつかれても、全くどこ吹く風という葉月ちゃんが愛おしくて、わたしは葉月ちゃんの肩に顔を埋めながら柔らかく微笑んだ。
一年前の夏休み、お祭りの前日に、わたしは葉月ちゃんを助けるため、廃屋みたいな建物に向かった。葉月ちゃんを脅した相手がその場所を指定したんだ。
「お前、百円でやらせてくれるんだってな」
廃屋に入ってみると、驚いたことに男の子が五人いた。てっきり相手は一人だと思い込んでいたわたしは焦ったけれど、葉月ちゃんを助けるために引くことはできなかった。
五人から百円玉を一つずつ投げつけられたわたしは、五人の要求することをすべて許可して、受け入れて、実行した。苦しくて痛くて悲しかったけれど、泣くのは我慢した。途中であまりにも気持ちが悪くなって吐いて、それを男の子たちに笑われたけれど、我慢し続けた。
すべてが終わって、わたしは葉月ちゃんの家に向かった。「ありがとう、助かったよ」「やっぱり、由美ちゃんは一番大切な友達」「明日はお祭り一緒に回ろうね」そんなことを言ってくれるんじゃないかなって期待していた。
「え、マジでやったの?」
葉月ちゃんの部屋に行くと、開口一番にそう言われた。葉月ちゃんは道路の吐瀉物を見るように、顔を顰めてわたしを見た。
「超キモい。汚ならしい。あんたってマジでさせ子だったんだ。キショい。もうわたしに近付かないでよ」
わたしは何も言わずに、葉月ちゃんの家を後にした。
家に帰って、お風呂に入った。血が滲むくらい、ゴシゴシと体全体を洗った。特に、局部は痛いくらい念入りに洗浄した。
おばあちゃんは老体に鞭打って、清掃のパートに出ている時間だった。わたしはわたしとおばあちゃんの寝床にしている部屋の壁に掛けてあった浴衣を降ろした。紺地に朝顔の柄の浴衣。おばあちゃんが無理をして生地を買って、仕立ててくれた大事な浴衣。
おばあちゃんは「これ着てお友達と出掛けてきなね」と、優しく笑いながら言った。だからわたしは、今年はこれを着て葉月ちゃんと出掛けられるかもしれないと、ドキドキしていたんだ。
わたしはそれを着て、外に出た。
そして、広い道路に向かう。
交通量の多い国道だ。ほとんどの車が法定速度をだいぶオーバーして走っている。大きなトラックもたくさん行き交っている。
わたしは、横断歩道のだいぶ前で一旦停まった。歩行者用信号は赤を示している。目の前を自家用車やトラックがびゅんびゅん通り過ぎていく。
わたしはふらふらと、熱中症にかかったようなふりをしてみた。ふらふらと、真夏の日差しに狂ったように、わたしは歩道を歩いた。そして、そのまま横断歩道へと踏み出して、気絶して倒れるふりをしてみた。
歩行者用信号はまだ赤だ。そして、迫りくるトラックは突然現れた歩行者に対応できる距離とスピードではない。
一瞬後、真っ赤な血が道路に広がって、ぬめぬめと赤く光る肉片が車体にこびりついた。クラクションと悲鳴が洪水のように場を掻き回して、わたしの世界は途絶えて消えた。
わたしのおばあちゃんは最近、体を壊して入院してしまった。たまに様子を見に行くと、看護婦さんに「死んだら孫に会える。だから死ぬのは怖くないんだよ」と話している。わたしは病院の外からそれを覗き見ながら、なんとも苦しい気持ちになる。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
ごめんね、おばあちゃん。わたしは死者の国に旅立つ機会を蹴って、現世にいることを選んだんだ。これからもずっと、この世に留まり続けると思う。だから、おばあちゃんが死んでもわたしには会えない。ごめん。おばあちゃんは天国で安らかに暮らしてね。
わたしはずっとここにいる。
わたしはずっと、葉月ちゃんの傍にいる。これまでも、これからも、ずっと、ずっと。
大好きだよ、葉月ちゃん。
【終】