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赤毛布の娘  作者: Mii
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赤毛布の娘 5

 

 

 クリスティは、独りきりで歩いている。

 走った後だったので、寝間着も汗で肌に張り付いている。熱かったけれど、クリスティはやはり毛布を脱ぎ捨てる気にはなれなかった。縋るように毛布を握りしめる。

「…助けてもらったお礼も言わずに逃げてきちゃった。私って悪い子ね」

 湖と花畑を抜けて、クリスティは独りきりで歩いていた。独りきりの言葉も誰にも拾われことはなく、緑の地面に落ちていく。

「…こんなに悪い子だったら…もう幸せな夢も見れないかも」

 幸せそうな素敵な笑顔の母親。幼いクリスティ。その二人を包んでくれる父親の夢。

(パパ…)

 クリスティは立ち止まる。考えたくないことを考えないために、父親のことを考える。

(私は、どうするべきなんだろう)

 衝動的に家を出てきてしまった。父親に閉じ込められたことが恐ろしくて。しかし、独りになってみてそうするべきではなかったのではないかと、クリスティは迷い始めている。毛布をさらに強く握りしめる。クリスティの小さな手は力を入れすぎてさらに白くなっていた。

(パパは、私を心配してくれているだけ…きっとそうよ)

 父親とクリスティ。二人だけで住んでいる小さな小屋とその周りの小さな庭。その世界だけしか知らなかった。父親もクリスティには決して教えようとはしなかった。クリスティが初めて森の奥に行った日。父親は、おまえを失いたくないだけなんだ、と泣いていた。

 そして、夢の中で母親とクリスティをいつも心配してくれていた父親。

「…帰らなくちゃ…パパが…待ってる」

 帰ってどうしたらいいかなど、クリスティにはわからなかった。わからないが、逃げ出していいものではない気がしたのだ。



『逃げてばかりでは、何も進まないからな。辛いことだが』


 頭の中で蘇ってくる言葉がある。それはたった今、耳元で、あの低く歪んだだがいつの間にか心地よいものとなった声でささやかれている気がした。



「…パパ…」

 いつもより時間をかけて小屋に戻った。小屋の中はしんと静かだった。父親はいない。まだ町から戻ってきてないのかもしれない。クリスティは一歩、一歩、小屋の中を進む。朝食を食べた形跡もなかった。朝一番に出て行ったのだろう。

(…部屋に戻らないと、それから)

 父親と話合わなければいけない。何をどう話し合うのかクリスティにはよくわからなかった。今まで父親に言われてきたことを守るだけでよかったのだ。しかし、今はそれだけではダメなのだということもわかっている。

「そうよ…私は前より色んなものを知ったんだもの」

 たとえそれが用意されたものであったとしても。

小鳥達とのおしゃべり。いい香りのするモクレン。夢の子守歌のバラとナデシコ。と瑞々しいキイチゴ。サファイアのようなエメラルドのような美しい湖。母親のこと。そして。

「……?」

 考えたくないことを考えてしまう前に、クリスティは自室に戻った。鍵が、開いていた。そして、部屋に入り、立ち止まる。立ち尽くす。

 クリスティの部屋は酷い有様だった。

 ベッドの下に隠していたきれいでかわいい花々。モクレン。バラ。ナデシコ。キイチゴ。それらがすべて引きずり出され、踏みつぶされたのか、ぐしゃぐしゃになって床に散乱していた。色とりどりだった花びらを散らし。潰されたせいか咽るような香りが部屋に充満している。キイチゴもすべて踏みつぶされて、床を赤黒く染めていた。

「……」

 クリスティは、震える手で散らされ踏みつぶされ捩じられたモクレンを手に取る。最後の香りとばかりにクリスティの手の中で、みるみる茶色に染まり腐っていった。

「…ひどい…」

 誰がこんなことを。

 それを考えてすぐにクリスティは答えがわかった。

「…パパ…」

 父親が。

 クリスティのベッドの下に隠してあったものをすべて引きずり出し、床に叩きつけ踏みつぶし踏みにじった。クリスティは頭が熱くなるように感じた。今、感じているそれが、一体なんであるのか。どのような呼び方をされているのか。

 クリスティにはわからない。

 わからないが、クリスティは咄嗟に自室の扉を閉めた。外から開けられないように、取っ手の部分に椅子を引っかけた。何故か父親と直接会ってはいけないような気がしたのだ。だからと言って森に逃げるわけにもいかない。

(逃げる?)

 何から。父親から。何故、咄嗟にそう思ったのか。逃げてばかりでは何も進まない。父親のところに帰らなければ、と考えたばかりだった。だから小屋に戻ってきた。けれど、あの父親から逃げたい、隠れたい。

 床に潰されたキイチゴを踏んでしまった。

 ぐちゅり。

 赤黒い汁。足の裏から背中へ頭のつむじまで駆け上がる、ぬめった感触。

 クリスティは足元がふらついた。ふと、絡んだ髪を整えるためにいつも使っている壁の鏡を見る。

 その鏡には、あの狂ったオオカミから逃げる時にキイチゴ畑に顔を押し付けたれクリスティの頬で潰れたキイチゴがまだついていた。毛布にも、所々飛び散っていた。

「…あ」

 毛布を染める赤黒いシミ。

「違う」

 クリスティは呟いた。

(違う。違う。これは違う。前からずっとあった毛布の赤いシミ。これが小さい頃毛布に包まれながらキイチゴを食べたせいでついた汚れだって、教えてくれたのはパパ)

「違う」

 けれど、違う。クリスティは確信した。

 前からあった赤いシミ。

 これは、違う。

 キイチゴの赤いシミなどではない。

 この赤黒い、シミは。


「クリスティ」


 父親の声と扉を叩く音とガチャガチャと取っ手を回そうとする音。クリスティは扉を見る。毛布を深く被る。そろそろ、と。窓に近づいた。

「クリスティ。いるんだろう、ここを開けなさい」

 おそらく町から戻ってきてクリスティが部屋から逃げたと知って、今まで森の中を探していたのだろう。父親の声は、妙に柔らかだった。それが、余計におぞましい。窓際に手をかける。クリスティの手は、カタカタ、と震えていた。頭も痛かった。脂汗が、滲み出てくる。

「クリスティ…かわいそうなクリスティ。突然、閉じ込めたりしてすまなかった。けれど、おまえを守るためなんだ。町の医者から薬を貰ってきた。おまえの頭の中を落ち着かせる、いい薬だ」

「…いやよ」

 クリスティが答えれば、一瞬、扉の向こうの父親は黙った。ガチャリ。一度、乱暴に取っ手を回す。もともと古かったのもあってか、取っ手はあと何度か乱暴に回せば壊れてしまいそうだった。

「クリスティ、クリスティ。ここを開けてくれ。大丈夫だ。おまえのパパだよ。わかるだろう?おまえを守ってきたパパだ。扉を開けてみればすぐにそれがわかる。だから開けなさい。クリスティ」

「いや…私にお薬を飲ませるんでしょう?私はどこも悪くない」

「クリスティ」

 クリスティの拒絶の言葉に、父親は深く大きなため息をついた。嘘みたいなため息に思える。

「ここを開けてくれ。クリスティ、勝手に部屋の中のものを壊してしまったのは謝るよ。だけど、パパはもう怒っていないよ。おまえがパパに隠れて森の奥に行っていたことはもう怒ってないよ。なんにもしないよ」

「……」

「だからここから出てきておくれ。クリスティ。おまえは本当に病気なんだよ。心の病気だ。おまえは母親が病気で死んでからおかしくなったんだ。母親を恋しく思うあまり。空想癖もひどくなったんだよ。だから、刺激の少ない世界に置いておくしかなかったんだ。パパを信じてくれ、クリスティ」


 おまえが、心配なだけなんだ。


 ずきずき、と頭が痛む。

(そう、なの?)

 クリスティは自分自身に問いかける。しかし、当然答えはクリスティが探すしかなかった。クリスティにしかわからない。探せないことだった。

 父親を信じるのか。信じていいのか。父親の言っていることは本当なのか。

(…おかしかったのは…私なの?)

 クリスティは痛む頭を抑える。クリスティは自分というものがよくわからなくなった。何を信じればいいのか。信じていたものはおかしい世界だったのだと気づき始めていた矢先に、代わりに信じていたものさえも、実はそうではなかったのだ。毛布を手放せない娘の世界は崩壊しつつある。しかし、よく考えてみるとクリスティの世界というのは最初からあったのか。

 何ひとつ。嘘のなかった世界とは。

「本当にもう怒らない?」

 この父親と何の変化もない、何も知らない世界で生きていたことなのか。

「ああ、もう本当に怒らないよ。クリスティ、俺のただ一人の娘」

 森の奥の本当に幻のようなものだった世界であったのか。

 クリスティは一歩、いっぽ。扉に近づいた。取っ手に引っかけていた椅子に手を伸ばす。

 その時、ふと、クリスティは鏡を見た。


『クリスティ』

 鏡の中にいる幼いクリスティの顔。夢の中の母親はクリスティと似ていたが、とても大人びた美しさがあった。背も高く。指も細くて長い。クリスティとは似ているようで違っていた。


 ママ、なぜ、おそとへいかないの?

 

『…怖いオオカミがいるからよ』


 それはあのオオカミの御呪いが見せてくれた、夢の中。クリスティの本当の世界。


(ママにとって怖いオオカミはなんだったの?私にとっての怖いオオカミってなんなの?)


 椅子に伸ばしかけていた手を止める。毛布を握った。ずっと手放すことはなかった毛布。その毛布にある赤いシミ。

「違う」

 違うのだとクリスティは感じている。これはキイチゴのシミではない。だったら、何なのか。


『オオカミはな、言葉巧みに人を騙して食べてしまうんだよ。だから、クリスティも大きくなったら気を付けるんだよ』


 夢の中の父親の言葉を思い出す。

(…ロルフだったの?私を騙して食べてしまうオオカミは本当にロルフなの?)

クリスティは扉を見つめる。その向こうにいるクリスティの父親。あの言葉はクリスティの父親が言っていたはず。夢の中であったが、あれは確かにクリスティが幸せだった頃の世界。

 扉の向こうの父親の顔を思い浮かべる。クリスティが大人しくしてさえいれば上機嫌な父親。顎と鼻の下を覆うほどに伸ばした黒い髭。黒い髪は短く切っていて、キツネのように細い目の色はブラウン。その目の周りと額には彫刻刀で刻まれたかのような深いシワがある父親。

 ずっとクリスティの父親だと言い、クリスティを娘だと言っていた父親。


「クリスティ、扉を開けなさい。俺は、おまえの、父親だよ」

 

クリスティは扉に背を向けた。そのまま走って窓から飛び出す。後ろで扉の壊される音がした。同時に怒鳴り声が聞こえた。それはクリスティの名を呼ぶ声と同時にクリスティの知らない罵り言葉だった。




(今日は走ってばかり)

 そのようなことを考えている時ではないのに。走りながら息を切らしながらクリスティは考えていた。後ろは見ない。本当に恐ろしくて見れなかった。きっとすぐに追いつかれるだろう。父親は大人だ。そして猟師だ。森のことは知り尽くしているはず。しかし、父親も知らないことをクリスティは知っている。

 知っているのだけれど。


『…おまえがそうしたいと願えば、道は見つかる。そうなれば、いつでも来ていい』


 今は、道が見つかる気がしない。


 ふと、視界をかすめていったものがあった。何かと目で追えば、ウサギだった。右耳の根本に赤いチューリップを咲かせたウサギ。その黒曜石のような黒い目が、クリスティを見つめる。クリスティは一瞬迷った。


 パーン!


 銃声が響いた。父親が猟銃を取り出したのだ。クリスティは恐ろしさで足が止まりそうになったが、同時にウサギが身をひるがえしたのを見て、クリスティはウサギの後を追った。


「クリスティ!」


 父親の怒り狂った声。ウサギはクリスティの先を跳ねる。その後を追った。


 クリスティ。

 クリスティ。

 本当のことを知るにはあなたががんばらないとダメなの。

 私達の主人にもそこまではできないの。

 ねえ、クリスティ、がんばれる?


 ウサギが走りながら言った。優しい、どこか夢の中の母親の声に似ていた。

 クリスティも走りながら頷く。


 …ねえ、クリスティ、今言うことじゃないんだけれど。


 ウサギが跳ねる。辿り着いた先は、薪を置いておく小さな小屋だった。


 私達の主人を許してあげてね。


「……」


 返事はせずに小屋の中に入る。ウサギは入ろうとはしなかった。扉を閉める直前にウサギはこう言った。


 だって、今、わたしがここにいるから。

 主人のため息からわたしが生まれたから。

 主人はね…

 

 それ以上のことはウサギも言えないのか、ぴん、と耳を立てて森の奥へと走り去っていった。


 がんばって。ちょっとだけがんばってね、クリスティ。


 扉を閉める。中は切られた薪と薪を縛るための縄。そして斧が置いてあるだけの窓もない狭い小屋だった。クリスティは縄を扉の取っ手に巻き付けた。すぐに見つかることはわかっている。それでも、こうしなければいけない。

 狭い小屋の中を見渡す。薪と薪を縛る縄、斧。それ以外には何もないかのように見えたが、壁際の隅の方に猟銃が置いてあった。用心深い父親は薪を束ねる作業の間にも獣に襲われないように猟銃を常備していたのだろう。

 クリスティは恐る恐る、その猟銃を手に取る。弾は入っていなかった。毎夜毎夜。クリスティを苦しめてきた『夜の音』を生み出すもの。しかし、今猟銃を手に取って考えてみれば、クリスティは猟銃の音そのものが怖かったわけではなく、もしかしたらそれを扱う父親が怖かったのかもしれない。

(私は、パパ、が怖い)

 正直に。そう思う。ずきずき、と頭が痛む。



『自分の感じたもの気づいたものに対しては正直であるべきだ。それはきっとおまえを真のものへと導いてくれる元になるだろう』



 思い出すのはあのオオカミの言葉であった。

 クリスティが何かに迷ったりしたときにいつも思い出すのはオオカミの言ってくれた言葉ばかりだった。

 不思議、とクリスティは思う。

(不思議ね…ロルフ、あなたの言葉は私を助けてくれている。まるでこうなるってことがわかっていたみたいに。いいえ、あなたはわかっていたのね。全部わかってたのね。ねえ、ロルフ)

 ここにはいないオオカミに問いかける。

「私を食べたかったなら最初にそうしてしまえばよかったってことぐらい、私わかってたわ。でもあなたはそうしなかった。それどころか、たくさんのものを見せていつもよくわからない難しい言葉を言ってくれて、それは私を助けてる。少し考えればわかるわ。あなたは、本当に私を心配してくれてたんだって」

 誰が聞いているわけでもないのにクリスティは言葉にしていた。はっきりと口で言わなければいけないのだと感じていた。

「…違うの…私はあなたを許すとか許さないとか…そういうことじゃなくて…ただ嘘じゃない世界が欲しかっただけだったのかも…だって、たぶんパパと暮らしてきた今までってきっと」

 クリスティは猟銃を握りしめる。頭がさらに痛くなる。けれど、がんばらなければいけないのだ、とクリスティはわかっていた。


 パーン!


 父親が業を煮やしたのか、外で銃声がした。鳥達の悲鳴と木々のざわめく音もする。


(…あの時も、三発だった)

 パーン!

 毛布を深く、被る。目を閉じる。

(心がぐちゃぐちゃに絡まった時はまず、落ち着いて。次は冷静に。自分の感じたものへは正直に。深く考えすぎないで。見落としているものがないか目を凝らして。記憶を探って。そうすれば、本当のものに、本当の世界にたどり着ける。私がどうしたいのか、本当にわかることができる)

 今までオオカミに教えてもらったことすべてをクリスティは頭の中で繰り返した。


 パーン!




「…あの時も三発だった」


 真っ黒な瞼の裏から幸せだったことの光景が浮かぶ。それは、肉も骨もない影のようにつかめなかったが、やがて、色鮮やかに蘇ってきた。

 それはクリスティがずっと忘れていたことだ。

 

『怖いオオカミがいるからよ』

 クリスティの母親がそう言った。

 クリスティの母親は、めったに外に出ない人だった。草木を愛していたので本当は外の世界が大好きな人だったのだろう。けれど、外には母親にとって怖いオオカミがいた。

『外は危ないんだよ。心配だから中にいてくれ』

『わかっているわ、あなた』

 クリスティの母親は微笑んだ。けれど、とても悲しそうな微笑みだった。

 クリスティと母親を抱きしめる父親。とても熱い腕の中。母親と父親。二人の腕に囲まれて、小さかったクリスティは本当に幸せだった。小さなクリスティは顔を上げて父親の顔を見る。

 優しそうに垂れ下がったブラウンの目。目じりのシワ。

 そして短く切られた栗色の髪。

 足元では犬のロルフがわんわんと鳴いている。

『ロルフはよく仕事をしていてくれてるよ。とてもいい、番犬だ』

 栗色の髪の父親は、慈しみの溢れた微笑みでロルフの頭を撫でた。



 パーン!


 真っ黒な夜の時間に銃声は響いた。同時に、犬の哀れな断末魔。

小さなベッドで寝ていたクリスティは泣いた。母親が必死になって泣き止ませる。どんどんどん、と乱暴に扉が叩かれる。いや、何かで壊されようとしている。

『斧で扉が壊される!』

 父親が叫んだ。母親が悲鳴を上げて、クリスティを抱き上げる。

『ここだ、ここに隠れて!』

 追いつめられた夫婦と娘。夫は妻と娘をクローゼットの中に入れた。しかし、クリスティは泣き止まない。父親はすぐ後ろで扉の壊される音がするというのに、優しい笑みを浮かべて、クリスティ、とまるで寝物語を聞かせるようにこう言った。

『毛布を被って。決して動いてはダメだよ。毛布を被れば安全だよ』

 真っ白な毛布をクリスティに被せる。

『毛布を被って。何にも見ないで。聞かないで。そうすれば怖いことなんてないよ。怖いことなんてないよ。クリスティ』

クリスティの母親によく似た白金の髪を撫でる。

『クリスティ…僕の愛しい娘』

 どん。どん。ばきばき。扉が壊される音。


『大丈夫だよ、クリスティ。絶対にパパが守るよ』



 パーン!


 母親の絶叫。

『あなた、あなた!』

と、倒れた夫に妻は狂ったように縋った。


 パーン!


 びしゃっ。


 銃声と母親の頭が砕け、血が飛び散る音と床に倒れる音と共に、あとはなんの音もしなくなった。不気味なほど静かになった。

わずか、数十秒の出来事だった。


(何も聞こえない。何も見えない。何も見たくない。思い出したくない。忘れていたい。こんなひどいこと。こんな、ひどい、ことを)


どうして覚えたままで人がまともに生きていられるだろうか。たった三歳だったクリスティには無理だった。

 毛布の隙間から、男が見えた。

 顎と鼻の下を覆うほどに伸ばした黒い髭。黒い髪は短く切っていて、キツネのように細い目の色はブラウン。その目の周りと額には彫刻刀で刻まれたかのような深いシワがあった。



「クリスティ」



 目を開ける。今、見ていたのは悪夢だった。御呪いのおかげで見れていた優しく幸福な夢とは逆だった。しかし、その幸福な夢も今の悪夢もすべて現実だった。


 どんどんどんどんどんどんどんどんどん。


 扉が叩かれる音。それはだんだんと大きくなって、殴りつけているようなものになる。

「クリスティ。ここにいることはわかっているぞ」

 クリスティを呼ぶ声はぞっとするほど静かだった。クリスティは猟銃を握ったまま扉と向き合う。今にも足から崩れ落ちてしまいそうなほど震えていた。冷たい汗が流れ落ちる。歯が鳴りそうだったので抑えるために噛みしめた唇が避け、血がにじむ。錆びた臭いと味がした。そのわずかな唇の隙間から、自分のものとは思えない細い息が漏れる。心臓がろっ骨を破ってしまいそうなほど大きく早く打っていた。

 それでも、クリスティは扉と向き合っている。

「クリスティ、何故出てきてくれない。何故俺から逃げる?」

 がたん。扉がきしむ音がした。

「クリスティ、俺は、おまえの」

「違うわ、あなたは私のパパじゃない」

 汗が流れ震える体でありながら、クリスティは確かに言い放つ。自分のものではないような、大人びた声が出た。それは母親の声と似ていた。

 扉を叩く音が一瞬止んだ。

「…何を言っているんだ、クリスティ?やっぱりおまえは心が少しおかしくなっているんだよ。扉を開けて、この薬を飲みなさい」

「いやよ…もうあなたの嘘には騙されない。私は全部思い出したの」

 クリスティは猟銃を放って被っていた毛布を脱ぐ。昔から、それにあった赤いシミ。クリスティはその部分を一度強い視線で見つめた後、頬を摺り寄せた。

「…この毛布のシミは…キイチゴのシミなんかじゃない。だから、あなたはずっと捨てたがってたのよ。でも私は手放さなかった。だって、本当に忘れちゃいけないってわかってたから」


 がたんっ。


 扉の向こうからの返事はなく、代わりに扉が大きく揺れた。


「だってこの…」

「クリスティ」

 遮るように呼ばれたが、クリスティは止めなかった。

 何かを知るときは何かを話す時は、時と加減と場所が大事だ、と。教えてもらった。ならば、今ここで言わなければいけない。

「だってこの赤いシミは…」

 身に危険を及ぼすことになっても構わない。絶対に。


「私のママと…私の本当のパパの血、よ」


 がたんっ、がたがたっ。


「あなたは、わたしのママと、本当のパパと、犬のロルフも、猟銃で撃って、殺したのよ!」


 がたんっ!


 クリスティは咄嗟に薪の山の影に隠れた。扉が壊された。あの時の夜が、鮮明に蘇ってきて思わず両手で口を抑える。息を吐く度に全身が震えた。

「何も知らなかった愚かなクリスティ…知らないままだったなら、忘れたままだったなら、大事に育ててやったのに」

 父親だった一人の男が小屋に入ってくる気配がする。ばきん、と何かが折れた音。薪を踏みつぶしたのだろう。

「……おまえの母親は美しい人だった。そして無邪気で無垢で愚かな女だったよ。最初におまえの母親と結婚したのは本当に俺だ。大事に大事にしてやるつもりだった。本当さ。でもあの女は何故かしきりに外へ出たがったんだ。今のおまえのようにね」

 薪の束が崩れる音がした。一つひとつの影にクリスティがいるかどうか探っているのだろう。クリスティは口を抑えていた手を離す。唇を噛んで、毛布を深く被った。

「…大事したかっただけなんだ。とても美しい女だったから…。だから家にいるように言い聞かせていた。扉にも鍵をつけた。外のものは全て捨てた。だが、全然言うことを聞かずにね、とうとう家を出て行ってしまったんだ。俺を裏切ったんだ」

 クリスティは森の奥を知る前の、小屋の中で大人しくしているだけだった自分を思い出した。それほど前のことでもないのに、もうあの頃のことを信じられない。男もきっと。クリスティにしてきたような仕打ちを母親にもしたのだろう。

「その後は四年も探した。俺が探していると知る度に住処を変えた。いつの間にか、どこかの町の男と知り合って一緒に逃げていたんだ。そして…当たり前のようにその男と結婚していておまえまで…」

「……」

「絶対に許せないと思ったよ…だから…」

 クリスティは足元にあった薪を拾った。男が近づいてくる。

「…これも覚えているかクリスティ?本当はおまえも殺してしまうつもりだったんだ。けれど、震える毛布をめくってみたらおまえはなんて言ったと思う?ぼんやりとした目で『パパ?』と言ったんだ。おまえは俺のことをパパだと勘違いしたのさ。母親と瓜二つのその顔で、パパ、だと」

「……」

「おまけにすべてを忘れていた。情けをかけてやったのさ。本当に愛していたんだよクリスティ。おまえにはわからないだろうし、おまえの母親に持っていた愛とは違う。パパと呼ばれたあの日から俺なりに父親になってやろうという愛は確かにあったんだ。…だがクリスティ…おまえは母親のように小屋にこもりきりでは満足せず、逃げ出し、俺を裏切った。全て思い出した。おまえはやはり母親そっくりだな。俺を裏切るところもだ」

 クリスティは持っていた薪を近づいてきた男の足に向けて投げた。男の叫ぶ声。銃を落とす音。クリスティは震える手でもう一つ薪を手に取る。

「私を騙してたくせに…!」

「俺のことを父親だと勘違いしたのはおまえだぞ。薄情な娘だな、クリスティは」

「違う!」

 薪の影から飛び出して、薪をもう一つ男に投げた。今度は受け止められてしまう。クリスティの弱い力では何にもならないのだと、言うように男は黒い髭の口元を醜く歪めた。目は血走り、まるでクリスティを襲った狂う病気に罹ったオオカミのようだった。

「騙されたままの方が幸せだったかもしれないぞ、クリスティ」

 男が嘲笑う。

「そんなことない!何も知らないまま思い出せないまま自由にもなれずに長生きして死ぬより、たとえすぐに死ぬんだとしても、いろんなことを知って思い出す方がいい!私はもうわかってたもの!」

「不思議なことを言うようになったな、クリスティ」

 すべてあのオオカミと過ごすうちに気づいたことだった。それに気づいて、クリスティは泣きたくなった。クリスティにとって、あのオオカミと過ごした世界は本当に幻のようなものだったのだろうか。

 男がゆっくりと近づく。クリスティは後ろに下がりながら壁にかけてあった斧を手に取った。重い。クリスティの細い腕では持ち上げることもうまくできない。男が笑う。男はクリスティを弄んでいる。今まで、猟をしている時もずっとこのように自分より弱い獣を追い回していたのだろうか。クリスティはそんなことを頭の片隅で考えた。

 父親と娘のはずだった。

 けれど、それは父親のふりをしたオオカミとずっと一緒にいただけだったのだ。弱い獲物をもったいぶっていじくり弄ぶ。恐ろしいオオカミとただのウサギより弱い獲物だったのだ。

 頭が、熱湯のように熱くなる。


「あなたはずっと私のパパのふりをしていた、私を騙してた…ただの怖いオオカミよ!ママが怖がってたオオカミはあなたよ!私と同じだった!あなたはただの怖い、オオカミ、ケダモノ!人殺し!パパとママとロルフを返して!」


 私の本当の世界を返して!


男の顔から表情がなくなった。猟銃の真っ黒な口を向けられる。

今までもこうやって、自分より弱い獲物をこの男は殺してきたのだろう。


「すまないな、クリスティ、一度、殺してしまったものは、たとえ俺の手を腕を切り落としても腹を裂いて殺しても、帰ってくることはないんだよ」


悲しい。悔しい。恐ろしい。

けれど、もうどうしようもない。


(ママ、パパ)


 真っ黒な銃口がクリスティに向けられた一瞬、クリスティは目を閉じて想像する。あの小さな家で、美しい花を咲かせる庭に囲まれた家で、失った世界の中に帰るという儚い夢である。それはとうの昔に霧のように消え去ってしまった。

 代わりにあったのは、大きな黒いオオカミと一緒にいる世界だった。それも同じように消え去ってしまうのだ。


(ロルフ)

 


「クリスティ」


 耳元で、あの低くて歪んだ声で囁かれた気がした。それはとても鮮明な音で意思を持ってこう言った。


「毛布を被っていろ」


 かちん、と響く引き金の音。


 その音と同時に狭い小屋の中で響き渡ったのは、銃声ではなかった。銃声もしたはずなのだが、それを遮るぐらいの男の太い悲鳴が上がったのだ。クリスティは目を開ける。そして目の前の光景に、クリスティまでも叫びそうになった。

銃を取り落とし床に転がった男の左腕に、何か真っ黒な霧のようなものが纏わりついていた。

 それはクリスティが絵本で読んだ悪魔のように昔たくさんの人を殺したという皮膚の黒くなる病そのもののように。蠅のように。男の左腕を食っている。

 男は狂ったように叫び右腕でそれを払うが、一向に真っ黒な塊は薄れることなく、やがて、骨の砕ける音がした。ごきん。男がまた叫ぶ。ぐしゃ。肉の潰れる音。男があまりの苦痛からか口から泡を吹き出しながら、もがいている。顔が苦しみで歪んでいく。

 クリスティには、何が起きているのかわからない。


「クリスティ」

 

また呼ばれる。それはいつの間にか、呼ばれているのが当たり前になっていた声だ。


「クリスティ」


 ふと、それまでクリスティが握っていた斧が持ち上がる。しかし、それを持ち上げたのはクリスティの手ではなかった。

 確かに人の手のようなものでありながら、影のような黒い手が。人の形をしたような黒い何かが。

 両手で斧を持っている。

 床に転がっていた男は血走った目で、その影を見ていた。悪夢そのものを見つめるように、男は怯え震えあがっていた。

 

「クリスティ、毛布を被っているのだぞ」


 影の両手がそっとクリスティに毛布を被せた。


「毛布を被って何も見なければ、何も怖いことはない」


毛布に遮られて何も見えなくなった。


「た、たのむ、やめてくれ」


 情けない震える男の懇願が聞こえる。


「毛布を被って、何も見るな、聞くな。そうすれば、何も怖いことはない、クリスティ」


 耳をふさぐ。手の平の血のめぐる音がする。それは、どくんどくん、と恐ろしく早く鼓動を鳴らしている。それでも、男の絶叫が聞こえた気がした。

「貴様のような」

 低い声が男を嘲笑う。

「狡猾で、醜く、愚かなやつは。神に繋がれ堕ちたワタシに食われるのがお似合いなのかもしれないな。そしてワタシもそれがお似合いだ。この先、永久に、この地べたを這いつくばるように生きるただのオオカミになるとしても。上に帰れないとしても」

耳に手の平を強く強く押さえつける。

「はじめは食いたいだけだった。ワタシが自由になるために。しかし、何も知らず醜い男に囚われてやがてはいいように殺されるかそれよりもひどい目にあうか。そういうことが容易に予想できたのだ。…そのうちに考えが変わった。ワタシと同じで首輪に囚われ、しかし、ワタシと違って逃げ出すすべさえ知らないクリスティ。哀れで可愛らしいクリスティ。貴様に食われるのだけは、もったいない。…だが、もう、ワタシはクリスティを食いたくないのだ」


だから、ワタシが、貴様を、食ってやろう。


斧で硬い骨と柔らかい肉を断ち切る音が聞こえた気がした。苦しみと痛みと絶望に染まる男の声。

クリスティは歌った。この世のものとは思えない残忍な音から逃れるために歌った。


「…お眠りなさい。

 お眠りなさい。

 バラとナデシコとデッケに包まれて」


 いつの間にかクリスティはぐちゃぐちゃに泣いていた。モモのような頬を濡らし、口の中さえしょっぱくなった。気が付けば毛布の中に赤いチューリップを耳に生やしたあのウサギがいた。口元には噛み切ったばかりだったのだろう、赤い紐が垂れ下がっていた。クリスティはそのウサギを抱きしめて、歌う。


「お眠りなさい。

 お眠りなさい。

 デッケの中に入って。

 楽園のような安らか夢を」


硬い骨と骨を包んでいた皮膚と肉と、柔らかい内臓を喰いちぎり噛み砕き。


「ら、らくえんの、ような」

 

ごくり、と。

飲み込む音が聞こえた。



「やすらかな…夢、を…」


 しん、と。

 音が止んだ。不気味なほど何も聞こえなくなった。

 クリスティはウサギを抱きしめたまま動けなかった。毛布から覗くこともできなかった。けれど、震える毛布をめくるものがいる。両手でそっと毛布がめくられた。

 そこには口を赤黒い血で染めた黒いオオカミがいる。

 目の前にいるのでその後ろの惨状がクリスティから見えることはなかった。

「クリスティ」

 金色の目の中にいるクリスティは、怯え、震える、ただの弱い娘だった。

「ワタシから逃げるか?逃げたければ逃げて、おまえの本当の世界はこれから創ればいい」

「……」

 クリスティは答えなかった。ただ、ずるい、と思ったのでそう言えば、オオカミは少し笑った気がした。

「わ、わたしにばっかり質問させて、い、一番、大事なこと答えてくれないあなたは、ずるいわ…」

 しゃくりあげながら、クリスティは言う。

「そうだな、ワタシはずるくておまえを騙した怖いオオカミだからな」

「そうじゃないの」

 そうじゃない、と繰り返す。クリスティはまだ涙が止まらなかった。

「もう私には何にもない…。三歳の頃から何もなかったの。だから、わ、わたしは、あなたと、一緒にいたい」

「……」

「だって、本当は偽物の世界じゃなかったもの」

「そう思ってくれるのか?」

 クリスティは頷く。

「ロルフは?」

「……」

「…わ、私をどうして食べれないと思ったの?」

「…食べてしまえば、もうおまえに会えないだろう。腹を裂いても取り返しはつかない。だからだ…おまえに会えないのは惜しい。そして、他の奴に食われるのもな」

 金色の目が、背後に流された。オオカミの後ろには食い荒らされたものが散らばっているのだろう。しかし、オオカミはそれがクリスティから見えないようにそっと大きな腕で包む。

「…それだけなの?」

「……クリスティ…」

ロルフは金色の目をわずかに泳がせた。それは何も知らなくて戸惑うような、少し前のクリスティと似ているような幼い潤みを持った目だった。

「……このような気持ちをどう言ったらいいのかワタシにはさっぱりわからないのだ…本当にわからないんだよ」

「…じゃあ、わかるまで、側にいるから…」

「わかるまでか?」

「わかるまで…そ、側にいるから」

「……まいったなクリスティ…それでは永久に答えてやれなくなるぞ」

「ずるい、オオカミさん…本当にずるい…」


 クリスティは大声で泣いた。ウサギはずっとクリスティの腕の中で大人しくしていた。

しっかりと存在を持ったけれど地に堕ちたオオカミは、小さなクリスティを抱きしめている。


 たとえ、食われた男の血でその毛布が真っ赤に染まっていたとしても。






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