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赤毛布の娘  作者: Mii
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赤毛布の娘 2

 ちゅんちゅん。

 こつん、こつん。


 クリスティは、よく眠れないまま朝を迎えていた。

 疲労した目にいつもは温かいはずの朝日さえ、ひどく痛くて染みていく。

 そして体も疲れているが、なによりクリスティは心が傷ついていた。

 今朝、部屋のドア越しに父親が来たが、

「絶対に外へ出るんじゃないぞ」

 と怖い声で言い残しただけで、朝食を一緒にすることもできなかった。つまりクリスティは昨夜から何も食べていない。お腹をさすればぺったんこで、くうくう、と切ない鳴き声を上げる。


 クリスティ。

 クリスティ。

 

こつん。こつん。


 クリスティがとてもみじめな気持でベッドに横たわっていると、窓から小鳥達が呼びかけていた。おまけに窓をクチバシでつついている。

「…小鳥さん…」


 おはようクリスティ。

 今日も一緒におしゃべりしましょう。

 今日も私達の主人があなたを待っているわ。

 主人はあなたにとても会いたがっているわ。


 小鳥達の言葉で、寝不足でぼんやりしながら、ああやはり昨日のことは夢じゃないんだ、とクリスティは思った。そう思うと同時に一晩ですっかり忘れてしまった気持ちの高ぶりを思い出したが、すぐにしぼんでしまう。

「ダメよ。今日はお外へは行けないの…。パパにとっても怒られた…」


 まあ、かわいそうなクリスティ。


「だから今日は外へ行けないの。パパの言いつけを守らないと…」


 …かわいそうなクリスティ。

 でも考えてねクリスティ。

 あなたは、本当はどうしたいの?


「……」

 窓の外で、赤い鳥は足から咲くクローバーに白い花をも咲かせ。

 青い鳥は頭の綿毛のような花を、空まで飛ばし。

 緑の鳥は、口から虹のように七色の花びらを吐き出す。

 そして黒いつぶらな瞳で、クリスティを見つめている。

 

 かわいそうなクリスティ。

 でも考えてね、クリスティ。

 ここから外へ出なければ、あなたはずうっと何にも知らないままなのよ。


「…でも、もしパパにばれたら」


 私達の主人がばれないようにしてくれるわ。

 だから安心してクリスティ。

 お外で一緒に遊びましょう。


 クリスティは迷った。迷いに迷ったが、小鳥達に言われたように本当はどうしたいのか考えてみる。

 昨日、初めて知った小屋の庭より外の世界。

 きれいな花々。

 深く澄んだ空気に湖。

 そしてクリスティを待っていたという不思議な「オオカミ」。

(そうよ…私…まだあのオオカミさんのこと何にも知らないわ)

 知らないままで終るのが、とてももったいないような気がして。

 クリスティは、戸惑いながらもしっかり毛布を被った。

 そうすれば、いつものようにとても安心する。

 何かに深く守られているように思えてきて、踏み出す勇気を与えてくれるようだ。

(知らないままで終るのなんて、イヤ)

 クリスティはそっと自室を出てみた。やはりとっくに猟に行ってしまったのか、父親の姿がなくて胸を撫で下ろす。

 とてもお腹がすいていたので、台所に残っていたパンとチーズを慌てて口の中に詰めて噛んで飲み込んで、残りはバスケットにつめてお昼に食べることにする。喉が渇くといけないので、ミルクを入れておく。

「…怖くないわ…私はお外へ出るの!」

 しかし、いざ決心して外への扉を押してみれば、そこは鍵がかかっていた。

 森の奥なので泥棒などいるはずもない。今まで鍵をかけたことはなかったはずなのに、やはり父親は怒っているのだろう。

(どうしよう)

 先ほどまでの勇気が急速にしぼんでいく。


 大丈夫よ、クリスティ。

 私たちが開けてあげるわ。


 しかし、今が出番とばかりに小鳥達が扉の向こうでこつんこつんと鍵をいじり始めた。数分もすれば、かしゃん、と何かが外れる音がして、クリスティがそっと扉を押せば、開いていく。

 外は今日もいい天気だった。

 昨夜からの陰鬱な気持ちを振り払うように、大きく息を吸い込む。

 一歩、踏み出せば何もかもから解放された気がした。

「ありがとう、小鳥さん達!」

 

 クリスティ、ようこそ!





「ようこそ、クリスティ」

 


 小鳥達に導かれるまま昨日と同じ道をたどれば、やはりそこには、天から伸びる赤い紐で縛られたオオカミの姿があった。

「来てくれたのだな、うれしいよ」

 ふわり、と大きな尾が揺れる。犬が尾を揺らす時は喜んでいる時だと、クリスティは絵本で読んで知っていたのでクリスティもかうれしい気持になった。

「オオカミさん…」

 しかし、クリスティにもわからないのだが、同時に何故かとても泣きたい気持ちになった。すん、と鼻を鳴らして耐える。

「おやおや、どうしたクリスティ?昨日の今日だというのにひどく悲しそうな顔をしているな」

「…パパにとても怒られたの」

「そうかそうか。それは悲しかっただろうな、クリスティ。だが…まずは、こちらへ来てみなさいクリスティ」

 言われるままにクリスティは獣の側へ寄る。昨日よりは数歩近くへ。それは、獣がその長い腕を伸ばせば届かないギリギリの距離だった。

「いいか、クリスティ。おまえは今、とても悲しいし父親を怖れている。だが、ここへ来た。それは何故だ?」

「…あなたのことをもっと知りたかったから」

「ふふ、正直でいい答えだクリスティ。自分の感じたもの気づいたものに対しては正直であるべきだ。それはきっとおまえを真のものへと導いてくれる元になるだろう」

「…あなたの言ってることって、なんだか難しい」

 頬を膨らませてみれば、まるでリスのようだな、と笑われたのですぐに元に戻した。不思議なことに先ほどまで絡まった糸のようにぐちゃぐちゃだった心が、少しだけほどけてきたようだった。

「さて…今日は私の何が知りたい?今日、おまえはとても悲しんでいるからな。四つまでなら答えてやろう」

「……」

 四つまで。

 その回数を言われて、今すぐ溢れてきそうな好奇心を抑え、クリスティは質問を絞ろうと考える。賢明だなクリスティ、と獣は目を細めていた。

「…あなたのお名前は?普通の絵本に出てくるようなオオカミさんではないのでしょう?」

「ふむ…相手の正体を探るのにはいい質問だ。しかし、その質問、ワタシにはあまり当てはまらないな。なぜなら、ワタシは繋がれると同時に名前も取られたからだ。だからクリスティ、おまえの好きに呼べばいい。そうだな、最初に思い浮かんだ名前がいいだろう。目を閉じて考えてみなさい」

 クリスティは言われるままに目を閉じてみた。もちろん、目を閉じてしまえば薄暗いが、太陽の光が、瞼の裏にちかちかとしたホコリのようなものを漂わせる。

(名前…最初に浮かぶ名前…何なのかしら…生き物に名前をつけたことなんて…)

(…あったわ、そうよ。私は、犬を飼っていた)

 それは、突然、瞼の裏に蘇った光景だった。

 その光景の中に、茶色と白と黒のブチ模様をした犬がいた。

 しっぽを大きく振って駆け寄ってくる耳の垂れた犬だった。

(ろるふ)

 クリスティはその愛らしい犬の名前を思い出す。

「ロルフ…そうよ、ロルフ…。私は昔犬を飼っていたの…どうして今まで忘れていたのかしら…」

「ほお、犬をね」

「ええ、そうよ。三歳の頃にいたのよ!耳の垂れたとっても元気でかわいい子!あなたには全然似てないけど、そうよ、あなたのことロルフと呼ぶわ!」

 それはとてもいい考えのように思えたので、思わず立ち上がって両手をパンと鳴らす。「ロルフ」と名付けられた獣は、くつくつ、と沸騰しはじめた湯のように笑っていた。

(あれ、でも…どうして私はあんなにかわいい犬のことを忘れていたのかしら…小さかったからかしら?あの子はパパの猟犬だったのかしら?でもパパは、猟犬は使わないわ)

「クリスティ」

 思い出そうと記憶を追っていたクリスティを呼び止めたのは、目の前のロルフだった。

「あまり一度に思い出そうとするな。呑み込まれるぞ。それより、質問はあと三つ残っている。速く考えて聞かなければ、時間までにおまえを帰してやれなくなるぞ」

 それはとても困る、とクリスティは戦いた。また父親が戻ってくるまでに戻らなければ、昨日よりも怒られ今度こそ鍵をかけられるどころではなくなる気がしたのだ。クリスティは、慌てて座りなおすと次の質問を考えた。

「…小鳥さん達が、あなたのことを主人と言っているけれど、あなたは本当に小鳥さん達の主人なの?」

「そうだ。あれらは、ワタシがここに堕ちてからワタシの存在の影響を受けて生まれた…いわば私の子供達のようなものだな」


 ぴいぴい。


 小鳥達が飛んできて、ロルフのコケが生えた背中に止まる。ぴぴぴ、と歌いだせばその広げた羽から、ぽんぽん、と白い鈴のような花を吐き出す。それらがちらちらロルフのコケの上に落ちて、あっという間に種に戻り、芽を吹き出し、小さな可憐な花を咲かせ始めた。

「まあステキ!」

「ついでだから答えるが、おまえを知ったきっかけもこの小鳥達のおしゃべりからだ。おまえは二年前から小鳥達と遊んでいたね。その時からだよ。それまでは、ワタシと同じで、首輪に繋がれたものがいるということはなんとなくわかってはいたが」

 首輪って何のことだろう、とクリスティは不思議に思いそれを質問してみようとしたが、今日、質問できるのはあと二回。クリスティは、他に聞きたいことがあったのを思い出し、とりあえず気になることから聞くことにした。

「あなたは何故、神様に縛られたの?」

「…愚かなことだったが、神と賭けをしたのだよ。この紐を切れるかどうか、という仕方のない賭けだ。誰にも過ちはあるが、こればかりは取り返しのつかないことだったな」

 ぐるる、とロルフは少し乱暴に鳴くと右腕で赤い紐をひっかいた。昨日見た時と変わりなくそれはなんの仕掛けもなさそうな紐だったが、どうやらこれは解けないらしい。

「…じゃあ、最後の質問だけど…左腕がないってどういう意味なの?」

 見たところ、少しばかり大きいのと背中にコケが生えていることを除けば、絵本で見たオオカミとあまり変わりはない。四肢もしっかりついているし、実際それでのそのそと歩いてもみせている。

「…これは愚かな賭けと関係あるが、この紐は両腕がそろっていないと決して解けない仕組みになっていて、神はワタシを堕とす前に本当のワタシから両腕の権利を奪ったのだ。しかし、縛られる直前にな、神の給仕の右腕を苦し紛れに喰いちぎってやったおかげで、給仕の腕はワタシの体に残り、辛うじて右腕は使えるようにはなっていた。しかし、片腕だけではどうにもできないことばかりだがな。片腕だけでは、干渉できないものばかりがこの世には溢れているのだ」

 喰いちぎった、という話を聞いてクリスティは肌がぞうっと寒くなるのを感じた。

「…怖いかクリスティ」

「…怖いけど…でも昨夜のパパほどじゃないかも」

 それは本当の気持ちだった。何故だかクリスティにはこの大きな獣がその黄色く尖った牙で、誰かの腕を喰いちぎってしまった光景を想像するよりも、昨夜の怒り狂った父親の顔と怒鳴り声の方がクリスティには怖かったのだ。

「クリスティは、父親が好きか?」

 ロルフに聞かれて、しかし、クリスティはすぐに返事ができなかった。毛布の端をぎゅっと握りしめる。

「…大好きだけど…でも、今はきっとキライよ。だって昨夜は私の話を聞いてくれなかったし、部屋に閉じ込めるんだもの」

「…可哀想なクリスティ。こちらへ来なさい」

 言われるままに、少し距離を詰める。触れるところまで近づくべきなのかクリスティは迷ったが、じりじり、とゆっくり近づいてもロルフは微動だにしなかった。クリスティから近づいてくるのを待っているのだろう。

「そう距離を考える必要はない。もうワタシを怖く思っていないのなら、自分で近づいても大丈夫だと思えるのなら近づけばいいだけだ」

(そうよ…私はまだオオカミさんのこと何にも知らない。知りたいなら、自分からも近づかなくちゃ)

 クリスティは、ゆっくりゆっくりロルフに近づく。昨日、初めて会った時も近づいてその獣の体に触れたが、あれは何も知らないままに促されて触れただけのことで。

(私は、今、自分でオオカミさんのところへ行くんだわ)

 思えば、小屋を出た時からそうだった。

 昨日のように小鳥に誘惑されるまま道を逸れるわけではなく。

 自分でここへ来るのだという、意志を持ってここへ来た。

 ついに、その長い鼻から出てくる息が額にかかるほど近づいた。

 湿った吐息。それは、雨が浸透した木々の匂いと同じだった。

「何も知らない…首輪に繋がれたクリスティ。さあ、おいで」

 首輪に繋がれているのはロルフなのに何故そんなことを言うのか、とクリスティは不思議に思ったが引き寄せられるままにその胸に体を寄せる。ふわふわの毛。温かい。そして、昨日と同じ心臓の音。

 昨日は溢れかえるほどだった好奇心が、少し解けた。しかし、解けた先でまた湧き上がってくるものは毛布を被った時にしか感じなかった、心が解れていく気持ち。

 昨夜からぐしゃぐしゃになったものが解れていく。

 クリスティは、息を吐く。

「その調子だ、クリスティ。いいかい、心がぐちゃぐちゃに絡まった時は、まずは落ち着くことだ。そして、次は冷静に考えることだ。そうすれば自ずと生き残る道が見つかるものだ」

「…ロルフの側はとても安心するわ…変ね、昨日まではそんなこと感じなかったのに」

「それはおまえがワタシに「ロルフ」とかつての飼い犬の名前をつけ、そして自分でワタシを知りたいと近づいてきたからだ。満たされるとはこういうことだよ、クリスティ。しかし、今のおまえには少し睡眠が足りないようだ」

「怖くて…眠れなかったの」

「ふむ…何が怖かった?クリスティ」

「パパが、怖かった」

「『パパ』とその他には?」

「…銃の音…私はあれが嫌いなの…」

 

パーン!

 パーン!

 パーン!


 今でも鮮明に蘇ってくる。鼓膜を突き破るような音。怖い怖い「夜の音」。いつも毛布を被ってがまんしているの、とぼんやりとクリスティが答えれば、ロルフの獣の右腕がその小さな体を包み込む。

「少し眠りなさい、クリスティ」

「でも、」

「丁度よい時間になったらワタシが起こしてあげよう。それより、今眠れば怖い夢は絶対に見ない。見れるのは『本当に幸福だった』夢だ。さあ、クリスティ」


 夢を見せなさい。


 ふと、意識が落ちる。

 クリスティは夢を見ていた。

 目の前に、犬がいる。

 茶色と白と黒のブチ模様をした犬だ。

 しっぽを大きく振って駆け寄ってくる耳の垂れた犬だった。

 ロルフ。と名前を呼ばれればしっぽを振って駆け寄ってくる。

 クリスティの胸に飛び込んでくる。

 ぺろぺろ、と舌で顔を舐めてきて、くすぐったい、と言えば「ワン」と元気よく鳴いた。

『元気だろう?きっとよく働いてくれると思うんだ』

 男の人の声がした。パパ?とクリスティは見渡したが姿は見えない。聞こえるのは声だけだ。

『とてもかわいいわね。クリスティに一番よく懐いているわ』

 女の人の声がした。ママ?とクリスティは見渡したがやっぱり姿は見えない。聞こえるのは声だけだ。

 ワン!と腕の中のロルフが元気よく鳴いた。



 パーン!


 一気に眠りから叩き起こされる。

 銃声だ。一瞬で、汗が噴き出てきて思わず毛布を被った。

「安心しなさい、クリスティ。遠くにいる。こちらへは来ないだろう。そもそもこちらに来るには道しるべが必要なのだ」

「…パパの銃声?」

「そのようだ」

 クリスティは、毛布に縋り付く。大きなロルフの腕がクリスティを包み込んでいるが、何故かそれに縋る気にはなれなかった。今のクリスティには毛布以外の何に縋ればいいのかわからなかった。小さくなって毛布に包まる。鼓膜を突き刺す銃声。逃げていく鳥達の羽ばたき。ざわめく木々。異様に汗が噴き出す。毛布を握る手が震える。

「…今日は少し多いな…」

「きっと私に怒っているからよ」

「それにしてはな…」

 ふむ、とロルフはうなったがそれ以上、銃声については何も言わなかった。少し時間が過ぎた頃。もう銃声が聞こえなくなった頃。ようやくクリスティは毛布の中から顔を少しだけ出した。しかし、体は震えて汗をひどくかいていた。

「まだ怖いか?クリスティ」

「…少し…」

「…怯えるおまえには悪いのだが、そろそろおまえを帰さなければいけない時間になった」

「もうそんな時間?」

 クリスティは少し滲む視界で、ロルフを見上げる。ロルフは、ぴん、と耳を立て頷いた。

「帰りたくはないか?」

「少し…でも帰らなきゃ…」

「ふむ、賢明だクリスティ。逃げてばかりでは、何も進まないからな。辛いことだが」

 ロルフに支えられながら体を起こし、服や毛布についた草を払う。少しでも何かついていれば、外へ出たことがばれてしまうからだ。

「…また、来てもいい?」

「…おまえがそうしたいと願えば、道は見つかる。そうなれば、いつでも来ていい」

 名残惜しそうにロルフの顔に生えている髭を撫でれば、ロルフは口の端を上げた。笑っているのだろう。

「そうだな…クリスティ。今日もお土産をあげよう。何か欲しいものがあれば、言ってみなさい」

「欲しいもの?」

 クリスティは考えた。欲しいもの。この森に来てから強く何かを欲したことはあっただろうか。狭い小屋の中で育ち、その周りの庭しか知らなかった。食べ物も。大好きなキイチゴも父親が町から買ってきてくれる。クリスティは与えられたものを貰うだけでよかったのだ。それらが、どのようにして町から買われるのかさえ知らないまま。

 知らないということは、望むこともできないこと。

 クリスティはそれに気付いた。そして、どうして数日前の自分はそれだけの世界で生きていられたのだろうか、と首を傾げたくなるほどだ。

「…スイレン、スイレンが欲しいわ」

 そして、昨日初めてここに来た時に、湖を見て真っ先に望んだものを思い出す。

 湖に浮かぶ、神秘的な白い花。

 クリスティはそれがとても欲しくなった。

「…ああ、それは駄目なのだよ、クリスティ」

 しかし、ロルフは困ったように鼻をひくひく動かした。

「どうして?」

「とても可愛らしいお願いだから叶えてやりたいが、意外とそれは難しいことなのだ。スイレンというものはな、水の悪魔から愛されている花でね。摘もうものなら、悪魔の手で水の下に引きずりこまれてしまう」

「まあ、そうなの!」

 クリスティは湖に浮かぶスイレンを見つめた。とても美しく凛としている花を守る悪魔があの葉の下にいるのだろうか。

「この湖にいる水魔も古い悪魔でね。ワタシがここに堕とされる前から住んでいるから、スイレンの権限はあちら側なのだ」

 ゆらり、とわずかに水面が揺れた気がした。その通りだという水魔の主張なのだろうか。クリスティは湖を覗き込んでみた。そこには大きな魚が一匹泳いでいた。白くて、鱗がきらきらと虹色に輝くきれいな魚だ。

「ごめんなさい、魚さん。あなたのスイレンは取らないわ」

「…クリスティは素直だな。おまえが本当に望めば、強引にでも取ってやってもよかったのだが」

「でも守っているのでしょう?それを取り上げてしまうなんて可哀想だもの」

「…そうだな。ワタシもワタシのものである存在が取り上げられたら、そいつの腸を引き裂いてやるだろうな」

 何か恐ろしいことを言っているロルフだったが、クリスティは魚とスイレンを見ることに夢中だった。クリスティ、とロルフが呼びかければようやく名残惜しそうに顔を上げた。

「そんな顔をするなクリスティ。スイレンは駄目だが、他の花ならばワタシの子供達のようなものだから、なんでも好きなのをあげよう。何がいい?」

 クリスティは思い出す。昨日初めてここに来た時に辿った道を。

 白っぽいピンクの花をつける木々のトンネル。

 花びらが細長く白や紫や黄色に色づいているもの。

 小さくて丸い、まるで鈴のような白い花を一本の茎からたくさん咲かせているもの。

 青っぽい紫色をした可憐な花もあった。

「…モクレンが欲しいわ。背が足りなくて取れなかったの。小鳥さん達がとてもいい香りがするよって」

「ふむ、おまえが昨日ここに来た時に毛布につけていたマグノーリエだね…いいだろう」

 ロルフは口を尖らせ、ふー、っと息を吐いた。

 その吐息の中から真っ白な小鳥が現れ、クリスティの頭の周りをくるくる飛んだかと思うと、ぴぴぴぴ、と可愛らしい声で鳴く。

 そして、その小鳥が鳴きながら羽ばたくたびにその羽ばたきから、モクレンの花が降ってきた。

 白いピンクの花。

「すごい!ステキ!」

 香りの強いそれらはクリスティの手の中に納まった。クリスティが喜んでいるのを見て、白い小鳥は鳴きながらどこかへ飛んでいった。ロルフに聞けば、あれも子供達のひとつなのだという。

「それと、これはおまけだ、クリスティ。おまえ、今ミルクを持っているか?」

「あるわ」

 バスケットの中からミルクの入った瓶を取り出す。

「それを寄越しなさい。そして、目を閉じたまま上を向いていなさい」

 言われるままにミルクの瓶を渡し、上を向いて目を閉じた。瓶の蓋が開けられる音がしたかと思えば、閉じられた瞼の上に水滴の感触があった。

 一滴。二滴。

 それらは不思議なことに瞼の上に残ったまま、染みこむように感触がなくなっていった。

「もういいぞ」

 目を開けて見たが、特に変わった様子はない。ロルフが右腕でミルクの瓶を持っていて、それの中身が少し減っている程度だった。

「何をしたの?」

「よく眠れる御呪いだ。おまえはいい子だからな、クリスティ。きっと幸福な夢を見れる。その夢を忘れてはいけないぞ」

 念を押すような言い方に頷けば、よろしい、とロルフも頷いてミルクの瓶をクリスティに返した。

「あと、持ち帰ったマグノーリエになんでもいいから布を被せて、その上からミルクを数滴垂らしてみるといい。そうすれば私の子供の一部であるマグノーリエも眠るから、香りを父親から誤魔化すことができるだろう」

 言われて初めてモクレンを隠すことを考えていなかったと気づく。猟をしている父親は日々、森の獣を追っているせいか臭いにも敏感なところがあるのでそのままにしておいては、すぐにばれてしまうだろう。昨夜、捨てられてしまった花々とキイチゴのことを思い出して、これは何としても隠さなければ、とクリスティは思った。

 それは父親に対してする初めての『隠し事』。

 それは、少し苦くけれど抗いがたい甘さのある、事。

「さあ、もう帰りなさい。クリスティ」

「…また来てもいい?」

「もちろんだ」

 待っているよ。

 ロルフはそっとクリスティの体を押すように、右腕で触れてきた。

 その瞬間、景色が廻る。

 反射的に閉じてしまっていた目を開ければ、そこはやっぱり小屋の前だった。

 かあかあ、と。

 どこか遠くでカラスの鳴き声がした。

 昨日の続きまるで夢の中の出来事のようで、足元に少し力が入らない心地だったが、クリスティの手の中には香しいモクレンがしっかりと握られていた。




 その日の夜。

 ようやく父親から許しがもらえて、夕食を一緒にした。

 父親は妙に機嫌がよかった。クリスティが一日大人しくしていたと思っていたからだろう。外された鍵も、外から小鳥達が掛けなおしてくれているのだから。

 しかし、今のクリスティには「隠し事」がある。ほんの二日前まではそれを持つことになるなんて、考えもしなかったし想像の範疇でもなかったのだ。

(私はどうして何も知らずにここにいたんだろう)

 夕食の野菜と肉のスープを飲みながら、クリスティは考える。

 目の前で、にこにこ、と笑っている父親の姿が、父親ではない何か異様なもののように感じていた。


 そして夜中。

 すとん、と眠りに落ちることができた。

 不思議なことに『夜の音』も聞こえなかった。

 そして、クリスティは夢を見た。

 とても、温かくやわらかで幸福な夢だ。

 眠る前にモクレンの香りを嗅いだせいか、夢の中でモクレンが出てきた。

 どこか町はずれの小さな家の庭だ。モクレンの他にも低木の花々が咲き誇る可愛らしい庭。

 そこで水遣りをしている女の人がいた。白い金髪で体の細い人。

『クリスティ』

 女の人は美しいピアノの音のような声で、クリスティを呼ぶ。

 大きな青い目をした女の人。その目は、とても優しくクリスティを見ていてくれている。けれど、顔がどこか不鮮明で青い目以外はよくわからなかった。

 ママ、と夢の中でクリスティは返事をした。

『おいで、クリスティ。いいものをあげるわ』

 女の人は、両手いっぱいのバラとナデシコをクリスティに差し出す。とてもいい香りだと感じた。とても安心して眠っていられた。

『お眠りなさい。お眠りなさい。バラとナデシコとデッケに包まれて。お眠りなさい。お眠りなさい。デッケの中に入って。楽園のような安らかな夢を』

 静かなピアノの音に合わせて子守歌を歌う、女の人。クリスティの母親。

 安らかな子守歌と毛布に包まれて、クリスティは『この頃』確かに幸せだった。

 




 


 クリスティの朝は早い。

 お日様が上り始めると同時に起きて、くしゃくしゃの髪を一生懸命整える。

 顔を洗って、ようやくはっきり目が覚める頃には、父親がテーブルにその日のパンと町で買ってきた果物などを並べ終わっている。

 クリスティの朝の役目は、牛乳瓶の中身が足りるか確認してコップに二人分のミルクを注ぐことだ。

 そして、クリスティと父親。二人そろっての朝食が始まる。

「今日は帰るのが遅くなるよ、クリスティ。戸締りはしっかりしておけよ」

「はい、パパ、いってらっしゃい」

 ここまでがほんの数日前までのクリスティの朝だった。そして、その日一日は小屋の中で過ごすか、外の狭い庭の中だけで小鳥達と戯れて過ごすか。それしかなかった日常だった。何にも知らなかったクリスティはその日常を退屈だと思うこともなければ、世界が狭すぎるとも思ったことも不満に思うこともなかった。

 けれど、今は違う。

 クリスティはほんの数日前とはまったく違っていた。いろいろなものを知った。森の奥。色とりどりの瑞々しい花々。森で育ったおいしいキイチゴ。静かな湖と美しいスイレン。

 そして、オオカミ。

 それらを知ってしまったクリスティに、小屋の中でずっと大人しくしているなど、もう無理だった。ほんの数日前までは大人しくしていられたクリスティ。けれど、今は父親が外へ出て行った途端、弾む足元と胸の高まりを抑えきれない。それに対して父親には悪いと思いはしたが、それ以上にすべてに手を伸ばして触れてみたい、知りたい、もっとたくさんの知らない話を聞きたいという好奇心が溢れるのだ。

「ああ、私って本当になんで小屋の中で大人しくしていられたのかしら?」

 父親がいなくなってから、クリスティは外へ出て思い切り息を吸い込んだ。数日前、ロルフにおまじないをしてもらってから、とてもよく眠れる。母親の夢を見ることもできる。

 


 おはよう、クリスティ。

 おはよう、クリスティ。

 今日も、一緒に遊びましょう。


「おはよう、小鳥さん達!」


 今日も三羽の小鳥達が現れて、器用に扉の鍵を外してくれた。

 あれから、父親は毎日扉の外から鍵をかけるようになった。けれど、小鳥達が毎日外してくれるし、帰ってきた後も鍵を掛けなおしてくれるので今のところ気づかれてはいない。機嫌を直しても父親はまったくクリスティを信用しなくなったようだ。

(でも、信用しないのも当たってるわ)

 現にこうしてクリスティは外へ出ている。

 パンとチーズとミルクを持って、やっぱり毛布をしっかり被って。小鳥達に導かれるままに小屋の見えない奥まで行けば、何もかもから解放されたような気分になる。それは、罪悪感で少し苦いけれど甘酸っぱくてクセになる、キイチゴのような美味しさだ。

 花畑を抜けキイチゴの生える場所に行けば、今日も湖は静かにそこにあった。

 鏡のように静かな水面が、時々、風に吹かれて揺れる。

 ちゃぷ、ちゃぷ。

 そのたびに小さな波の音がする。

 湖の中の白い魚。水魔が跳ねればもっと大きな音がする。その水の音と穏やかな風が木々を揺らす音。そして、小鳥達のさえずり。

父親が銃を撃つ音とそれによる木々と獣のざわめきとは違う。

 一度だけ見た夢の中の音を思い出す。

 美しく安らかな音。

 いつも『夜の音』に阻まれて、怯えているのとは違う。

「…お眠りなさい。お眠りなさい。バラとナデシコとデッケに包まれて」

 ぎゅっと毛布を握りしめる。あの夢のように、母親は毎日クリスティに子守歌を歌ってくれていたのだろうか。それとも、あれはクリスティの母を恋しく思う心が創りだした幻なのか。

「お眠りなさい。お眠りなさい。デッケの中に入って。楽園のような安らかな夢を」

 わからないが、クリスティは今、子守歌を歌えている。

「いい歌だな、クリスティ」

 いつの間にかクリスティの横にロルフがいた。先ほどまで姿が見えなかったのだが、気配もなくまるで気まぐれな虹のように姿を現す。

「ロルフ!」

「元気そうだな。顔色がいい。よく眠れているようだ」

「ええ、とっても!」

 ロルフの目の中に映るクリスティは、とても血色がよかった。父親に初めて扉に鍵をかけられた日は、少し青白いぐらいだったのだがすっかり回復しているようだった。ロルフは、満足そうに喉を鳴らす。

「可愛らしいな、クリスティ。食べてしまいたいぐらいだ」

「あら、ロルフはやっぱり私を食べたいの?」

 かわいらしく首を傾げるクリスティに、ロルフは意地悪そうに鼻づらにシワを寄せる。

「そうだと言ったらどうする、クリスティ?怖いオオカミからおまえは逃げるか?」

「…どうかしら?ねえ、ロルフ、何にも知らずに長く生きるのと、たとえすぐに死ぬんだとしても、いろんなことを知って思い出してそういうのに満たされていくのとどっちがいいと思う?」

 数日前までは言葉にすることもできず考えることさえできなかったことを、すらすら言えてしまえるようになったクリスティは、自分は変わったのだろうか、と思う。その変化は好ましいものなのかそうではないのか。父親にとっては好ましくないだろう。しかし、クリスティにとっては意味のある変化だった。

「私の質問に答えずに逆に質問するとはな…おまえは怖いもの知らずすぎて心配だよ。それに、今日はまだ質問するのを許していないぞ」

「あら、ごめんなさい!それで今日は何を教えてくれるの?いくつまでなら答えてくれるの?」

「…すでに質問ばかりだが、まあいいだろう、クリスティ。今日は三つまでなら答えてあげよう」

 のそり、と湖の側から離れ腰を下ろしたロルフの横に座り、クリスティは考える。知りたいことはたくさんあるのに、たくさんありすぎてどれがいいのか決められない。けれど、賢く選択することが必要なのはこういう時なのだろうな、とクリスティは思った。

 横に座っているロルフを見上げる。その首には赤い紐。それは今日も上へ上へと続いている。

「…ロルフは、私のことも首輪に繋がれたものって言ったけど、それはどういう意味なの?」 

 もちろん、クリスティはロルフと違って首に紐など結ばれていない。そういう目に見えるもののことを言っていたのではないのだろう。

「そのままの意味だ、クリスティ」

「目に見えるままに、首に紐が結ばれてるなんて意味ではないのでしょう?」

「その通りだ。賢いクリスティ。ならば自ずと意味はわかるはずだ」

「……」

 クリスティは自分の首周りに触れてみる。細い首があるだけで、何かに結ばれているわけではない。ないのだけれど。

「…パパが、きっと私を離さないからね…」

「そうだ、クリスティ、その通り」

「だから、あなたは私に興味を持ったの?」

「それは二つ目の質問としよう。…そうだな、おまえにもった興味の一つだと言っていい。ワタシと同じで自由を奪われ拘束されたクリスティ」

 天に続く長い長い赤い紐。クリスティは、ロルフの首のそれに軽く触れてみた。特に太い紐というわけでもない。見たこともない不思議な編み目をしているとはいえ、硬く結ばれているわけでもなさそう。けれど、それは確かにロルフを縛っている。愚かな賭けの結果とはいえ、それはロルフを縛っている。

「…そうかも…私もロルフと同じだわ」

 見えないけれど、縛られている。

 クリスティが大人しくしてさえいれば機嫌のいいあの父親の顔を思い出し、クリスティはぞっとした。父親に対してそのような嫌悪とも戸惑いとも言えない、しかし、好意以外の感情を抱くのは初めてだった。

「…じゃあ、三つめの質問ね」

 クリスティはロルフの首にもたれかかる。不思議な編み目をした紐を握ってみる。

「ロルフは自由になりたい?」

「…それはクリスティ、自分自身に向けての質問でもあるな」

 もたれかかるクリスティの頭の上に、ロルフは鼻を押し付けてきた。

「そうかもしれないわ…」

「…ワタシのことを答えるなら、やはり自由になりたいな。神に見張られたまま存在するのはたまらなく窮屈だ。…さて、クリスティはどうしたい?」

「…よくわからないの」

 足元のキイチゴを拾い、一粒食べる。少し苦くて甘酸っぱい。美味しい。クセになる。それは、甘く苦くえぐみさえある味。

「…よくわからないの。私は自由になりたいのか、それともパパと丁度いい距離を開けてるだけで満足するべきなのか…。だって私が裏切ったらパパが可哀想だもの」

 キイチゴを飲み込む。喉がちくちく痛かった。

「おまえはどうしたい?」

「…だから、よくわからないのよ」

 ふん、とロルフが息を吸った。毛布の匂いを嗅いでいるのだろう。いつも洗ってはいるけど、もう古い毛布なので取れない汚れもあるのにいいのだろうか、とクリスティはぼんやり考えた。

「よくわからないのは、クリスティ自身がわかっていないことがあるからだな。…それがわかれば自分がどうしたいのかがよくわかるようになる。怖いぐらいにな」

「そういうものなの?」

「そういうものだ。そうなるまで、深く考えすぎずに見落としたものがないか目を凝らすことだな。そうやって見えてきたものの末に、クリスティ、おまえがどうしたいのか、わかってくるものだ」

「ロルフの言うことっていつも難しいわ」

 むくれて無理矢理ロルフの鼻を払い、側を離れる。ロルフは少し目を細めただけで、咎めることはしなかった。

「難しいか?」

「ええ、とっても!」

「そう拗ねるなクリスティ」

「拗ねてないわ」

 つん、とそっぽを向いて、湖の水面を睨む。そこには眉をあげて少し赤い顔をしたクリスティが映っていた。もどかしい思いを持て余して、少し怒りを感じてしまうなど、以前のクリスティには考えられないことだった。

「…もどかしいのはわかるが、これはおまえが自分で見つけなければいけないことだ」

 ロルフはその四肢でのそのそ歩きだし、クリスティと同じように湖を覗き込んだ。

 その水面に映るのは、クリスティに見える獣ではなく、何かもっとぼんやりした黒い影だった。

 獣のような人の形のような、黒い影。横に映っているクリスティの目が見開かれる。

「クリスティ、神に存在を堕とされるというのはこういうことだ。ワタシは自分の正体が曖昧になっている。本当にただの獣なのか人に近い神の子飼いなのか。上にいたころのワタシは何にでもなれた。両手で掴めないものもなかったのだ」

 湖から顔を上げて、ロルフを見る。そこには最初に会った時と変わらない、大きな黒いオオカミがいた。

「クリスティ。おまえはワタシのように自分の正体を見失ってはいけない。先ほども言ったが、見落としているものがないかよく目を凝らすんだ。愚か者というのはな、決まって何かを見落とし、選択を誤る。その見落としたものは仲良く会話をしていたはずの相手の機嫌の変化かもしれないし、床に落とした、たった一滴のミルクのせいであるかもしれない」

 ロルフが、前へと歩き出す。

 クリスティは、あっ、と声を上げた。

 ロルフは何事もないかのように湖の上を歩いていた。ロルフが歩くたびに水面が波紋を描いて揺れる。

 こちらへ。

 そう言うかのようにロルフがまっすぐクリスティを見つめてくる。

 クリスティは、恐る恐る、水面に足先をつけた。

「靴は脱ぎなさい」

 と言われたので慌てて靴を脱ぎ、もう一度、つま先をつける。

 足の裏をつける。冷たい水の感触が柔らかく張り付く。

「怖いか?」

「少し…でもやってみたい」

「いいだろう、おまえは勇気のある子だ。大丈夫だ、沈まないようにしておいた」

「水魔さんは怒らない?」

「あれはスイレンに手出しさえしなければ、大人しいやつだから大丈夫だ」

 右足の裏をつけ、いよいよ、左足もつける。

 ぴちゃん。

 波紋を描く水面に、クリスティは立っていた。

 足元に湖がある。

 それは、太陽の光を受け、きらきらと輝き。

 透明で、揺れる世界の上だった。白い魚の水魔が、すいっと足元を通っていく。

 どこまでも下に落ちていってしまいそうな不安感がありながら、足元から奇妙な快感といえるものが這い上がる。肌が立つ。

「すごい」

「怒らせた詫びだ。これもお土産に持っていきなさい。よく眠れる」

 ううう、とロルフが唸ればどこにいたのか緑と茶色の水鳥が三羽現れ、くあくあ、と鳴いた。鳴くたびにその口からバラとナデシコの花が生まれ落ちた。

薄紫のナデシコ。

 赤いバラと白いバラ。

 夢で見た、バラとナデシコ。

 子守歌の歌詞の花だ。

「どうして…」

「夢を見ただろう、クリスティ。その夢を忘れないことだ」

 何故、夢のことを知っているのかと思ったが、眠れる御呪いをかけたのはロルフなので知っているのは不自然ではないような気がした。

 生まれ落ちたバラとナデシコは水面に落ち、風と波に揺られてくるくる回り、湖に広がっていく。

「キレイ…」

 水の上であるはずなのに、花畑を歩いているようだった。思い切って一歩踏み出す。

 ぴちゃん。

 水の音を上げて足が動く。波紋が広がり、それが花を揺らす。水面のゆらめきが眩しい。バラとナデシコ。夢の中。母親の歌ってくれていた子守歌。

 その時、クリスティは確信した。

「ロルフ…あれは私が望んだ幻じゃないわ」

 少し屈んで水面に飲まれるバラとナデシコをすくいあげる。

「ママは確かに、子守歌を歌ってくれてた…どうして忘れていたのかしら。あんなに優してくあったかい歌」

 溢れるバラとナデシコと、湖の香り。それを思い切り吸い込めば、何にでも自信が持てる気がしてきた。

「…お眠りなさい。

お眠りなさい。

バラとナデシコとデッケに包まれて」


 歌うのと同時に思い出されることがあった。

『毛布を被れば安全だよ』

 とクリスティに毛布を被せる声と両手。

『毛布を被って。何にも見ないで。聞かないで。そうすれば怖いことなんてないよ。怖いことなんてないよ。クリスティ』


「お眠りなさい。

お眠りなさい。

デッケの中に入って。

楽園のような安らか夢を」


『大丈夫だよ、クリスティ。絶対にパパが守るよ』


 ぽちゃん。


 水面に小さな波紋が次から次へとできていた。それは、いつの間にか泣いていたクリスティの涙の滴が落ちていたからだ。

 ぽちゃん。ぽちゃん。

 何故、泣いてしまうのかわからない。けれど、涙は止められない。嬉しいのか悲しいのか怖いのか。どんな感情で溢れてきているのかがわからない。あるいは、すべてなのかもしれない。

「…帰らなくちゃ…」

 涙を拭うことも知らないクリスティは、ただただ頬を濡らしていた。大きな青い目が、濡れたガラス玉のように不安定に揺れている。

「パパが、待ってる」

 その姿を静かに眺めていたロルフは、そうか、と頷き、

「間違うなよ、クリスティ」

 と言った。

 気が付けば、ロルフはクリスティの目の前にいて、そのまろい頬を伝う涙を舐めた。舌でだ。くすぐったかったが嫌悪感はまるでなかった。ただ、白と茶色と黒ブチの「ロルフ」もこんな風に泣きじゃくっていたら舐めてくれていたな、とクリスティは思い出した。

「…まいったな…クリスティ」

 ロルフの金色の目が濡れたように輝いた。まるで熱いパンに垂らしたハチミツのようにとろけている。赤い舌が、ざわついている。

「おまえは清からすぎる。上にいた天使や神などよりよほど、な」



 

 


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