第一話 妹、大地に立てず引き篭もる
201*年。大方の日本人が予想していた通り、日本は未だに混迷の中にあった。
不透明感を増す国際情勢に翻弄され、経済的には不況の長いトンネルを抜け出すことも叶わず、政治的には閉塞感と停滞感が漂い続ける。政権交代時の苦い経験から保守政党が選び直され長期に渡って与党であり続けているものの、支持率は国民の信任を得ているとは到底言い難い低水準。旧態依然の公共投資と金融緩和を柱とした政策が継続された結果、赤字国債の発行残高の伸びは天井を知らず、押し寄せる少子高齢化の波に、国民総てがなす術もなく事態の悪化を見つめるばかりの危機的な状況に陥っていた。
15歳でこの春高校生になったばかりの俺、桐坂巧にとって、この悲観すべき日本の現状は、本来、液晶TVの向こう側のどうでも良い出来事のはずだろう。だが、経済とは良くしたもので、両親と俺と妹との四人で構成される我が家にも、切れ目無く続く長期間の不況は影響を与えずには居られないのだった。
国内大手電機メーカーへの勤め人である父、孝一41歳は子供時代から平日は顔すらみない会社人間。母、聡子38歳は現時点でも20年のローンが残る我が家の家計を支えるべく、同じく外で働く毎日である。必然的に家で留守番することになるのは、俺の一つ年下の妹、優美と俺の二人組。母親にあまり構って貰えなかった優美が、小さい頃から俺の後ろをついてまわるようになったのは、これはもう必然というものだっただろう。
気が付けば、家から徒歩15分くらいのところにある併設された小学校と中学校の存在という立地条件にも助けられ? 優美が小学校に上がってからの小学生時代5年間、中学生時代3年間の合わせて8年、俺と優美は家でも一緒、登校も一緒、食事やその他の買い物の名目で下校も帰宅も一緒などという、見事なダメ兄妹のできあがりである。
中学にもなって、兄妹揃って部活とかは一体どうしてたんだ……などと思ってはいけない。理系のオタク系少年だった父と文学少女だった母の間に生まれた俺たちに、天が人並みの運動神経を与えるはずもない。見た目であだ名をつけるなら、父親の遺伝子を見事に引き継いで、中肉中背で眼鏡の俺の愛称は『はかせくん』で、おかっぱ頭で幼児体型の優美の愛称が『ハムスター』あたりの小動物に決まることは確実だ。
迸る青春の汗とエネルギーとは、どうにも無縁そうな俺たち兄妹に、熱血スポーツ系の部活動の日々が訪れるはずもなく、俺は理科部、妹は手芸部の幽霊部員としての責務を果たしつつ、終業のチャイムを聞いてほどなく連れ立って帰る毎日の繰り返しに落ち着いた。世界は正しくポテンシャルエネルギーを最小にするように出来ている。
だが、このようにして平凡な日々を送ってきた俺にも、この春、大きな転機が訪れた。冬の間中、大して好きでもない勉強のために日がな一日机にかじりついて、無事、志望の公立高校への合格を果たしたのである。人類史には全く影響を与えないが、俺と両親にしてみれば、これは大きな一歩と呼べるだろう。
四月から始まった隣接された市の中心部にある、少し上品な高校への憧れの電車通学。中学時代を通してあまり外出する方では無かった俺にとり、電車の窓ガラスを通して目に映るものは、どれも新鮮な刺激に満ち溢れていた。
新たな学校、新たな出会い、そして希望に満ちた新たな俺の高校ライフが今、始まる。
……はずだったのだが、新生活に挑もうとする俺を実際に待っていたのは、俺に代わって中学三年になった優美の、突然の登校拒否と部屋への引き篭もりだった。
四月の第二週の月曜日に「お腹が痛い」と言って一日学校を休んだときは、何か悪い物でも食べたんじゃないかと心配した母と俺も、四月の第三週の月曜、火曜と咳一つ出さないのに「風邪を引いた気がする」と言い出して休んだ時には訝しげに眉をひそめ、第四週に至って月曜、火曜、水曜と「身体の調子が優れない」と宣言して、部屋に篭った優美をみて、事態の重大さに愕然とする他なかった。
物心ついて以来、やさぐれた言動の一つもついぞ見せなかった優美の問題行動に俺も両親もパニック状態。いつもは日が変わる頃にしか帰宅しない父などは、家にすっ飛んで帰ってきて、優美のクラス内でのいじめを心配しだして大騒ぎ。
受験を控えた学年という点に鑑み、クラスは二年時からの持ち上がりで変わったことは何もないはず……ということで、俺も優美と仲が良い同じクラスの女の子に電話をかけてしてみたりしたのだが、思い当たる節はないとのこと。
ようやく登校した木曜日には意を決した担任の女教師が、さりげなさを装って、スクールカウンセラーの居室に誘導して、近頃辛いことがないかとかいじめの有無を問いたださせてみたものの、得られたのは「1人で通学するのは、楽しくない」という情報のみ。
優美に隠れてこっそり学校を訪れてみた父も、カウンセラーから「お嬢さんは、どうやらお兄さんが卒業されてから学校に来るのが楽しくないようです」などと、机に頭を打ちつけたくるなるような説明を聞き、挙句の果てに、「とりあえず様子をみましょう」などとかの国民的時代劇なら事態の悪化間違い無しのお言葉を貰って手ぶらで帰宅。
当事者の優美自体は家ではごく普通で、自分の陥ってる状況にどうやら何の危機感もない。
ここに至って、事態の推移を見かねた母は、優美のせいで遅れ気味の仕事の忙しさも相まって、「お兄ちゃんなんだから、よろしくね」の一言で問題を俺に丸投げしたのだった。
こうして、学校になじむはずの大切な期間もなんのその、終業のチャイムを聞いた途端に教室を飛び出し、電車を乗り継いで、一目散に家路を辿る、俺の高校生生活は開始された。
毎日の帰宅を出迎えるのは、部屋のベッドの上でクッションを抱きしめ、私不機嫌ですアピールの目で俺を見つめる、いつもどおりの優美の一言。
「お兄ちゃん、遅い!」
とりあえず、駆け足で説明したこれが我が家の現状である。
本当に、どうしてこうなった……
<<次回、「妹、気になるネットゲームに出会う」に続く>>
プロローグを兼ねて説明のみの回になってしまいましたが、次話以降は普通にシーン描写と共にストーリーが進む形になります。
妹がオンライン接続を確立するまで、しばらくの間お待ちください。