第2話 その客は、殺気を纏って扉を叩く
翌朝。俺、一ノ瀬カイは、実家の洋食屋『洋食イチノセ』の厨房に立っていた。時刻は午前九時。ランチ営業の開店までは、あと二時間ある。この『仕込み』の時間こそが、料理人にとって最も神聖で、心安らぐひとときだ。
「よし、デミグラスソースの調子もいいな」
大鍋の中でコトコトと煮込まれる漆黒のソース。牛型モンスターのスジと香味野菜を三日三晩煮込み、さらに『時間加速』の魔法で熟成させた俺の自信作だ。厨房に漂う濃厚な香りに、俺は満足げに頷いた。
「クゥ~ン……」
足元で、甘えたような鳴き声がした。見下ろすと、美しい銀色の毛並みを持つ犬――ゴールデンレトリバーくらいのサイズの獣が、俺の足に体を擦り付けている。
「なんだポチ、腹減ったのか? 賄いはあとだぞ」
こいつは、昨日『次元断層』から現れた謎の魔獣だ。本来なら体長2メートルを超える巨体で、凄まじい威圧感を放っていたが、どうやらあの姿を維持するのは魔力を食うらしい。今朝起きたら、勝手にサイズを縮めてこの姿になっていた。相変わらず電気を帯びた銀色の毛並みは高貴そのものだが、中身はただの食いしん坊だ。
「ガウッ」
ポチは賢く頷くと、勝手口のマットの上で丸まった。躾せずともこの聞き分け、いい子で助かる。Fランクの俺にはこいつの正体は分からないが、おそらくどこかの強いダンジョンのボス格だろう。そんな奴が看板犬になるとは……オヤジが生きてたら豪快に笑ってくれたんだろうな。
まあいい、作業に戻ろう。
俺が玉ねぎを刻もうと包丁を握った、その時だった。
ガタガタガタガタッ!!
突然、店の入り口の扉が激しく揺れた。 誰かが外から、無理やりドアノブを回そうとしている音だ。
「……なんだ?」
俺は眉をひそめた。今は『準備中』の札を出しているし、当然鍵もかけてある。常連客ならこんな無礼なことはしないはずだ。
(酔っ払いか? それともセールスか?)
無視しよう。俺は意識を玉ねぎに戻した。だが――。
ガタガタガタガタガタガタッ!! ドンドンドンドンッ!!
「……しつけえな」
音は止むどころか、激しさを増していく。ドアノブが千切れるんじゃないかという勢いだ。
「グルルルルル……ッ!」
マットの上で寝ていたポチが、ガバッと飛び起きた。扉の方角を睨みつけ、喉の奥から低く重い唸り声を上げている。全身の銀毛が逆立ち、その体からバチバチと紫電が漏れ出している。ただの人間相手に、ここまで警戒するか?
「おいポチ、放電やめろ! ブレーカー落ちるだろ!」
俺はポチを制止するが、ポチの殺気は収まらない。もしや――昨日の『次元断層』関連の調査員か?
ガタガタガタッ! ミシミシッ……!
ついにドアの蝶番が悲鳴を上げ始めた。これ以上やられたら、修理費がかさむ。実家の家計は火の車なんだ。
「あーもう! わかったよ!」
俺は包丁をまな板に置き、怒り心頭でホールへと向かった。鍵を回し、勢いよくドアを開け放つ。
「うちはまだ準備中だ! 帰ってく……れ?」
怒鳴り声を上げようとした俺は、言葉を詰まらせた。
そこに立っていたのは、押し売りセールスマンでも、強面の調査員でもなかった。
少女だ。歳は俺と同じくらいか。目を引くプラチナブロンドの長い髪。身につけているのは、真紅のドレスアーマーだ。かつては一級品だったのだろうが、今は無数の傷が走り、色も褪せている。新しい装備を買う金がなく、限界まで使い古された――そんな生活の困窮を感じさせる装いだった。
だが、何より異様なのはその表情だ。
「…………」
整った顔立ちは土気色で、瞳は死んだ魚のように虚ろ。肩で荒い息をして、立っているのがやっとという状態だ。
「……なんだ、あんた」
俺が尋ねると、少女はゆっくりと顔を上げた。その鼻が、ヒクヒクと動く。厨房から漂ってくるデミグラスソースの香りを捉えたらしい。
「……おいしい、におい……」
カスカスの声。 次の瞬間、彼女の碧眼がカッと見開かれ、ドア枠に手をかけた。
「ニオイ……魔力……ヨコセェェ……ッ!!」
「うおっ!? なんだコイツ!」
少女が雪崩れ込んでこようとする。俺はとっさに足を踏ん張り、ドアを押し返そうとした。だが、重い。華奢な腕のどこにそんな力があるのか、万力の如き力でドアがこじ開けられていく。
「待て待て! ランチはまだだ! というか金持ってるのか!?」
「タベサセテ……シヌ……ハラヘッタ……ッ!」
「ゾンビかよお前は!」
これはただの空腹じゃない。 俺の『鑑定』スキルが、彼女の状態を弾き出す。
【状態異常:魔力飢餓】 【HP:残り 2%】
(魔力飢餓……!?)
俺は息を呑んだ。これは、体内の魔力が枯渇し、自らの生命力を燃やして動いている状態だ。普通の人間ならとっくに死んでいる。こいつ、この状態でここまで俺の料理の匂いを嗅ぎつけてきたのか?
「グルァッ!!」
その時、ポチが厨房から飛び出してきた。主の危機を察知し、少女の喉元へ飛びかかろうとする。
だが――少女は避けようとすらしなかった。
「……っ!」
ギロリ、と。少女の虚ろな瞳が、鋭く細められた。死にかけの体からは信じられないほどの、凍てつくような殺気。『邪魔をするなら、神獣だろうが喰らい尽くす』そんな気迫を込めて、彼女は真正面からポチを睨み返したのだ。
「グルッ……!?」
ポチの動きが一瞬止まる。野生の勘が、目の前の獲物が『弱者』ではないことを悟ったのだ。
「やめろポチ! 客に手出すな!」
一触即発の空気を、俺の声が切り裂いた。 俺はポチの首輪を掴んで引き戻しつつ、へたり込みそうになる少女の腕を掴んで店内に引きずり込んだ。
「……ったく、しょうがねえな」
椅子に座らせると、少女はようやく殺気を収め、荒い息をついた。ポチはまだ不満げに唸っているが、俺は『待て』とハンドサインを送る。
「……金はあるんだな?」
ここまで飢えたやつなら金なしで食わしてやってもいいが、味をしめて物乞いに集まられても困る。
俺の質問に少女は震える手で、懐から数枚の硬貨を取り出した。なけなしの全財産、といった様子だ。 俺はため息をつき、彼女に水を差し出した。
「特別だぞ今回は金はいい。……どれくらい食える?」
そう言って厨房へ戻ろうとした背中に、少女の、消え入りそうな、でも鋼のような執念がこもった声が投げかけられた。
「……大盛りで。……いいえ、超特大盛りで……」
「……はいよ」
開店前の『洋食イチノセ』に、とんでもない大食らいの客と、奇妙な料理の香りが満ちようとしていた。




