1 流れ星が降った日
左側から、すぅー……と寝息が聞こえた。
私は黒板に書かれている漢字をノートに写しながら、その音の方を向く。
奏斗が机に突っ伏して寝ていた。教科書は開いてあるけれど、鉛筆は手から落ちて床に転がっている。
「咲、奏斗が寝ているから起こしてあげて」
いきなり優子先生に言われたから、少しびくっとした。
「……か、なと」
長いまつ毛、少し日に焼けた顔。半開きの口。
少し身を乗り出して肩を揺らす。
「……あー、うん」
彼はぼそりと何かを言って、ゆっくりと体を起こす。髪が少しくしゃくしゃになっていて、頬に机の跡がついていた。
「おはよ」
そう言うと、彼は「……おう」とだけ返して、鉛筆を拾い上げた。
それだけのことだった。
優子先生の声がまた響いて、クラスの時間は何事もなかったように流れた。
わたしも鉛筆を持ち直して、ページをめくる。だけど、手元の文字はあまり頭に入ってこなかった。
でも、わたしはなぜか、さっき見た彼の寝顔をもう一度思い出していた。
まだ好きとか、そういう気持ちはなかったと思う。ただ、なんとなく、「あ、こういう顔を、多分わたしはずっと覚えてるんだろうな」って、思った。
教室の窓の外では今日も潮風が吹いている。
波の音は聞こえないけど、海の匂いが風に混じっていた。
♢♢♢♢
この町には、信号が一つしかない。
コンビニもないし、電車も通ってない。
だけど、海がある。海と、わたしたちの学校だけは、いつでも変わらない。
校庭からも見える青い水平線を、わたしたちは飽きもせずに眺めていた。
この町の同級生は、たった4人。私、奏斗、亜由、海翔。
小中高が同じ校舎に入ってるから、小学5年生のわたしたちは、高3のお兄さんお姉さんとも顔見知りだった。だけど、その人たちも今年で卒業。来年からは、この4人だけになる。
「また魚のにおいする〜」
帰り道、亜由が言う。
「海翔の服、漁師んちの匂いする」
「うるせーな」
海翔は無表情で言い返すけど、口元だけが少し笑っていた。
海翔の家は、この町で代々漁師をしている。
波が穏やかな日には、海翔と奏斗と、高校3年生のレオ君が手伝いに行く日もある。
そして、たまに多く獲れた日は、全家を回って魚を届けに来てくれることもある。
この町にいる学生は、私たち4人と、高校3年生のレオ君、杏奈ちゃんの6人だけ。
レオ君と杏奈ちゃんも、来年の春には町を出て東京に行くのだと近所のおばちゃんから聞いた。
「ねぇ、海行かない?」
わたしは小さな声で呟いた。
帰り道、どうしてもまっすぐ家に帰る気になれなかった。
海翔が「ちょっとだけならいいだろ」と言い出して、みんなでそのまま浜辺に向かう。
慣れている道、亜由が前を歩く海翔の背中をわざと軽く押し、海翔は「おいやめろよ!」と怒る。
亜由のランドセルにつけられているウサギのキーホルダーが大きく揺れている。
わたしと奏斗は亜由の後ろから、その姿を見ているだけ。
奏斗はどんな表情をしているんだろう。そう思ってしまったのは、ただの気まぐれ。
風はひんやりしていて、制服の袖を通して肌に触れてきた。
もう秋だった。日はすでに沈みかけていて、空は茜色と紺色の間。波の音だけが、どこまでも続いていた。
「怒られるかなー」
亜由が小さく言って、奏斗が「すぐ帰るって言えば平気だろ」と応じた。
それでも、みんなが黙ってうなずいたのは、なんとなく「今日はまだ帰りたくない」って気持ちが同じだったからだと思う。
砂浜に座って、靴を脱いだ。
冷たい砂が指の間に入ってくる。誰もしゃべらなかった。奏斗が空を指さした。
「流れ星」
その一言で、みんなが空を見上げた。
誰も声を出さなかった。息を吸う音すらなかった。
空を横切る小さな光は、本当に一瞬だったけれど、その瞬間だけ、時間が止まったみたいだった。
しばらく沈黙が続いたあと、亜由がぽつりと言った。
「ねぇ、東京って星、見えないんだって」
私は横目で亜由を見る。彼女は空を見たままだった。
「建物がいっぱいで、空がせまいから。あと、なんとか光? 明るすぎて見えないんだって」
「光害、だろ」
海翔がぼそっと言った。
「なんか、さみしいよね」
亜由の声は、波の音にかき消されそうだった。
私はもう一度、夜空を見上げた。
「奏斗は、何お願いしたの?」
奏斗の横顔を見ながら、私は聞く。
「あー……何でもない」
「え、なにそれ」
笑いながら奏斗の肩を軽く叩く。
星が、いくつも、点々と瞬いていた。
さっき流れたものとは違う、動かない星たち。
この町を出ても、同じ空がどこかにある。
そう思いたかったけれど、 多分見える空はきっと違うんだろうな、と思った。
わたしは願いごとをしなかった。
でも、なんとなくあの時の奏斗の横顔を、ずっと覚えていると思う。