9.プロポーズ
その日、ダニエラはいつも通り冷え込む牢の厨房で調理に励んでいた。
「ダニエラ、少しいいか?」
ドーソンの声がして、ダニエラは振り向かないまま答える。
「ドーソンさん?今焼き始めたところだから5分待ってください。これは焼き加減が重要なんです。ちょっとでも目を離すと…」
「お前さんに高貴なお客様なんだよ」
ダニエラは振り向いて、フライ返しを落としそうになった。ドーソンの後ろに、牢に似合わない鮮やかな色彩と、見慣れた顔が見える。
「フィリクス…様…?どうしてここに…」
牢に現れたのは、貴族学園時代の同級生、フィリクスだった。王太子アーサーの母方の従兄弟で、国内屈指の名門であるコートウェル公爵家の三男。
彼は美しい騎士団の制服を着ている。シャルロットに宣言した通り、卒業してまず騎士団に入ったらしい。
「…ダニー?やっと見つけた…!」
彼はまっすぐ彼女の元へ駆け寄って、フライ返しごと彼女の手をとった。ダニエラははっとして彼の手を振り払い、フライ返しを置いてコンロの火を消し、貴族の礼をする。
「コートウェル卿、お会いできて光栄です」
「そんな他人行儀にしないで。僕たちの仲じゃないか」
「コートウェル卿とはかつての学友ですが、今の私は平民ですので…卿と親しくお話しできるような立場ではございません」
フィリクスはくすっと笑った。
「ダニーは変わってないね」
ダニエラはフィリクスの明るさにうんざりした。
(変わってない?私のどこをどう見てそう言えるのかしら?元貴族令嬢が牢で囚人の食事を作ってるのに…)
「随分探したんだよ。タウンハウスも引き払ってしまっていたから、どこにいったかわからなくて」
「私を探した…?どうしてですか?」
フィリクスはふっと真剣な表情になった。そして冷たい牢のキッチンの床に膝をついた。
(え…待って…この姿勢は…)
「ダニエラ・オールデン、僕と結婚してほしい」
ダニーの思考は停止した。貴族学園時代から、フィリクスが自分に好意をもっていると感じることはあったも、貴族のお遊びのようなものだと思っていた。平民になった自分を追いかけてプロポーズするほどの熱意があるとは、とても信じられない。
「…どうして私なのですか?」
「僕はダニーに救われたんだ。家でも学校でも誰からも期待されてなくて、毎日が空っぽだった。でもダニーが、僕のいいところを教えてくれた。君のおかげで僕は…」
学園時代、フィリクスの成績は決して悪くはなかったが、優秀な二人の兄や従兄のアーサーと比べられ、常に劣等感を抱いていた。ダニエラは、落ち込んだフィリクスを励まそうと「人懐っこいから外交官に向いている」と言ったことを思い出す。
「あの一言で…?」
「そう、あの言葉がずっと残ってた。僕はダニーがそばにいて励ましてくれないとダメなんだ。君がいないと…自分ひとりでは立ってすらいられないような気分なんだよ」
油の匂いと淀んだ空気のなかで、フィリクスはダニエラに向けて手を差し出した。
「僕の手をとってほしい。僕は公爵にはなれないけど、君をここから連れ出してはあげられる」
(フィリクス様を受け入れれば、あの家から逃げられる…?)
ダニエラは、明るいがどこか甘えたところのあるフィリクスを、恋愛対象として見てはいなかった。
けれどダニエラを見つめるフィリクスの目はまっすぐで、真剣で、何より「ここではない場所」に連れていってくれる気がした。殴られたり刃物を向けられたりしない場所へ。
(逃げたい…お願い、ここから連れ出して…)
ダニエラはそっとフィリクスの手に、自分の手を重ねた。
その瞬間、フィリクスの顔に安堵と喜びが広がった。フィリクスはダニエラを抱きしめる。寒いキッチンの中で、フィリクスの熱がダニエラにまとわりついた。
「必ず幸せにするよ。僕が一生君を守る」
フィリクスはドーソンにダニエラの退職手続きを頼んだ。ダニエラとドーソンは「後任者に引き継ぎたいから」と1週間だけ猶予をもらえるようにフィリクスに頼む。フィリクスは渋い顔をしたものの、「ダニーがそこまで言うなら」と承知した。
「なんとも急だが…おめでとさん」
「ありがとうございます、ドーソンさん」
「おめでたいこったが…寂しいよ」
「ええ、私もです」
ドーソンは年の離れた兄のように、あるいは父のように、ダニエラを抱きしめた。硬い髭がダニエラの首元をくすぐる。
「幸せにしてもらいな」
「…はい」
ダニエラが結婚して辞めるという噂は、一気に牢の中に広まった。囚人たちはなけなしの私物をダニエラに渡そうとして、ダニエラから「こんな大切なものはいただけません」と断られては、彼女の優しさに浸って泣いた。
「結婚するのか?」
ノアが横を向きながら、食事を運んできたダニエラに聞いた。
「はい。短い期間でしたがお世話になりました」
「はっ…世話になったのは俺だろ」
「そうかもしれませんね」
「相手はいい奴なのか?」
「そう…だと思います」
「そうか。それならよかったな」
「ありがとうございます」
ノアはダニエラが立ち去った後、喪失感を埋めるように石造りの壁を拳で叩いた。拳がジンジン痛んだが、撫でるとすぐに痛みは消えた。
そして彼女の作った料理を一口頬張る。
「くそっ…なんでこんなに美味いんだよ」