4.追放
学園を去って数日後、ダニエラはオールデン男爵家のタウンハウスから、郊外の古びた一軒家に引っ越していた。
「家賃は前払い。遅れないように。ごみは自分で出して。あといくら若者だからって、夜中に騒がれちゃ困るよ」
貸主は無表情に言い放つ。水は冷たく、屋根は雨漏りがひどく、壁紙も剥がれかけていた。
でも屋根があって、鍵がかかる場所がある。それだけで十分だった。
母は環境が変わったことが受け入れられないのか、錯乱状態がひどくなっていた。何度もダニエラにナイフを向け、ローガンを夫だと勘違いしてベッドに誘う。ローガンが「母上をどこかに捨てよう」と言いだしたほどだ。
「だってこのままじゃ姉上は母上に殺されて、僕は母上の愛人にされてしまうかもしれない。手足を縛って森に置いてこれば、きっと誰にもバレないよ」
「だめよ!」
ダニエラは自分でも驚くくらい大きな声を出し、思わず自分の口を塞いだ。
本当はわかっていた。自分にもローガンと同じ気持ちがあるからこそ、大声で否定しなければいけないのだと。
(言っちゃだめ)
息を殺すように目を閉じ、ダニエラは自分の中の声を押し殺した。破裂しそうな感情が、喉元までせり上がっていた。
ダニエラは言葉が出ないように、唇を噛み締める。もしそれを口に出してしまったら、家族も自分も壊れてしまう。そんな予感があった。
「…あなたは覚えていないかもしれないけれど、お母様は明るくて朗らかで楽しい人だったの…病気のせいでこうなっているだけで…だからお願い、もう少し我慢して」
「もう少しってどれくらいなの。今まで散々我慢してきたんだよ!姉上はいつまで母上に尽くせば気が済むの?もっと僕たち二人のことを考えようよ」
「ごめん…ごめんねローガン…本当に…」
ダニエラの瞳が潤んできたのを見て、ローガンは「泣かないでよ。僕が悪いみたいじゃない」とため息をついて、狭くて暗い自分の部屋に消えた。
ーーー
学園を去ったダニエラに、担任教師が紹介してくれた働き口は、街の裕福な商人であるモリス氏の娘・アンの家庭教師だった。
ダニエラは誠実に働いた。
「今日の文法、わたし完璧だったでしょう? ダニエラ先生のおかげ!」
「ええ、完璧でしたよ」
「でも私は地理も好き。いつかお父様の船に乗せてもらって、外国に行ってみたいな」
「いいですね」
「ダニエラ先生は、外国に行ったことある?」
「残念ながら、ありません」
(きっとこの先も、一生ね)
アンは少し生意気なところがあるが知識欲の旺盛な子で、ダニエラが優秀であることも無意識に見抜いた。「落ちぶれた貴族」などと馬鹿にせず、裏表のない尊敬を向けてくれることが、ダニエラには何よりもありがたかった。
アンの家族も使用人も、最初は「元貴族」であるダニエラに「高慢なのでは」と不安を抱いていたが、ダニエラの勤務態度と実力は日を追うごとに周囲の信頼を集めた。
「ダニエラのような優秀な人に来ていただけて、本当に良かったわ」
気さくなモリス夫人は、邸宅内の洒落たティールームで、自らダニエラのカップに紅茶を注ぎながらそう言った。
「私もこちらで働かせていただけて、本当に幸運です」
「そういってもらえてうれしいわ。あなたを紹介してくれたフェルプス先生に感謝しないと。ね、このケーキ、実は私が焼いたの。食べてみて」
ダニエラは微笑んでケーキを口に運ぶ。
「とても美味しいです」
「よかったわ。よかったらレシピを差し上げるわね」
「ええ、ぜひ」
ここでなら、落ち着いた生活を築けるかもしれない。アンが結婚するまでここにいられたら、どんなにいいだろう。そう思っていた。
その日、その時までは。
「アンっ……あぶないっ!」
悲鳴とともに、ダニエラは身を投げ出した。
庭でダニエラと一緒に縄跳びを楽しんでいたアンの顔が、恐怖に染まる。
庭では髪を振り乱し、薄汚れてよれたドレスを着た女性が叫んでいた。ダニエラの母、エイメリーだった。
「この子がフィリップの隠し子なんでしょ!?私を殺そうとしたのはこの子なんでしょう!!」
虚ろな目と痩せた手。突如ダニエラの勤め先に現れた母は、完全に錯乱していた。手に握られたナイフが鈍く光る。
驚きで固まるアンを庇うように、ダニエラは覆いかぶさった。
ーーー
「君はクビだ。わかるね」
アンの父であるモリス家の当主は言った。
「君に免じて通報はしない。せめてもの温情だと思ってくれ」
(たかだか3カ月弱勤めただけの私に、いくらありがたいと言っても足りないくらいの温情だわ)
ダニエラは「感謝いたします」と頭を下げた。
アンをかばったとき、刃こぼれした古いナイフで切られた肩が、じくじくと痛む。
「帰りましょう、お母さま」
モリス家の面々によってさるぐつわをかまされ、手首を縛られた母。今は放心状態で、自分が何をしたのかも覚えていないようだ。さるぐつわの奥からよだれが垂れている。
モリス邸の門を出てから、さるぐつわを外し、手首のロープを解いてやり、ダニエラは母の手を取った。かさついた感触の、骨ばった手。
砂だらけのドレスを着て肩に血をにじませている自分と、ぼさぼさの髪で虚空を見つめながらよだれを垂らす母親。二人が手をつないでモリス邸がある高級住宅街を歩いている様子は、きっと誰が見ても異常だ。
すれ違う大人たちは遠慮なくじろじろと二人と眺め、母親は「見てはだめ」と子どもの目を塞ぐ。
ダニエラは姿勢を正して胸を張り、まっすぐ前を見た。
(大丈夫…大丈夫…ダニエラ、あなたは大丈夫よ)
何でもないふりをしないと、ダニエラ自身も正気を失いそうだ。
(お母さまに刺されて死んでいたら、アンを守って死んだヒロインになれたかしら)
ダニエラはふとおかしくなって、口元に自虐的な笑みを浮かべながら首を振った。
(そんなことあるはずないわね。だって私はヒロインじゃないもの。そんな高潔な死は訪れないわ)