34.帰ろう
ノアが鳥で送った手紙を見て、アーサーの部下たちはノアたちがいる村にやってきた。
「コートウェル公爵閣下…本当にここにいたんですね」
「正直…まだ半信半疑でした」
手錠をかけられたフィリクスはアーサーの部下たちに「面倒をかける」と詫びた。
「ブロスに戻って裁きを受けるよ」
「それがいいでしょう。トリエで裁かれるよりも」
二人がフィリクスを連れて行くのを、村人たちが心配そうに見つめていた。
「ラグナルがいなくなったら、力仕事をしてくれる若者がいなくなるねぇ」
「まさかヘレナもいなくなるのかね」
(ダニエラはここで穏やかに暮らしてたんだな)
いつかダニエラが「誰も自分を知らない場所に行ってみたい」と言っていたことを、ノアは思いだす。
(こいつをブロスに連れて帰るのが、果たして幸せなことなのか…?)
ダニエラは考え込んでいるノアに、おずおずと「ここを去る前に、家の中の片付けと、近くに住んでいる老婆に食事を届けるだけはしたい」と頼んだ。記憶が戻っていないとはいえ、あまりにダニエラらしい頼みに、ノアは笑って頷く。
「お前、記憶がなくなっても変わらねぇのな」
「ノア様…話し方が」
「そりゃ元盗賊だからな。それに俺はノア様じゃなく、ノアだよ。お前は俺のことノアって呼んでた。せっかく呼び捨てになったのに、また元に戻られたんじゃたまんねぇや」
ダニエラは片付けを終え、老婆や村人に別れを告げた。
夕焼けが海面を金色に染め、寄せては返す波が規則的で穏やかな音を立てている。
「待っていただいてありがとうございました。終わりました」
ノアは、隣に立つダニエラをそっと腕の中に抱き寄せた。
ダニエラは、驚いたように目を見開き、そしてふわりと微笑んだ。
「やっぱりこの匂い…」
彼女は目を閉じて、薔薇の香りを味わう。
「幸せな感情と結びついている匂いです。きっと、私はこの腕の中で、何度も安心していたのですね」
そう呟いて、少しだけ首を傾げてノアを見上げる。
「違いますか?」
ノアは微笑んで、何も言わずに彼女の額に唇を落とした。
「違わないと思う」
記憶がすべて戻らなくてもいい。すべて思い出せなくてもいい。ダニエラの心が、ノアの腕の中で幸せだったことを覚えている。それだけで十分だった。
ふと、ダニエラが崖の下を覗き込んだ。そしてノアを見上げる。
「ここ、とても高いですよね?」
「ああ」
ダニエラは「ふふっ」と笑い、ノアが自分の肩を抱いている右手に、そっと手を重ねた。
「少し安心するでしょう?」
ノアの赤い瞳に、涙が溢れてくる。
「なんで…」
「そんな気がして」
記憶がなくても、彼女は確かにダニエラだ。そして彼らは確かに愛し合っている。
ノアは涙を拭いて、聞いた。
「ブロスに帰りたいか?」
「え…だって、私をブロスに連れ帰るために、ノア様…ノアはここまで来たんじゃありませんか?」
「そうだが…ブロスにはお前を船に乗せて追い出そうとした女がいる。お前にとって嫌な思い出もある。連れて帰りたいが、ブロスに連れて帰るのが本当に幸せなのか、俺には…」
ダニエラは少し考えてから、ふっと微笑んだ。
「帰りたいです」
「本当に?」
「ええ、だって私を待ってくれている人がいるのでしょう?それに…ノアと一緒なら…どこでも…辛いことがあっても、最後には幸せになれると思います」
ノアはダニエラを抱きしめ、ダニエラもノアを抱きしめ返した。
「帰ろう」
「ええ」




