33.二人の夫
押し寄せてくる絶望の中で、ノアは「お前の名前はダニエラ・ヘレナ・ウィローで、俺の妻だ。俺はノアだよ」と説明した。
「やはりお人違いでは?私にはラグナルという、明るくてハンサムな夫がいます。今は漁に出ていて不在ですけれど」
「ラグナルの本名は、フィリクス・ラグナル・ハウザー。あいつはブロス王国のコートウェル公爵で、トリエに駐在してた」
ダニエラは笑いだす。
「変なことをおっしゃるのですね、旦那様。私の夫は日に焼けた漁師ですよ。公爵だなんてそんな」
ノアは思わずダニエラの肩を掴んで揺さぶる。
「頼む!思い出してくれ…頼むから…ダニエラ…」
あまりに必死なノアの姿に、ダニエラは少し気の毒になったのだろう。肩に乗せられたノアの手に、自分の手をぽんと乗せた。
柔らかい感触と温かさに、観覧車の思い出が蘇って、ノアは泣きたくなる。
「奥様がいなくなって、辛い思いをされているのですね。本当に奥様を愛しておられるのですね」
「お前だよ。お前がいなくなって、辛い思いをしてたんだ。本当にお前を愛してる…!」
説得というよりも、もはや祈りに近かった。
「俺だけじゃない。アーサーも、マーサも、ケンドラも、ジャックも、ドーソンも…みんな君を探して、みんなダニエラを待ってる。領民たちもだ。ブロスでダニエラを待っている人がたくさんいる。お前が帰るべき場所があるんだ」
けれどダニエラは、困ったように笑顔を浮かべて、「ごめんなさい」と頭を下げた。
「ヘレナ?」
そうすっとぼけた声がして、ノアが振り返ると、フィリクスが立っていた。
「ご立派な貴族の旦那様、うちのようなあばら家に何のご用でしょうか?」
フィリクスは毒気のない笑顔を浮かべる。
(こいつ…!)
「お前な…!」
「おやめください、貴族の旦那様!うちの人に何をするんですか!」
ノアがフィリクスにつかみかかろうとするのを、ダニエラが後ろから抱き止めた。
その瞬間、ノアから薔薇の香りがした。
ダニエラの記憶の奥がくすぐられる。
「この…香り…」
ダニエラの言葉に、ノアは振り返った。ダニエラの頬を手で包む。
「…思い出したのか?」
ノアはポケットから薔薇の絵がついた香水の瓶を出して、ダニエラに差し出した。
「これだよ、覚えてるか?花祭りでお前が行商人から買ったんだ。安物だけど…あれからもうずっとこれしか使ってない」
「あ…」
ダニエラがそっと瓶に手を伸ばしたとき、フィリクスが瓶を払い落した。瓶は崖から海に転がり落ちる。
「ラグナル…どうして?」
「だめだヘレナ…君は俺だけのヘレナだ…」
ダニエラはまだ、記憶を取り戻してはいなかった。
けれどフィリクスの言葉と表情、そして瓶を払いのけた仕草は、「ヘレナの知る明るくて楽しいラグナル」のそれではなかった。
(この人は、私に何かを隠している)
そう感じたダニエラは、賭けに出た。
「フィリクス…様…?」
フィリクスの目に、絶望が宿った。フィリクスは手で顔を覆う。
「ああ、ダニー…思い出したのか」
岬に打ち付ける波の音に交じって、フィリクスがすすり泣く声が響く。
「思い出してはいません。でも…ノア様とフィリクス様、どちらが嘘をついているかはわかりました」
「…嫌だ…嫌だ嫌だ…」
フィリクスは腰に下げていた網さし用のスパイキを、ダニエラに振りかざした。
「一緒に死んでくれ、ダニー。ずっと一緒にいられるように」
「やめろ!」
ノアがフィリクスの腕を押さえる。
「死ぬならひとりで死ねよ」
フィリクスはすがるようにダニエラを見る。
「ダニー、愛してるんだ…」
ダニエラは言った。
「フィリクス様、私、ダニーと呼ばれるのは嫌いです。たぶん、昔からずっと」
フィリクスはその場に崩れ落ちた。すすり泣いて、顔を上げてノアに頼む。
「ひとりで死ぬ勇気がないんだ…どうか…殺してくれないか」
ノアは腰にさした剣を握ったが、手を離した。
「ダニエラは、血なまぐさいことは嫌いだろ。彼女に血を見せたくない」
「はは…ああ、そうか…ダニーは…ダニエラは優しいからな。俺が彼女を守ろうとして人を傷つけるたびに、怖がっていたよ」
フィリクスはダニエラを見た。涙に濡れた、優しい青い目だった。
「だから俺は君に選ばれないんだ。本当に愛してるのに…君がないとだめなのに…」




