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33/34

33.二人の夫

押し寄せてくる絶望の中で、ノアは「お前の名前はダニエラ・ヘレナ・ウィローで、俺の妻だ。俺はノアだよ」と説明した。


「やはりお人違いでは?私にはラグナルという、明るくてハンサムな夫がいます。今は漁に出ていて不在ですけれど」

「ラグナルの本名は、フィリクス・ラグナル・ハウザー。あいつはブロス王国のコートウェル公爵で、トリエに駐在してた」


ダニエラは笑いだす。


「変なことをおっしゃるのですね、旦那様。私の夫は日に焼けた漁師ですよ。公爵だなんてそんな」


ノアは思わずダニエラの肩を掴んで揺さぶる。


「頼む!思い出してくれ…頼むから…ダニエラ…」


あまりに必死なノアの姿に、ダニエラは少し気の毒になったのだろう。肩に乗せられたノアの手に、自分の手をぽんと乗せた。


柔らかい感触と温かさに、観覧車の思い出が蘇って、ノアは泣きたくなる。


「奥様がいなくなって、辛い思いをされているのですね。本当に奥様を愛しておられるのですね」

「お前だよ。お前がいなくなって、辛い思いをしてたんだ。本当にお前を愛してる…!」


説得というよりも、もはや祈りに近かった。


「俺だけじゃない。アーサーも、マーサも、ケンドラも、ジャックも、ドーソンも…みんな君を探して、みんなダニエラを待ってる。領民たちもだ。ブロスでダニエラを待っている人がたくさんいる。お前が帰るべき場所があるんだ」


けれどダニエラは、困ったように笑顔を浮かべて、「ごめんなさい」と頭を下げた。


「ヘレナ?」


そうすっとぼけた声がして、ノアが振り返ると、フィリクスが立っていた。


「ご立派な貴族の旦那様、うちのようなあばら家に何のご用でしょうか?」


フィリクスは毒気のない笑顔を浮かべる。


(こいつ…!)


「お前な…!」

「おやめください、貴族の旦那様!うちの人に何をするんですか!」


ノアがフィリクスにつかみかかろうとするのを、ダニエラが後ろから抱き止めた。


その瞬間、ノアから薔薇の香りがした。


ダニエラの記憶の奥がくすぐられる。


「この…香り…」


ダニエラの言葉に、ノアは振り返った。ダニエラの頬を手で包む。


「…思い出したのか?」


ノアはポケットから薔薇の絵がついた香水の瓶を出して、ダニエラに差し出した。


「これだよ、覚えてるか?花祭りでお前が行商人から買ったんだ。安物だけど…あれからもうずっとこれしか使ってない」

「あ…」


ダニエラがそっと瓶に手を伸ばしたとき、フィリクスが瓶を払い落した。瓶は崖から海に転がり落ちる。


「ラグナル…どうして?」

「だめだヘレナ…君は俺だけのヘレナだ…」


ダニエラはまだ、記憶を取り戻してはいなかった。


けれどフィリクスの言葉と表情、そして瓶を払いのけた仕草は、「ヘレナの知る明るくて楽しいラグナル」のそれではなかった。


(この人は、私に何かを隠している)


そう感じたダニエラは、賭けに出た。


「フィリクス…様…?」


フィリクスの目に、絶望が宿った。フィリクスは手で顔を覆う。


「ああ、ダニー…思い出したのか」


岬に打ち付ける波の音に交じって、フィリクスがすすり泣く声が響く。


「思い出してはいません。でも…ノア様とフィリクス様、どちらが嘘をついているかはわかりました」

「…嫌だ…嫌だ嫌だ…」


フィリクスは腰に下げていた網さし用のスパイキを、ダニエラに振りかざした。


「一緒に死んでくれ、ダニー。ずっと一緒にいられるように」

「やめろ!」


ノアがフィリクスの腕を押さえる。


「死ぬならひとりで死ねよ」


フィリクスはすがるようにダニエラを見る。


「ダニー、愛してるんだ…」


ダニエラは言った。


「フィリクス様、私、ダニーと呼ばれるのは嫌いです。たぶん、昔からずっと」


フィリクスはその場に崩れ落ちた。すすり泣いて、顔を上げてノアに頼む。


「ひとりで死ぬ勇気がないんだ…どうか…殺してくれないか」


ノアは腰にさした剣を握ったが、手を離した。


「ダニエラは、血なまぐさいことは嫌いだろ。彼女に血を見せたくない」

「はは…ああ、そうか…ダニーは…ダニエラは優しいからな。俺が彼女を守ろうとして人を傷つけるたびに、怖がっていたよ」


フィリクスはダニエラを見た。涙に濡れた、優しい青い目だった。


「だから俺は君に選ばれないんだ。本当に愛してるのに…君がないとだめなのに…」

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