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30.鎖が外れるとき

ダニエラは公爵邸の一角に、ローガンが好きだった桜の木を植えた。


「よく木登りしてズボンを破っていたわね。そのたびにつくろうのがどれだけ大変だったか…」


ダニエラは桜に話しかける。そして自分の首にかけたローガンのドッグタグにそっと触れた。


「本当にごめんね。もうあなたのように…行き場を失って戦場を選ぶ子どもが出ないように、姉上は頑張るからね」


そこへ「奥様」と遠慮がちな声がした。


「その…奥様のご両親だという方がお見えなのですが…」


父が、病院から母を連れだし、ふたりで面会に訪れたのだと言う。


応接間の扉を開けると、両親の姿がそこにあった。ボロボロの服を着ながら威圧的な父と、病院着のままで虚空を見つめる母。


(何も変わっていないのね)


ダニエラだけが変わっていた。もう両親を恐れることはない。


ダニエラを見た父がニヤリと笑う。


「いい服を着て…立派になったじゃないか、ダニエラ。まさか公爵夫人になるとはな」

「ローガンが死んだことはお伝えしましたよね?それについては一言もないのですか?」


父は「ふん」と鼻をならした。


「あいつは親不孝もんだ」


ダニエラはカチンとした。


「子どもが親を不幸にしてはいけないのなら、親が子どもを不幸にするのもいけないのでは?ローガンが戦場で死んだ遠因は、お父様でしょう」

「責任逃れするつもりか!お前がちゃんと面倒を見ないからだろ!」


静かな部屋に、父の怒声が響く。護衛たちがピリッとした空気で前に出ようとするのを、ダニエラは「大丈夫よ」と止めた。


今なら父のことがよくわかる。


「怒鳴るしか能のない人だから。自分では手を出さない卑怯者よ。いつも母に私を殴らせて、楽しそうに見ていたわ」


父はブルブルと震える。心に怒りが渦巻きながらも、ダニエラは冷静だった。


「私は責任逃れするつもりはありません。けれど責任を一人で負うつもりもありません。お父様もそうなさってください。いつまでも責任逃れをして、逃げてはいられませんよ」

「お前…!」

「そうやって怒るということは、ご自身でもわかっているのでしょう。ご自身が恥ずかしいことをしている、と。認めてください」


その瞬間、「父親に向かって…!」と父の手が振り上がった。ダニエラに殴りかかろうとした父を、母が咄嗟に止めようと手を伸ばす。


「フィリップ、やめて…っ!」


だが、父はその腕を振り払った。


「邪魔だ!」


痩せた母の身体がよろけ、大理石のテーブルに頭を打ちつけ、崩れるように床に倒れた。


「お母様っ!?」


返事はなかった。血がじわりと床に広がる。


「お医者様とノア様を呼んで!ノア様は王宮にいるはずよ!お母様、お母様!」


父は「俺は悪くない。全部お前のせいだ」とつぶやいて、ダニエラを見る。ダニエラは何も言わなかった。ただ真っすぐに父を見ていた。


いつかノアが言ったことを思い出す。


「目の前にいる親を、人として見ろ。軽蔑したっていい。自分の親を軽蔑するのは辛いが、そうしないと前に進めないこともある」


(ようやくわかったわ、ノア。私は心からお父様を軽蔑する)


ノアが駆けつけたとき、もうエイメリーは事切れていた。


ノアは「だめだ」と首を振り、「俺じゃない」と言い続けるフィリップを睨みつけた。


「こいつはどうする?殺すか?お前が殺りたくないなら、俺が喜んで殺してやる」


ダニエラは笑って首を振り、ノアの腕に手を添えた。ノアの手は怒りで震えている。


(こんなに怒っているのに、この人は私を優先してくれるんだわ)


「殺すまでもありません。この人は、自分で自分の人生を壊しますから。ただこの屋敷と公爵領に近づいたら殺すように、使用人と公爵領の私兵たちには伝えておきます」


「お父様、わかりましたね?」とダニエラとノアに冷たく睨まれ、父は何も言えず、逃げるように去っていった。


数日後、ダニエラは領内に事実を発表した。ダニエラの父が家族を見捨てて放蕩した挙句、公爵邸でダニエラに襲いかかったことを。


今後父は王都の住人やプレンティス公爵領の領民たちから軽蔑され、「公爵夫人の父」を名乗っても、いかなる恩恵も受けられないだろう。


ダニエラの父は安い酒場で飲んだくれ、料金を踏み倒して追い出されたところを、通行人とトラブルになって刺されて死んだ。


(お父様にふさわしい死だわ)


ーーー

ダニエラは桜の木の隣に、オリーブの木を植えた。昔母がまだ元気だったころ、ダウンハウスの小さな中庭に生えていたオリーブの木で、冠を作ってくれたことがあったのだ。


「お母様は、私を助けようとして死にました」


オリーブを見ながらふと漏らしたダニエラに、ノアが言った。彼女の肩をそっと抱きながら。


「お母様も…お父様と結婚して辛かったと思うんです」

「そうかもな。でもお前を長く苦しめてきたのも事実だ。自分が辛かったら子どもを虐待してもいいってことにはならないだろ?」


その言葉に、ダニエラの瞳が潤み、声が震えた。


「わかっています。だけど最後に守ろうとしてくれたのは、やっぱり嬉しくて。それでも…許せない気持ちもあって」

「感情がぐちゃぐちゃになってんのか?」

「ええ。整理できるまで時間がかかるでしょう」


ノアはダニエラの額にキスをする。


「大事な時に一緒にいられなかったこと、ごめんな。俺が一緒にいたら…」

「いいんです、ノア。私は…離れていてもノアが守っていてくれる気がしているんです。だから二人の前でも強くいられました。これからもきっとそうでしょう」


ダニエラは泣いていたが、瞳は前を見据えていた。

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