29.アーサーの失恋
ノアが歯噛みしたとき、アーサーが「遅れてすまない。資料を用意するのに時間がかかって」と謝りながら、席に着いた。国務会議では何も発言しない国王が「遅いぞ」とだけ言った。
「申し訳ございません、陛下。ところで今は何の議題かな?」
高位貴族たちがニヤニヤしながらアーサーに伝える。
「プレンティス公爵閣下が、少年兵が戦闘に出ていることを問題視されているのです」
「従者としての扱いが主で、戦闘に出るのは稀ですのに、それほど問題視することですかな」
「どうも閣下の感覚は我々と違うようでして」
アーサーは頷いた。
「プレンティス公爵が、少年が戦闘に出ることには反対する理由を聞こう」
ノアは「若者の命が奪われることで国力が弱まること」「そもそも貧しい若者が軍に流れるのは、十分な教育を受けられないせい。若者が教育を受けないことで、犯罪率の増加や失業率の上昇と言った問題が起きていること」を理路整然と説明した。
(ダニエラの受け売りだが…列国と比較したデータも用意したからケチのつけようがねぇだろ)
貴族たちはしばし言葉を失ったが、誰かが「信じられませんな」と言ったとたん、その言葉に群がった。
「その通りです。この資料が正しいという証拠は?」
「そもそも庶民が教育を受けたところで、我々選ばれし者のように考えることができるようになるか疑わしい」
ノアが青筋を立てたところに、アーサーが落ち着いた声で割り込んだ。
「私も事前にプレンティス公爵の資料に目を通したが、数字はすべて本物だ。識字率を向上させているフロリンなどに比べて、ブロスは犯罪率も失業率も高い」
「し、しかし…」
貴族たちは顔を見合わせる。
「だが私は、皆の事情もわかっているつもりだ」
「さすが嫡流の王太子殿下…!」アーサーは微笑んだ。
貴族たちはほっと顔を見合わせた。アーサーが侍従に合図する。
「正論を突きつけられても、手放したくない既得権益があるだろう。そこで私からは、皆が進んで協力したくなるように、プレゼントを準備した」
各貴族にはそれぞれ名前入りの資料が配られた。
「各人に合わせたオーダーメイドの資料だから、他の人には見られないように確認してくれ」
配布された資料を確認した貴族たちは、顔色を変えた。せき込む者、顔面蒼白になる者、反対に真っ赤になる者…
アーサーは満足げに会議参加者の反応を確認してから、落ち着いた声で言った。
「私はプレンティス公爵と協力して少年兵の雇用を禁止する法案を作成したいと思っている。皆賛成してくれるね?」
「もちろんです」と小さな声が聞こえたのを皮切りに、貴族たちは皆、小さく頷いた。
「よかった。ではその資料は、皆の好きにしてくれ、処分してくれても構わないし、家で大切に保管するのもいいだろう。ただし、私が写しを持っていることは忘れないでくれ」
そのころダニエラは、国務会議が終わるのを、王太子妃になったシャルロットとお茶をしながら、ジリジリと待っていた。美しい庭園の花々も目に入らない。
「あ、アーサー!」とシャルロットが無邪気に声を上げる。ダニエラもさっと振り返った。きっちりと挨拶をしてから聞く。
「王太子殿下、会議は…」
「上首尾に終わった。君がよく練られた法案の骨子を作ってくれたから、審議も早く終わるだろう」
「それはようございました」
「兄上はまだ会議室にいるよ。ラデアール伯爵が、資料を見て過呼吸を起こしたのでね」
「そうですか」
ダニエラとアーサーは、目だけで会話する。
正攻法では潰されると踏んだダニエラとノアは、法案に反対しそうな高位貴族たちの弱みを探った。プレンティス公爵領で暮らしている元盗賊たちに、彼らの屋敷に忍び込んで、「不正」「スキャンダル」など弱みになりそうなものを探るように依頼したのあだ。
ノア自身も「腕がなる」と言いながら、国防大臣と外務大臣の屋敷に忍び込んだ。
ただ警固が堅くて危険な屋敷もあったので、そこはアーサーに協力を願い、王宮の諜報部に動いてもらったのだ。
(王太子殿下の好意を利用するようで気が進まなかったけれど…ブロスのためになるといって快く協力してくださってよかったわ)
アーサーはふっと笑った。
「ローガンのことは私も責任を感じている。本当に残念だが…今後は彼のような若者が出ないように全力を尽くすと約束する」
アーサーの言葉には、いつものように優しさがにじんでいた。
「ダニーが国政のために力を発揮してくれて、本当に嬉しいよ。お見舞いに行ったときはどうなることかと思ったが…」
(今ならわかる。本当に優しくて強い方だわ、殿下は…)
ダニエラは深々と頭を下げる。
「王太子殿下、本当にありがとうございます」
「改まってどうした?」
アーサーが首を傾げると、ダニエラははっきりとした声で言った。
「私があの状態から変わろうと思えたのは、王太子殿下のおかげです。殿下のお言葉がなければ、きっと私は、今でも夫に本心を打ち明けることなく過ごしていたでしょう。殿下のおかげで、自分の殻を破れたような気がするのです」
アーサーは、目を見開いたあと、そっと目を伏せた。
「そう言ってもらえると、嬉しいよ」
彼の声は穏やかで、けれどどこか哀しみの滲む音色だった。
「君は変わったんだね」
「ええ」
アーサーは、淡く儚い希望が散ったのを感じた。ダニエラからの感謝の言葉は、別れの言葉でもあった。
ノアがダニエラを迎えに来て、二人が幸せそうに腕を組むのを、アーサーはじっと見守る。
そして、シャルロットはそんなアーサーをじっと見つけていた。




