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20.煮えたぎる愛

その日、フィリクスは競馬が終わると「明日は朝早くから本邸で催しがあるから」と、ダニエラと別れて本邸へ帰宅した。


フィリクスと離れて、ダニエラは心底ほっとする。


(さすがに2週間連続でフィリクス様がここに泊まると、身体がもたないわ…)


しかし屋敷に戻って倒れ込もうとすると、そこには思いがけない客人がいた。


ゆったりと応接間の椅子に座るその女性は、上品な絹のドレスに身を包んだ貴婦人だった。


「ユージェニー様…」


彼女はコートウェル公爵夫人、ユージェニー・ハウザー。フィリクスの本妻だ。


歴史の長い名門伯爵家の出身で、ダニエラとは貴族学園時代のクラスメイトでもある。


ダニエラがユージェニーに勉強を教えたこともあったし、ユージェニーがダニエラに音楽を指導してくれたこともある。そしてダニエラが退学した後に「残念だ」という真心のこもった手紙をくれた相手でもあった。


「いいクラスメイトだった」と言っていい。


ダニエラはゆっくりと深く礼をした。最上級の敬意と、「あなたの生活に波風を立てて申し訳ない」という気持ちが伝わるように。


「ダニエラ・オールデンが、公爵夫人にご挨拶申し上げます」

「そんなにかしこまらないでください、ダニエラ様。本当にお久しぶりね」

「はい」


ダニエラは「お元気そうで何よりです」くらいの言葉は添えたかったが、自分が彼女の生活や体調に何か言える立場ではないことはわかっていた。


名門伯爵家から王室に連なる公爵家に嫁ぎ、経済的にも社会的にも何不自由ない生活を送っているのだろう彼女を悩ませているものがあるとしたら、それは夫の愛人である自分だからだ。


ダニエラは「母親が自分を夫の愛人だと勘違いして向けてきた敵意」を思い出し、覚悟する。


だがユージェニーが見せたのは、意外な態度だった。


「ダニエラ様、随分痩せたみたいだわ。大丈夫ですか?フィリクス様があなたに無理をさせているんじゃなくて?」

「…お気遣いに感謝いたします」


(どうして?ユージェニー様はどうして私に敵意を向けないの?)


ダニエラが不思議そうな顔をしていたのだろう、ユージェニーは「ふっ」と笑って、口元を扇子で隠した。


「私、夫のことは全然好きじゃありませんの。だからあなたに嫉妬はしていないわ」

「え…」

「むしろ離婚して、前の婚約者…ウィンストン様と結婚したいのよ」


ダニエラは、貴族学園時代にユージェニーがウィンストン・ブルークスと婚約していたことを思いだす。


おおかた、フィリクスが急遽跡継ぎに決まって慌てたコートウェル公爵家が、フィリクスに釣り合う家柄と年齢の娘としてユージェニーに目をつけ、彼女の生家とブルークス家に頼み込み、ユージェニーとウィンストンの婚約を解消させて、フィリクスと結婚させたのだろう。


「フィリクス様が貴族学園時代のような、多少甘えたところがあっても素直で明るい方のままだったらよかったのだけど…結婚して公爵位を継いでからの彼は、以前とは人が変わってしまったの。どこか怖いわ」


ダニエラ様にも、その感覚はよくわかった。


ユージェニーはぽんとセンスを畳む。


「だからダニエラ様に協力してほしいの。私がフィリクス様と離婚できるように」

「具体的に、どうやってでしょうか」

「フィリクス様はダニエラ様を何より大切にしているわ。だから私がダニエラ様をいじめているふりをしたら、彼は私を追い出したくなるんじゃないかしら」

「いけません!」


ダニエラは大声をあげた。


「そんなことをしたら…恐ろしいことになります」


ダニエラは「貴婦人が口を縫われた事件」の被害者が、劇場で自分に絡んできた相手であり、フィリクスが報復を匂わせたことを教えた。ユージェニーの顔色が変わる。


ユージェニーは思わずガタリと立ち上がった。テーブルが揺れてカップが倒れ、ダニエラのドレスに紅茶がかかる。


「ごめんなさい…でも、今日はこれで失礼するわ」

「ええ、そうなさってください。ご協力できずに申し訳ございません。私に関わらないのが、ユージェニー様のためです」


ユージェニーが慌てて立ち去ろうとしたとき、フィリクスが入ってきた。ダニエラとユージェニーは「まずい」と顔を見合わせる。


ダニエラは精一杯笑った。


「フィリクス様、本邸に戻られたのでは?」

「ああ。でも妻がダニーのところに行ったと聞いて、胸騒ぎがしてね。ダニー、僕が贈ったドレスが汚れてるじゃないか。妻にやられたのかい?」


フィリクスの表情は暗く変わり、ダニエラは焦った。


「いいえ、ユージェニー様は何もしていません!」


ダニエラが言い終わるより早く、フィリクスの手が振るわれた。ユージェニーの頬が鳴り、彼女は床に倒れ込む。


「フィリクス様!やめてください!ユージェニー様は私を気遣って訪問してくださったのです」

「そんな人が、君に紅茶をかけるかな?」

「だから誤解です!ユージェニー様は何もしていません!」


フィリクスは側近を指で呼び、「湯がどれだけ熱いか、教えてやれ」と指示した。指示を受けた側近が、怯えるユージェニーを引きずっていく。


ダニエラは叫んだ。


「やめて!やめてください!」

「もう大丈夫だよ、ダニー」


フィリクスはにっこりとほほ笑み、ダニエラはその場に崩れ落ちる。


挿絵(By みてみん)


「フィリクス様、やめてください…何でもしますから…もう人を傷つけるのはやめて…ユージェニー様に何もしないで…」

「無理だよ。僕はさ、ダニーを傷つける者は、誰であれ許せないんだから」


その言葉の重さに、ダニエラは背筋を凍らせ、決意した。


もう誰にも関わらない。話しかけない。ただ静かに、人形のように生きればいい。

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