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2.小さな夢

卒業をニか月後に控えた四月、進路希望調査票が配布された。それは、学園生活の最後を告げる紙片だった。


「やりたいこと…」


白紙の調査票を前に、ダニエラは小さく息を吐いた。


「王宮勤めの侍女」「公務員」「家業の手伝い」「結婚」など、貴族の令嬢たちは、それぞれの「未来」を迷いなく書いてさっさと提出していた。


でも自分には何もなかった。持参金が用意できないから、婚約者もいない。


ダニエラに好意をもっているらしいフィリクスが一度、冗談めかして「僕のお嫁さんになって」と言ってきたが、オールデン男爵家からコートウェル公爵家になど嫁げるはずがない。


(フィリクス様は三男とは言え、王太子殿下の従弟だもの。冗談にもならないわ)


ただ生きるために必死で、家族みんなが生きて今日を無事に終えること、それだけが目標だった。


だから進路を尋ねられても、答えようがない。


「ダニエラ・オールデン、ちょっといいかな?」


いつまでも調査票を提出しないダニエラに廊下で声をかけてきたのは、担任教師だった。


「進路調査票のことだが」

「先生、提出が遅れていて誠に申し訳ございません」

「進路に悩むことでも?君の成績ならどこでも引く手あまただろうから、選択肢が多すぎて悩んでいるのかな?それとも婚約がまとまりそうなのか?」

「ええと…それが…」


ダニエラは少し逡巡してから「嘘をついたり隠したりしてもしかたがない」と諦めて、「母親が療養中なので通いでできる仕事をしたいが、選択肢が少ない」と最低限のことだけ打ち明けた。


「財務省でも教育省でも、新入職員は寮に入りますので…王宮勤めの侍女も、基本的には王宮内で暮らしますし…」

「そういうことか」

「それで悩んでしまって…期限ギリギリになってしまい、申し訳なく思っています」


担任教師は少し考えた。


「例えばこういうのはどうかな。シャルロット王女殿下…未来の王太子妃殿下の侍女になるんだ」

「でも侍女は…」

「もちろん通いでは難しい。ただ王族に仕えるなら十分に給金は出る。給金で母上を病院に入れたり、専属の看護師を雇ったりできれば、家を離れても憂いなく働けるだろう。最近では働き方改革で、休日も比較的多くいただけると聞いているよ。王宮勤めなら転勤もないし」


シャルロットの侍女。考えなかったわけではない。貴族学園を優秀な成績で卒業した女子生徒にとっては、きわめて現実的な選択肢だ。


(でも通いではできないからと諦めていたわ。そうだ、私の代わりにお母様を見てくれる人を雇えばいいのよ。そして私は時折様子を見に行けばいい)


胸の奥に、かすかに灯った小さな明かり。


(王宮勤めになれば、正々堂々とあの家を離れることもできる。お母様から離れられるんだわ)


パッと表情が明るくなったダニエラを見て、担任教師は微笑んだ。


「君の成績であれば、学園から王宮に推薦できるよ」

「先生、ありがとうございます」


ダニエラはずっと書けずに持っていた進路調査票に流麗な文字で「王宮の侍女」と書き込んで提出し、担任は満足げにうなずいた。


ーーー


「ねえ、ダニー。卒業したら私の侍女になってくれるのよね?」


生徒会室でダニエラが淹れたピーチティーをおいしそうに飲んでいたシャルロットは、無邪気に、しかし真剣な表情でそう言った。


「希望は出しましたが、通るかどうかは…」

「通るに決まっているじゃない。あなたは貴族学園の三年生女子で誰よりも優秀よ。お茶もあなたが淹れてくれるものが一番おいしいわ。ずっと私のそばにいてほしいの」

「王女殿下、本当によろしいのですか」

「もちろん!あなたになら政策立案のサポートも頼めるもの。アーサーもあなたのことを認めているしね」


シャルロットはにっこりとほほ笑む。頭の後ろから光が差し、シャルロットが女神のように見えた。


「光栄でございます、女神様…」

「あはっ、女神様ってなに?」

「失礼いたしました、王女殿下」

「ダニーったらおかしいのね。じゃ、侍女になってくれるということでいいのね?」

「もちろんです」

「よかった。じゃあアーサーにも伝えておくわ。卒業したら私の侍女になってね。約束よ」


未来の王妃が、自分を必要としてくれて、侍女になるよう後押ししてくれた。それはまさしく、未来への切符だった。


ほんの少しでも、未来に希望を抱いてもいいのかもしれない。そんな気持ちが、ダニエラの胸の奥で静かに芽吹いた。


フィリクスが「王女殿下の侍女をしばらくやったら、僕と結婚して、侍女は辞めてね」と会話に入ってきた。


シャルロットが頬を膨らませてフィリクスを制止する。こういうときのシャルロットは、いかにも天真爛漫なプリンセスと言った風情だ。


「だめよ。ダニーにはずっと私といてもらうの。それにダニーの結婚相手は私が見つけてあげるんだから。フィリクスよりももっと優秀でいい男をね。フロリン貴族を紹介することもできるし」


フィリクスはわざと生意気な表情を浮かべる。


「僕だってそれなりにいい男ですよ、王女殿下」

「ふん…確かに最近ちょっと頑張っているようだけれど。あなた、三男坊で出世するあてがあって?」


フィリクスは胸を張った。


「ええ、ダニーがアドバイスしてくれたんです。僕は人の懐に入る力があるから、外交官になるのはどうかって」

「あなたが外交官ですって?」

「ええ」


フィリクスは「そうでしょ?」というように、ダニエラにウインクした。


「自分でも意外と向いてると思うんです。だから卒業後はまず騎士団に入ってて手柄を立てて、特別待遇で外務省に入るつもりですよ。僕は将来の外務大臣かもしれませんね」

「素晴らしいサクセスストーリーだけれど、そんなにうまくいくかしらね」


楽しそうに茶々を入れ合う二人を見ながら、ダニエラは新しい希望に胸を躍らせていた。ほんの少し、世界が色鮮やかになった気がした。

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