19.それぞれの戦い
陽光が照りつける昼下がり、闘技場は熱狂に包まれていた。観客席を埋め尽くす群衆が、地響きのような歓声を上げる。
その中央。鉄の扉が開き、剣闘士の群れが現れた。その中にノアの姿があった。
「ノーア!ノーア!」と観客が叫ぶ。
フィリクスは自分でノアを殺さない代わりに、ノアを奴隷に落として闘技場の戦士にした。自分が殺さなくても、猛獣やほかの剣闘士がノアを殺してくれると踏んだのだろう。
しかしノアはフィリクスの思惑とは裏腹に、連戦連勝で生き抜き、人気剣闘士のひとりになっていた。奴隷の印を刻まれ、粗末な鎧を身に着け、右手には古い剣を握って。
ただ生き抜いて、もう一度愛する人に会うためだけに戦っていた。
「始め!」
号令とともに、戦いが始まる。鉄と鉄がぶつかり、血が砂に滲んでいく。ノアは無心に剣を振るった。生きてダニエラに会うために。ただそれだけのために。
(生きてさえいれば、また会える。俺はそう思うんだ、ダニエラ)
一方ダニエラは、豪華な屋敷で暮らしていた。コートウェル公爵フィリクスの愛人として。
そして流行の劇場やカフェや競馬場など、かつて貴族学園に通っていた時には近づけなかった場所に、フィリクスとともに頻繁に顔を出すようになっていた。
フィリクスは「社交は情報収集の基本」と言い、積極的に周りの貴族に話しかける。その隣でダニエラはできるだけ息を潜めていた。
周囲からは「盗賊の愛人」「売女」「狂った女の娘」と囁かれ、彼女の存在は貴族社会の嘲笑の的となっているから、できるだけ噂の的になる行動を減らすためだ。
(気にしないようにしても、どうやりすごそうとしても、傷つくから)
その日もダニエラは、劇場のボックス席で息を潜めるように座っていた。するとフィリクスのいない時間を狙ったのだろう、二人の貴婦人が「ごめんあそばせ」とボックス席に入ってきた。
「あなたがダニエラさん?」
「はい」
「あなた、どういう神経してらっしゃるの?フィリクス様の奥様に申し訳ないとは思わなくて?」
「…」
黙り込んだダニエラを、二人は鼻で笑った。
「野盗の愛人は、貴族の言葉もわからないようね」
「口がきけないのかしら」
(言い返さない。やり過ごすだけよ。永遠には続かないのだから)
そのときフィリクスが帰ってきた。
「ダニー、お友達?」
「…」
答えないダニエラを見て、フィリクスは二人の貴婦人に笑顔を向けた。
「愛しい人と二人で過ごしたいので、申し訳ありませんが退出していただけますか?」
「え、ええ…お邪魔いたしました」
フィリクスはダニエラの手を撫でながら、優しく聞く。
「何か言われた?された?」
「…いいえ」
「ダニーは嘘が下手だね。それとも、僕がダニーの嘘を見抜くのが上手いのかな?」
フィリクスは側近を呼んで「さっきのご婦人たちに...口のきき方を知らない人がどうなるか教えてあげて」と指示した。
「フィリクス様、何を…?私は本当に何も…」
「大丈夫。ちょっと痛い目を見せるだけだから。僕の愛しいダニーに悪いことをする人は、懲らしめないとね。見せしめにすれば、ダニーのことをあれこれ言う人も減るだろ?」
「乱暴なことは止めてください」
「ダニーは優しいね」
フィリクスはそう言って、ダニエラにキスをした。
「大丈夫だよ」
翌朝の新聞に、二人の貴婦人が生きながら唇を縫い合わされたという記事が載り、ダニエラは吐き気を催した。
「奥様、お召し上がりにならないのですか?」
ダニエラの屋敷で仕えているメイドが、心配そうに聞く。
「ごめんなさい、食欲がありません」
メイドがそっとスープの皿を下げる。その晩、料理人が解雇された。
「ダニエラ様が食べなかったから、らしいわよ。フィリクス様が激怒されたんだって」
使用人たちがそうヒソヒソと話すのが聞こえて、ダニエラは震えた。
翌朝、ダニエラは無理やり手と口を動かした。スプーンを持つ手が震える。周囲の視線を感じながら、口元まで運んで、飲み込む。味はしなかった。
「おいしいです。とても」
使用人の間にほっとした空気が生まれたのをみて、ダニエラは「これでいいのだ」と思った。
ダニエラはフィリクスが贈ってくるものは拒まずに身につけ、使い、フィリクスが求めるならいつでも一緒に外出し、夜をともに過ごした。
ただただ、自分のせいで罪のない人が理不尽な扱いを受けないように。
(もし…もしフィリクス様がお母様のことを…私がお母様から受けた仕打ちを知ったら…)
フィリクスからもらう多額の小遣いで病院に入れた母のことを思い出し、ダニエラは身震いした。
「考えてはダメ」