10.ここではないどこかへ
フィリクスのプロポーズから1週間後、ダニエラは牢のキッチンで淡々と料理を作っていた。手は動いているのに、心はどこにもなかった。
(結局…どこにも行けなかった)
プロポーズの数日後、ダニエラが住むあばら家の前に、コートウェル公爵家の馬車がとまった。馬車から下りてきたフィリクスの表情は暗かった。
「兄上たちが戦死したんだ…二人とも」
「え…」
「だから僕が、コートウェル公爵家を継ぐことになった」
ダニエラは言葉の意味をすぐに理解した。王室に連なる公爵家の跡取りが、平民を妻にすることなど考えられない。
「…ごめん、ダニー」
どれだけ悲しみと謝罪の気持ちがこもっていても、その一言はダニエラを突き落とすには十分だった。
「フィリクス様が謝ることではありません」
「あの…準備ができたら…落ち着いたら…迎えに来るから。どうしても…公爵邸には迎え入れられないんだけど」
(ああ…愛人として迎えてやるってことね。愛人にされて、私が喜ぶとでも思っているのかしら)
ダニエラはほんの少し口元だけを動かして笑顔を浮かべ、フィリクスを見送ってからその場にしゃがみこんだのだった。
(誰も悪くない。ただ、幸運がほんの少し足りなかっただけ。タイミングがほんの少し遅かっただけ)
「おい」
我に返って振り返ると、キッチンの入り口にノアが立っていた。赤い瞳が、暗がりの中で獣のように光って見える。
「ノアさん…独房から出ていいんですか」
「模範囚だからな」
ノアは厨房に入ってくると、無造作に壁に背を預けた。
「結婚するんじゃなかったのか」
ダニエラは一瞬だけ言葉に詰まったが、ふっと笑った。
「フィリクス様のお兄様たち…コートウェル公爵家のアルバート様とコーネリアス様がお亡くなりになって、フィリクス様が公爵位を継ぐことになったので」
「それでなんでお前へのプロポーズがなかったことになる?」
「公爵家の跡継ぎが、牢勤めの平民と結婚するなんてあり得ませんから」
「納得してんのか?」
「納得するもしないも、それが現実です」
「なんでそんなに簡単に、飲み込める?」
ノアの声には、かすかな苛立ちがあった。彼女がすんなりと過酷な運命を受け入れてしまうことが、痛々しかった。
ダニエラは苛立つノアを落ち着かせるように微笑んだ。
「飲み込まないと生きていけませんから」
今目の前にある痛々しい笑顔と、いつか庭で見せた柔らかな笑顔はあまりにも違う。
(くそ、なんでこんなに俺がイラつくんだよ)
ノアはダニエラに詰め寄った。
「無理して笑うなって!」
そのとき…
「おい!牢内に不審者が侵入した!」
遠くからドーソンの怒鳴り声が響いた。ノアの表情が一変する。
「まさか、今かよ…!おい、早くここから出ろ」
「えっ?出る、と言われましても…」
次の瞬間、数人が厨房に雪崩れ込んできた。
「ノア、無事か!?すぐ逃げるぞ!」
ノアの仲間の、盗賊団。ノアを救うために、牢に侵入してきたのだ。
「こいつは誰だ?」
一人の男が、ダニエラに目を留めて、剣に手をかける。
「牢屋の職員か?」
「待て、こいつは関係ない」
「ノアは甘すぎるんだよ。お上側の人間は殺しとかないと」
ダニエラに向かって刃が振り下ろされる。
「…っ!」
ダニエラは目をつぶったが、足は動かなかった。
(ここで死ぬなら、それでいい)
だが痛みは来なかった。
ゆっくりと開けた目の前には、自分をかばうように立つノアがいた。
「こいつはアジトに連れて行く。文句ある奴は、俺とやれ」
赤い瞳が燃えるように光り、その場にいる誰も、彼の言葉に逆らえなかった。
「行くぞ」
「…え?行くって…あの…!」
ダニエラはノアにおぶられ、ただされるがままにノアの背にしがみついていた。熱を帯びた体温が、震える指先に染みてくる。
「あの…どこへ行くんですか?」
「俺たちのアジトだよ。森の中にある」
(これから…どうなるの?)
ダニエラは思いもよらないかたちで、「ここではないどこか」へと踏み出した。