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1.普通のふり

よく磨かれた古い窓から、朝の光が差し込む。


男爵令嬢のダニエラは手早く顔を洗って着替え、掃除と洗濯を終わらせ、朝食をトレーに乗せ、母親の部屋のドアをそっとノックする。


「お母さま、朝ご飯とお薬です」


できるだけ穏やかに声をかけながら、スプーンを手に、ベッドの上で丸まっている母に近づく。


その瞬間。


「また毒を盛る気!?」


いつものようにスプーンが振り払われた。けれどダニエラは顔色ひとつ変えない。


「これはお薬です、お母様」

「嘘つき!悪魔!泥棒猫!あんたがフィリップと一緒になるために、私を消したいんでしょう!」

「私はお母様とお父様の娘です。お父様と結婚できるわけありません」

「嘘つくな、お前は泥棒猫だ…」


エイメリーの目は血走り、焦点の合わないまま虚空を睨みつけている。


ダニエラと同じ茶色の髪は乱れ、寝巻のまま、かすれた声で独り言をつぶやいていたかと思えば、突然泣き出し、怒鳴り、笑い出す。かつて「社交界の花」と謳われた面影は、どこにもない。


まるで心がいくつにも裂けてしまったかのようだった。


それでも、ダニエラは穏やかに母親に微笑みかける。そして小さく口の中でつぶやく。


「大丈夫」


この言葉を、何度自分に言い聞かせてきただろう。そうしなければ、自分まで壊れてしまいそうだった。


台所には、冷えたパンとわずかな果物。バターとベーコンは1週間ほど前から切れている。二人いた使用人は、どちらも高齢を理由に「お嬢様、本当に申し訳ございません」と泣きながら謝って辞めてしまった。


(年が…と言っていたけれど、お母様の言動に耐えられなくなったのでしょうね)


何とか薬を飲ませて母の部屋を出ると、弟のローガンはいつも通り身支度を終え、学校に行く服装で廊下の壁際で様子をうかがっていた。姉弟がもっているきれいな服は、学校用の服だけだ。


「姉上、今日は母上の調子…どう?」

「いつも通りよ」

「いつまで母上はああなのかな…昨日の夜もうるさかったし…姉上も眠れていないよね」

「ええ。でもあなたがちゃんと朝ごはんを食べれば、それだけで私は元気が出るわ」

「そんなもの?」

「そうよ。あら、あなたまた背が伸びたのね。ズボンを新調しなくちゃ。丈が変に短いようじゃ、セレナさんの前で格好つけられないでしょ」

「セレナはどんな僕でも愛してくれるさ」

「あら、ごちそうさま。もう私はお腹いっぱい。朝ご飯はいらないわ」


いつもの冗談。けれど、その声にはほんの少し震えがあった。エメラルドのような目の奥に潜む疲労も、隠しきれない。


借金を抱えたまま失踪した父。


心を壊し、日に日に衰えていく母。


そして、まだ15歳の弟。


「普通」でいることが、どれほど難しいことか。それでも、ダニエラは毎朝玄関を出るとき、姿見にうつる自分に微笑みかける。


「今日も一日、完璧な淑女で」


ーーー

挿絵(By みてみん)


貴族学園の門をくぐると、世界は一変する。きらびやかな装い、朗らかな笑い声、完璧に手入れされた芝生と花壇。そこには、家の中での苦労など一切持ち込んではいけなかった。


友人たちのように馬車通学できず、土埃の立つ道を30分かけて歩いて通っていても、だ。


「おはよう、ダニエラ様!」

「ダニエラ様の今日の髪型、とっても素敵!」

「ありがとう。エレノア様のネックレスも可愛いわね」

「マダム・パピヨンの本店限定品よ。お父様がフロリン王国へ出張へ行ったので、わざわざ本店へ寄って買ってきてくださったの」

「…素敵ね」


いつものように、にこやかに、軽やかに。劣等感を突き刺してくる話題にも穏やかに。


「そういえば、ダニエラ様ってフィリクス様とお付き合いしているの?」

「まさか。フィリクス様はコートウェル公爵家のお方よ?」

「でも…マックス様がダニエラ様に告白したあと、フィリクス様がマックス様を注意されたと聞いたわ」

「そうなの?私は何も聞いていないし、フィリクス様が私のことをどうこうなんて、ありえないと思うわ」

「モテるのに無自覚なんだから。ほら、あっちでもこっちでも、男子生徒がダニエラ様のことを見ているわよ」

「勘違いだわ。やめてよ」


興味のない話題にも丁寧に。


彼女は学園内でも成績優秀、マナーも完璧、生徒会にも所属する模範的な令嬢として知られていた。


しかし誰も、彼女が穏やかな表情の裏に隠している苦悩を知らない。ダニエラ自身も、誰にも知られたくなかった。


教室では、100点満点の答案を返却されたダニエラに、称賛の声があがる。


「神から与えられたものが違うんだな」


(そうかもしれない…神様は私にお金も時間も与えなかったのだもの)


そうダニエラは思う。


貴族学園の生徒たちは、学校が終わると王都にある劇場や貴婦人のサロンに出入りして遊ぶのが常だった。夜中まで騒いでいては、勉強に打ち込めるはずなどない。


しかしダニエラには、遊ぶ暇もお金もない。家に帰れば家事や家族の世話が待っているから、むしろ勉強に割ける時間すらない。


だから授業は一言一句聞き漏らさないように聞き、できるかぎり授業時間内ですべてを理解するよう努めてきた。数式や外国語や政治経済の世界に没頭している間は、帰ってこない父のことも、自分に敵意を向ける母のことも、ギリギリの家計のことも忘れられる。


(私には学校で勉強することよりも楽しいことがないし、学校より安全で快適な場所がないの。そんなこと、ここにいる誰も理解できないでしょうね)


授業が終わって生徒会室に向かうと、生徒会長である王太子アーサーの姿が目に入る。黒髪に、赤く鋭い眼差し。ブロス王国ウィロー朝の男子に特有の「癒しの力」は受け継いでいないが、聡明な国王になるだろうと期待されている。


その隣では、フロリン王国の王女・シャルロットが優雅な仕草でピンクブロンドの髪をもてあそびながら、書類にサインをしている。シャルロットはアーサーの婚約者で、幼いころからブロス王室預かりで暮らしている。今はアーサーやダニエラと同じ、高等部の3年生だ。


そしてアーサーの母方の従兄弟でコートウェル公爵家の三男であるフィリクスは、眠そうに肘をついていた。


アーサーが顔をあげて少しだけ嬉しそうな表情をして、すぐ鋭い目に戻った。


「ダニー、ご機嫌よう」


誰が呼び始めたのか、生徒会メンバーはダニエラのことを「ダニー」と呼ぶ。「華奢でいかにも女性らしいダニエラに、男みたいなあだ名が似合わない」と、みんながおもしろがってすっかり定着してしまった。


だからダニエラも「本当はダニーと呼ばれるのは好きじゃない」という本音は言えない。


「未来の王と王妃にご挨拶申し上げます。フィリクス様もご機嫌よう」


ダニエラは静かに頭を下げ、会議の席についた。「何事もない穏やかな日常」を演じるために。

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