拍節行進曲
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
よし、今回も心電図には異状なし、と。
緊張するよねえ、健康診断。何かしら見つかったら、次回以降の問診票でずっと書き続けないといけなくなる。過去は消せない、とはよくいったもんだよ。
僕の場合、病気ではないようなんだけど、過去にスポーツ心臓といわれてね。どうも徐脈の気配があるみたいなんだ。当時のお医者さんには、問題ないと告げられたが、心配なものは心配さ。
それに僕自身の、個人的な経験も関係している。これは医療とは畑違いな、少し奇妙な話なんだけどね。
――ぜひ、その話を聞いてみたい?
はは、つぶらやくんはそういう奴だよなあ。聞きたいことのためなら、ずけずけ踏み込んでくるとことか。
でも、誰かに話すのも気が楽になるかな。君の琴線に触れるといいけど。
僕がスポーツ心臓と診断されてから、少し経った学校で。
その日は学校の大掃除。生徒たちは校舎内のあちらこちらで、手を動かしていた。
僕の担当は音楽室。その準備室に関しては、吹奏楽部員以外、そうそう出入りすることはないだろう。
背の高い男ということもあるのか、何かと力仕事と棚の上のものを取らされる僕。
それ自体は苦にしてなかったさ。けれど、さすがに棚上で二つ重なった段ボールをまとめて取り、ひとつを落としちゃった時には、肝を冷やしたよ。
上に乗っかっていたその段ボールは、非常に軽かった。
大きさこそ抱えるほどあるのに、角っこをへこませながら、床で数回バウンド。それでいて、中身はいささかもこぼれなかったんだ。
僕はすぐ中をあらためる。
何種類もの緩衝材がひしめく、箱の中。最後の発泡スチロールを取り除けてみると、ようやく守られていたものが現れる。
メトロノームだ。
このころ、すでに普及していた電子式ではなく、機械式。
本体から振り子まで、すべてが茶一色。けれど、カバーが脇に外れて転がったことをのぞき、つくりにはおかしなところは見られない。
――いや、見えないところで壊れたりしてないかな?
念のため指示をあおごうと、近くにいるはずの音楽の先生を呼ぶ。
そう、声に出したとたん。
ずきんと、胸に痛みが走った。思わず手でおさえ、目をつむりながら耐えざるをえないほど、強いものが。
駆けつけた先生が、肩に手を乗せてくれるまで、一歩も動けなかったよ。
先生に触れられると、一気に痛みは引いたけど、安心はしていられなかった。目を開けてみると、先ほどまでおとなしくしていたメトロノームが、ゆっくりと左右へ振れ出していたのだから。
「まずいことになったかも」
つぶやいた先生は、メトロノームをそっと手に取る。
同時に、僕の胸の鼓動も跳ね上がったんだ。
先生に恋したとか、茶化せるものじゃない。さっきほど強くないけど、手を胸にやって顔をしかめちゃったよ。
僕の様子を察してか、先生は箱からそっとメトロノームを取り出し、その振れるさまを僕の前まで持ってくる。「なにか、気づくことはない?」と言い添えながら。
僕は左右に振れる重りを見つめつつも、なお胸から手を外せずにいた。けれど、そのおかげで気づくことができたんだ。
メトロノームの振れと、僕自身の心臓の鼓動。これらが完全に対応していたんだよ。
重りが左右どちらかに振れ切ったところで、心臓がひと打ちする。当てている手のひらを、内から破るかと思うほどに、強く。
さりげない人払いののち、先生が教えてくれる。「行進曲が始まってしまった」と。
この世には、人が見ることのできないものがあるように、人が聞くことのできない音も存在する。超音波やモスキート音は、あくまで端的な例に過ぎない。
ときに彼らは音を束ねて曲となり、それに合わせて見えないものは動き、踊っていく。多くの人が感知できるまま、一部始終が終わっていく。
その見えざる曲の拍子をとるのが、このメトロノームなのだとか。
「いえ、厳密にはこのメトロノームのせいじゃない。もともと、これは年季が入っているだけの、ただのメトロノームだった。
それが君の持つ心臓の拍動と重なり、見えざる者たちの拍節をはかる機能を得たのよ。
……私にも、経験があるから分かる」
僕はかたずを飲みながら、先生とその手におさまるメトロノームを交互に見る。胸の脈打ちは依然として、強いまま。
対策を求める僕に、先生からのアドバイスは「安静に過ごすこと」。
「メトロノームの乱れは、君の拍動に乱れを呼ぶ。それが痛みとなって君に表れているはずよ。下手をすれば命にかかわる。そして、逆もしかり。
君の拍動の乱れは、メトロノームの乱れを生む。それは聞こえざる曲の乱れを生み、見えざる者たちの乱れを生む。そしたら、何が起こるか分からない。
こちらから止めるわけにはいかないわ。君の心臓さえも止めかねない。
曲を自然に終わらせる。それが最善の手」
先生の場合は、曲が終わるのに一週間かかったらしい。
でも、それを当てにしない方がいいとも、先生は告げてくる。短く済むかもしれないし、長くなるかもしれない、と。
目の前が真っ暗になりそうだった。
運動に関しては、それがたとえ1500メートル走だろうが、42.195キロのフルマラソンだろうが、やり抜く自信があった。
でも、これは違う。終わりが見えず、延々と走り続けなくちゃいけないシャトルラン。それも、自分の意志で終わらせることを許されないままに。
先生はこのメトロノームを、厳重に保管することを約束。実際、僕の目の前で金庫の中へ入れ、鍵とダイヤルで二重の施錠を行ってくれた。
あとは先生を信じるより、僕からメトロノームにできることはない。
僕の心臓も、大きく揺さぶられ続けた。
落ち着いているときなら、これまでと変わらない。でも、運動をしていない時だとしても、心臓はにわかに拍動を増し、強く痛みを放つことがしばしばあった。
音楽的には、テンポが変わったということだろう。長い時には数時間以上も続き、隠し切れない悶えを、人に心配されたこともある。
病院行きは避けたかった。もし検査されれば不整脈としか思われないだろうし、経過観察だけで済むとは思えない。
手術かペースメーカーか。お医者さんは親切に案内してくれるだろうけど、それが与えられたペースを乱すとか、皮肉に思えて仕方ない。
僕は運動を休ませてもらう以外で、どうにか平穏無事を装いつつ日々を過ごしていく。
先生から話を聞いてより、10日が経つ。
いまだ止まない胸の痛みに、ややうつむき気味に下校しているときだった。
「危ない!」
そう叫んだのは、僕より幼い子供の声。
ふっと顔を見やると、猛烈な勢いでこちらへ飛んでくるバレーボールの球が目に入った。
反射的に僕は、ドッヂボールの要領でボールを受け止めてしまう。息が一瞬、詰まってしまうほどで、骨のきしみもあった。でも、それ以上に、胸の鼓動がにわかに早まったんだ。
片目をつむりながらも、ボールをそっと足元へ落とす僕へ、お礼とお詫びをいいながら子供たちが近づいてくる。
ここは資材置き場の前。停めたままのいくつかの重機をのぞけば、公園を上回るだだっ広い遊び場だ。彼らもそこでボール遊びをしていたらしかった。
他の場所へ移動する子供たちを見送る僕だったけど、そこまでが限界。
――痛い……。
膝をついた。ボールを受け止めたところから、にわかに痛みが強まる。
――痛い……痛い……。
胸の一打ちは、杭の一打ち。手を通して伝わるしびれが、針となって体中を刺して回る。
――痛い……痛い……痛い……。
口の中にもじんわり、鉄のような臭いがにじみ、鼻も詰まり出したとき。
打ち寄せる波の音。ひと呼吸遅れて、頭に降りかかる砂粒の気配。
胸の痛みが、急に引いた。ぱっと目を開いた僕は、いまだ宙を舞う白い砂粒たちを見て取った。
資材置き場の砂だ。置き場の一角に、先ほどまでなかった大きなくぼみができている。そのふちから白い粒が巻き上がっていたんだ。
ざざっと、音を立てて砂たちが舞い降りる。時間にして、数秒と経っていないだろう。
だが、僕は怖気を覚える。
先ほど、ちらりと見ただけだが、あのくぼみができたところ。あそこにはブルドーザーが一台、停まっていたはずなんだ。
その姿が、ない。おそるおそる、くぼみに近づいて中をのぞいてみると、すり鉢状の地形の底に、かろうじて黄色い板が顔をのぞかせている。
おそらく、ブルドーザーの一部だ。埋まってしまったのだろうか?
頭上を見やった僕は、いくつも浮かぶ雲のうち、真上のひとかたまり。その中ほどが、不自然なほど、きれいな円形にくり抜かれ、青空をさらけ出しているのに気づいたんだ。
これが乱れの結果なのかもしれない。
先生に一部始終を報告すると、10日ぶりに金庫が開けられた。
中のメトロノームは止まっている。先生はカバーをし直し、再び厳重に梱包するも、僕には以降、メトロノームに近づくのは避けるよう忠告してくれた。
またいつ、拍動がつながり、トラブルを招くか分からないから、と。