第27話 飢え
「さあ……、こちらも、決着をつけ、ますよ……」
身も心も飢えに蝕まれ、顔を歪めたまま。
それでも彼女は、悪に対峙した。
正義の敵になったのだから、それは逃れられない結末だ。
ここから、どうするか───。
───瓦礫が崩れ落ちる音が、聞こえた。
絶句する俺たちが目を向けた先に、
「はあ、はア……──は、ははは、ハハハハハッ!」
壁に空いた大穴から、がらがらと音を立てて巨漢が姿を現した。
「う、そだろ……」
ロクな防御もできずにあの一撃を受けてなお、耐え切るだけの身体強化とか。
いくらなんでも、デタラメすぎるぞ……。
「やってくれるじゃ、ねェか」
さしもの大男もダメージは免れなかったらしく、ところどころ血に塗れている。
けれど〈剛鬼〉には、代償という縛りがない。
対して、俺たちは既に限界を迎えていた。
蒼白い顔で唇を噛み、浅い呼吸を繰り返すだけのこちらを見て、〈剛鬼〉は嗤う。
「オイオイそんな顔してどうしたァ、お二人さんよォ」
「………ッ」
まだっ、まだ何かできることは……!
みっともなくとも最後まで足掻けば、何か──。
「───ああ」
───無理だ。
できることなんて、何も無い。
「喋る余裕もねえかよ、つまんねェな」
激しく息をしながらも、〈剛鬼〉には口を動かす余裕がある。
俺と同じで物も言えぬヒナタちゃんの前までやってくると、
「くう、あ……っ」
自分を睨みつけるだけの彼女の首を掴んだ。
「とんでもねえ一撃かましてくれたじゃねェか、女ァ」
「うぅ……」
ヒナタちゃんの足が地面から離れ、小柄な身体が持ち上げられる。
「────」
彼女の苦しそうな表情を見た途端、灼熱のように胃が沸いた。
無意味だと分かっていても、限界を超えて《分離》を発動させようとする、が。
「ふん、おらよッ」
〈剛鬼〉はこちらが発動させるより前に、ヒナタちゃんを俺に投げつけた。
咄嗟に受け止めようとして、
「あう……っ」
「うぐっ……!」
二人もつれあって路面に転がる。
そして──『接触』の代償が発動した。
腕の中のヒナタちゃんを強く抱きしめる。
「きゃう……! なにを! こんな、時にッ!」
「ごめんっ、ちがっ」
一度代償が発動してしまえば、払い終えるまでは止められない。
つまり──抵抗の機会すらも、俺たちは失ったのだ。
「くそ……」
地に伏せたままのこちらを嘲りの表情で見下ろしながら〈剛鬼〉が歩いてくる。
それを視界に入れつつ、けれど。
「ご、めん……」
俺の意識は代償の支払いへと、完全に呑み込まれた。
♦︎♢♦︎♢♦︎
〈乖離〉の腕に囚われたままのヒナタは、暴れることすらできないほどの空腹感に襲われていた。
「──……うう」
できることなど、もはや無い。
せめてもの抵抗とばかりに、膨大な飢えを耐え忍ぶ。
それも長くは保たず、
「………ぁ」
飢餓感によって、意識が朦朧としていく。
そして───。
───はじめに思考を覆う靄を揺らがせたのは、嗅覚だった。
(あれ……。これ──この、匂い。この前、どこかで……)
木造建築の、人と過ごしてきた杉のにおい。
丁寧に天日干しされた服の香り。
うっすらと纏った珈琲の薫り。
場違いにも脳裏をよぎったのは、大切な人たちの声音だった。
──ああ。人の家の匂いってなんか覚えてたりするよね。昔のこととかも思い出すし。
──プルースト効果ね。香りによって記憶が呼び起こされる現象。嗅覚って人の記憶と直結してるのよ。
「────ぁ」
自分を抱く腕。
押し付けられる黒いローブの匂いが、思い起こさせる。
昔、あれほど通い詰め、今ではすっかり訪れなくなってしまった。
それでも忘れられない懐かしい香りが。
いつ視ても紗幕をかけられたようにボヤけていたフードの奥を揺らがせる。
(うそ……そんなわけ、そんな──……っ)
否定しようとする心の奥で、散らばっていたパズルのピースが光る。
──それじゃあ、またね、ヒナタちゃん。
──傍陽隊員。
初めて敵対した時の呼び方、そして初めて肩を並べた先ほどの呼び方。
なぜ名前を知っていたのか、なぜ知っていることを隠そうとしたのか。
(そんなわけ、ないのに。なのに、どうして──)
フードの奥に、世界で一番、誰よりも■きな人の顔がある。
迫る死への恐怖が見せる幻覚なんかじゃない。
むしろ今までのまやかしは晴れ、澄み切っている。
「────」
お兄さん──指宿イブキだ。
ヒナタが兄のように慕う、青年だ。
疑いようのない、その素顔。
なぜ、暗く黒いローブの、仇敵の姿で………いや。
ヒナタの胸の内を締め付けるのは、都合の良すぎる考え。
ショッピングモールでも、たった今も。
自分が危険な時にこそ姿を現した彼の真意。
(──わたしを、守るため……?)
そうとしか考えられない。
気づいてしまえば、そうとしか思えない。
──思いたくない。
(ああ……──もう)
真実の紗幕は取り払われてしまった。
彼の素顔を、そして──自分の素直を覆い隠していた、偽り。
───好きな人が、目の前にいる。
心の深いところから広がる熱に、他の全てがどうでも良くなっていく。
加速なんてしていないのに、全てがゆっくり流れ出す。
甘く痺れる頭が、やけに明瞭に導きの灯火を照らした。
思考が歩む先は、こんな状況で抱きしめられている理由だ。
〈乖離〉がイブキならば、妨害のために自分を押さえつけるわけがない。
のっぴきならない事情があるに決まっている。
では、それは何か?
(……まさか)
真実が一本の道として繋がったからこそ、街灯のように記憶が照らされていく。
逃亡劇を繰り広げた後、不意に抱擁を受けたこと。
氷菓をキャッチした後、いきなり手を繋いだこと。
(あとは、その、すごい、いっぱい抱きしめられ……~~~っ)
ゆだる頭に反して、思考はいっそう加速していく。
イブキの天稟は元々知っていた。
代償は「恥ずかしいから」と教えてもらえなかったが、今なら分かる。
天稟が《分離》。
その代償は『触れること』だったのだ。
性質からしてほぼ確実に自分と同じ促成展開型。
だから、思い至ることができた。
いや、思い至ってしまった。
接触の“程度”と、支払いの“時間”が反比例することに。
ほんの少し使っただけでも手を繋いで一分以上。
たくさん使ったあとでも抱きしめて三十秒ほど。
──じゃあ、それ以上の接触なら……?
きっと、時間は短くなる。
それに思い至ってしまうと同時、ヒナタの思考回路は檻に閉ざされた。
囚われてしまえば、二度と脱出できない檻へと。
(この状況を抜け出すため……そのためだから、しかたないんです)
誰かに、あるいは自分に言い訳するように、そう思い込んだ。
心奥から湧き上がるは、衝撃で忘れていた狂おしいほどの飢餓感。
(欲しい…………ほしい………っ)
その飢えに突き動かされ。
満たされるために身を任せる。
だって、欲しくて堪らないのだ。
「んぅ……」
──あなたの、唇が。