終幕 義翼のフィロソフィー/ウラ
翌朝の指宿家。
朝といってももう九時を過ぎようという時間である。
しかし家主は泥のように自室で眠ったまま、彼の幼馴染は家を留守にしている。
したがってこの家に暮らすもう一人の少女は自由と解放を謳歌していた。
リビングの食卓には配達サービスにより運ばれてきた鯖の味噌煮定食……を綺麗に食べ終えた食器が片付けもせずに置いてある。
そこから少し離れたソファに寝転がる少女──ミラは頬杖をつきながらスマホを弄っていた。
「〜♪」
上機嫌なハミングは日曜朝七時くらいからやってそうな女児向けアニメのオープニングの旋律を奏でている。
パタパタと足を動かしながらSNSの画面をスクロールしている指がピタリと止まった。
彼女はどこか不服そうな表情を浮かべながら天井を見上げる。
「……まだ寝てるのかしら」
天井板の向こう側で寝ているであろう男のことである。
別に待っていたわけでもなんでもないためそんな勘違いをされるのは不快極まりないのだが特に理由もなくなんとなーく夜更かししようとしていたミラは、連日の寝不足もあってか彼が帰宅する前に寝てしまった。
そのため詳細な時間は分からないが、少なくとも彼が帰ってきたのは日付を跨いだ後のことであるはず。
……昨日は随分と桜邑が騒がしかったようだし、なにか巻き込まれでもしたのだろうか?
「ま、わたくしには関係ないのですけれどね。せいぜい無様に駆け回りなさいな、下僕」
ふん、とどこか拗ねたように唇を尖らせるミラが手元に視線を戻した時。
画面の上からニュース記事のバナーが現れた。
何気なくスワイプしてそれを消そうとして、動きが止まる。
ぱたぱたしていた足も氷漬けになったかと思うほどピタリと止まっている。
その蒼の視線が釘付けになっているニュースの見出しには──。
『【救世の契り】幹部〈紫煙〉化野ミオン 逮捕』
きょとん、と鼻面をつつかれた猫のような表情でそれを見ていたミラはみるみる目を見開き、
「ふみゃあああああああああ!?!?!?」
ソファから転げ落ちた。
♢♢♢♢♢
ことり、と紅茶の入ったティーカップをテーブルに置く。
澄んだ赤が揺れ、それが収まる頃にクシナはため息をついた。
「もうそろそろ面倒くさいから捕まったままでもいい気がしてきたわ」
桜邑から少し離れた東京の端にある田舎町。
物静かな喫茶店のガラス越しに人気のない駅舎を眺める。
そんな物憂げな彼女の姿を見て、対面に座る女はくすくすと笑った。
「ええよええよ、ほっといたらよろしおす、あんな問題児」
胡散臭いこてこての京都弁を喋る灰色の短髪の女性。
糸目を少し開けたその双眸は赤と青の二色に彩られていた。
クシナは彼女、御子柴ミスズリを白けた目で見る。
「ずいぶん薄情じゃない、お姉さん?」
「いややわぁ、薄情なんはあの子の方どす。姉に敬いのあらへん妹を持つと、ほんに骨がお折れますえ」
「……どちらのこと言っているのかしら」
「どちらもどす」
肩をすくめるクシナに、へらへらと笑うミスズリ。
「ほんで、下の妹は元気にしてはりますか?」
問われ、クシナはしばし視線を彷徨わせた。
「え、なんどす、その間は」
「……いえ別に。健康上の問題は一切ないことを保証するわ」
「えらい不安になる回答やわぁ」
沈黙。
耐えられなくなったかのように、クシナは口を開いた。
「それで、これが本題じゃないでしょ?」
「どないしてそない思わはったんどすか?」
「だって、たかが二週間会ってないだけじゃない。その程度でわざわざ様子を見にくるなんて過保護すぎるでしょう」
きょとん、とした表情を浮かべるミスズリ。
「……? なにかしら?」
「クシナはんが言わはるん、思うてしもて」
「どういう意味かしら?」
「……なんもおへんえ」
真面目な表情で微塵も心当たりがないというようなクシナの様子を見てミスズリは聞かなかったことにした。
過保護の極みみたいな人がよく言うなぁ、とか思ってないったら思ってない。
こほん、と改まってミスズリは姿勢を正す。
「そちらはんの予想通り、上から桜邑の威錫の統制者を呼び戻すよう指令が出てはりましたわ」
「そう。ここ数日の話ね?」
「そやねぇ、ちょうど救世はんが統制者を狙うてはると確信もてました頃合いどすなぁ」
クシナは頷く。
その一抹の驚きもない仕草に、ミスズリは微苦笑する。
「巧いこと威圧かけはりましたなぁ」
「嫌味かしら?」
「いややわぁ、本心どすえ?」
ミスズリの笑みが、にやりと悪いものに変わる。
「武器商人使うとった一部の威錫の統制者の悪巧みを挫いて、ついでに〈刹那〉はんにちょっかい掛けてきよる奴さんまでまとめて追い払う。武器商人の邪魔までできて三方良しやんなぁ」
「それを言うなら今回の場合『三方悪し』だけどね」
「得したのは救世はんだけやねぇ」
「……それはどうかしらね」
意味深に目を細めるクシナ。
彼女が紅茶に口をつけるのを見て、ミスズリはつまらなそうにする。
「上がどうかなんて、どうでもええわぁ。うちが大事なんは可愛い妹たちだけやさかい。……ああそうや、『上』で思い出したんやけど──見つかったそうどすえ」
クシナが目を細めてミスズリを見る。
「第十支部長」
カップが置かれた瞬間、液面に波紋が広がった。
「……そう」
言葉少なに返すクシナは、読めない表情のままじっと机上を見つめている。
「見つかったからといって、彼女、帰ってくるのかしら?」
「戻ってくる耳にしたさかい、わざわざ伝えてはります」
「やけに素直なのが不気味ね」
「あん人は何をしてはっても気味悪ぅ思えてしまいますなぁ」
からからと笑うミスズリ。
「どうせ足の都合がいい、とかそんな理由やないの? ちょうど時期が時期やさかい、アレと一緒に来はるんやろ」
「そう言われるとそんな気もするわね」
ふっと笑って、クシナは再び黙する。
「なんや気掛かりでもあらはるん?」
探るような視線を向けてくるミスズリ。
その目を無機質に見つめ返しながら、クシナは微笑を浮かべた。
「……いえ、気の毒にと思っただけよ」
♢♢♢♢♢
第十支部の一角。
パンツスーツを着た隊員が支部内にある留置所の扉をカードキーで開ける。
「どうぞ」
彼女が振り返ると、背後の女性──副支部長・信藤イサナはへらっと笑った。
「ありがと〜」
二人で牢が並ぶ留置所を歩いていく。
副支部長の少し後ろをついていきながら、隊員──副支部長付き秘書官は声を堅いものにする。
「お分かりだとは思いますが、相手はあの女狐です。武装解除は完了しておりますがくれぐれもお気をつけを」
「はいよー、ありがとね」
軽い調子で応える副支部長を諫言すべきなのか、こなれた様子に頼もしさを覚えるべきなのか、秘書官は複雑そうな表情を浮かべる。
そこから数十秒と経たないうちに、二人は一つの牢の前で足を止めた。
その中に捕えられた女性がうっそりと顔を上げる。
「……おー、誰かと思えば」
〈紫煙〉化野ミオンは三日月のような笑みを浮かべた。
「副支部長さん直々のお出ましとは光栄だねェ」
「おいおい、数え切れないほど会ってる仲じゃないか、緊張するこたないよ」
「してねェよ」
イサナの砕けた口ぶりを鼻で笑うミオン。
「今回は……いや今回も、吾を捕まえられてよかったなァ」
「そう強がりなさんな。いつもは酔っ払って捕まってるとこ、今回はマジで包囲を抜け出せずに捕まったんだ。ほんとは悔しくてたまらないんだろう?」
「ふん、どうかね」
ミオンは軽く首を傾げて、イサナの横に立つ秘書官を見やる。
「そっちの秘書ちゃんはどう思う? おたくの上司、性格悪いぜ」
「悪の組織の幹部がなんか言ってるよ。言い返してやんなー?」
「え? はあ……」
ミオンとイサナのいっそ仲が良いのではと誤解するようなやりとりに困惑を隠せない秘書官。
歯切れの悪い彼女を見て、ミオンが笑う。
「まだ副支部長さんの秘書について日が浅いのか? ついてこれてねェぜ?」
「ミオンちゃんご明察〜。ここ二週間くらいのことだよ」
「……えと、副支部長」
先ほどまではその軽い調子に僅かな頼もしさも覚えたものだが、いくらなんでも天翼の守護者の仇敵を相手に距離感を間違えているのではないか。
そう感じた秘書官は眉を顰め、イサナへと詰めよる。
「あまり敵と馴れ馴れしく接するのは──」
シュッと。
檻の中から何かを擦るような音がした。
「…………?」
秘書官がそちらを見て──目を見開く。
壁に寄りかかったままのミオンが、いつの間にか煙管を口に添えていたからだ。
「──は?」
呆然とし、彼女が吐き出す煙を見てしまう。
それから必死の形相で隣の副支部長に目を向け、
「副支部──」
「うん。じゃあね」
イサナは全くの無感動に秘書官を見下ろしていた。
一度も見たことのない彼女の表情に困惑と、薄寒い恐怖を覚え──それが、秘書官の最後の記憶になった。
♢♢♢♢♢
ふっと、糸が切れた人形のように項垂れ、立ち尽くす秘書官。
その手から書類の入ったバインダーが落ち、音が鳴る。
それを見て、ミオンは煙管をひっくり返した。
彼女は落ちた灰を踏み躙りながら苦笑する。
「怖ェ人だよ、ホントに……──なあ? 筆頭」
「幹部間に上下はないといつも言っているでしょう」
ミオンの苦笑を一蹴するイサナ。
普段の彼女を知る者が見たら驚愕する淡白さだった。
「筆頭ではなく──〈覚悟〉と呼びなさい」
【救世の契り】六使徒、第一席〈覚悟〉。
心を読む妖怪の名を冠する、信藤イサナのもう一つの顔。
「第何席とか付いてる時点で平等とか無理な話なンだよ……」
「それは彼女に言ってください」
呆れた口調のミオンに言い返すイサナ。
その口ぶりにはどこか拗ねたような響きが含まれていた。
「そんなことはどうでもよろしい」
「わーってるよ。──そこの秘書ちゃんでラスイチなわけね?」
「ええ」
イサナは静かに頷き、
「これで支部に潜り込んだ威錫の統制者は全て排除しました」
隣に立つ秘書官の女性へと目を向ける。
「彼女たちは副支部長にとっても救世にとっても邪魔者でしかありませんでしたからね」
「だからって全処理しちまうたァ、思い切ったことをするもんだ」
「ここに一人残っているではないですか」
「情報を吐かせるために、な」
肩をすくめるミオン。
おっかねー、という呟きは聞かなかったことにしてイサナは咳払いする。
「ともあれ、これで上層部を気にせず動けるようになりました。カスカにも感謝を伝えておいてください」
「ありゃあ自分が斬りたくて斬ってるだけだろう」
「それでもです。それから盟主にも今回明らかになった地下道の件などいくつか連絡事項が」
「ほいほい。……当分、連絡役は大忙しだな」
「いつも助かっていますよ」
普段から”捕まっては逃れる”を繰り返している女狐は嗤う。
「そろそろ〈刹那〉ちゃんの負担を減らしてやらにゃあな。……負担かけすぎてるしよ」
「……ふふっ」
檻の外から聞こえる微かな笑いに目尻を吊り上げるミオン。
「あンだよ?」
「いえ、特に何も」
イサナは微笑を収めて思案げに床を見る。
「しかし、貴方の言うことも尤もです。そろそろ彼女以外にも信用できる腕利きを用意しなくては」
「ゼナは無理。アイツも無理。〈刹那〉はダメ。吾は見ての通り。ツクモは絶対ダメ。カスカはまるで安心できん」
「……どうしてこう、私の周りには」
それまでの毅然とした表情が溶け、遠い目でどこかを見つめるイサナ。
彼女を気の毒ダナーと人ごとのように眺めていたミオンは、そこで思い立つ。
「あ、そういや幹部ほどじゃねェがそれなりに頼りになる奴らに覚えがあるぜ」
「それは大変、非常に、とても重畳です。後ほど詳しく」
「お、おう……」
勢いに押されるミオンを置いて、イサナは晴々とした表情を浮かべる。
「身内の虫の排除は完了しました。ですから、ここからはそんなに派手に動くことはないでしょう」
そっとロングスカートの端をつまみ、カーテシーをする。
「私は”表”に……彼女の残した義に殉じることに徹します」
それから、それまでとは一変して明るい雰囲気で笑った。
「──そういうわけだから、みんなによろしくねぃ!」
というわけで第4章『義翼のフィロソフィー』これにて終幕となります。長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。
長かったね、イサナさん! これからも長いね、イサナさん! これまでの彼女の登場シーンも是非見てあげてください!
ヒナタちゃんもドロドロになれて良かったね!(雑)イブキは知らん!
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次はちょっとした何かしらの告知もできればいいな、と思います……! ではまた〜!




