第20話 絵から出た少女
天翼の守護者は歌を歌う。
その歌唱内容は聖歌に近い。また強いていうならオーケストラに体は似ている。
それでも音楽に携わる人間ならば、彼女のポップスを知らない者はいない。
その歌姫──〈Luv〉が初めてその姿を表舞台に現したのは、僅か二年前のことだった。
新人歌手にしては破格の、世界的に有名なフェスでデビューを飾ったのである。
本来、何かしらの権力関係かと批判されてもしかたない。
けれども、彼女の超新星のごときカリスマと歌唱力はたった一度のステージで聴く者を魅了した。
オープニングアクトにも関わらず、その日一番の盛り上がりは彼女だったというほどである。
もはや常識とも言える存在。
当然、ヒナタも知っている。
「う〜ん、悩むナぁ〜」
「…………」
そんな大物が隣に座っていて、一介の天使でしかないヒナタは完全に緊張していた。
チョモランマのお代わりペースが先ほどまでの0.91倍になるくらいには緊張していた。
「ん〜?」
「……どうかしましたか?」
「この一つだけ赤字で書かれているのハなに?」
恐る恐るメニューを覗き込み、〈Luv〉が指差す部分を見る。
ヒナタはびっくりして飛び上がりそうになった。
「そ、それは……」
そこに赤字で書かれたメニュー名は「地獄」。それだけ。
その横に赤い(恐らく血の)池と髑髏まで描かれている。ついでにレモンとかハチミツとかも描かれている。意味が分からない。
どう見てもヤバそうな見た目をしているのに、それを差す〈Luv〉は「私、気になります!」という表情をしている。
ヒナタは大層慌てた。
「ソレだけは頼まない方がいいですよ……! 一騎当麺のラーメン淑女として界隈に知れ渡る〈汁舐めおばさん〉が底に残ったスープを舐めとらずに残したことで大変有名になった劇物メニューです。彼女が食後に呟いた一言『味覚が一つ多い』はラーメン愛好家の中では不滅の万能ミームとして語り継がれている程ですから」
恐怖に震えながら忠告するヒナタ。
世界の歌姫の喉に何かあったらどう責任を取るつもりか。
……というか今更だがなんでこの人、こんな時間にこんな所にいるの?
ヒナタが基本に立ち返りそうになった時、〈Luv〉が「ん〜」と声を落とした。
「??? なに言ってるかさっぱり分からないんだけど〜、ハジけそうってことであっテる?」
「??? たぶん……?」
お互いに顔を見合わせて首を傾げる二人。
「ま、いっか。おっけ!」
うんうん、としきりに頷く歌姫。
そして、
「タイショー! この赤いノお願い!」
「っ!?」
ヒナタの忠告は虚しく空を切った。
「あ、あわわ……」
「おおお〜! すっごいハジけてルね!」
一瞬で出された(大将の手もちょっと震えてた)ラーメンの威容を見て、ヒナタは顔を青ざめさせ、〈Luv〉は目をキラキラさせていた。
「えっと、確か……いただきマす!」
そうして、まずはとスープを口に含んだ世界の歌姫が、
「ぐふっ!?」
レンゲを加えたまま、暗殺者に刺されたような鈍い悲鳴を上げた。
「だ、大丈夫ですか……?」
ヒナタの問いにコクコクと頷く。
その表情は青くなったり赤くなったりと忙しなく変化していたが、やがて彼女はゆっくりと口の中の魔境を嚥下した。
「う、うん。中々ハジけた味だね……」
ごくりと生唾を飲み込み、彼女は大将に渡されたフォークで麺をちゅるちゅると口に入れていく。
「も、もしなんでしたら残しても……」
心配が絶えないヒナタはおずおずと歌姫に尋ねる。
なんなら残りは自分がいただこうかなと思っていた。こわいけど。
その申し出に〈Luv〉は首を振る。
「た、食べ物は無駄にしなイの。私、実家は大衆食堂なんだカら……!」
とらっとりあ。
イタリア語で大衆食堂のことだ。
ヒナタ知ってる。食べ物に関する言葉だから。
世界の歌姫の意外なルーツに驚きつつも、急に湧いてくる親近感。
「だったら尚更、最初に変わり種を頼むことはないんじゃないかと思うんですけど……」
四杯目くらいで頼めばいいのにな、とヒナタは思った。
それに対して首を振る〈Luv〉。
「他の人の反応が悪くても、実際食べてみたら美味しいかもしれないデしょ〜? 味あわなきゃ分からないじゃナい! まずは食べてみなイと!」
「なるほど。それは確かに」
ヒナタはなんとなく彼女の思考パターンを理解してきていた。
自分が受ける刺激が多ければ多いほど人生は豊かになると考えているタイプ。
つまりは度を越した芸術家肌である。
そして、ただ刺激を求めるだけでなく、食に対する感謝まで持ち合わせている。
ヒナタは思った。
この人、いい人だなと。
いつの間にか初めに感じていたような緊張感はすっかり薄れていた。
これが彼女の魅力というやつなのだろうか。
下のペースに戻って、ラーメンを食すヒナタがお腹いっぱいになる頃。
〈Luv〉も「地獄」をちょうど食べ終えたようだった。
「スープまで全部飲みきっちゃいましたね……」
「ふフーん♪ ゴチソウサマ!!」
サムズアップする店主。
彼は尊いものを見るような目で歌姫を見て、バケモノを見るような目で隣の大食漢を見ていた。
水をチミチミ飲みながら、〈Luv〉がヒナタに話しかける。
「あなた、ここらへんの人?」
ヒナタは今の自分の立場を思い出し、目を泳がせた。
「あー……まあ、そうですね。この辺に住んでいるただの一般女子高生です!」
「そっかそっか」
〈Luv〉はふむふむと頷くと、
「同じ食い道楽のあなたには教えておいてあげるルね」
「? 何をですか?」
「この街、図書館があるデしょ〜?」
「ああ、ありますね。区立図書館」
「そうそう」
〈Luv〉はゆらゆらと身体を揺らして、意外なことを言った。
「図書館の横──とーよこって呼ばれてるらしいんだけど、今日はあそこには近づかない方がいいよ〜」
「とーよこ」
ヒナタも聞いたことがある。
どうにも大きな図書館の横という影の立地とそれなりのスペースを活かして、不良のようなガラの悪い人々が集まりがちになっている場所なのだとか。
「どうしてですか?」
「なんか、人の出入りが激しいんだっテさ」
その他人事のような言葉に隠し事はなさそうだった。
しかし、気になることもある。
「なんであの場所に詳しいんですか? 最近来日したばかりと聞いてますけど」
探るような目を向けると、〈Luv〉はちらりと横目でヒナタを見た。
「──興味ある? あ、ひょっとして君もこっち側なのかな?」
「…………」
そう問いかける歌姫の存在感にヒナタが身を固くしたところで──〈Luv〉はニパッと笑って両手を広げる。
「私のこの服!」
動作に合わせて彼女の服、一般的には地雷系などと呼ばれている(どちらかといえばヒナタ好みの)可愛らしい服装が見せつけられた。
きょとんとしていると、歌姫は楽しげに笑う。
「こういう感じの服ね、あそこらへんでいいのが売ってるんだヨね〜。昨日も近くまで行ったからマネージャーちゃんの監視を振り切って……」
……ひょっとして今日もマネージャーさんの監視を振り切ってきたんだろうか?
ヒナタは疑念を隠しつつ、その会話の内容に、先ほどまでの緊張感を解きほぐしていた。
「まあ、かわいいとは思いますけど……」
「ほんと!?」
〈Luv〉が食いつくようにヒナタに上体を寄せた。
「あ、今度一緒に行くー? リンスタやってる? 教えテよ〜!」
「え、ええ? 分かりました……え? そんな簡単にフォローとかしてだいじょ──」
「フォローしタ〜!」
濁流に流されるようにしてヒナタは〈Luv〉とSNSを交換してしまう。
そして、画面に表示された数字に驚愕する。
「っ!? ふぉ、ふぉろわー4億8000万人……」
「アレ? 勝手に友達増やしたらマネちゃんに怒られちゃうんだっけ? ま、いっカ〜!」
「…………」
この世界的大スターにフォローされた自分のアカウントはどうなってしまうのだろうか?
やがてヒナタは考えるのをやめた。
大将が気の毒そうな目でバケモ……ヒナタを見ていた。
「じゃアね! なんだか、君とは近いうちに会う気がすルよ! 今日とか!」
去り際、〈Luv〉はそう言って跳ねながら手を振る。
「あと数時間も残ってないですけど……」
「あっはは〜、時差時差☆ 私はイタリア人だかラね! 私にとっての今日は君にとっての明日なんだよ! ……あ、今の言葉、次の曲の歌詞にぴったりかも〜!」
遠ざかっていく、不思議と人の心を暖かくするような声。
「あ、嵐のような人だったな……」
見送って──ヒナタは隊服に変身する。
その相貌は鋭く、遠くの方を見つめている。
「とーよこ……ここからそう離れてないよね。行ってみようかな」
危ないと忠告された場所。
それならわたしの、天翼の守護者の行くべき場所だ。
ふとヒナタは夜空を見上げる。
「今日は月が大きいですね……──」
明るい満月が、月下に立つヒロインを照らしていた。
──そして、さらにその下に立つ男まではその光は届かない。




