序幕 蝕まれる常識
大変お待たせいたしました。
『第四章 義翼のフィロソフィー』、はじまります!
しばらくは月水金の週3更新でお送りします。お楽しみくだされば幸いです。
雲ひとつない夜空に、三日月が鋭く浮かんでいる。
そのわずかな月明かりに照らされた路地裏を走る人影がひとつ。
「はあ、はっ……くっ……」
彼女はたまに振り向き、周囲に目を走らせる。
背後に怯えるその仕草は、彼女が追われる立場であることを示していた。
普段であれば、追う立場にあるはずの彼女──天翼の守護者が、だ。
「ぐっ」
彼女は片腕を押さえて、表情を歪める。
その二の腕は白い隊服が赤く染まるほどに出血していた。
「司令室っ、司令室……!」
血に染まった片手を持ち上げ、イヤーカフ越しに通信を試みるが、帰ってくるのは砂嵐のような雑音ばかり。
「くそっ、なんで……っ」
悪態をつきながら角を曲がった先。
「──戦場で誰かの指示に縋ろうなんて、呑気なものだねぇ」
路地裏に似つかわしくない可憐な声が響いた。
逃亡者の前に、月下に照らされるようにして幽鬼が佇んでいる。
「……っ」
思わず息を呑み、足を止める。
天翼の守護者である彼女の前に立ちふさがっているのは、一人の少女。
彼女が身に纏っているのは、黒いセーラー服だった。
けれど可愛らしい印象はなく、胸元の赤リボンはやけに禍々しく見える。
その印象を際立たせるのは、彼女の顔を覆う紅の般若面だ。
そして、少女はセーラー服の上に”漆黒のローブ”を纏っていた。
黒く、暗く、昏い。
それだけのローブ。
──紋様は、ない。
ついでに言えば、フードもついてない。
ロングコートに近い代物だ。
この桜邑に暮らす者なら見知った風体に近く、けれど完全に一致はしない。
「お前は、いったい何なんだ……!?」
腕の痛みに顔を顰めながらも、問う。
それに、少女は「ふむ」と首を傾げ、
「ヒトだ」
長い栗色の髪が肩から流れ落ちた。
迷いのない即答に思わず閉口する天使を、少女は鬼面越しに鼻で笑った。
「まさか貴殿、身共が鬼面を着けているからといって、悪鬼羅刹の類と見紛ったわけでもあるまいね」
「……っ、真面目に答えろ!」
「ク、ククク」
少女が肩を揺らす。
「なにを笑って……っ」
「いやぁ、すまないね。追い詰められているのは自分だというのに『答えろ』だなんて命令口調、どうにも可笑しくて堪らなくてねぇ?」
他人を貶めたくてしようがない、と声音そのものが訴えかけてくるようだった。
「答えろ、じゃあないだろう? 答えてください、だろう? 無論、答えてやらないけどねぇ? 土下座して教えを乞い願うなら考えてやらないこともないよ? ま、考えてやるだけだが」
闇夜を切り裂くような哄笑が路地裏に響く。
自然と歪む天使の相貌。それを見て、悪鬼の笑いは愉悦を増す。
「ああ、好い。とても好い。身共は他人の表情が大好きなんだ。屈辱に歪む表情などは特に好い。ありがとう、天使殿」
「異常者がッ」
「ふぅむ?」
天使の悪態に、首を可愛らしく傾げて返す悪鬼。
その声音は明らかにワザとらしさを孕んでいた。
「異常、ねぇ。身共の好みの話を除けば至って常識的な回答しかしていないはずだが……。では、話を『身共はどこの誰なのか』という所まで戻そうか」
言って、少女は無造作に歩き始める。
「大人と子供、警察と学生、自軍と敵軍、天使と悪魔」
少女が足を踏み出すたびに腰に提げられた日本刀が揺れ、柄の銀鈴がしゃらん、と鳴る。
「肩書きや所属は曖昧にして揺れ動く。現状の立場に意味などない。それは分かるね? では意味とは何に宿るのか」
先ほどまでとは仮面の中身が変わったように理知的で静謐な物言いだった。
「それはね、その人間が身につけてきた技そのものだ」
天翼の守護者は気圧されるようにじりじりと下がるが、その距離は開かず、むしろ縮まっていく一方。
彼我の距離が三歩ほどになったところで、鬼面の少女はひたりと足を止めた。
「故に、何者かと問われても身共に返せるのは『ヒト』という不変の真理のみなのだよ。それ以上の立場も意味も──」
瞬きの後、既に少女の手は柄にかけられていた。
「身共の技を見た貴殿が決めるといい」
「くっ……!」
咄嗟に身を引こうとした天使の目に銀色の三日月が閃いた。
無駄はなく、呵責もなく──されど、その一刀には慈悲がある。
「────」
天使は目を見開く。
「お前は、──……?」
凛と響く鈴鳴りが、天使の言葉をかき消した。
納刀した態勢で、少女の黒いコートとセーラー服が揺れる。
「……それは身共には過ぎた肩書きだよ」
ぱちゃん、と何かが血溜まりに倒れる音がした。
♢♢♢♢♢
ちゃぽん、と何かが水に跳ねる音がした。
読んでいた本から目を上げると、庭の池の水面が波立っている。
魚なんて飼っていないし、いるとしたら蛙だろうか。
暦の上では5月だが、例年に比べると暖かい方である。
初春から晩夏にかけて旺盛に活動する蛙にとっては過ごしやすかろう。
気が抜けるほど心地よいと言えば、それは人間も同じだ。
「ん……」
ソファに座り、片手で本を開く。
テーブルの上のラジオから、小さめの音量で流行りの洋楽が流れている。
微かな声音が聞こえて膝上に目を向ければ──黒絹のような長髪。
俺の膝を枕に少しあどけない寝顔を見せている幼馴染がいた。
その動作が原因ではないと思うが、彼女の長いまつ毛が揺れ、薄らと瞼が持ち上がる。
最初、ぼんやりと窓の外を見ていた紫の瞳はやがて俺へ向けられた。
「いぶき……」
「うん」
「ぅん……」
とろけた眦のまま、眠そうに言葉を返してくる。
幼馴染の珍しい様子に口元が緩んだ。
「昨日は夜更かししちゃったもんね」
「ん〜……」
衣替えに合わせて家を掃除していたところ、クシナがどこからか昔のアルバムを見つけてきたのだ。
それを見ながら話しているうちに、気付けば深夜1時を過ぎていた。
クシナは何時に寝ようと6時に起きるようにしているので、昨日みたいに寝る時間が遅かったりすると次の日けっこう眠そうだったりする。
今日も昼ごはんを食べてから少ししたら隣で船を漕ぎ始めたので、寄りかからせたらスヤスヤと寝入ってしまい……今に至る、という感じだった。
「いぶき……足、しびれてない? 代わろっか?」
片手で目をこすりながら、そんなことを聞いてくるクシナ。
彼女に笑いかけて、首を振る。
「大丈夫。寝てていいよ」
「うぅん……おきる……あとすこししたら」
ゆるゆると喋った後、クシナは両手で握っていた俺の右手を抱え込むようにして丸くなってしまう。
それを見て、もう一度微笑む。
いつからかクシナが早起きするようになって以降、寝起きでふにゃふにゃしている彼女はあまり見られなくなってしまった。
「貴重なクシナだね」
小さくつぶやいて、俺は本に視線を戻した。
静かに時間が過ぎていくうちに、俺の意識は小説へと沈んでいく。
「いぶきぃ」
「…………」
「ねえ、いぶきー?」
「…………」
「イブキってば」
「…………」
「むぅ……」
「──いっ!?」
本に集中していると、急に右手に不思議な感覚が走った。
慌てて目を向けると、クシナに握られている右手はいつのまにか胸の前ではなく、彼女の顔の前に。
そして、その人差し指を──噛んでいた。クシナが。
「んんんっ? クシナさん!?」
生ぬるい温度感とつねられたような刺激。
咄嗟に手を引こうとするが、クシナの手は俺の手をしっかり掴んでいて離してくれない。
「あのっ、離してくれません!?」
「やら」
「……っ」
彼女が口を動かした瞬間。
ぬるりとした感触が指を襲い、ゾクゾクとした電流が背筋を這い上がってくる。
「ちょ、急に、どうしたの!?」
「んー」
「っ、わかったから、一旦離して……!」
「ん、ぁ……」
ようやく柔らかな口元から解放される。
急に冷たく感じられる指先には、薄く歯の跡が残っていた。
クシナはそれをじっと眺めてから、
「残念、逃げられちゃった」
流し目でこちらを見る。
その紫水晶には明らかに揶揄いの光が宿っていた。
「……えーと、急になんですか?」
「なにって、うーん」
まるっきり思考が追いついていない俺の疑問に、クシナは澄まし顔で沈黙すると、
「しかえし」
イタズラっぽい微笑みを浮かべた。
「────」
しかえし。
仕返し。
仕返し、とは……?
「えっとぉ……俺、クシナを噛んだこと、ないよね?」
「うん。でも噛み跡つけられたもん」
「因果を歪めないで???」
「だからイブキも瑕つかないかなって」
「本当にどういうこと!?」
「おしえなーい」
くすくすと笑ったクシナは俺の疑問には答えてくれず、
「それより、本、いいの?」
「ほん……?」
目を向けたのは、クシナに捕まってない方の手。
読みかけだった本は、驚きのあまりパタリと閉じられてしまっていた。
「あー、どこまで読んでたっけ……」
「ふふっ」
なぜか嬉しそうに笑うクシナ。
なにがしたいのか分からない幼馴染にジトっとした目を向ける。
「あのー、右手解放してもらえませんか。片手で開くの大変なんですけど」
「やだ」
「そうですか……」
「そうなのよ」
「……ま、クシナが楽しいならそれでいいけどさ」
「──、ありがとう」
明るく笑うクシナに苦笑を返し、俺は本をサイドテーブルに置いた。
それからしばらく、上機嫌な幼馴染さまは両手で俺の手をにぎにぎして遊び続けていた。
ちなみに最近ウチに就職(?)したメイド姿の推しは、FXで有り金全部溶かしたみたいな顔で「この家、なんか変……」と呟いていた。どこが変なのかなぁ。
窓はある。




