灰と赤と蓮の花
小学校に上がりたての頃。
母の大切にしていたティーカップを割ってしまったことがあった。
母はいつもニコニコしていて、温和な雰囲気の人だった。
けれど、一度怒ると怖いなんてものじゃなくて、私は怒鳴られるのがとても苦手だった。……まあ、怒鳴られるのが得意な人なんていないと思うけどね。
その時の私は怒られたくない一心で、割れたティーカップを新聞紙で包んでゴミ箱に捨てた。そして、帰宅した母にカップの所在を問われると、
「私、知らないよ」
そう、嘘を吐いた。
「ふぅん、そっか」
──その時の母の声音の冷たさを、私は生涯忘れないだろう。
怒鳴るわけでもない、静かな相槌。
けれど私は、自分が真っ暗闇に捨てられたような気がして、怖くて怖くてすぐに泣いて謝った。
それから母はすごく、すごく、私を叱った。
「嘘だけは、ついちゃダメなのよ。そんな卑怯な人になっちゃダメ」
怒鳴るのではなく、嗜めるための静かな言葉だった。
「いい? 約束だからね──ユイカ」
その日から、私は『嘘』が世界で一番嫌いなものになった。
そして、それから数年経って。
私の世界は、真っ赤な嘘に覆い隠されたのだ。
──ぱちり、と『眼』を開ける。
信号が赤から青に切り変わり、少し遅れて歩行可能だよ〜という感じのメロディーが流れ始める。
歩道で立ち止まる私を置いて、人波が六ツ又の交差点を一斉に移動しはじめた。
その中の、一割。
百人は下らないであろう人混みのうち、およそ一割の人々が『赤く』色づいている。
それは隣の友人と話している若い女の子であったり、スマホで何かを打ち込んでいる小さい子であったり、はたまたスーツ姿で電話するOLさんであったりした。
──私の赤い瞳は、嘘を吐いた人を『赤く』染めて視せる。
赤いクリアシートを被せたみたいに、その人が赤く染まるのだ。
効果時間は嘘をついている瞬間のみ。
だから、さっき視界に捉えたような人たちは、もうとっくに普通の色彩に戻っている。代わりに、他の人が赤く染まっていた。
結局、常に一割くらいの人が、私の目には『赤く』見えている。
《虚偽看破》。
そんな天稟の効果で、これが私の世界の日常だった。
右手を見下ろせば、店の水槽用にと買った水草。
紙袋から少しのぞく緑で目を癒してから、私は足早に信号を渡る。
白、黒、白、黒……。
アスファルトと白線を跨ぎながら、時々赤い世界を歩いていく。
♢♢♢♢♢
母が亡くなったのは、悪名高き”幽寂の悪夢”の夜だった。
家が崩れた。
自分の部屋が二階だった私だけが、奇跡的にほとんど無傷で放り出された。
そして、この偽りだらけの世界に独りで放り出されることになった。
中学一年生の年だった。
それから数度の夜が明けた日のことだ。
ざわざわと乾いた喧騒に覆われた避難所。
あちらこちらから泣き言や啜り泣きが聞こえる。
私はそんな気分にすらなれなくて、ただ体育館の片隅でうずくまっていた。
そうしているうちは包帯の下の擦り傷も痛まなかったから。
「もう少しで通用門の方に、こっそり水の配給が来るらしいよ」
「本当ですか?」
「ええ、内緒よ。急ぎましょう」
少し離れたダンボールハウスの入り口から、そんなやりとりが聞こえた。
うっそりと目を上げると、「本当?」と問う女性は弱々しい表情をしている。
彼女に「内緒よ」と口にしている女性は『赤く』染まっていた。
……嘘だ。
そう口にする気力も残っていなかった。
昨日も一昨日も、色々な場所で見た光景だ。
きっと二人がいなくなったところで、嘘の情報をもたらした女性の仲間が火事場泥棒に入るのだろう。
……反吐が出る。
騙し合う人々にも、その中で蹲るだけの自分にも。
そっと顔を膝に埋めると、隣に誰かが座る気配がした。
ハッとして身構え、横を向く。
そこに、壁にもたれかかるようにして座る人物がいた。
その人物は、ボロボロの灰色のローブを纏い、フードを深く被っている。
男か女かも分からない。
ジリジリと離れようとすると、
「……貴方、ご家族は?」
静かな問いが、その場に落とされた。
小声でも凛とした張りのある、女の人の声だった。
答えずに離れてもよかった。
けれど、不思議とその問いは私の身体から力を奪った。
疲れと、諦めと、胸の奥の仄暗い何かに首輪をかけられたようだった。
女性の問いへの答えは、自然と脳裏に浮かび、
──死んだ。
「いる」
天邪鬼な自分の口がそう言った。
「すぐに戻ってくる」
言ってから、嘘しか言えない口に感謝した。
ここで「私一人です」などと言おうものなら、きっと私はとっくに身ぐるみ剥がされて転がっていただろう。
空虚な返事を返す私の方を、その女性は見ていなかった。
それどころか見透かすような──悼むような声音で、
「そう、ですか」
そう、言葉少なに答える。
その顔は先ほど騙されていた女性の部屋の方へと向けられていた。
しかし、それが不意にこちらを向く。
フードの奥に、私の心中を見透かすような瞳があった。
「あなたのそれを、過剰な拒否反応だとは思いません」
「────」
一瞬、その意味を考えた。
そしてすぐに自分の嘘が見抜かれているのだと悟った。
軽いショックを受ける私を打ちのめすように言葉が続く。
「貴方の才能を考えれば当然だ」
「…………ぁ、え」
間抜けに目を瞬かせる私を、彼女はじっと見つめ続けたまま。
「ですが、白黒つけすぎる在り方ではあまりに生きづらい。今までも、これからも。貴方が思うより世界は灰色なんです。……残念なことに」
誰かに言い聞かせるようなその言葉を聞いた瞬間。
私の中にあった戸惑いや驚愕はいっぺんに押し流された。
どうして私の天稟を、そして恐らく代償も知っているのかという疑念──恐怖すらも過ぎ去って。
「…………っ」
私の心を支配したのは、赤々とした怒りだった。
──私が間違っているって、この人は言うのだろうか。
──虚偽と欺瞞が蔓延るこの世界の在り方が正しいと言うのだろうか。
ぎゅうと拳を握り、
……私の信じてきたものは、間違いだったのだろうか。
辿り着いた答えに、力が抜ける。
解けた拳を見て取った彼女は短く言った。
「……貴方は、正しい」
優しい声音だった。
その優しさが、私を一層打ちのめした。
「けれど、事実として世界がそのようにある以上、生きやすいように適合するしかない。泥水の中を泳いでも平気な身体になるしかないんです」
手だけではなく、肩からも強張りが抜けていった。
それは安堵などでは決してなく、ただただ諦めに似た虚脱感だった。
「…………」
黙り込んだ私を、彼女もまた黙って見ていた。
その目がすっと横に向けられる。
つられて見れば、留守になった女性の部屋。
そこに、先ほどまでの二人とは違う女がそっと忍び込むところだった。
私の予想通り──この世界は、最低だ。
「もう一つ、手段があります」
諦念に包まれる私とは反対に、彼女はゆっくりと、しかし確かな芯をもって立ち上がる。
「水を変えてやるのです」
──次の動作は、あまりにも疾く。
巻き起こる風が私の横髪を揺らした。
それに意識を割くことができないほどに、私は目の前の景色に心奪われていた。
中から出てきた盗人が床を踏んだ瞬間。
彼女は自分が踏んだはずの床に叩きつけられていた。
その傍には灰色のローブの女が立っている。
右手の裾がはためいているから、その手で何かをしたのだろうか。
私にはまるで見えなかった。
叩きつけられ気を失っている女も見えなかったに違いない。
一瞬の制圧劇。
悪を地に伏せさせ、彼女は振り返った。
「この最低な世界を、変えてやるのです」
こちらに戻ってきた彼女は、もう私の隣には座らなかった。
私の前に立ったまま、声を発する。
「もし貴方に世界と戦う覚悟があるのなら、歓迎しますよ」
そこで初めて、私は彼女の素顔を見た。
「私たちの名は【救世の契り】」
端正な美貌に見惚れるばかりの私に、彼女はちょっと困ったような表情を浮かべる。
「と、言ってもまだ伝わりませんね……! できたばかりの組織ですから。ええと、分かりやすく言うならば……──そう! 水質改善業者です」
ちょっとドヤ顔で語る彼女に、私は正直な感想を述べた。
「……すごい」
「そうでしょう。………………ん?」
それが私と彼女──【六使徒】第一席〈覚悟〉との出会いだった。
♢♢♢♢♢
「なにやってんだ?」
背後から問われて、ユイカは目の前の水槽から視線を切る。
振り向けば、Café・Manhattanのカウンターには不似合いな着物姿の女性が腕を組んで立っていた。
「んー……アクアリウムの水質汚染〜」
唇に人差し指を当てながら、首を傾げる。
そんなユイカに青筋を立てるのは、化野ミオンだ。
「オマエ……吾に店番任せて、水草買いに行ってたのかよ……」
「私のお仕事じゃないからね〜」
「……ちょっと待て。何に対して言ってる? 店番がオマエの仕事って話か? それとも水槽の手入れがオマエの仕事だって? ……いや、どっちにしろ『自分の仕事じゃない』は吾のセリフだけどな?」
ったく……と毒づいて、ミオンは踵を返す。
「もういいな。先に帰ってるわ」
「ダ〜メ♪」
「うるせー!」
スタッフオンリーの先に遠ざかっていくミオン。
くすくすと笑うユイカの目に映るのは『赤い』着物の後ろ姿。
……今でも、その色を見ると身構えてしまう。
──けれど、昔のように嫌いではない。
カウンター席に座ったユイカが取り出したのは、プラスチックの箱。
中に綺麗に整列しているのは、赤いネイルチップだ。
手慣れた様子でそれを付けて、片手をダウンライトに翳す。
──嫌いじゃなくなるための努力をした。
それはきっと”彼女”の言うところの『泥水への適合』なのだろう。
だが、あくまで適合だ。
それを享受するつもりなど毛頭ない。
──この『赤』が、私の覚悟だ。
翳した手を握りしめ、ユイカは上機嫌に立ち上がった。
小走りに店の扉へと近づくと、ドアに掛けられたプレートをひっくり返す。
カフェの外から見える『CLOSE』の赤文字は、無関係な来客を阻む『嘘』。
泥水を啜ってなお、強く美しく花開く蓮のように。
清濁併せ呑み、景色を変える。
そのために──。
「さ、お仕事、終わろっか〜」
木製の床をコツコツと踏み鳴らして扉を離れるユイカの背後。
ドアプレートに書かれた『OPEN』の白文字が揺れていた。




