佐久間信盛の追放(19ヶ条の折檻状)
【織田軍団ナンバー2 佐久間信盛の追放】
1580年、織田家の諸将は衝撃を受けたに違いない。
信長の父信秀の代から2代仕える最重臣・佐久間信盛が突如として信長から折檻状を突き付けられ、追放されたのである。
織田家における信盛の存在感は、他の武将とは明らかに違う。
信長の家督相続時から常に近辺に付き添い、彼の人生の岐路となる戦にはすべて参加してきた宿老である。
信長の家督相続時では、尾張国中が信長を「うつけ」と呼び、その母までもが弟信勝を擁立したにも関わらず、信盛は一貫して信長を支持してきた。
いわゆる、親子の縁で結ばれていると言っても過言ではない程の関係であった筈の人物である。
折檻状の直前まで、近畿総監の立場にあり、織田家臣団の中で、最大の勢力と動員兵力を持っていた。
それが下記の檄文でその関係を一掃されたのである。
一、佐久間信盛・信栄親子は本願寺への備えとして任せていたのに、五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間も評判となっているし、自分にも思い当たる事であり、口惜しいばかりである。
一、信盛はこう考えたのだろう。相手は坊主であり、ただ城の守りを堅めておれば、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと。故に戦はおろか調略も行わなかったのだ。しかし、武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、面目を保てたのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。
一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類ない。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家も、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀を平定した。
一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。
一、信盛の与力・保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである。言語道断である。
一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。
一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。
一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。
一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。
一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を無駄にし、卑怯な事をしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。このように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。
(出典・参考資料)
『信長公記』(太田牛一著)巻十三(天正八年庚辰)・「佐久間・林佐渡・丹羽右近・伊賀伊賀守の事」新人物往来社刊、桑田忠親校注 ISBN 978-4404024930
その他フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等を参考に現代訳
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大きく大別すると三つのポイントで糾弾している。
① 重職を任せているのに、武功が足りない(本願寺攻めを叱責)
② 金に意地汚く、良き兵を養う心持ちが足りない(水野信元殺害を引き合いに)
④ 金ヶ崎の戦いで讒言し、恥をかかせた
⑤ 息子の信栄は父の威光を笠に着た愚か者である(親子共々傲慢である)
文章を読み取る限りでは、信長の長年の鬱積が爆発したような厳しい糾弾である。しかし冷静に読み取ってみれば、半ば言いがかりとも取れないか。
信長と信盛との信頼関係は、他の武将達とは一線を画した間柄であったと思える。追放された史実がある為、信長とはそりが合わなかったと解釈されがちであるが、信長がこの書状の直前まで軍部の副司令官の座につかせ続けたという事実が二人の関係を物語っている。
しかし長年付き添った間柄だからこそ、他人には見えない確執も多少あったのであろう。
金ヶ崎の撤退戦での讒言は「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷(そうは言われましても我々のような優秀な家臣団をお持ちにはなれますまい)」と口答えをしたとされるが、信長にこう言った口を利ける配下は信盛くらいであったと想像できる。
「童のころから殿を知っている」
この様な自負(信長は傲慢と捉えた)は、親子の様な信頼関係を築いてきた両者の距離を徐々に広げていったのではないか。信長も跡目相続から補佐してきてくれたこの家老に、長年気を使ってきた事も想像できる。
しかし、強敵本願寺を下し、天下布武が現実味を帯びて来た今、家臣団の再編成を思い立った。
この粛清は下記の思惑が相まって、実行されたと感じられる。
① 強敵本願寺を倒し、今後の戦は地方遠征が基軸となる為、軍団の再編成が必要であった。
② 老齢で身分の高い武将達のこの後の活躍の見込みがないため、彼らの役割を、より将来性のある配下に任せる思惑があった。
③ 「成果を出さなければこうなる」と配下衆を引き締める狙い。
④ 元々そりの合わない武将であったが、今までは政権基盤脆弱な段階で大胆な粛清は出来なかった。畿内を制圧した今なら家臣の動揺も抑え込められると踏んだ。
⑤ 信長の精神のタガが外れ、過去の些細な恨みが大きく爆発した
折檻状にもあるが、信盛親子による昨今の増長も、目に余るものがあったのであろう。
突如堪忍袋の緒が切れた信長は、彼を失脚させる理由をあれこれと並び立てる。
金ヶ崎の撤退での讒言・本願寺包囲の武功不足・三方ヶ原での戦場離脱・・・
どれも彼の立場を崩壊させるほどの失態とは言えない。
本願寺の要塞に立て籠もる門徒衆は一筋縄で破れる相手ではなく、城を包囲し、長期戦を企図したのは信長である。三方ヶ原の戦いでも、家康には「野戦に応じるな」という指示のもとでの戦であった。讒言にしても、処罰するのであれば撤退後すぐに下すべきであるのに、10年後にこれを言い渡すとは言いがかり以外の何物でもない。
まるで信盛を失脚させようという怒りが激しく込み上げた反面、正当な理由が見つからずあれこれ理由を並べ立てたようだ。
この追放劇は信盛に留まらない。
長年信長に付き添ってきた、林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝なども同様に追放される。
家老の林貞頼の追放理由ではさらに言いがかりの度合いが顕著である。
「25年前、跡目相続の戦いで弟信勝を擁立した」
こんなことが現社会で起きれば、逆に企業が訴えられるような案件である。
追放の理由はそれぞれ以下の通りである。
① 佐久間信盛 10年前の讒言
② 林秀勝 25年前の叛旗
③ 安藤守就 8年前の武田家内通疑惑
④ 丹羽氏勝 詳細不明 工事現場で配下が巨石を信長の目の前に落とした事が遠因とも。
この前年には徳川家康の嫡男・信康を切腹させると言う、いわば内政干渉を行い、同盟者であった徳川家康を事実上の臣下として内外に知らしめた。
信長にとって絶対的な専制君主としての地盤を固める時期になっていた感は否めないが、個人的には、精神的に不安定な状態であったのではないかと思う。
事実、自ら下した信盛の追放を気の毒に思ったのか、後年に信盛が死ぬと、直ぐに息子の信栄を信忠の配下として赦免している。
本願寺との抗争という、長年の戦役から解放されるが、精神的には疲弊しており、その後の影響や周囲への配慮に事欠いた部分もあったのではないか。
そして信盛の後任として、近畿官僚の立場を与えるのが、明智光秀である。
これが彼にとって命取りとなる選択であろうとは、この時は知る由もない……。
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