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戦国一の傾奇者・水野勝成

倫魁不羈りんかいふき』という言葉をご存じだろうか。


造語に近い言葉であるが、意味としては「勢い凄まじく、誰にも制御できない」「飼いならす事の出来ない暴れ馬」といったニュアンスであろう。


あの徳川家康も手を焼き、『名将言行録』など後年の書物において、不羈(制御できない)と称される稀代の武将がいた。



その名も、備後国福山藩初代藩主・水野勝成である。




現代・戦国時代の傾奇者として著名なのは、やはり前田慶次であろうが、「史実」に名を残す彼のスケールの大きさは、色彩が多少異なる。


自由奔放に生きた彼の生涯は、正に「事実は小説よりも奇なり」という言葉を体現したような人生であった。



戦国一の傾奇者・水野勝成について紹介したい。



~~~


勝成は、永禄7年(1564年)に、三河国刈谷城主水野信元の末弟・水野忠重の嫡男として生まれた。


水野氏は清和源氏諸流の士族であり、尾張と三河の国境、知多半島を本拠地とする国人大名である。織田信長の台頭と共に織田家に従属するが、立地上、徳川家との結びつきも強く、忠重の実姉・於大の方は徳川家康の生母である。忠重は水野家の末子であったが、家康の叔父という立場であり、戦場では信長からも武勇を認められる猛将でもあった。




【名家生まれにも関わらず、各家を放浪する自由人】



恵まれた家系に生まれた勝成が、その後不羈と称される大きな要因は、仕えた主人の多さであろう。


列挙すると以下の通りである。


水野忠重(徳川家康→織田信長→信雄)→仙石秀久→豊臣秀吉→佐々成政→黒田孝高→小西行長→加藤清正→立花宗茂→三村親成→徳川家康→秀忠→家光


88歳の高齢まで生きた彼は、父に従ったケースも含め、実に14人もの人物に仕えている。


主人の多さでは藤堂高虎が有名であるが、彼は自らの出世の為に鞍替えを繰り返した強かな謀将であったが、勝成の場合、所々で問題を起こすトラブルメーカーであり、気に入らない事が起こると直ぐに出奔する癖があった。


(*高虎は死別による出奔を含め11人に仕えた)


父から受け継いだ武勇の才は、若い時から既に開花しており、天正7年(1579年)16歳で臨んだ初陣である第二次高天神城の戦いでは、早くも敵将の首を討ち取るという活躍を見せ、信長から感状を与えられている。



これは並々ならない快挙である。



どのような訓練を積んだところで、実際に血の匂い漂う戦場に降り立てば、気を飲まれ、視界が狭まり、手足が硬直して思う様に動けないモノである。勝成は初陣であるにも関わらず、自ら槍を扱いて敵中へ突き入り、敵を討ち取ったのである。


「あの若将は只者ではないぞ…!」


周囲は皆そう思ったであろう。



その後も織田徳川による「甲斐征伐」に従軍し、父と共に戦果を挙げた。


一方、本家である水野信元は、天正3年(1575年)に武田氏との内通の嫌疑をかけられ、信長の命令で自害させられており、本拠地の刈谷城は織田家の佐久間信盛に与えられていた。


しかし忠重は水野一族として処罰は受けず、信長の配下として戦果を重ね、天正8年(1580年)8月に佐久間信盛が織田家を追放されると、忠重は信長より水野家を継ぐよう命じられ、刈谷城を与えられたのである。


末弟であった忠重だが、水野本家を継ぐ事となり、勝成の立場も一層強まった訳である。


父の血を引き、若年から武将としての才覚を発揮する勝成に周囲は期待を寄せていた筈であるが、それ以上に彼は素行不良であった。


同僚や家臣との些細ないざこざは日常で、父忠重も手を焼いた。


「将たる者、常に周囲を見渡し、冷静に事を運ぶ度量が必要である」


忠重は日頃から衝動的な息子を窘めていた。





天正10年(1582年)本能寺の変が起こり忠重が所属していた織田家が分裂すると、水野親子は信長の次男・信雄に仕える。直後に起きた天正壬午の乱では、勝成は父から独立した隊を預かり、援将として徳川家康の下で働きを見せた。


しかし、平素から素行不良の勝成は、ここで大将らしからぬ行動を行う。


鳥居元忠、三宅康貞と共に北条氏忠の陣に攻め込んだ黒駒合戦での出来事である。


この攻撃に際し、鳥居元忠は勝成に出陣を知らせず自軍のみで行動していたが、これを知った勝成は元忠を単騎追いかけると、こう言い放つ。


「先陣を任されたのは儂の隊であろう! 抜け駆けとは卑怯千万! 今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行おう!」



「生意気な小童が何と申す!」



憤慨する元忠を他所に、勝成は激しくまくり立てると、自ら先頭を切り敵陣に突入したという。そして数多くの首級をあげたのであった。


勝成はとにかく自らが先頭に立ち、敵陣に突撃しなければ気が済まず、一番槍や一番首の名誉を受ける事こそ侍の本分と思っていた。


しかし戦後、父忠重は激怒し勝成を厳しく叱責した。


「お主は大将としての自覚は無いのか! 軍令に従わねば、どの様な災いを引き寄せるか分からぬぞ!」


鳥居元忠は家康が幼少期から仕えた徳川譜代の重臣である。その人物といざこざを起こした勝成に、父忠重は面目を潰されたと思ったのである。


(なにを言うのか……。 抜け駆けをしたのはあちらではないか。 家康殿の顔色ばかり気にしおって……)


戦国の混乱期は続き、天正12年(1584年)になると小牧・長久手の戦いが勃発する。


織田信雄の与力である忠重に従い、徳川軍の石川数正と共に岡田善同の籠もる星崎城を攻略する。勝成はここでも自ら先頭を切って城に突入し占拠した。


戦に及べば必ず先陣をきり、戦果を挙げる勝成を周囲は賞賛するが、意気揚々と手柄を自慢する息子に対し、忠重は険しい表情でこう言い捨てる。



「お前は兜を小便壺にでもしたのか!」



勝成は、眼病により兜を着用しておらず、鉢巻をしていた為それを咎めたのである。


勝成は憤怒の表情を浮かべ、言い返した。



「父上ながらあまりのお言葉! 兜がないことで頭を割られても、それは時の運でありましょう! 一番首を取るか、自分が取られるか見ているがよい!」



そう叫ぶと、敵陣に突入し、一番首を取って家康に持参したのである。


「武勇絶倫とは水野の倅の事であろう」


徳川の諸将は口々に褒め称えるが、忠重は勝成の自分勝手な行動を許さない。


「先駆けは軍法に背く者。 大将たる将器では無いわ」


親子の確執は深まるばかりであった。





【 水野家を捨て放浪の侍へ 】



天正12年(1584年)に起きた蟹江城合戦により、勝成の人生は一変する事となる。


「父上の権勢を笠に着た痴れ者よ! 儂への讒言はすべて聞こえておるぞ! 覚悟せよ!」



陣中で突如刀を抜き放ち、激しく罵倒すると、そのまま相手を袈裟切りに斬り捨ててしまった。


「なんと! 乱心したか」


徳川家康・織田信雄が羽柴秀吉と伊勢国桑名で睨み合う陣中においての事件である。


陣所は騒然とし、騒ぎを聞いた忠重は猛烈な勢いで勝成に凄んだ。


「何たる蛮行! もはや許しては置けぬぞ! お主はこれより勘当と致す!」



「望むところじゃ! 堅苦しき父上の元では息苦しくて仕方ないわ!」



勝成は日頃から仲の悪かった富永半兵衛という侍が、父忠重にあれこれ自身の讒言を繰り返している事を知り、憤慨して斬り捨てたのである。


家康の取り成しもあったが、忠重は頑として勝成を許す事無く、奉公構ほうこうかまえという厳しい処分を執った。


奉公構とは、出奔した家臣について他家がこれを召し抱えないように釘を刺す回状を出すことをいい、旧主からの赦しがない限りは将来の仕官をも禁止されるため、通常の追放刑よりも一層重い罰である。



勝成21歳の時である。



以後、無頼漢としての生活が始まる。


名家に生まれた若君であったが、生来の素行の悪さは筋金入りであったようだ。


美濃・尾張の縁者の下を転々とし、遂には京都にいく。


京都では従者も連れず闊歩し、南禅寺の山門に寝泊まりし、町に出ては多くの無頼の徒と交わり、悪徒をまとめ上げ、清水では半ば戦争の様な大喧嘩を始め、多くの人を殺害する事件を起こしたという。


その悪名は瞬く間に京中に知れ渡ったが、家康と従妹という名家の御曹司である。


その武勇を欲する大名家からのスカウトは日々届いていた。



「水野の倅は父者と仲違いし放浪しておるとか。誠惜しい人物じゃのう……」


織田信長による天下統一事業を事実上引き継いだ羽柴秀吉は、小牧長久手の戦い後、表面上和解していた徳川家康に対しての警戒を解いてはいなかった。


勘当されているとはいえ、家康の親族となる勝成を利用する事を思いつき、陣営に取り込む様、織田信雄に密かに命じたのである。


「羽柴方といえ、もはや家柄など関係ない! 久しぶりの戦を楽しもうではないか!」 


勝成は、内在的には徳川と敵対姿勢である羽柴陣営に加わる事には流石に複雑な心境であったが、天正13年(1585年)3月27日の紀州雑賀攻めには揚々として参加している。


そして同年に四国征伐(第2次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わり戦果を上げると、秀吉から摂津国豊島郡700石の知行を授かった。


奉公構の最中であったが、1年の浪人生活を経て、父忠重の意向が届かない地で、ようやく奉公先を得たのである。






【不羈の真髄を発揮】



「あの痴れ者を生かしておくな!」


秀吉の逆鱗に触れた勝成は、放たれた刺客から逃れる為「六左衛門」と名を変え、中国地方に逃亡していた。


事の詳細は不明であるが、一説によればここでも再び家中でいざこざを起こし、明輩を殺害した為とも言う。


そして秀吉の追求を逃れる様に九州へと向かう。


暴れ馬勝成は、ここで不羈としての真髄を発揮するのである。



天正15年(1587年)には肥後領主・佐々成政に1,000石で召し抱えられ、隈部親永の反乱(肥後国人一揆)が起きると菊池城攻めで一番槍をあげ、隈本城救援戦で先鋒となる。


この戦いでは武勇を知られた阿波鳴門之介と戦功を競い、一説によれば隈部親子を討ったのは勝成であるといわれる。


乱後に成政が一揆発生の責めを受けて切腹させられ、小西行長が肥後を領することになると、豊前領主・黒田孝高に仕官した。


豊前国人一揆では、長岩城を攻めあぐねた黒田軍が退く際に後藤基次と殿を争った。


その後、豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かう孝高の嫡男・黒田長政に随伴したが、備後国鞆の浦で下船し出奔した。


長政に操船の手伝いを命じられ憤慨したためとも、過去に秀吉の怒りを買っており大阪行きを嫌ったためともいわれる。


天正16年(1588年)には小西行長に1,000石で仕官する。


天正17年(1589年)の天草五人衆の反乱(天正天草合戦)では、行長の弟・小西主殿介の副将を務め、当時小西家に仕官していた阿波鳴門之介と戦功を競った。


志岐鎮経の本拠志岐城を加藤清正の援軍と共に攻略、さらに天草種元の本渡城を落とした。


その後、行長の元を去り清正、次に立花宗茂に仕官したものの、いずれも間もなく出奔した。




もはや、戦に参加する為だけに仕官する傭兵の様な鞍替えの数々である。

戦に臨めば必ず一番槍・一番首を狙い先陣をきって突撃するのである。




ここから数年の間勝成の流浪生活が再び始まり、その足取りは様々な伝説と憶測と逸話に彩られはっきりとしないが、最終的に備中国成羽の国人・三村親成の食客となった。


文禄3年(1594年)9月、月見会の席上で作法上の問題で茶坊主の処置を無礼なりとして、これを斬って出奔する。


しかし翌年正月、再び成羽に帰り三村家の食客になった。


このとき勝成は世話役の娘に手を付け子供をもうける。これが室となる於登久おとくであり、この子供が後に福山藩第2代藩主となる勝俊である。





【 因果は巡る 】



慶長3年(1598年)、秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、翌慶長4年(1599年)、勝成は妻子を残して上洛し徳川家康の幕下に加わった。


そして、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・忠重と15年ぶりに和解している。


15年仲たがいを続けた父の元へ帰る事となった背景には何があったのだろうか。


いわんや、戦中に常に身を置いてきた勝成は、豊臣家と徳川家の対立が顕在化し、不穏極まる世情の中、日本を二分する大合戦を予測していた為に違いない。



「一世一代の大戦に参加せずにはおられまい!」



そうして始まった慶長5年(1600年)の会津征伐では、家康に従って下野小山に宿陣している。


ここで水野家、そして勝成にとって大事件が起こる。


7月18日、三河国池鯉鮒において、浜松から越前府中の新領に帰る堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した父・忠重は、同席した加賀井重望と口論になり、殺害されるのである。


重望は堀尾吉晴も襲い、17か所の槍傷を負わせたが、返り討ちにあった。


この事件の真相は謎であるが、『徳川実紀』によると、殺害された重望の懐から石田三成より家康関係者を殺害することによって領地恩賞を与えるとの書状がでてきたという。



これにより7月25日、家康に従軍していた勝成は一旦刈谷城に帰り、三河国刈谷3万石の跡目相続を命じられるのである。



水野家帰還から、僅か2年余りの出来事であった。



そして始まった天下分け目の関ヶ原の戦い。


勝成は関ヶ原への従軍を家康に願いでるが許されず、大垣城への抑えとされた。


「戦で手柄を立てぬわ本意でない!」


勝成は、明輩らと共に石田三成が出撃した直後の大垣城を攻め、瞬く間に三の丸まで攻略する。


しかし、攻城途中に関ヶ原本戦の勝利の情報が届くと、囲みを解いて曽根に撤退した。


勝成は失墜した大垣城の士気をみると、調略を行う事とし、相良頼房・秋月種長・高橋元種らが内通すると、23日には守将の福原長堯は降伏して城を明け渡した。



猪突猛進の荒武者勝成が、計略を働かせた場面である。



無事落城を見届けた勝成は、城内に残った敵将の中に、加賀井重望の息子・弥八郎が残っていた事を知る。


「息子に恨みは非ずが、戦乱の世に生きた因果を果たそうぞ」


勝成はこれを殺して父の仇打ちとしたのであった。




気性激しく、乱暴者の勝成であるが、一角の武士としての清廉さを現す逸話が残っている。




戦後、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊ら合戦の首謀者らが捕まり、大坂・堺を引き回されているとき、彼らに恨みある多くの武将が口汚く彼らを罵った。


福島正則は馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤したという。


勝成は、そんな彼らの前に姿を現すとこう告げる。


「戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥ではない。戦の勝敗は時の運。将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥であろう。経緯はどうあれ、命を賭して戦った貴殿らの雄姿を蔑むつもりはありません」

そう言い、用意していた編笠を被せてやったという。


短期間と言え、旧主である小西行長への配慮と言われているが、家康の親族が敵将に情けを掛ける事は政治的に憚れることであるが、勝成の剛直な武士としての心情が伺える逸話である。





【大胆不敵な性癖は変わらず】



慶長6年(1601年)に勝成は従五位下に叙任され「日向守」を名乗った。


日向守は明智光秀が名乗っていたため、それ以来名乗るものがなかったが、勝成は気にすることなく笑い飛ばし逆に日向守を欲したという。


以後はその勇猛さから「鬼日向」と渾名されることもあった。



時は流れ、慶長19年(1614年)江戸幕府設立後も、依然大阪に君臨していた豊臣秀頼に引導を渡すべく、ついに大坂の陣が勃発する。


61歳、もはや老齢となった勝成の生気は、一向に衰えを知らない。


「久々の戦じゃ! 血が騒ぐのう」


勝成は勝俊を連れ、揚々として参加した。



夏の陣では、家康より大和口方面の先鋒大将に指名されるが、


「お主は将であるから、昔のように自ら先頭に立って戦ってはならぬぞ!」と事前に厳しく命じられる。



しかし流石は不羈である。家康の諫言を易々と聞く訳が無かった。



5月6日、河内国志紀郡道明寺村付近において後藤基次と対峙すると、前夜のうちに単騎で小松山を登り、地形を確認。ここに敵を誘いこんで撃破する作戦を立案する。



「一番槍は儂のモノじゃーー!」



明朝、上手く後藤隊を誘い込んだ勝成は、開戦の法螺貝と同時に、自ら槍を掲げ敵に突進する。


そしてまんまと一番槍をあげ、不意を突かれた基次の部隊は壊滅したのであった。61歳の老将がである。



「このまま勢いに乗って蹴散らせ!」



さらに勝成隊は、本隊である伊達政宗隊と共に誉田村に兵を進め、渡辺糺隊と戦端を開くと瞬く間に糺に深手を負わせ蹴散らす。そしてそのまま追撃戦になり、薄田兼相隊も壊滅させる。


戦場を鬼神の如く駆け回る勝成であったが、大阪方主力の真田信繁、毛利勝永、明石全登、大野治長らの軍が進軍してくると、猛烈な反撃を受け、寄せ手は大きな損害を被った。


特に真田信繁による反撃により、伊達本隊の被害は大きく、戦況は膠着した。


勝成は興奮冷めやらぬ様子で、隣に陣を構えた伊達政宗へ決戦を促す。


「敵は烏合の衆! 今こそ大勝負に出る時であろうぞ!」


しかし、政宗は弾薬不足や死傷者の多さを理由にこれを拒絶。


「何を腑抜けた事を申すか!」


納得いかない勝成は、再三決戦を促す使者を寄越すと、政宗は遂に自ら勝成の陣所を訪れ宥めた。


「敵は窮鼠の状態。うかうかと手を出しては思わぬ痛手を被りましょう。焦らずとも大勢は変わりませぬ。損害を最小限に戦に勝つことも大将の務めではございませぬか……」



勝成は憤怒の表情を浮かべるが、家康からも再三咎めを受けている為、ここは引き下がった。


翌日、天王寺口において、死を覚悟した真田信繁は、徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行した。


この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至った。


信繁が指揮を執る真田隊は、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行。


精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入した。真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだった。


「小敵に情けなし!  深入りした敵を包み込め!」


家康の窮地を知った勝成は、すぐさま天王寺へ駆けつけ、越前松平隊とともに戦って茶臼山を落とし、後方を遮断する。


勢いを失った真田信繁は、松平忠直と本多忠政、松平忠明に足止めされ、そこに勝成は勝愛院の西の方から600人許りで真田隊に攻め寄せた。


三方から敵を受けた真田隊はついに壊滅した。


その後、越前松平隊は明石全登に崩されて、勝成の軍に逃げ込んでくるが、勝成はこれを叱責。


「誠不甲斐なき奴等じゃ! 弱敵など儂一人で十分!」


槍を手に自ら先陣に立ってこれを押しとどめると、猛反撃に転じ、全登の部隊を撃退した。


このとき勝成は自ら2つの首級をあげ、明石全登は勝成家臣・汀三右衛門が討ち取ったという。


そして大坂城桜門に一番旗を立てたのであった。



不羈の猛将の真髄、ここに極まりである。





【郡山藩主へ】



大坂の役の論功行賞では「戦功第二」とされた勝成であったが、その恩賞は僅かに郡山6万石での転封であった。



「儂の働きを何と思ったのか!」



勝成は憤慨し、家康に直訴する勢いを見せたが、その様子を聞いた2代将軍徳川秀忠は、彼を呼び寄せ宥める。


「お主の憤りも理解しておる。しかし家康公のいつもの悪癖が出てしまったのだ。父上の隠居後に10万石の知行を約束する故、ここは我慢してくれ」


勝成は憤怒を抑えきれないといった様子であったが、将軍から内諾を貰った以上、引き下がるより他なかった。


「あの短慮者は年を重ねても何も変わらぬ。主君の言いつけを守らぬものに褒美などあろうか……」


家康は勝成に、未だ不穏な大阪を見張るため重要な郡山を与えたものの、働きに反して過小な知行を与えた理由は、戦前に再三釘を刺していたにも関わらず、2度も勝成自身が先頭に立って戦ったため、機嫌を損ねた為と言われる。



倹約家として知られる家康は、配下の恩賞に関しても吝嗇であった。






【初代福山藩主・良政家としての資質を見せる】



そして元和5年(1619年)


福島正則の改易に伴い、勝成は従来の約束通り、秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石が与えられた。


荒武者勝成は、ここで良政家としての才覚を発揮させる。


海上交通を重視し、当時の中心地であった神辺と政庁であった神辺城に代えて瀬戸内海に近い今日の福山市に巨大な福山城を築いた。


福山入封後は藩政に尽力し、放浪時代に臣従し後に没落していた三村親成を高禄で家老職に迎えるなど、放浪時代の人脈を生かし、在地領主・郷士を積極的に登用した。城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させる。産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630年)には全国初ともいわれる藩札を発行した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。治水工事や新田開発や鉱山開発、タバコの栽培も積極的に行い、現在の福山市の礎を築いた。この他、宗教の保護にも積極的であった。


勝成の治世を耳にした隣国の備前岡山藩藩主・池田光政は「良将の中の良将」と評したという。水野時代の福山では、一度の農民一揆も起こっていない。





【衰えを知らぬ稀代の猛将】


寛永15年(1638年)、九州天草半島において『島原の乱』が起こる。


幕府から派遣された討伐軍が苦戦し混迷の様相を呈すると、水野家に対し、乱鎮圧への参加が要請された。


75歳となった勝成は、嫡子・勝俊、孫の水野勝貞を伴い約6,000人を率いて幕府軍に加わる。


勝成は2月24日に島原に到着し、同日に松平信綱の陣で諸将が集い、軍議が行われた。


ここで勝成の提案により総攻撃が決定され、2月28日に開始されることになったが、鍋島勝茂の抜け駆けにより27日に攻撃が始まった。


勝成の陣は原城包囲の最後列であったが、鍋島軍が三の丸から攻めるのに対し、水野軍は本丸を直接攻略し、勝成の嫡子・勝俊と有馬直純の嫡子・康純が本丸の一番乗りを争った。


しかし、勝成が前線指揮をとっていなかったからか、水野勢は同時に100人を超える戦死者を出すことにもなり、勝成の戦歴で最大の損害となった。


戦後、勝成は板倉重昌を討ち取った駒木根友房の首級の前で一曲舞う。


また黒田家臣の郡正太夫の活躍を称えて盃を与えたり、黒田一成、黒田一任親子の活躍を称える手紙を出した記録が残っている。


なお、島原の乱は幕府に配慮して軍功を記すことが憚られたため、勝成は幕閣首脳に大きな不満を持ち隠居を決断した。





【最期】


島原の乱の翌年、寛永16年(1639年)に家督を嫡子・勝俊に譲り一分斎と号する。


慶安3年(1650年)5月7日、87歳の勝成は、鉄砲を放ち、的に当ててみせ、諸人を驚かせたという。この的は現在も茨城県立歴史館に保管されている。


若年は不躾な荒武者の様な人生を歩んだ勝成であったが、士族の出自らしく文化人としても有能であった。


文学が好きで、特に俳諧を好んだと言われ、その他能楽も好み、秀忠から伏見城内にあった秀吉遺愛の組立式能舞台を拝領し、自ら演能した。


愛用の笛、銅簫どうしょう「不絶」が伝わっている。


連歌や和歌もよく嗜み、自ら作歌詠吟している。


勝成と智箭が連歌した百句が現存しており、言葉の使い方や辞句の配置などなかなか質の高いものだという。


晩年は、京都から俳仙といわれた野々口立圃を福山に呼ぶなどして福山藩の俳諧の興隆の礎を築いた。


また学問奨励にも努め、福山藩水野時代に、崎門学派の三傑と称せられる佐藤直方の他、中島道允・永田素庵を輩出している。



慶安4年(1651年)に福山城内において88歳で死去した。



神道の礼では聡敏明神として祀られ、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社があるほか、茨城県の結城城址脇にも聡敏社がある。


また、徳川二十八神将として日光東照宮に配祀される。


また、現在の皇室は勝成の子孫である。


*水野勝成―勝俊―勝貞―鶴(勧修寺経敬室)―勧修寺尹隆―高顕―顕道―経逸―東京極院―仁孝天皇





勝成は無鉄砲であるが、思慮が浅い軽薄な人間ではなかった。

しかし、己の信念に一途に過ぎた感もあった様だ。



晩年まで家康が手を焼いた不羈の将は、最終的には名君として現代に名を残した。



混沌とした戦国の世情の中、自分の思いのまま生き抜いた勝成の生き様は、強者揃いの戦国武将の中でも、特出して稀有であると言えよう。




戦国時代を中心に執筆しています。

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