戦国武将の辞世の句 ~蒲生氏郷~
戦国武士たちは後世に残る、数々の名歌を残している。
武芸鍛錬と同様に、俳句や和歌の技量を磨く事も武士の嗜みであった。
常に死と隣り合わせに生きた武士たちの死生観は、現代人には到底測り知れない。
そんな彼らの残す辞世の句は、「明日とも知れぬ命」という時代を生きた証を残す、何とも言えない哀愁を感じさせるものである。
数々の名歌が残る中、私が最も感銘を受けた詩を紹介したい。
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『 かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風 』
訳 : 風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか
これは、会津90万石の大大名・蒲生氏郷の遺した辞世の句である。
彼の事を知らぬ人でも、この句のすばらしさ、その無念と諦念、そして哀愁をひしひしと感じたのではなかろうか。
戦国有数の器量人である、氏郷の生涯を紹介したいと思う。
その生涯を知れば、この句で受けた感銘が更に深まるであろう。
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氏郷は、弘治2年(1556年)、近江国の守護・六角承禎の重臣である蒲生賢秀の三男として生まれた。
そして永禄11年(1568年)観音寺城の戦いで六角氏が織田信長により敗れると、賢秀は氏郷を人質に差し出して織田家に臣従する事となる。
氏郷には幼少期から器量人の素養があったのか、12歳の時、初めて信長と謁見した際にこう言われたという。
「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん」
(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)『蒲生氏郷記』
そして翌年、元服と同時に信長の次女・相応院を娶っている。
これはかなり異質な待遇である。
信長には10人以上の娘がいたとされているが、信長生前に婿となったのは以下の5人である。
・徳川信康 長女 徳姫 (1563年)
・蒲生氏郷 次女 相応院(1569年)
・前田利長 三女? 永姫 (1581年)
・丹羽長重 四女? 報恩院(1580年)
・筒井貞次 六女? 秀子 (1578年或いは1576年)
徳川信康は、徳川家康の長男であり、当時結ばれた清州同盟をより強固にするため重要な政略結婚であった。
前田利長、丹羽長重は共に信長子飼いの重臣である前田利家、丹羽長秀の息子である。
さらに筒井定次は大和国の守護を命じられた筒井順慶の息子であった。(当時本願寺など一向衆の不穏な情勢が背景にあり、こちらも政略的な婚姻である意味が強い。)
加えていえば、三女以下の婚姻時期は、織田政権の基盤が強固な段階である。
氏郷が信長の次女を娶り、婿入りした事の異質さ、(信長の入れ込み)が分かるのでは無かろうか。
その後は信長の義理の息子として、そして蒲生家の嫡男として、父と元に数々の戦場に向かう事となる。
元亀元年(1570年)4月、父・賢秀と共に柴田勝家の与力となり一千余騎で参陣し、朝倉氏を攻め、同年に当知行が安堵され、5,510石の領地が加増される(『蒲生文武記』『氏郷記』)。
その後、同年7月の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の第一次伊勢長島攻め、元亀4年(1573年)4月の鯰江城攻め、天正元年8月の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の第二次伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正6年(1578年)からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱(比自山城の戦い)など、信長の天下統一事業に際し、父と共に常に従軍し、武功を挙げた。
そして氏郷、蒲生家にとって大きな転機が訪れる。
いわゆる『本能寺の変』である。
天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。
光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈であ ったが、直前に山崎の戦いで敗死し、蒲生家は難を逃れた。
義父を失うも、何とか混乱期を乗り越えた氏郷は、ここで賢秀から家督を相続する。
その後は、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは3月に峰城、4月に戸木城、5月に加賀野井城を攻めた。
戦後、伊勢松ヶ島12万石に加増・転封となり、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。
この頃、大坂にてキリスト教の洗礼を受ける。
天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)や富山の役にも参戦。天正14年(1586年)、従四位下・侍従に任じられる。
天正15年(1587年)の九州征伐では前田利長と共に、熊井久重が守る岩石城を落とす活躍を見せた。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、韮山城を落とした後、小田原城包囲軍に参加。
ここで氏郷の猛将としての逸話が残る。
包囲中、敵将の太田氏房から夜襲を受ける。この時、氏郷は陣を回っていたため、甲冑を着る余裕がなく、近くにいた北川平左衛門の甲冑を借り、たった一人、乱戦の中で槍を抱えて敵の背後に回り、敵兵を次々と討ったという。
北条を滅ぼし、秀吉の天下統一事業がある程度収まると、氏郷にとって二度目の大きな転機が訪れる。
天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥国会津に移封され42万石(のちの検地・加増により91万石)の大領を与えられるのである。
この移封にはいくつかの逸話が残る。
・『常山紀談』によると、会津転封が命ぜられた時、宿舎に帰った氏郷は、「恩賞を賜るなら小国でも西国をと望んでいたのに辺境では武功の機会が失われる」と悲しみ涙を流したという。
・『名将言行録』では、秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れており、会津92万石に移した際、「松島侍従(氏郷)を上方に置いておくわけにはいかぬ」と側近に漏らしたという。
・『老人雑話』では、秀吉が会津に誰を配すべきか諸将に投票させたところ、そのほとんどが細川忠興と書いてあったので、これを見た秀吉はそれらを明なき者として氏郷を選んだという。
*どれも後年に描かれた逸話であり、真偽は不明。
秀吉の権勢も行き届き辛く、親家康派の多い東国を治め、彼らを牽制できる人物には、並々ならない器量が必要であったが、氏郷にその白羽の矢が立ったのである。
移封の最たる目的は、天下統一後も不穏な気配を残す、奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であった。
秀吉は黒川城を出発するに際し、氏郷と木村吉清を召し出し、両人の手を左右の手にとって「今後、氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清はまた氏郷を父とも主とも頼み、京都への出仕はやめて、時々会津に参勤し、奥州の非常を警固せよ。もし凶徒蜂起のことがあれば、氏郷は伊達政宗を督促して先陣させ、氏郷は後陣に続いて非常の変に備えよ」と諭したという。
会津の治世を始めた氏郷は、黒川城を改築し、鶴ヶ城と名付ける。
そして農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市・楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。
以降は、伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の葛西大崎一揆、九戸政実の乱を制圧するための遠征を行う。
同年12月、従三位参議に任じられる(『御湯殿上日記』『毛利家文書』)
文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城へと参陣。
この陣中にて体調を崩した氏郷は、文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状が悪化。
文禄3年(1594年)春に養生のために上洛し、10月25日には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した。
しかしこの頃には病状がかなり悪化し、誰の目にも氏郷の重病は明らかで、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。
文禄4年(1595年)2月7日、病状は回復する事なく、伏見の蒲生屋敷において、病死した。
享年40。
知勇兼備の勇将の、あまりにも早すぎる最期であった。
氏郷転封での秀吉の思惑は、伊達政宗対策と共に、彼と結びつきの強い徳川家康への牽制の意味もあった筈である。
秀吉死後まで彼が長命すれば、その後家康はどう動いたのであろうか。
旧織田家臣団の中心的存在として、前田利家と並び、家康に睨みを効かせる立場になったであろう若き勇将の早すぎる死は、その後の日本史に大きく影響を及ぼしたのである。
この辞世の句には、その様な彼の『無念』と、そして『諦念』の想いを馳せずにはいられないのである。
戦国時代を中心に執筆しています。
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