名君から愚将へと転落した四国の雄 ~長宗我部元親~
四国は土佐地方の一国人ながら、一領具足という剽悍な半農半士軍団を擁し、瞬く間に土佐一国を統一した『土佐の出来人』長宗我部元親。
土佐統一も果敢に勢力を拡大し、本能寺の変が起こると、中枢の混乱の隙を突き、四国の凡そを支配するに至った。
一門衆を積極的に有力豪族などへ養子縁組へ送り出し、遠方美濃国斎藤家からは正室を招き、畿内で台頭した織田信長へ早々に友好関係を結ぶなど、鋭い外交力を発揮し、四国の覇者として君臨した彼は、曲者犇めく戦国大名達の中でも器量人として名高い人物である。
しかし、後継者である息子信親を失った後は、それまでの名君ぶりからは豹変し、覇気を失い、愚将ともいえる低落ぶりを呈した事は意外に知られていない。
果たして元親は『鳥なき島の蝙蝠』であったのだろうか。
彼の生涯を追ってみたいと思う。
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元親は、天文8年(1539年)、長宗我部家第20代当主国親の嫡男として、土佐国中部の岡豊城で生まれる。
幼少の頃は、長身だが色白で大人しく、人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄され、父の国親は跡継ぎとして悩んでいたという。
その為か当時としては初陣も甚だ遅く、数え年23歳となった永禄3年(1560年)5月、父・国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた「長浜の戦い」においてようやく許された。しかも実弟である親貞と共にである。
「姫若子では戦は出来まい……」
父はじめ、周囲の諸将も元親に期待しておらず、むしろ若年ながら武将としての才覚を見せる親貞に期待が集まっていた。
しかし、元親は周囲の期待を良い意味で大きく裏切る事となる。
「積年の恨みを晴らすは今ぞ!」
敵軍の本山氏は、永正4年(1507年)に元親の祖父・兼序を自害に追い込んだ因縁の相手である。
元親は50騎を率いて突撃すると、70余の首を上げ、自らも騎馬武者を2人討ち取るという戦いぶりを見せた。
さらに勝戦の余勢を駆り、国親らの制止を振り切って本山方の支城・潮江城を無人と踏んで突入、城を奪取したのである。
「あの若子は爪を隠しておったか……!」
この働きに、父国親も大いに驚いた。
そして元親の武名は一挙に高まり、その後は「鬼若子」と称され、父国親も後継者として認めたという。
【土佐統一へ】
父の死後家督を継ぐと、当主としての才能を開花させ、父から受け継いだ『一領具足』という剽悍な戦闘集団を屈指し、精力的に領土拡大を狙う。
一領具足とは武装農民や地侍を対象に編成、運用した半農半兵の兵士および組織の呼称である。
平時には田畑を耕し、農民として生活をしているが、領主からの動員がかかると、一領の具足(武器、鎧)を携えて、直ちに召集に応じることを期待された半農半士の兵士達である。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称されたという。彼等は平時農作業に従事しているため、身体壮健なものが多く、また集団行動の適性も高かったため、兵士として高い水準にあった。
土佐の宿敵本山茂辰との抗争は6年に及んだが、国司の一条家と結び、弟親貞、親泰らを吉良家・香宗我部家へ養子に出すなど外交を屈指しながら堅実に勢力を拡大。
徐々に茂辰圧迫しつつ、同時に東土佐の安芸国虎ともしのぎを削った。
そして茂辰が病死すると、 跡を継いだ親茂を破り、永禄11年(1568年)ついに本山氏を排除し、 土佐中部を完全に平定。
そして永禄12年(1569年)には八流の戦いで安芸国虎を滅ぼし、土佐東部を平定する。
【 国司からの独立 】
着実に勢力を拡大する元親は、謀略家としての才能も発揮させる。
国司・一条家の乗っ取りである。
長宗我部家は15代当主当主・長宗我部文兼の時代に、戦乱を逃れるために上方から下ってきた一条教房を国司に迎え、一条氏を盟主とする国人の共同体を成すことで、土佐国内は安定を図ったてきた。一時的に衰退したとはいえ勢力を取り戻した細川氏の後ろ盾に加え、新たに一条氏の威光を得た長宗我部氏は、その後数代に渡って発言力を強めることが出来たのである。
しかし元親は、一条家が中国地方の毛利氏による圧迫を受け衰退の色を現し始めると、中央政権からの自立を目論み始めるのである。
「弱肉強食の時代に、過去の恩義などに囚われては、身を亡ぼすというもの……」
元亀2年(1571年)元親は一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込み取り込み、天正2年(1574年)2月には一条家の内紛に介入して一条兼定を追放して兼定の子・内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立てた。
こうして元親は土佐国をほぼ制圧したのである。
その後天正3年(1575年)追放された兼定が伊予南部の諸将を率い再起を図って土佐国に攻め込んできた『四万十川の戦い』が起こるが、激戦の末これを撃破すると、土佐国の支配を盤石なモノとしたのであった。
【四国の雄へ】
土佐統一後、中央で統一事業を進めていた織田信長と正室の縁戚関係から同盟を結び、伊予国や阿波国、讃岐国へ侵攻し、畿内にまで及ぶ大勢力を持つ三好氏との抗争が始まる。
同様に三好家と主権争いをする織田家は、その牽制の為長宗我部との同盟には前向きであった。そして織田信長は、元親の嫡男の烏帽子親となり「信」の一字を与えると、嫡子は「信親」を名乗る事となったのである。
幼少期から聡明な信親を元親は溺愛していた。
天正4年(1576年)軍事的支柱であった弟・吉良親貞が早世などもあって、阿波讃岐攻略には苦慮するが、天正6年(1578年)2月阿波白地城を攻め、大西覚養を討ち、また次男の親和を讃岐国の有力豪族・香川信景の養子として送り込み乗っ取る。
天正7年(1579年)夏に重清城を奪って十河軍に大勝すると、讃岐国の羽床氏なども元親の前に降伏し、天正8年(1580年)までに阿波・讃岐の両国をほぼ制圧した。
同時に侵攻する伊予方面においては、知勇兼備の将として信頼する軍代・久武親信が天正7年(1579年)春に岡本城攻めで戦死するなど苦戦を強いられるが、東予地方の白地から圧力と誘いをかけて金子元宅や妻鳥友春・石川勝重らを味方にして平定すると、残すは中予地方を支配する伊予守護・河野氏となった。
【織田家の圧迫と本能寺の変】
天正9年(1581年)
順調に進む四国統一事業に大きな難題が沸き上がった。
これまで友好関係を築いてきた織田信長が、元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫ってきたのである。
「遂に織田も手のひらを返したか……」
謀略家元親は中枢の状況も冷静に見守っていたが、遂にこの時が来たと嘆息した。
信長は、10年以上もの間抗争を繰り広げて来た本願寺と和睦し、大阪を手中に入れる事で、畿内の基盤をようやく盤石なモノとした。
これにより、地方の諸大名を屈服させるべく大掛かりな遠征軍を編成するつもりである。
しかし、信長の敵対勢力は北陸の上杉・甲斐信濃の武田・中国の毛利、など未だ多い。元親は直ぐに四国までは手が回らないであろうと考え、これを一蹴した。
「以前から四国切り取り勝手次第との達しを受けておった! 長年誼を交わした間柄であるにも関わらず、身勝手な事を言うでない!」
このため信長と敵対関係になり、天正9年(1581年)3月にはそれまで織田家に圧迫され続けていた三好康長や十河存保らが織田家の援助を受け、長宗我部家に対し攻勢にでるのである。
さらに中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉も、三好を通じて、元親に圧迫を加え始めた。
「……おのれ、忌々しき奴等じゃ……」
元親は目前とまで迫っている四国統一の夢を捨てきれず、厳しいと理解しつつも織田家との抗戦を続けた。
天正10年(1582年)3月着々と勢力を拡大する織田家は、扶桑最強の騎馬軍団を擁する甲斐・信濃の雄・武田氏を滅ぼすと、同年5月、遂に、神戸信孝を総大将とした四国攻撃軍が編成されるという危機に陥った。
四国内では、これに呼応するように三好氏旧臣らが元親を見限って織田側に寝返り、さらに阿波の一宮城と夷山城を落とした。
元親も流石に焦る。
四国に手が及ぶまでは未だ時間が掛かると思っており、信長の寵臣第一と名高い明智光秀を介し、交渉を進めていれば妥協策も見出せると思っていたからである。
しかし信長は甘くはなかった。
もはや日本最大の大兵力を持つ信長は、敵対者は徹底的に叩く姿勢を顕著にしている。
これにより関東の雄北条家は早くも恭順の姿勢を示し、中国の毛利家も織田の圧迫に為すすべなく、講和を模索しているという。
「……しかし、ここまで苦労して切り取った領土をみすみす手放す訳にもいかぬぞ……!」
元親があれこれ思案していると、織田側の斎藤利三から急書状が届いた。利三は明智光秀の家臣であり、元親の親族でもある。
『これ以上意固地を続けては身の為にならない。光秀様も苦慮している。上様(信長)の意向に沿う事がお家の為である』
元親は大きく嘆息すると、嘆息しながら言った。
「ここが潮時か……」
元親は観念すると、「土佐国・阿波二郡のみの領有と上洛に応じる」と応じる書状を認め、恭順を決めるのであった。
しかし、恭順を決めた僅か数週間後、日本全体を驚愕させる大事件が起こった。
いわゆる本能寺の変である。
突如信長が明智光秀に討たれると、 信孝率いる四国遠征軍は解体して撤退。
元親は危機を脱する事が出来たのである。
【念願の四国統一へ】
「天は我らに味方した!」
元親は畿内の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を8月に中富川の戦いで破り、翌9月には勝端城を落すと、阿波を完全に平定する。
さらに10月には存保が逃れた虎丸城や十河城を攻めた。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗する。
三好と縁の深い秀吉へ対する牽制措置である。
これに対して秀吉は家臣の仙石秀久を淡路洲本に入れて備えた。 また元親に追われた十河存保は秀吉に援軍を求め、秀吉は秀久に屋島城・高松城など讃岐の長宗我部方の城を攻めさせる。
しかしここにきて元親は果断であった。十河軍を難なく打ち破ると、小西行長の水軍が香西浦より攻め込んだが、これも撃退した。
しかし4月に勝家は秀吉に敗れて滅んでしまい、再び情勢は不穏になる。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いが勃発すると、織田信雄や徳川家康らと結んで対抗し、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破った。
また新居郡の金子元宅と同盟し、南予の西園寺公広の諸城を落とすなど、伊予国においても勢力を拡大。6月11日には十河城を落として讃岐を平定する。
しかし小牧の戦いは、秀吉と信雄が和睦するという形で、またしても不利なまま終結してしまう。
しかし元親は四国統一の夢を諦めなかった。
天正12年3月、毛利氏は宍戸元孝を河野氏救援のために派遣し、恵良で長宗我部軍と衝突するが、元親は東予の金子元宅との同盟をさらに強固にして9月から反攻に転じると12月には遂に河野氏は元親に降伏した。
その後、天正13年(1585年)春までに西予の豪族なども降伏させると、事実上の四国統一を果たす事となるのである(諸説あり)
【秀吉への恭順】
天正13年(1585年)春、秀吉が紀州征伐に出てこれを平定すると、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。
元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず5月には弟・羽柴秀長を総大将とする軍が派遣される。
「生意気な猿めが、易々と領土を渡してなるものか……」
元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦したが、秀吉は宇喜多秀家・黒田孝高らを讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと、10万とも言われる大兵団を同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略していった。
見た事もない大軍勢による同時攻撃に、元親は為すすべなく次々に支城を落されていく。
元親の家臣谷忠澄は侵攻軍の様相を見てこう記す。
『上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない』
四国の覇者となった長宗我部家であったが、所詮は地侍の割拠する辺境の地を支配したに過ぎず、大海を知らぬ田舎侍であった事を痛感したのである。
元親は当初降伏を勧める谷忠澄の言を一蹴し、「土佐が焦土となるまで徹底抗戦する」と主張したが、続々と押し寄せる敵の大軍に士気も上がらず、7月25日には遂に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された。
秀吉軍の四国征伐軍上陸から僅かひと月余りの出来事であった。
そして元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓うのである。
【九州征伐と信親の死】
天正14年4月5日、豊後の大友宗麟は豊臣秀吉に大坂で面会し、島津義久が領土に進入してきたことを訴え救援を求めた。
秀吉はこれを了承し、黒田孝高に毛利の兵を総括させて先発させ、さらに讃岐の仙石秀久を主将にし、長宗我部元親・信親を加え豊後に出陣を命じる。
いわゆる九州征伐の開始である。
薩摩より侵攻してきた島津家久軍は、大友氏の鶴ヶ城を攻撃した為、仙石秀久と長宗我部信親子はこれを救援しようと戸次川に陣を敷き対峙した。
秀吉は旗下の軍監である仙石秀久は言う。
「島津の弱卒は我らの救援に動揺しておる。ここは一刻も早く川を渡り急襲をしかけるべきであろう」
しかし信親は反論した。
「島津は剽悍無類と専らの評判。さらには死を恐れるは恥と考えておる為、戦意盛んである事間違いありません。ここはお味方の加勢を待つが得策と存じますぞ」
久秀は憤怒の表情を見せ大喝する。
「何を弱気な事を申すのか! 臆病風に吹かれれば戦機を失おうぞ!」
信親はグッと歯を食いしばり、見かねた元親も口を挟む。
「敵の旗色を見る限り戦意旺盛なのは間違いないかと。ここは慎重に事を進めるべきでは」
しかし久秀は激昂し言い放った。
「良いわ! 敵がそんなにも恐ろしいのであれば、黙ってここで見ておるがよい」
彼は小身から秀吉に見いだされ、この征伐軍に大抜擢された為、明らかに功に焦っていた。
元親親子は臆病者と罵られ、従うほかなかった。
「馬鹿者め……。泣きを見る事にならねば良いが……」
そして開かれた戦闘は、元親親子の予想通りとなった。
渡河して布陣した征伐軍は、先陣の仙石の部隊が不意を突かれ突入を受けると、脆くも敗走するのである。
「これはとても防ぎ切れぬ!」
軍議では声高に息巻いた久秀であったが、すさまじい鉄砲の猛射と、剽悍無類な薩摩隼人の猛攻を受けると、直ぐに戦意を喪失したのであった。
そして残された長宗我部軍の3千は敵中に孤立し、島津方の新納大膳亮の5千の兵と戦闘状態になった。
元親と信親らは乱戦の中で離ればなれになってしまい、元親は乱戦の中で戦場を離脱することに成功するが、信親は踏みとどまって戦い、そして討ち死にしてしまう。
信親は前夜の軍議後、家臣にこう漏らしたという。
「信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ」
作戦を一蹴された挙句、臆病者と罵られた彼は、武士の面目を保とうと自ら敵中に突入し、敵将を斬り捨て、斬り捨て、散々に荒れ狂ったのち討ち取られた。
享年22歳。
将来を大いに期待した嫡子信親の死を知った元親は、辺りも憚らず狼狽する。
「この上は儂も討ち死に致そうぞ!」
絶望し投げやりになった元親を、家臣達は何とか説得すると、そのまま九州をも脱出し、伊予国の日振島まで逃走したのであった。
「あの戯け者めが!!」
遠征にあたり、戦端を開かないように厳命していた秀吉は、仙石の命令無視と豊臣政権の権威低下につながる敗戦に激しく怒り、仙石の讃岐国の領地を没収したのであった。
こうして秀吉による九州征伐の第一陣は、脆くも敗退したのである。
【名君から暗愚の将へ】
後継者として期待していた信親が戦死した後、元親は英雄としての覇気を一気に失い、それまでの度量を失っていった。
その顛落ぶりは、後継者問題で如実に表れる。
「世継ぎは盛親に定める」
元親は次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親を後継者に指名したのである。
(……何故盛親様を……)
盛親は勇敢だが素行が悪く、兄弟の中でも傲慢で短気な性格であった事から嫌悪感を持つ者が多くいた。
家内の人望薄い盛親の指名に、多くの者は疑問に思った。
元親と従妹の関係にある比江山親興や、甥の吉良親実などは声高に反対する。
「正当なる御後継者は親和様ではございませぬか! 親和様は当家をまとめたる器量人と存じ申す。盛親様では度量が足りぬかと」
しかし元親は激昂した。
「何たる物言いか! よもや親和と共謀して儂を陥れようとの魂胆であるな!」
「……何ですと! その様な事がある訳ございません! 冷静になってくだされ!」
しかし元親は聞き入れず、一門衆である二人を相次いで切腹させてしまう。
そしてその妻子など一族郎党をも皆殺しにするのである。
この粛清は家内の動揺を大きく広めた。
(仁慈に厚い元親様はどこへ行ってしまったのか……)
この裏には、盛親を推す重臣久武親直と、親実・親興との内部抗争であったとも言う。
親直は生来狡猾な人物で、兄の親信は生前「自分が戦死しても、御家の害になるので弟に後を継がせないように」と元親に助言する程の人物であった。
しかし元親は、何かと取り入ってくる親直を傍において重宝する。
そして親直は若年で扱いやすく、自分と懇意であった盛親を推す事で自分の立場向上を図ったのであった。
「親和様は、親実らに唆され、将来元親の寝首を掻くやも知れません……」
比江山親興や、吉良親実と犬猿の仲であった親直は、常々彼らの失脚を狙っていた。
そして日々元親の耳元で日々こう呟くと、元親の妄想は広がるばかりであり、家内でも信頼の厚い一門衆を粛清してしまったのであった。
そして後継者として除外された親和は失意のまま病に罹り、天正15年(1587年)に岡豊城下で死去する。
そしてその遺体は一族累代の墓所には葬られず、岡豊山麓の小さな墓石の下に葬られたのであった。
また、三男の津野親忠は、その後父から冷遇され、家内での発言力は失墜するのである。
信親の死による元親の落胆は凄まじかったらしく、『逆らうものは皆殺し』という苛烈な方策を示した。
もはや土佐の出来人と言われた頃の、平常な判断力を完全に失ってしまったのである。
【豊臣政権下から後年】
盛親が長宗我部家の跡継ぎに決定した後、親子は共同支配者として二頭政治を行ったが、四国に覇を唱えた頃の活力は失われていた。
政務の多くは久武親直の助言に左右される事となる。
天正18年(1590年)小田原征伐では長宗我部水軍を率いて参加し、後北条氏の下田城を攻め、さらに小田原城包囲に参加。
天正19年(1591年)本拠を浦戸城へ移転。
文禄元年(1592年)朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従軍。(忠清道に在陣。兵站の保全と輸送が主な任務)
慶長2年(1597年)3月に盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定。
各所で豊臣家臣団の一員として戦果を上げるが、特段目立った功績も無く、豊臣政権下おける加増は受けていない。
そして慶長4年(1599年)3月、突如として三男の津野親忠を幽閉した。
これにも親直の讒言が起因する。
「親忠様は盛親様の兄にも関わらず、家督を継げないのをお恨みになっている様です」
もはや元親に自ら物事を判断する器量は残っていなかった。
そしてその直後から体調を崩しだす。
4月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在。
5月に入って重病となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は5月10日に盛親に遺言を残して、5月19日に死去した。
享年61。
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毛利元就、宇喜田直家、斎藤道三などと同様に、小身から瞬く間に大身した稀代の謀将は、息子の死によりその牙を捥がれると、途端に覇気を失い、その後は歴史の陰に身を潜めてしまった。
信親生前は、下級武者の意見なども幅広く聞き入れる度量を見せ、裏切者の親兄弟などにも慈悲を与えるなど、「律義者」として人心を掴む術に長けていた人物であったが、嫡子を失ってからは、冷静な判断力や忍耐力も失い、壮年にも関わらず、早くも世を諦観してしまったかのようであった。
死に際に至り、自身の死後僅か1年で、22代続いた名家が失われると予想できたであろうか。
いや、もはやその後の事などどうでも良いと、すべてを諦観して世を去ったと思わせる様な、静かな最期であった。
戦国時代を中心に執筆しています。
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『叛逆の刻(明智光秀と本能寺)』
『勇将の誤算~浅井長政~』
『背信の忠義~吉川広家~』
『逡巡の決断~小早川秀秋~』
『痴れ者の仁義~荒木村重~』
『武士の理(忠義の武将短編小説集)