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壮絶な最期を遂げた不屈の戦国武士  ~丹羽長秀~

丹羽長秀と言えば、信長子飼いの武将筆頭として、主に行政面で活躍した人物という印象を持たれる方が多いであろう。


「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評に表される様に、織田家の重役にも関わらず、猛将・柴田勝家や、天下の出世頭・木下(豊臣)秀吉に比べると、その経歴は多少地味に感じられるかもしれない。


そして、行政官僚としてのイメージなのか、どこか温和な印象を受ける長秀である。


しかしながら、彼が死に際し見せた覚悟は、戦国武士の不屈の精神を体現したかのような、鬼気迫る壮絶なモノであった。


そんな気骨者・丹羽長秀のエピソードを紹介したい。






丹羽長秀は、天文4年(1535年)9月20日、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉に生まれ、信長の家督相続争いから一貫して仕えた重臣である。


『米吾郎左』の異名を持つ彼は、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない存在であると評され、信長の天下統一事業に多大なる貢献をした。



織田信長はそんな彼をこう評する 


「長秀は友であり、兄弟である」


事実、長秀は信長の養女・桂峯院を妻に迎え、嫡男の長重も信長の五女を娶っている。

2代に渡って信長の姻戚となった人物は彼のみである。


そして信長の台頭と共に織田政権の重役として、安土城の普請奉行などの畿内の行政と、各方面の援軍として補給路の確保や現地の戦後処理において活躍をするなど、行政と軍事両面で才能を発揮した。


一般的な論評は、やはり官僚としての手腕が評価される事の多い人物であろうが、一方で若い頃は「鬼吾郎左」と言われ、恐れられる猛将でもあった。



天正8年(1580年)の佐久間信盛の失脚後は、譜代の中で柴田勝家に次ぐ事実上のナンバー2となった長秀であったが、天正10年(1582年)に起きた本能寺の変により、彼の立場も大きく変わる。



変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信長の三男信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。

このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。

長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。



これが彼の戦人として評価を大きく下げる要因となっていると思われる。



立地的に最も有利であ多信長第二の寵臣が、仇討ちも出来ず、外様の秀吉に主導権を奪われる訳である。


(謀反の嫌疑を掛けた津田信澄を殺害したが、それ以上攻勢には出られず)


そして明智光秀討伐後に行われた清洲会議では、池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将は秀吉による織田家の事業継続を認める形となった。


秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前および加賀二郡を与えられ、約123万石の大大名となった。





秀吉政権下においても最大の領土を持つ大大名へと邁進した長秀であったが、その胸中は如何なものであっただろうか。


絶対的権力を得た秀吉は、信長の築き上げた天下事業を我が物顔で専横し、天正11年(1583年)には織田信孝を自害させるなど、信長の子息たちを悉く陥れた。




「あの猿面冠者めが、上様(信長)へのご恩を忘れたのか……!」






天正13年(1585年)


病床についていた長秀は、突如起き上がると、枕元にあった小太刀を徐に引き抜いた。


小姓達は突然の行動に驚愕し、諫める。


「一体何事で……!」


しかし長秀は意に介せず、「えいっ」と気合を掛けると、その短刀を腹に突き刺してしまった。


苦痛に顔を歪ませた彼は、額に大量の脂汗を浮かばせ、腹からは滝の様な鮮血が流れ出る中、徐に腹をかき回すと、片手で何か黒い塊を引き抜いたのである。


そして、息も絶え絶えの中、鋭い口調でこう呟いたのである。




「……これが儂を長年苦しめて来た痴れ者か……! このようなモノに殺される儂では無いわ……」




茫然と見守る小姓衆の中、腹を抱え倒れこむ様に息をひきとった。




享年51。






病の原因は、「積寸白(寄生虫病)」や「がん」など様々あるが、腹から取り出した肉腫は、握りこぶしのように大きく、亀のような形であり、一説には、長秀はそのまま筆を執って遺書をしたため、肉腫とともに秀吉へ送りつけたともいう。




温和で実直な長秀像がある一方、血で血を洗う戦国の世を生き抜いた戦国武将らしい、鬼気迫る壮絶な最期であった。



戦国時代を中心に執筆しています。


武将の心の機微や無常感が表現できればなと思います。




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