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孤独の魔女と独りの少女【書籍版!8月29日発売中!】  作者: 徒然ナルモ
二十一章 魔女を継ぐ者エリスと怪物王女クレプシドラ
862/868

793.孤独の王女クレプシドラ


今から二十年前のクロノスタシス王国は現在のそれとはやや状況が異なっていた。


国王インデックス・クロノスタシスを中心に、クロノスタシス王族達により城は賑わっており、マレフィカルムからの支援により物資も溢れ、ここ数百年で最も栄えた黄金時代に突入していたと言ってもいい。


繁栄だ、国が繁栄すれば人が増える。クロノスタシス王国の総人口は右肩上がり、祖父の代から続けていた人口増加施策が実りつつあることもあり、クロノスタシス王国は輝かしい道行きを進んでいる……。


だからかな、その時の街は不思議と輝いて見えていた……。


「坊ちゃん!危険ですぞ!そんな塀の上に乗って遊ぶなんて!」


「あはは!見てみてシャーロウ!こんなに高く登れたよ!」


「ひぃー!落ちて怪我でもしたら儂は国王様になんと報告したら!」


オリフィス・クロノスタシス…当時五歳、クロノスの街中にて塀に登って遊ぶ様をお付きのシャーロウに咎められても構うことなく遊ぶ。


「まだ登れそう…」


この頃の俺は、とにかく登るのが好きだった。石の壁に細かい窪みを見つけたらとにかく足を引っ掛けてみるくらいには好きだった。だから今も街の塀から近くの塔の壁にしがみつき…吸われそうな空間を見つけ、そこに腰をかける。


「結構登れたな…」


「ぃひぃ〜!やめてくだされ〜!坊ちゃん〜!」


「あはははは!オリフィスの坊は勇敢だな!」


「ホントねぇ、あの子が大人になったらさぞ頼りになるお方になるに違いないわぁ」


既にシャーロウは遥か下でワタワタとしており、道を歩く通行人達も俺の姿を見て笑ってる。けど…俺だけは、笑えなかった。


塀をよじ登り、建物の壁を登り、落ちれば怪我するのは確定ってくらい高く登ったのに、やっぱり変わらなかったから。


「……狭いなぁ」


空を見上げる、クロノスは塔のように巨大な摩天楼に囲まれた街。見上げれば背の高い建物によって切り取られた狭い空しか見えない。それが俺はひたすらに不満だった。

まるでこの狭い空は、自分にとっての世界のようで…とても不満だった。


「………」


漠然とした不満だった。街から出ることを許されず、王族として縛られ、ただただ狭い世界で生きていくことを強要されているようで、でもそれの何が嫌なのか細かいところまでは理解出来ず、ただ漠然と嫌だった。


この手で登って空を見ればその不満の正体が見えるか、あるいは不満も消えると思って、ひたすら登って…その都度落胆してきた。或いはこの塔に入れてもらって屋上から空を見れば、或いは……王城から見れば何か違ったのかもしれないけれど。


(それはなんか違うんだよなぁ)


俺はこの手で行けるところに行きたかった、そこで空を見たかった。あの真っ暗な空に光を見たかった、いつか聞いた…光を。


「坊ちゃん!頼みますから降りてきてくだされ〜〜!!この通りですじゃ!!」


なんて黄昏ていると、眼下でシャーロウが膝を突き頭を地面に擦り付けて降りるよう懇願していた。シャーロウは別に父から俺の面倒を見るよう頼まれていない。だけれど一緒にいてくれる。本当にいいやつなんだ…だから。


「分かったよ〜!よっと」


「ぎゃー!丁寧に降りてくだされ〜!!」


俺は壁を蹴って空を飛び、一回転しながら塀に足を突き再び跳躍、そのまま地面に降りて…。


「はい!降りた!」


「うう、今ので儂の寿命が幾分縮まりましたぞ。これは長生き出来ぬやもしれませぬ」


「大袈裟だなぁ、まだそんな歳でもないでしょう?」


「そろそろ六十ですぞ儂も、引退が見えてきております」


そして俺はシャーロウと手を繋いで歩き出し…。やがて見えてくるのは……。


「あ!姉様!」


いつもの時計柱の下で待っている…愛しき影。赤い髪を後ろで束ねたその人は、俺の声を聞くなり優しく微笑み。


「オリフィス!今日も楽しく遊べましたか?」


「うん!楽しかったよクレプシドラ姉様!」


抱きつく、愛しきクレプシドラ姉様に。俺の姉であり、クロノスタシス王族の正統なる後継者クレプシドラ・クロノスタシス。彼女は俺を両手で抱き留め…優しく撫でてくれる。


毎日だ、俺が遊びに出かけると毎日姉様はね決まってこの時間に迎えにきてくれる。姉様は両親から期待されてるからとても忙しい。なんて時代のクロノスタシス王国の指導者だから…半端な人ではいけない。


とはいえ、そんな期待すら跳ね除けるほど姉様は優秀だ。今では姉様に国王としての資質があるかどうかの話をする者はおらず、いつ玉座に座らせるかの相談をしているレベルだ。


「今日は昨日より一分と十七秒早いですが、もう遊ぶのはいいんですか?」


「うん!大丈夫!」


「そうですか、なら…帰りますか?」


「……うん」


姉様はやや申し訳なさそうにいう。帰るかと、少し嫌だけれど…帰るしかない。本当はずっと外にいたいけどそういうわけにはいかない。


「分かりました、嫌なことがあったら直ぐ姉さんの後ろに隠れても大丈夫ですからね」


「うん……その、姉様は辛くないの?」


「辛くありませんよ、だってこの国のためですから」


今の王宮の様子を一言で言うならば『異様』だ…だから、その中心にいる姉様も色々大変だと思う。けれどそれでも姉様はそれらを全て跳ね除ける。

浅く笑う姉様を見て、周囲の人達は片手をあげて声をかける。


「お、クレプシドラちゃん!今日も美人だねぇ!」


「ふふふ、知ってます」


「クレプシドラちゃん、どうだい?ウチでお菓子でも食べて行かないかい?」


「すみません、あと四分以内に城に帰りたいのでそう言うわけにもいきません」


俺も街の人には好かれてる、街の人達はみんないい人だけど…それは全て、姉様が街の人達に好かれているからでもあるんだ。姉様のカリスマ性は凄まじい。途方もない程に人を惹きつける才覚がある…そう痛感させられるような光景を前に、姉様は。


「クロノスタシスは素晴らしい国です、ここに生きる全ての民が、ここにある全ての物が、尊く愛しい。私はこの街に、国に生まれることができた幸運を…ただ働きを持って返したいだけなんですよ」


「その為に、王宮にいるの?」


「ええ、なんせ私は…次期クロノスタシス国王ですから」


そう言って、姉様は笑った。その笑顔が、街を背に歩く姉様の姿が…俺は、大好きだったんだ。



…………………………………………………………


城に帰ると、今日も城は忙しなかった。兵士達が武器を抱えて走り、大臣達が青い顔をして走り、落ち着かない様子でみんな忙しなく走っている…そんな中、城の廊下を歩き父上のところへ帰る為、廊下を歩いていると。


「わっ!」


「おっと失礼!」


甲冑姿の兵士とぶつかり俺は尻餅をついてしまう。


「ちょっと!危ないですよ!」


直ぐに姉様が俺を支えながら兵士に文句を言うが…兵士は答えることなく走って去っていってしまう。王族にぶつかって…とか、そんな偉そうなこと言うつもりはないけど、人にぶつかって謝りもしないなんて。


「全く、…大丈夫ですか?オリフィス」


「大丈夫だよ、姉様。おれ強いから」


「流石私の弟ですね、でもちょっとくらい落ち着いて移動して欲しいですね」


「仕方ないよ姉様…だって今……」


仕方ないのだ、兵士達は忙しいんだ…だって、そう言いながら立ち上がった瞬間。


「ええ、仕方ないのです。なんせクロノスタシス王国は今戦時中なので」


「あ、オルロージュ叔母さん…」


「こんにちわ、クレプシドラ様、オリフィス君」


廊下の奥からやってきたのは…紫の髪を腰まで伸ばした女の人。豪奢なドレスを身に纏ったその高貴な姿から察せられる通り、この人もまた王族だ。

俺の父、インデックス・クロノスタシスの姉オルロージュ・クロノスタシス。一応現在はクロノスタシス王国の宰相として辣腕を振るう人物だ。


「オルロージュさん、クロノスタシスの戦況はそんなに悪いんですか?」


「悪いことはないですが、この均衡を守る為に様々な神経をすり減らさねばならない…と言ったところですかねぇ」


戦況…そうだ、クロノスタシス王国は今戦時中だ。この鏡の世界に他に国はないけど、戦争する相手はいる。それは外界…魔女大国だ。


正確に言えば戦争してるのは魔女大国とマレウス・マレフィカルム…クロノスタシス王国が所属する大きな枠組みとなる機関が世界各地で戦争をしている。クロノスタシス王国は魔女排斥の代表者である八大同盟と一角として大車輪の如く働かねばならない。


この戦いが激化し始めたのは一年前くらいから。魔女の動きが緩慢になった今が好機とマレフィカルムが攻勢をかけ始めた事が由来となった戦いがあるから、城の平穏は崩されてしまったんだ。


「オルロージュさん…こんなに必死になって戦わねばならないほど、魔女大国とは必滅の相手なのですか?」


姉様はオルロージュ叔母さんにそう問いかける、姉様はこの戦いに疑問を持っているんだ。常々言っている、国同士が戦う理由の最たる要因は利己的感情から。領地、物資、利権、それらを欲するからこそ人は戦う。そこを否定する気はない。

しかし、この戦いに果たして『利己』はあるのか…と。


「この戦いに勝っても、領地も物資も利権も手に入るわけではない。私達には既に鏡の世界という外敵のいない、無限の領土がある。なら…無理に戦う必要なんてないじゃないですか」


「おお、既にその歳で戦利品の計算が出来るとは、将来有望ですね」


「違います…戦利品が欲しいわけではありません。『せめて戦利品だけでもないとやってられない』んです、既に多くの兵士が戦死してます…生活を犠牲にした者も多くいます。結果勝てました、でも何も得られませんでしたでは…王宮はどうやって彼等に報いるんですか?」


「ふぅむ、なるほど。戦利品を手に彼等の魂を慰めると?」


オルロージュさんは顎に指を当て、チラリと俺達に視線を向けると。


「ならお答えすると…そんな事、考えている暇なんかないでしょう?と言うのが返答です。今更引いたらそれこそ兵士の魂は無駄になります、なによりクロノスタシスの栄華を外界に知らしめ、無敵国家としての勇名を知らしめる必要があるでしょう!」


「でも…!」


「それが国王様の御意志です。否定するならどうぞ…貴方達のお父君に」


「っ……!」


クスクスと笑うオルロージュ叔母さんはそれだけを言い残し、廊下の奥へと歩いていく。俺はあの人が嫌いだ、だってあの人が俺達のことを嫌っているから。なんとなく分かるんだ…あの人は俺達が嫌いだ。


毎日毎日、嫌がらせのように声をかけてくる…。その都度姉様は俺を守る為前に出てくれていた…。そして、その都度。


「…兵士の、人の命は消耗品じゃないと言うのに…!」


心を痛めていた。でも…仕方ないんだ、だって本当に父が望んでいるんだから、王が望んでいるんだから。

姉様は悔しそうに拳を握り、そしてそのまま父様がいる執務室まで走る…外に出たら、父様に報告する約束があるから。


だから俺達は執務室の扉に手をかけ、開けると……。


「父様、帰りまし──」


「ふざけるなイノケンティウスッッ!!!」


「ヒッ……」


執務室に土坑が響いた。俺たちに言ってるわけじゃないのは直ぐにわかった。けど…それでも怖いと感じるほど、父の気迫は凄まじかった。


父は、丸い鏡の中に映る誰かに対して、拳を握りながら牙を剥いていた。


「貴様イノケンティウス!今マレフィカルム全体の戦線を支えているのが!俺とお前の二人だと言うことを忘れているのか!?クロノスタシスだけでは支えられんから!二人で支えているんじゃないのか!?」


『分かっているさインデックス。だからこそ余はお前に義理立てをし…戦線援助から手を引くと言っているんだ』


鎧を着て、筋骨隆々の巨躯を晒すように立ち上がった父は…全身から魔力を立ち上らせながら、怒る。…インデックス・クロノスタシス。八大同盟『クロノスタシス王国』の現国王であり盟主。そんな父が繰り出す威圧は子供の俺には耐えられるものではなかった。


「何故だ!今ここで引けば戦線は瓦解するぞ!?ガオケレナは!ガオケレナちは言ったのか!?言ってないだろ…!言えば必ず反対される!」


『ああ、言ってない。だが彼女に言う必要もない、そもそも我々マレフィカルムという枠組みは『協定』であり『主従関係』は存在しない、ガオケレナはまとめ役であって王ではないからな、彼女に反対されたとて余の意志は変わらない』


「そんなもの方便だろ!マレフィカルムの支配者はガオケレナだ!それに従えないなどあってはならない!例えゴルゴネイオンであっても!なにより…負けるぞ!このままじゃ!魔女に!」


『このまま続けても負ける。事実として魔女が一切戦線に出てきていないのにマレフィカルムは攻め切れていない。消耗戦を続ければ根を上げるのはこっちに決まってる、だからやり方を変えるだけだ』


「無責任すぎるぞイノケンティウス…!」


『責任は既に負っている。こちらは別方面から攻める、内側から瓦解させられるよう尽くす、変わらず前線はそちらに支えろ』


「ふざけるな…!これ以上援助を増やせばクロノスタシスは干からびる!!」


『ならその時はマレフィカルムが負ける時だな、では失礼する』


「おい!イノケンティウス!イノケンティウス!!くそっ!くそっっ!あの男…何を考えているか分からんと思っていたが、これほどか!!」


そして話は終わり、イノケンティウスと呼ばれた影は鏡の前に現れることもなくなり…父は一人机を叩いて恨み言を吐く。そのあまりの状況に言葉を失う…。


「クロノスタシスが全てを支える?無理だ…近頃は増えすぎた人口を支えるための物資にも事欠くと言うのに、これ以上前線を支えるなんて……」


鏡の世界は自給自足が出来ない。外界から持ってきたものを使ってやりくりしている。なのにこれ以上前線を支える為にその蓄えを前に出せば…どうなるか、幼い俺でも分かった。


そんな中、父は俺達が帰ってきたことに気がつき…。


「お、おお…クレプシドラ、オリフィス、帰ったか…」


「と、父様…」


「すまないな、大声を出して…だが今忙しいんだ、後にしてくれるか…」


父は不機嫌そうに椅子に座り、ブツブツと頭を抱え始める。明らかに今触れるべきじゃない…なのに姉は、いや、だからこそ姉は。


「父様、戦況は芳しくないのですか?……なら、戦いを取りやめるべきではないですか」


「…なに?」


前に出る、これ以上援助をすればクロノスタシスが滅びるかもしれない。なら…今しかないと。しかし父の顔は明らかに怒りと不満に歪み。


「先程の話、聞きました。今現在クロノスタシスの貧困層には十分な食料が行き渡っていません。全体で見れば5%程の人達ですが…クロノスタシスは今この5%を確かに切り捨てている状態です」


「何が言いたい…」


「これ以上援助を増やせば、その5%が…王国の何割かに広がると思います。いえ、援助を増やさなくても…このまま一年、二年と継戦するならクロノスタシスは蝋燭のように小さくなり、多くの人を切り捨てることになります」


「だから、戦争をやめろと」


「はい、このまま行けば国民にも背負わせる結果に……」


瞬間、ガンッ!と父が机を叩く。その音に姉様は黙るしかない、父の明確な怒りを感じ…口を閉ざす。代わりに父が口を開き。


「今更やめるわけにはいかないだろう。ここでやめれば完全にクロノスタシスは栄光を失うことになる…!負けるわけにはいかないんだ…!」


「ですが……」


「なにも知らない子供は黙っていろ!!」


「………っ」


父は立ち上がり、激怒する。そこに理論や理屈はない、ただ怒りとプライドから姉の言葉を封殺する様を見て…悲しくなる。だって家族が言い争ってる様なんて見て、楽しくなれるわけがない。


「クレプシドラ、お前にはいつかクロノスタシスを継いでもらわねばならない。そんな甘い考えを捨てて…早く王になれ」


「私は、民のための王になります、…それが真なる王の道です」


それでも、そんな環境でも…姉はただただ強かった。


問題があるとするなら、きっと…強すぎた事なんだろう。


─────────────────────



「え?めっちゃいい人じゃないですか」


エリスはオリフィスさんの語る過去の話を聞きながら夜空を見上げる。聞くに、昔のクレプシドラはそれこそ理想の王…幼い頃のラグナのような人だったと思わされる。だからいい人ですねと口にするとオリフィスさんは恥ずかしそうに耳をかいて。


「ま、まぁそうだね…多少俺の誇張も入っているかもしれないけど、事実そうだった。あの人はクロノスタシスと魔女大国の戦いに心を痛めていた、そこは確かなんだ」


うーん、年代的に…いつ頃だ、今から二十年前というとエリスがまだあのゴミクズの館で虐待されてる頃か。


『アルカナの勢力が大きくなり始めた頃だな、ゴルゴネイオンが前線から退きクロノスタシスが前線の維持が仕切れなくなり、まぁ色々あって今まで前線で戦ってた大組織がなくなり、その穴にアルカナが収まった頃だ…ったと思う』


(なるほど、エリスがまだそんな頃から動いてたんですね…アルカナ)


なんかそういう話を聞くと意識せざるを得ない…エリスとシンの年齢差。確かシンとエリスって結構年齢が離れてるんですよね。少なくともクレプシドラより年上だったはずだ、シンは。


『余計なことを考えているな?』


首を振ってオリフィスさんの話に集中する。


「でもそんなにいい人なのに、なんで今あんな風になっちゃったんですか…?」


「ああ、いや…実はさ。詳しくは分からないんだ」


「え?」


「ただ、これは俺なりに調べた結果なんだけどね……」


オリフィスさんは腕を組んで、難しい顔をしながら…目を伏せ。


「ゴルゴネイオンが前線から退いてすぐ、クロノスタシスの状態は酷くなった。食糧的にも、物資的にも…でも人口は増加していく。そこでクロノスタシス王国は新たな施策を打った」


「新たな施策?」


「クロノス…つまりエルドラド以外の居住地を求める為、別の街に一定の住民を移住させる計画さ。そこを農地にする計画を立てたんだ」


なるほど、新たな土地を開墾し、更に農業など出来る場所を増やすことで自給自足力を高める計画か……けどそれをその段階で、食糧が足りなくなった状況でやる意味があるか?むしろ遅い気がする。


いや……もしかしてこの計画。


「分かったかな、エリス」


オリフィスさんは静かに、そして悔しそうに笑う…そうだ、多分この計画は。


「別の居住地の開墾、とは名ばかりの…口減し。つまり追放さ…クロノスタシス王国は住民の下層を本格的に切り捨て始めた」


「…………」


なんて酷いことを!と言いたいが、別にクロノスタシスだけがやってることじゃない。貧しい村では今もそういう悲劇的なことが行われている。どこもかしこも豊かなわけじゃない…でも自給自足が出来ず、食糧確保の方法が限られている鏡の国でやるなんて、最早完全に見捨てにかかってるな。


「そして姉様はそんな人達を見捨てられず、その人達を助ける為…自らも新居住地の開墾に参加した。それが…全ての過ちの始まりだった」


それは…国民を思うが故の悲劇。いや或いは…魔女対反魔女の構図が生み出した、あってはならない悲劇だったのかもしれない。


……………………………………………………


「ミロワ・カレイドスコープ奪還作戦のための人員の編成が終わりました、クレプシドラ様」


「ええ……」


玉座に座り、妾はデイデイトの報告を聞き…それ以上聞くことはないと腕を払い、玉座の上で黄昏る。


孤独の魔女の弟子エリス、妾の頭の中には奴のことしか入っていない。今妾の思考は奴に支配されている…。


(まさか、妾がスケジュール内に倒せないとは)


宣言したわけではない、あらかじめスケジュールに組み込んだ訳ではない。ただ、十分の休憩時間に倒し切れなかった。ある程度本気で動いて妾の思う通りにならないとは…少し意外だった。


これが第三段階の強者が相手なら自分の見積もりが甘かったと割り切れるが、奴はそうではない。力も妾の方が幾分上だった。なのに何故こうなったのか…そこが分からない、分からないが。


(奴は少なくとも、妾の思っている以上に…特別な何かを有しているか…。面白いが、不愉快でもある)


別に戦いが好きなわけではないが、妾を恐れず戦いを挑むエリスとの戦いには心躍るものがあった。だが同時に…王を恐れぬ貧者の姿に、妾は言いしれぬ怒りも抱く。


エリス…妾を恐れず、妾に立ち塞がりし者…奴はきっとまた妾の前に立つ…その時はそうだな、きっちり殺せるよう次は上手くやるか。


「随分考え込んでいますね、クレプシドラ様」


「オルロージュですか、何か用でもありますか?」


「いえいえ」


ふと、デイデイトと入れ替わるように現れたのは…オルロージュ。妾の叔母でありかつて宰相の座についていた女。妾が見逃した数少ないクロノスタシスの生き残りの一人がニコニコと微笑みながら玉座に近づいてくる。


「にしても、まさかオリフィス君が裏切るとは…小さい頃から知っている叔母の身としては辛いものがあります」


「……………」


「それに魔女の弟子も連れているとは…これは手強い敵になりそうですね」


「そうでもない、八人の魔女の弟子全員をこの目で見たが、どれも大したことがない。妾一人で軽く捻れる」


八人の魔女の弟子、確かにそれなりの力を持っていた。あれなら他の八大同盟も倒せるだろうと言う妙な納得感があったが…それでも妾にはまるで届いていない。


恐らく妾に通じそうな存在は二人しかいなかった。一人は赤髪の男…情報にあったラグナと言う男。彼には並々ならぬ力を感じた、あれは他と違い頭一つ抜きん出ていた…恐らく、第三段階に入っている。


そしてもう一人、巨大な体を持つシスター…ネレイドだったか。まぁあれが一番強いだろう、少なくともマヤより強い。タヴやラセツ、セフィラでは勝負にならないだろう…しかし、やはり妾には届いていない。


他にも第三段階に入ってそうなのがチラホラいたが、どれもこれも妾の視座にまで届く力はなかった。呆気なく滅ぼせる…そこは変わらない。だと言うのにエリスを仕留めきれなかったのが問題なのだが。


「なるほど、確かにクレプシドラ様なら問題ないでしょう…では、こう言うのはどうでしょうか」


すると、オルロージュは妾の前に立ち…。


「クレプシドラ様自ら、王敵に天誅を降すのです」


「妾自ら外界に出撃しろと?」


「いえいえ、そうではありません。ですがきっと奴らはまたここに攻めてきます…そこでクレプシドラ様がその神威の如く力にて撃滅する。これが最も効率よく敵を倒す方法でしょう?」


「……必要ない、そもそも奴等を倒し切る必要性もない。ただミロワを奪い、計画を遂行するだけでいい」


「ですが…」


「くどい」


妾が睨めばオルロージュは見るからに狼狽え、視線を左右に動かし一歩引き…。


「も、申し訳ありません…申し訳ありません、出過ぎた真似をしました」


「そう思うなら今すぐ立ち去れ、消えろ。時間の無駄だ…この問答自体」


「は、はい…!」


逃げるように立ち去るオルロージュに、妾は嘆息する。奴の狙いはなんとなく分かっている…どうせ、己の復権を狙っているんだろう、だがそんな簡単にお前の思う通りに動く妾ではないわ。


「ふん……チッ」


軽く怒りを覚えた、それだけで…右手が震える。力が上手く入らない、舌を打ち左手で右手を押さえるが、震えが止まらない。


「くそっ…くそっ、過去の呪縛が…消えん…!」


震えが煩わしいのではなく、この震えは妾に過去の記憶を思い起こさせる…。クロノスタシスが行った口減しの施策、そこで飛ばされた…あの不毛の大地での一件。それが……全ての。


─────────────────────


「そう言うことなどで、今日から皆様にはここで農耕を行ってもらいます。大丈夫、私がついていますので」


「あ、ああ…わかりました、クレプシドラ様」


鏡の世界のマレウス、その西部の平原にて…集められたのは数千人の民達。ここにあるのは簡素な村、そして大量の農具。みんな心のどこかでは分かっていた、ここに送られることになった瞬間…ああ自分は口減しの為見捨てられたんだと。


目に見えて不安を感じ、日に日に憔悴する民を見てられなくて…私もまた開墾計画に参加を希望した。結果…この農耕地の領主という立場を得た。誰も死なせない為に…死なせたくないから、切り捨てたくないから、私はここに来たんだ。


「大丈夫、農業の勉強はしてきました。種も水も潤沢にありますし、栄養を豊富に含んだ土も搬送しました、すぐにこの村は栄えることでしょう。なにより王宮に通じる鏡もありますから…物資だって継続して届くはずです」


「そ、そうだよな…」


「そうです!なので!皆さんで頑張りましょう!直ぐにこの村は大きくなりますから!よーし…私も頑張るぞ!」


みんな不安に思っている、だから私が率先してやらなきゃいけないんだ。既に持ってきておいた大量の土を村の前に敷いていく。荷車で土を運び、スコップで掘った偽りの土に代わり本物の土を敷き詰める。


「故郷の為、祖国の為、そしてみんなの為、さぁ頑張りましょう〜!」


「クレプシドラ様がここにいるなら…国だって、そう簡単には見捨てないか…」


「よし!俺らも頑張るか」


私の存在が少なからず、支えになると信じて。私は働いた、いつかこの働きが故郷の助けになると信じてみんな一心不乱に働いた。


「よいしょ、よいしょ…」


一日中土を運び、一日中土を均し、水路を作り、水を循環させて…勉強した知識をフル活用して畑を作る。一日も休まず私は働いた。そして…。


「さぁ皆さん!今日も一日お疲れ様です!たーんと食べて!休みましょ〜!」


「おー!」


王国から届いた物資で食事をとる。干し肉と豆くらいしかないけれど、食事は心を豊かにするから…私は農耕を終えるなり村の厨房に戻り、炊事にも従事した。


そして食べて、みんなで村で寝て………故郷に想いを馳せた。


そういう毎日を過ごしていた。一日中働いて、一日中故郷に想いを馳せる、そんな日々を過ごして月日が経ち、ようやく作物が実り…。




「ダメか……」


「やっぱり鏡の世界で作物を育てるなんて無理だよ…」


「ここじゃ太陽も出ないからな…」


土の中を掘っても、ロクに育っていないジャガイモが出てくる。この世界には植物が育つ為に必要な何もかもがない、そもそも太陽も出ないし雨も降らない、なんなら微生物だっていない。ここで農耕するなんてやはり無理かもしれない…そんな絶望が漂ったが。


「いえ!大丈夫!作物は環境に順応します!いつかは食べられるものができるはずですよ!続けていきましょう!」


「クレプシドラ様…ああ!ここまで頑張ったんだ!俺たちならやれるか!」


「よーし!次だ次!」


「そうです!それに小さいですけどこのじゃがいもも食べられるはずですし、労働の対価を今日は美味しくいただくとしましょう」


ダメなのはなんとなく分かっていた。それでもやるしかないんだ、だから私は必死にみんなを励まして…頑張った。頑張るしか出来ないから、頑張った。


その日は収穫した小さな野菜を使ってシチューを作り、久々に豪勢な食事をとって…また明日から新たな野菜を育てる為、ベッドに入ったんだ。


「オリフィス……」


ベッドの中で、故郷に置いてきたオリフィスに想いを馳せて…私は、眠りについた。


育たない野菜、出ない成果、故郷から追放された事実。全てを背負いながら…私はこの果ての地で仕事を続けた。


そんなある日の事だ、全てが一変する最悪の事件が起こった…それは。





「鏡が割れてる……」


朝早く起きて、みんなで仕事をしようと動き始めた時…発覚した。クロノスに通じる鏡が割れていることに。しかもヒビが入るだけじゃない、粉々に砕け散っていたんだ…明らかに、誰かが叩き割ったかのように。


(まずい……)


私は割れた鏡を前に、咄嗟に振り向いた…これはみんなに見せるべきじゃなかった。だが既に多くの人たちが、この果ての地にいる一千人が割れた鏡を見てしまった。だってこれが意味するのは。


「え……じゃあ、もうクロノスから物資が届かないってこと…ですか?」


「そんな!こんな何も育たない地で支援物資もなしになんて…生きていけないよ!!」


「ま、待ってください皆さん、落ち着いてください」


直ぐに落ち着かせようと声をかけたが…既にパニックは蔓延し、みんな青い顔で涙を流し始めた。


「お、終わりだ…こんな!こんな地に置き去りにされたら!」


「食べ物も何も届かないの!?そんな…備蓄だってそんなに多くないのに!」


今までは、クロノスに直ぐに戻れる道があるから、なんとなるとみんな考えていた。継続的に届く物資が故郷とこの果ての地を繋いでいた。しかしその繋がりが絶たれた今…完全に自分達は追放されたのだと、その実感が襲っていたんだ。


そして、恐怖とパニックが蔓延すれば…次に発生するのは決まっている。


「誰だ!!鏡を割った奴は!!!」


「そうよ!!責任をとって頂戴!!」


「お前そういえば朝早くから起きてたけど…もしかして鏡を割ったんじゃねぇだろうな!!」


「お、俺じゃねぇ、俺じゃねぇよ!!」


犯人探し、やったって意味はないけど…悪い奴を探さないと腹の虫が治らないのだ。実際鏡は明らかに不慮の事故で割れたって感じではなく、明らかに硬いもので叩かれて破られていた。


犯人はいる、間違いなく…だが。


「この!白状しろ!!」


「やめろ!お前じゃねぇのかよ!」


「名乗り出て!犯人は!!」


「誰がこんな酷いことを…!」


(最悪だ…)


まさしく、不毛な争いともいうべき大騒動が村の中で行われていた。犯人が誰か、みんなそれを探すので必死だ、中には農具で武装してる人もいる…このままじゃ殺し合いが起こる。

ダメだ、なんとかしないと……。


「皆さん!!落ち着いて!!!」


「っ……」


「犯人探しは必要かもしれません、ですが緊急事態です!今はみんなで力を合わせてこの事態をなんとかしましょう!」


私は台の上に立ち、指示を出す。


「ジョシュアさん!貴方は農耕用の馬に乗ってクロノスへ向かってください!」


「え、でもここからじゃどれだけ時間がかかるか…」


「構いません!今ある物資の確認を!切り詰められる分は切り詰めていきましょう!エネルギーの消耗を抑える為に農作業は必要最低限に!それと……」


次々と矢継ぎ早に指示を出す、今疑心暗鬼になっている暇はない。みんなで生き残るんだ…そういう方向に意識を持っていく、それで争う暇を奪うのだ。それに…何もかも終わったわけじゃない、クロノスだってこの事態は把握しているはず、それなら直ぐに救援がくるはずだ。


「大丈夫!クロノスも事態は把握しています!こういう事態を想定して救援チームが来るのでそれまで皆で生き残ることだけを考えましょう!」


「で、でもクレプシドラ様!」


「大丈夫!私が死なせません…誰も!!」


胸を叩き、吠える。誰も死なせない…その為に私はここに来たんだ、大丈夫…クロノスが助けに来る。クロノスにはオリフィスだっているんだ、まだ幼いが彼ならきちんと動いてくれる。


「生き残るんです!ここにいるみんなで!!だからみんな私についてきてください!!」


「っはい!クレプシドラ様!」


背負う、全員の命を…私が。王になる者として背負う、大丈夫…大丈夫、やれる…やれるさ!絶対に!


………………………………………………………


一週間が経った、救援は来なかった。


みんな不安を押し殺して…なんとかしようと考えてくれている。そのおかげで食料は一ヶ月は持つ試算だ……けど。


それ以上に大きな問題が出てきた。それは……。


(水が足りない……)


飲み水、農業の水、生活用の水、水はいろいろ必要になる…だが、明らかにその量が足りていない。今私の前には二十個の水瓶があるが、これの消費ペースが思ったよりも早い。


そしてそれに徐々にみんな気がつきつつある……。


「クレプシドラ様…水が」


「大丈夫、なんとかしますから」


「でも…さっきその、そこで川を見つけて…みんなで飲んでみたんですけど…」


「ダメでしたか」


「はい、飲んでも飲んでも喉が潤わない…まるで空気を吸ってるみたいで」


ここは鏡の世界、川の水も偽りの物。そこにあると仮定されているだけのものに過ぎず…水分にはならない。飲んでも空気を吸っているように何も起こらないのだ。


……食料は最悪育てている最中の作物や今まで収穫した分があるけど、水を手に入れる方法がない。


「大丈夫、大丈夫です。なんとかします…」


ただ、私は民にそういうしかなかった。


……………………………………………………


三週間経った、救援は来ない。そろそろ食料が尽きる…何より、もう水がほとんどない。


「うぅ…水…水……」


「苦しい…苦しいよ……」


日に日に飢えていく民、苦しみの中自分の腕に歯を突き立て血を飲む者も現れた。中には小便を飲み苦しんだ者もいる。小便には塩分が含まれる、飲めば余計脱水状態になる…そうみんなに注意喚起していたのに。


今日も数人死んだ、干からびて死んだ…日に日に消えていく影、民が消えていく…一千人はいたはずのに…もう三分の一が死んだ。


「クレプシドラ様…俺たちもうおしまいだ…」


「大丈夫、大丈夫。明日には救援が来るはずなので…食事にしましょう」


「……干し肉を食っても、喉が渇くだけだよ…」


「でも食べなければ、死んでしまいます…ほら、食べましょう!」


水魔術で干し肉を柔らかくする。けど水魔術で出た水はそれを飲んでも喉が潤わない…意味がない。だけどそれを少なくなった民に振る舞う。せめて食事だけでもと私なりに考えての行動だ。


「美味しいですか?」


「はい、クレプシドラ様…えっと、クレプシドラ様の食事は?」


「私はさっき厨房で食べたので大丈夫ですよ」


必死に腹の虫を抑えながら、笑顔で誤魔化す。昨日食べた干し肉一枚を噛み締めるように…体に言い訳する。死なない程度、最低限に飲み食いするだけでいい。


それだけでいい、だって……明日には父様が、オリフィスが、クロノスタシス王国が救援に来てくれるんだから。


…………………………………………………


一カ月半が経った、食料がもう直ぐ尽きる。水瓶は最後の一つになった。救援は来ない、おかしい、向かわせたジュシュアはもうとっくにクロノスについているはずなのに、往復していてもおかしくないくらいの時間が経っているのに。


まさか本当に見捨てられた?なんで?ここには国民がいるのに?まだ百人近く生き残っているのに?なんで?父様はここにいる民より戦争の方が大事なの?


「…………どうして」


私は畑に立つ、荒れ果てて何も育っていない畑に立ち…枯れて死んだ作物を見て、呆然とする。昨日は五人死んだ、その前は七人、その前は六人、全員顔も名前も知っている…大切な民が死んだ。


「……どうしてこんなことに」


土を握る…乾いて出てこない涙が心に伝う。どうしてこんなことになってしまったんだ…戦争がそんなに大切か?国の誇りがそんなに大切か…父様はどうかしてしまったのか。


「クレプシドラ様……」


「みんな……」


すると、畑にみんながやってきた…みんな不安そうだが、笑ってる。


「ごめん…みんな、私が…私に力がないばかりに……」


あれだけいた人達はみんないなくなった、みんな恨み言を吐いて死んだ…死なせてしまった。私が…私が無力だったから……。


「大丈夫ですよ、クレプシドラ様はよくやってくれましたよ」


「ぅ……でも」


「それよりクレプシドラ様、食事にしましょう。いつも言ってるでしょう?食べなければ死んでしまいますって」


「でも食料なんて…」


「それが誰かが隠していた食料が見つかったんです。クレプシドラ様…いつも自分の分は後回しにしてたでしょ?だから食べて欲しいんです」


そう言って手を引かれ連れて行かれた先にあったのは…シチューだ。民家の中にシチューが置かれている。そして、杯に注がれたワイン…そんな…こんな食料があったなんて。一体誰が隠していたんだ?


「え、でも…いいの?」


「構いませんよ、こういう時王族にお譲りする物でしょう」


「そんな…でもみんなも」


「いいからいいから」


そう言って私は椅子に座らされる。…みんなは私が食べるところを見ている。みんなだってお腹が空いているだろうに、笑顔で私に譲ってくれる。


なんて…なんて素晴らしい民達なんだ。なんて素晴らしい人達なのか…クロノスタシスの人民とは。


「うぅ…みんな、ありがとう…ありがとう!私…もっと頑張る、何かできることがないか考えるよ」


涙が流れる、もう尽きたはずの涙が流れる。けれど嬉しい…こんなにも素晴らしい人達がいるんだ、この国にはこんなにも優しい人たちがいるんだ。なら…王でいる私は彼らを守らないと。


笑顔で私を見ているみんなに、礼を言いながら…私は数日ぶりの食事を取る、まずは葡萄酒を飲む。


何日も何日も、飲んでいなかった水。時には農地に溜まっている泥水を飲んで潤していた喉に染み渡る久しぶりの上等な水分。体が喜び…飲み干す。


みんなが分け与えてくれた命の酒、みんなの親切心に…答えなければ。


「ありがとうみんな…私頑張────」


刹那、机の上に置こうとした杯が地面に落ちて割れる…あれ、間違えちゃった?…というか。


「あ、あれ……なんか、喉が…勢いよく飲み過ぎちゃったかな…あは…はは……ゔぅっ…!」


喉が痛む、胸が苦しい…なんだこれ…!体に力が入らない、膝を突き咳をする…なんだ、何が起きて……。


「苦しめ…この悪女が……ッ!」


「え……!?」


ふと、見上げると…そこにはさっきまで笑顔だった民達が、鬼のような顔で私を見下ろしていた。な、何が起きて……。


「俺達が知らないと思ってたか…!お前が…一人で水を独占してるって!」


「え……何を…!」


「みんな言ってるんだ!お前が食事をしてるところを見たことがないって、どうせ自分の分だけ隠して!大量の水を隠し持ってるんだろ!」


「ち、違…私は……!」


「この水泥棒が!!」


「ぐっ!?」


顔を蹴飛ばされ、もがく。痛い…なんだ、なんだ水泥棒って…私そんなことしてないよ。なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ…!?


「誤解です…違います、私は水を盗んでなんか…!」


「うるさい!お前のせいでみんな死んだんだ…だから、死んでもらう…」


「バカみたいに酒を飲んで、そのワインには毒や水銀を入れておいたんだ!みんなの分まで苦しんで死ね!」


「え……な、何を……ぐっ…げはぁっ!」


夥しい量の赤が口から出る、これはなんだ?ワインを戻したのか?それとも…血か?意識が朦朧とする…苦しい、頭が割れるように痛い!


「当然の報いだ!どうせ鏡を割ったのもお前だろ!!」


「思えば犯人探しをやめさせたのもお前じゃないか!まんまと俺達は誤魔化されたわけだ!」


「挙句自分だけ助かろうと水を独占するなんて、最低!!」


「この詐欺師!人殺し!!」


「違う…違う…私はそんなこと、そんなことしてないよ……!」


なんで、そんなこと言われなきゃいけないんだ…私は、私は何も……。


「殺せ!こんな奴!!わ「


「私は…私はただ…みんなに……」


足を掴まれ、引きずられる。世界が回る、全身が針に刺されてるみたいに痛い…外に出され、蹴られ、踏みつけられ、毒で血を吐き…もがき苦しむ。されどそれ以上に痛いのは心、心だよ。


みんなの為にあれだけ頑張ったのに、みんなに生きてほしくてここにきたのに、その全てが無意味だった?無為だった?ただの徒労…時間の無駄だったのか。


(ああ……そうか、そうなんだ……)


口から血を吐き、蹴られる最中…私は天に手を伸ばす。


結局、民とは……人とは……国とは……そういうものだったのか。


なんと、愚かだったのか…私は。


………………………………………………


それから数日後、救援が来た。クレプシドラと言う指導者を失った村は諍いが絶えず、救援が来た頃には数人程度しか残っていなかった。


救援が遅れた理由はいろいろある、戦争が忙しいから、国内が安定しないから、それらを理由に救援が遅れ…オリフィスが命懸けの訴えをした結果、ようやく救援が出された。


そうして救い出された時…クレプシドラは村の地下牢に囚われていた。しかしそれでも生きていた…生きていたが。


『ぐぅぅうううう!虫が!虫がいる!!!ウジが私の肉を食べている!!!』


不衛生な地下牢でもがき苦しむ姉は…かつての面影はなく、地面にのたうち回り、青い顔で助けを求めていた。その結果……姉はおかしくなった。


水金中毒による蟻走感と、毒素の影響による幻覚で常に虫の幻覚を見るようになった。ウジに噛まれていたトラウマから虫を極度に嫌う性格に変貌。


民に裏切られた経験から精神疾患を罹患、認知能力が極度に歪み、尚且つ水銀中毒による手の震えにより字が書けなくなった。


「姉様……」


「オリフィス、この書類を大臣に」


それから治療を受け、全快した頃には姉は全く別の性格に変貌しており。いきなり発狂し両親を殺害。そのまま自らを王と名乗るようになった。


はっきり言おう、姉は壊れた。極限状況で民に裏切られ毒を飲まされた影響で、肉体も精神も壊れてしまった。それでも王として振る舞おうとするのは姉の王としての矜持故のものだろう。でも……。


(文字が読めない…)


悲しくなる、姉は元々達筆な人物だったのに…渡された書類には子供の落書きのような字が書かれている。そして。


「それと、そこに虫がいるので…あとで殺しておいてください」


「…………」


俺はチラリと部屋の隅を見るが、やはり虫はいない。当然だ…鏡の世界には動物も微生物もいないんだぞ?…虫なんかいるわけがない。


なのに姉は何もいない場所を指差し、虫がいると言って殺虫剤を振り撒く。


苦しかった、悲しかった…姉は完全に壊れてしまったんだと。




姉は、手の震えを過去の呪縛と呼ぶ…今も、あの果ての地での一幕を引きずり…裏切りを極度に嫌う。


壊れた姉は、全てが敵に見えている。そして不幸なことに…姉にはその全ての敵を殺せる力がある。


誰かが止めなくてはならない。誰かが……。


(俺が…やらなくちゃ)


姉の書類に目を落とし、俺は目を閉じる。壊れた姉を止められるのは…俺しかいないんだと。

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その壱 「何故だ!今ここで引けば戦線は瓦解するぞ!?ガオケレナは!ガオケレナちは言ったのか!?言ってないだろ…!言えば必ず反対される!」 ガオケレナち。あまり聞いた事のない呼び名だな。 その弐 「…
明かされるクレプシドラの過去…… 鏡を割ったのは恐らく先王の部下でしょうか。 その挙げ句民に裏切られて……確かに世界滅ぼしたくもなりますよね。 クレプシドラの毒の後遺症について気付ける描写は多々あった…
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