653.魔女の弟子と狂気の根源
風がそよぐ、花々が揺れる。故郷の白原では見られなかった光景に…心の慰めを乞う。己の身の不幸を嘆くことはない、これは自業自得だ。己の運命を呪うことはない、呪うだけの資格もない。
私に許されたのは寿命と言う猶予期間で必要な限り苦しみ、必要な限り…奴を抑え続ける事だけだ。
「…………」
絵筆を動かし、マレウスの郊外に存在する花畑に座るアルタミラは一心不乱に絵を描き続ける。花畑に存在しない架空の人を描き…無念無想を追い求める。
第二戦が終わり、またも一週間の猶予がやってきた。次が最後の戦いになる…魔女の弟子の皆さんはリーベルタースとの戦いに集中している。私もここまで来たら皆さんの役に立ち勝利に貢献したい…そうアルタミラは思うも目を閉じる。
だが私が役に立ちたい、みんなに認めてもらいたいと思った結果どうなった。私の中の承認欲求が暴れ狂いあわや大惨事になりかけた。仲間…と言うものを久しく得て、忘れかけでもしたのだろうか。
私が今まで一人でいたのは、今まで感情を表に出さなかったのは…ルビカンテの暴走を防ぎ、必要以上に人を巻き込まない為だったのに。
(いや、思えばこの思考そのものが…ナリアさん達を巻き込む結果に終わったんでしたね)
私は、ルビカンテを経由して魔女の弟子の存在を知っていた。奴はマレフィカルムの一員としてマーレボルジュという組織を率いている。
元々マーレボルジュという組織はマレフィカルムの中でも下位に位置する雑多な組織だった。しかしそこのボスをルビカンテが殺し…構成員全員自らの狂気で狂わせ手駒にし、その圧倒的な実力で一年足らずで八大同盟に加入する程に組織を育て上げた。
それ故に彼女は八大同盟の会議にも呼ばれている。その議題に何度も上がった魔女の弟子…という存在を、私は朧げながらも覚えていた。
だから…ナリアさんと出会った時、直感的に悟った。
『この人は魔女の弟子、サトゥルナリア・ルシエンテスだ…』と。
八大同盟は魔女の弟子を恐れている。既に三つも組織を潰した魔女の弟子をもう矮小な存在として見ていない…なら、ルビカンテも恐ると思った。
魔女の弟子と一緒にいればルビカンテもまた外へ出て来ず、私は一時の安息を得られるかもしれないと考えた…だから、ナリアさんの事を試し彼らのチームに入る事を決意した。
が…それでもルビカンテは恐れなかった、魔女の弟子を恐れず寧ろ嬉々として関わろうとした。私は見誤ったんだ…ルビカンテという存在が持つ狂気を。結果的に私は奴を抑える日々に変わりはなく…ナリアさん達に迷惑もかけられなくなった。
私はなんて浅はかだったんだ…。今更どんな顔をしてナリアさん達のところに戻ればいいんだ。
(ダメだ…悲しむな、これ以上悲しむとスカルミリオーネの跳梁を許すことになる)
悲しみの魔人スカルミリオーネ…ルビカンテが抱える四大感情の一角が出てきたら今までのとは比較にならない被害が出る。ポッと湧いただけのカルカブリーナと生まれてからこの胸の中あり続けた原初の感情の一つであるスカルミリオーネじゃ文字通り危険度の格が違う。
また前みたいなヘマは許されない…抑えろ、抑えろ……。
「アルタミラさん、ここにいたんですね」
「ッ……!」
ハッと声がして私は目を開ける。驚愕に筆がブレ…ピタリと止まる、自分以外の声が聞こえたから驚いてしまった…てっきりルビカンテが現れた物と思っていたが、違う。
「ナリアさん…?」
「探しましたよ、アルタミラさん」
そこにいたのは…花々よりも美しい美貌を持った青年、ナリアさんが立っていた。私を心配するような顔をして…。
「すみません…」
第二戦が終わり、この街でみんなとの食事を終えた私は…みんなと一緒にいるのが耐えられなくなって街を出て、一人この花畑で心を落ち着かせていたんだ。誰にも会いたくなかったから…けどどうしてだろうな。
彼がこうして私を心配して追いかけてきてくれたのが…ひたすらに嬉しい。
「すみませんじゃありませんよ、食事が終わるなり黙っていなくなっちゃうんですから。心配くらいします」
「う……」
「それより、絵を描いているんですか?」
ナリアさんは自然な流れで私の隣に座り、コテンと首を傾げて私の絵を見て…少し表情を歪ませる。
「また、顔がない絵ですか」
「………」
「これ、モデルは僕ですか?」
「ええ」
私が描く絵には顔がない。私の描く人物画は全て顔は空白だ、そんな事ここまで一緒にいればわかるという物だ…以前ナリアさんの事を書いた時も私は彼の顔だけは書かなかったからね。
書けない事もないんだ…目を描いて鼻を描いて口を描けば顔なんて出来上がる。けど…実際のところを言うと、描きたくない…が正しいか。
「すみません、私…人の顔を描くのが嫌なんです」
「嫌…ですか?苦手じゃなくて?」
「苦手な事もありません、けど…私は…真に美しくない物は描きたくないんです」
「え?僕美しいですけど…」
「そういう意味じゃなくて…人、という生き物そのものを美しいと思えないんです。木々は木々の美しさがある、水には水の…空には空の美しさがある。けれど人には…あるとは思えない」
誰かが美しくないって話じゃない、私は人という生き物が美しいと思えない…思いたくない。美しくない物は描きたくない…だから描けないんだ。
「なるほど、つまりアルタミラさんは知らないんですね。人の美しさを」
「いい方に解釈してくれるんですね…」
「分からない物は描きようがないですから。でもいつか…僕が貴方に人の美しさってやつを見せてあげますよ」
ニッと微笑む彼の顔を見ていると、筆が動きそうになる。ナリアという人間は謙虚で優しいが…芸術家としての彼は傲慢極まりなく不遜で大胆で、そんな相反する二つの顔を持つ矛盾さが…彼という人間の美しさを際立たせているのかもしれない。
「それで、誤魔化すように絵を描いて…何をしてたんですか」
フッと彼の顔から笑顔が消える。どうやら私が誤魔化すために絵を描いていたのはバレているようだ。…なら正直に言おう、そこまでバレているのなら。
「……心を落ち着かせていました。また…感情の魔人を外に出さないために」
「ルビカンテ達ですか…今も抑えているんですか?」
「はい、ルビカンテはあまり積極的に動きませんが…他の感情は違います。特にルビカンテの制御下にない雑多な感情は今も外に出ようとしてますから」
「なるほど、アルタミラさんはずっと一人で戦ってきたんですね」
戦ってきたか…別に、そういうわけじゃないんだけどな。
「別にそういうわけじゃありません、私がこうして…自我を持って動けるようになったのは最近なので」
「え?そうなんですか?」
「それまではずっと…ルビカンテがこの体を動かしていました。主導権はずっとルビカンテが握っていたんです…それで、なんか…最近になって私に主導権が戻ってきて…」
「なるほど…」
ルビカンテは何を考えているか分からない。私の一部なのだろうけどアイツの思考回路は私とは根本的に違うような気がするんだ…だから一度握った主導権を何故手放し、マレフィカルムとしての活動をやめてでも私の中に戻ったのか…分からない。
分からないけど…アイツのことだ、必ず良い事ではないはずだ。
「あの、アルタミラさん」
「なんですか?」
「……よければ。聞かせてくれますか?貴方の過去を…」
「え…!?」
過去、その言葉を聞いて…私は咄嗟に目を背けてしまう。だって私の過去は…語れるほどに良いものではないから、きっと聞けば彼は私に失望する、見捨てられるかもしれない、…いや見捨てられるならルビカンテの件でとっくに見捨てられるか。
「どうして、過去の話が聞きたいんですか?」
「ルビカンテが言ってたんです。奴が生まれたのは貴方に降りかかった悲劇が由来だと…以前も言いましたが僕はルビカンテを消し去るつもりです。ルビカンテという感情に相反する感情をぶつければ感情の魔人は消し去れるのはカルカブリーナで確認しました…だから、後はルビカンテがなんの感情か知る必要があります」
「だから…私の過去から奴がなんの感情か、知りたいと」
「そうです。話したくないかもしれませんし思い出したくないかもしれません…けど」
ナリアさんはこっちを見ている、肩を動かし顔の向きを変え、座りながら私の方を向いて…いうんだ。
「言いましたよね、カルカブリーナとの戦いの時…見ていてくれって。僕は見せたつもりです、僕のやり方を、だから…信じてください」
「……敵わないな」
嫌がる道も、上手く誤魔化す道も、全部絶って私に過去を喋らせる決断をさせる道しか残さないやり方に…この人には敵わないと感じた。
言ったよ確かに見ていろと、そして彼は事実としてカルカブリーナを倒しやり方を示した。やれる事を示した、私はそれを見た以上彼のやり方に信頼を寄せなければならない…何故なら、彼は私を救える人間だと私が感じてしまったから。
だから、言う…言うよ。貴方の巧妙なやり方に乗せられて…私は喋る決断をしたのだから。
「悲劇…と言うほどのことはありません、全ては私個人の問題であり…私が弱かったから起こしてしまった、自業自得の罪ですから」
ギュッと筆を握りながら、私は思い返す。ルビカンテが私の中に生まれたあの日のことを…全ては、私の弱さが生み出した結果。
私は…そう、そうだ…私は。
「ナリアさん、最初に言っておきます…貴方は失望するかもしれませんし、見捨てるかもしれません…けど聞いてください」
私は…罪のある人間だ、それは比喩でもなんでもなく。
「私はこの手で、人を殺したことがあります」
「えッ……」
事実として、罪のある人間だから…故郷エトワールを離れたのだ。
……………………………………………………………
アルタミラ・ベアトリーチェは芸術の大国エトワールの出身だ。生まれは王都アルシャラで父は詩人、母は銀細工師の家に生まれ、二人とも芸術家としてそれなりの一財産を築いた人物だ。
その間に生まれた私は…。
「凄いわアルタミラ!貴方は絵描きの天才よ!」
「いや見事だ、これ程の腕を幼少期から…これは間違いなく才能がある!」
「えへへ……」
よくある両親の絵を描いて、親バカの両親が子供を天才だ!と言うようなそれではなく…私は事実として天才だった。五歳の頃からデッサンを理解し、六歳で人体の書き方をマスターし、七歳になる頃には水彩画、油画、人物画、抽象画、風景画と物を選ばず描きあげた天才だった。
そして画家の天才であると同時に私の生まれたのは王都アルシャラ。世界一の芸術大国の中で一番芸術家がいる街に生まれたんだ。学ぶ物も学べる物も多く…今にして思えば私は両親の期待を一身に背負っていたんだな、と思えるくらい多くの物を経験させてもらった。
「あらアルタミラ、何を描いているの?」
「街の人!」
「窓から外を見て通行人を描いてるのね…楽しい?」
「うん!楽しい!絵を描くの!楽しい!」
この時の私はただ絵を描くことを楽しんでいた。本当に楽しくて楽しくてたまらなかった、いつも絵に描く題材を探していたし、雪の中でも絵筆を持ってあちこちをウロチョロ歩き回る日々を送っていた。
楽しかった…本当に楽しかったんだ。そしてその楽しいことをやった結果…みんなに褒めてもらえるのも嬉しかった。
『凄い、若くしてこれほどの絵を…』
『ふむ、同年代から見ても大した物だね。これは大成するかもしれない』
『今のうちに絵を買っておこう、一枚もらえるかな?』
「ありがとう!アルタミラ!お前の絵が売れたぞ!」
「やったわね!きっと画家として食うに困らぬ生活ができるはずよ!」
「えへへ……」
そして八歳になる頃には、私の絵は家の前に飾られ、軽い個展を開きながら道行く人達に買ってもらう程に至った。いくら才能ある子供だからって…それはちょっとやりすぎじゃないかと思わないでもないが…それは両親の経験に由来していた。
「これなら大人になる頃には依頼がたくさん舞い込む芸術家になれる…」
「食えない芸術家ほど惨めな物はないわ、売れない美術家程苦しい物はないわ…これでご飯を食べていくっての言うのは、大変なのよ」
両親はそれぞれの分野でそれなりの財産を築いたが…そこに行くまでに凄まじい苦労をしてきたタイプの人間だ。時には尊厳を傷つけられるような目にもあったし、打ちひしがれて自傷することもあったとよく語っていた。
売れない、食えない、この苦しみと恐ろしさを知るからこそ…子の私にはそんな目に遭わせたくなかったんだろう。だがそのトラウマとも言える経験と確かな才能を持つ子が二人を…狂わせたのかもしれない。
十歳を超えたあたりから、私の日々は…狂っていた。
「違うアルタミラ!そうじゃない!もっと独創性を持って…!」
「このままじゃ次のコンクールで勝てないわ!負けてしまうのよ!貴方の絵が!」
「……うん」
十歳を超えた辺りから、私は本格的に絵描きとして扱われ始めた。と言うのもエトワールには十歳を超えてから参加出来るコンクールがたくさんある、つまり十歳を超えると本格的にエトワールの芸術家競争に参加させられ始めるのだ。
両親の言う売れてる芸術家は基本的にこの十歳のコンクールから結果を出し始める、逆を言えばここで振るい落とされると一気に売れない画家に転落することになる…。
「アルタミラ!絵を描くんだ!コンクールで勝つんだ!」
「そうよ…!寒空の下通行人の前で芸術を披露するのは…辛いのよ!」
売れない画家や芸術家は、みんな作品を売るために雪の中でも路傍に立って芸術をアピールしなきゃいけない。これは辛いぞ…そんな風に私の末路を毎日のように言う両親の気迫に怯えて、私は毎日のように絵を描いた。
一心不乱に絵を描いた、キャンバスを齧って食べる勢いで描いた。その日々は正直に言えば…。
(楽しくない……)
楽しくなかった、風景画はライバルが多いから抽象画にしろ。よくある表現は使わず自分で考えて独創性を生み出せ、もっと売れる色使いにしろ…そんな私を縛り付ける言葉ばかり飛んでくる。
けど、両親は詩人と銀細工師、趣味で美術館に行き絵画を見ることはあるけど…その手で絵を描いた事もないし、画家の世界を知らない人間だ。そんな人達の指摘や考えを真っ向から受けた絵が…果たして評価されるだろうか。
私は天才だったけど、両親はそうじゃない。ってことを…他でもない両親が忘れてしまっていたんだ。
その結果は……。
「またダメだ…また負けた!」
「うちの子の方がいい絵を描いてるのに!評価されないなんておかしい!」
「…………」
両親は毎度のようにコンクールに落選する私を見て…『負けた』と言う。私はよく分からないが負けた気分になった。顔も知らない、誰と戦ってるのかも分からない、そもそも戦ってるのかすらも分からない戦いに負けたのだ。
訳がわからなかったが、両親が言うならそうなんだろうと思わざるを得ず…ただ漠然とした敗北感に晒されていた。
そして私以上に両親が追い詰められた、追い詰められた両親は…。
「こうなったら高名な画家に弟子にとってもらおう」
「そうね、既に売れて絵画で食べていけている人に預ければきっと…」
「え……?」
気がつくと私は、王都アルシャラを遠く離れた村にいる画家先生の下に送られることになっていた。この時の齢を十三歳…まだ両親と居たい、両親と居るのが当たり前の頃に私は私自身の決定すらさせてもらえず…両親の決定により名前も知らない人のところに送られることになった。
当然嫌だと言った、お父さんとお母さんと一緒にいたいと言った、けど両親は負け続けた私が悪いと言った。何に負けたかは知らないが負けたのなら悪いのかと言葉を飲まざるを得なかった。
そうして私は両親から家を追い出され、名前も知らない村の名前も知らない先生の下へと送られた……。
「ようこそアルタミラ君、私はこのアトリエで絵の道について考える老人さ。君のような才能ある子を弟子に取れて嬉しいよ」
「は、はい…」
村で一番大きな館の扉を叩くと、中から優しそうなメガネのお爺さんが現れた…この人が『先生』だ。両親曰く有名な画家先生らしく、こんなに立派な豪邸を建てるに至る程に稼いでいるらしい。
「期待してくれているご両親のために、頑張ろうね」
「……はい」
そんな人に両親は多額のお金を払って私を弟子にしてもらった。私はその話をまるで知らないし…何も関わっていない。馬車に乗り込む前に聞かされた話だ。
けど期待してくれているなら、私はここで頑張ろうと思った…ここでいい絵を描ける人になろうと思った。
「さ、外は寒いだろう。中に入りなさい、中にはアトリエもある…そこでまずは絵を描いてみてくれ」
「中に…?」
そうして私は先生に促され館の中に入り…先生の言うアトリエに足を踏み入れた。この館の四割ほどを占める巨大なアトリエ、そこに入り…その光景を見た私は…理解した。
「え……」
アトリエの中は…人で埋め尽くされていた、私と同年代くらいの大量の人々…それらが私と同じようにキャンバスに向かって筆を走らせて、部屋に入ってきた私を見て…目を尖らせ。
『チッ、また増えた』
『また新顔?…クソッ』
『早くいなくなってくれないかな…』
先生の弟子達だ、私と同じ弟子達だ…そこで私はようやく両親の言う『勝った』『負けた』と言う言葉を理解した、私が戦っていたのは…こう言う人たちなのか。
私と同じ事をして、私と同じ思いをした…私と同じたくさんの人達…。私はこれからこの中で…戦っていかなきゃいけないのか…。
「さぁ、兄弟子姉弟子のみんなだ、仲良くするんだよ?」
「う……」
にっこりと微笑む先生の顔は今でも覚えている……これは後になって知った事だが。
この先生という人物は、確かに高名ではあるもののそれは画家としてではなく指導者として高名だった。画家として評価された絵は生涯に一枚だけ…それでも十分凄いが彼には画家の才能がなかった。
しかし、彼は教室を開き国中から生徒を募り弟子として招き、その両親から金を貰うという方法で生きていく道を選んだ。この豪邸だってそうやって建てたものだ…だが彼は画家として能力が高いわけでもないから、画家を指導する能力にも乏しかった。
だからこうして弟子達を勝手に食い合わせ…競い合わせ、生き残りをかけた戦いをさせる事で勝ち抜いて売れた僅かな弟子を前面に出し自らの功績とする事にしていた。彼は確かに複数の有名な画家を輩出したが…その数百倍以上の数の画家もまた潰していた。
つまり私は勉強のために送られたんじゃなくて…画家として生き残りをかけた戦いを強いられたんだ。
「さ、絵を描きなさい」
「ッ……わかりました」
不本意な事態、不本意な状況、されど不幸中の幸いというべきか…こんな状況にありつつも、それでも私は……。
「ッ…嘘だろ」
「何あれ…」
「嫌……嘘よ……」
「アルタミラ君、君は凄いよ!私が今までとってきた弟子の中で…一番の天才だ!」
「………はい」
それでも私は…天才だった。絵筆を走らせ父や母に束縛されることなく自由闊達に思うがままに描き示せば周囲がどよめき、先生が喜色に湧いた。
生徒達は絶望する、この集団の中で上位一割にならなければ先生が開く展覧会への参加は許されない。画家が売れるには展覧会に絵を持っていかなくてはならない、それも名の売れた展覧会に。
そこに参加する為の席は多くない、ただでさえ奪い合い喰らい合いの戦場に…絶対に叶わない神の腕を持った女が乗り込んで来た。そりゃあ絶望もする。
先生は喜び勇む、自らが主催する展覧会に目玉となる絵が一つ増えたと。生徒達が名を売れば自分の名前も売れる、自分の名前が売れればより一層生徒が増えてより一層儲けが出る。自らの地位がまた上がる…いや、もしかしたら…これはそれ以上の──。
水底の砂が舞い上がるよう砂のように渦巻く絶望と希望、その渦中只中に居るアルタミラはただ独り…。
(楽しい、心のままに描くのってやっぱり楽しい)
何も知らずに笑っていた。私は…この時何も知らなかった、本当の意味でまだ理解していなかった。
画家ってのは、ただ絵を描いていればいいだけじゃない事を。
………………………………………………………
それから私は、先生の下でひたすらに絵を描いた。先生は私に何かを教えてくれるわけではなかったが私にとってはそれがやりやすかった。
一日中絵を描け、そう言われれば一日中絵を描ける。何もない空間でさえ私には題材になる…時には部屋の隅を見つめ絵筆を走らせることもあった。そうやって書き上げた部屋の隅の絵を…先生は手に取り。
「素晴らしい、やはり君は天才だ…アルタミラ」
「…………」
「これなら、三日後の定期審査でも良い結果を出せる。そろそろ審査用の絵を描き始めなさい」
そう言って、肩に手を置いた。正直嬉しかった、絵を描いて、褒められるっていうのはとても嬉しかった。口下手で何も言えない私だけれど…こうやって今も絵を描いているのはそう言うことなんだ。
「クソッ…なんなんだアイツ」
「天才ぶりやがって…」
「…………」
ただ、少なくとも私は好かれてはいないようで。先生が立ち去った後…みんな筆を止めて私に対して色々言ってくる。嫌われるのが嫌ってわけではないので気にならないが…不思議だった。
みんな、ここに絵を描きに来てるのに。なんで絵を描くのよりも私に対して文句を言う事を優先するんだろうって…。
「おい、口無し」
「…………」
ふと、生徒達の中で…リーダー格らしい女の子が声をかけてくる。リーダー格というのは別に画家としての腕が優れていると言うわけではなく、ただ年齢がみんなより上でこのアトリエに長くいると言うだけでリーダーっぽい事をしている子だ。
ちなみに口無しとは私の事。何を言われても答えないから…口無しらしい。
「お前、定期審査にもそんなくだらない絵を出すつもり?」
「…………」
「先生はあんたを依怙贔屓してるけど、そんな絵…世間じゃ絶対評価されないわ」
定期審査…と言うのは、近々先生が開く展覧会に出される絵を先生が審査する試験のことだ。これで先生が選んだ十数枚が展覧会に送られ、そこで富豪や商会に目をつけられたら…晴れて絵が売れる。絵が売れれば名が売れる、名が売れれば…独り立ちだ。
つまりこのアトリエから羽ばたいていく唯一の手段が定期審査、私も当然そこで受かる事を目指してる。勿論、この子も…この子達も。
「口無しぃ…あんたいい加減にしなよ、いきなり現れて…天才ぶって、あんたみたいなのが一番嫌い」
「…………」
「なんか言ったらどうなの!」
「………出す」
「は?」
「出す、絵…貴方が決めていい……」
「は?どう言う意味?」
私としては、そこまで言うなら貴方が私の絵を決めていいと言いたかった。私のモデル選びのセンスがないなら貴方が選んでくれていい…って意味だったんだが、どうにも私は口下手でこの事を上手く伝えられなかった。
彼女はみるみるうちに顔を赤くして…。
「なるほどねぇ…!何を描いても受かる気ってわけね!なら選んであげる!」
「…………」
「自画像よ!自分の顔を描きなさい!」
「…………分かった」
リーダー格の子はこの時考えていた。無駄に美しく描けば…自分を美化していると侮辱を挙げ列ね、美しく描かなければ絵が下手だと嘲笑う。だから自画像を選んだ、それはただアルタミラという人間の人格を徹底的に破壊する為であり、そこに定期審査の云々は関係なかった。
だが、まだ未熟で人を知らないアルタミラは…素直にそれを受け取り。
「………」
向こう側に雪を流し、部屋の熱気で白くなった窓に映る自分をチラリと横目で見ながら、新しく用意したキャンバスに鉛筆を走らせ自らの顔を書き上げていく。
その様を見た…リーダー格の子は、瞳孔を狭める。
「チッ……!」
文句のつけようがない程に絵として完成されていたからだ。美化もせず醜化もせず、ただあるがままに描き上げ世界の一部を切り取りその一部の中に美を見出すその見識鋭さとそれを再現する腕前。何よりこれを呆気なく描いてしまうアルタミラは間違いなく……。
(天才かよ……!)
もう分かってしまった、未だ下書きの段階ではあるが…分かる。これはもう定期審査に受かる。間違いなく受かる、そして展覧会で全ての注目を受けてこいつは羽撃く。それがたまらなく嫌だった…嫌すぎた。
(くそっ…どうしてこんな奴に、才能があるんだよ…)
「…………」
鉛筆を止め、下書きを止め、おおまかに完成したそれを見てアルタミラは次の工程に写ろうとした…その時。
『アルタミラさーん、先生が呼んでますよー』
「………分かった」
突然、生徒の一人に呼ばれアルタミラは立ち上がる。先生に呼ばれたなら仕方ないので作業をやめ全てを無視し絵を放置し踵を返しアトリエを出ていく。
「…………」
後に残されたリーダー格の生徒は…ゴクリと息を呑む。このままこの絵が完成すればアルタミラは自分の上に行ってしまう。口無しと罵った愚図が自分より上に、先に行く。それだけは……。
「……こうなったら」
チラリと見る、アルタミラが残した…絵筆に視線を向ける。定期審査は三日後、作業ペースを考えるに……。
………………………………………………
「先生、なんですか」
先生の部屋に招かれる、木の匂いが強くするクラシックで豪華な部屋の中、豪勢な机の向こうに座った先生は眼鏡を掛け直しながらこちらに目を向けて。
「いや、審査用の絵は上手く描けているかなと思ってね。君のことだからまだ手をつけていないのではと思って…」
「今、描いています」
「そうだったか。君の腕だ…審査用と言わずそのまま展覧会に出すくらいの作品を描いてくれ」
「そうします」
私はこの時点で、何か違和感を感じていた。先生の様子がいつもと違う、いつも先生は私と話す時何かこう…グッと内側から来る感情を抑えているような、そんな危うさを感じさせる目をしていた。
しかし、今日はなんだか別のベクトルで危うい感じがする。何か…謙るような、私の様子を伺いながら色々考えているような、そんな気配を感じて…私は少し警戒する。
「絵を描くのは楽しいかい、アルタミラ」
「はい、楽しいです」
「そうかそうか、いや…そうだろうね。世の中にはたくさんの種類の天才がいる…他とは違う視点を持つ天才、特殊な技巧を扱える天才、最初からある一定以上の技術を携えた天才、色々いる。君はその中でもただひたすらに夢中になれる没我の天才と言えるだろう」
「…………」
「絵は好きだ、だがそれ以外の全てが煩わしい…違うかい?」
事実だった、私は絵を描いている時間が一番楽しい。それ以外の時間はさながら水の中にいるようだ、窮屈で苦しくて一刻も早くその場からいなくなりたい…そして絵を描いている時だけ私は呼吸が出来る。
食事も睡眠も取らず、絵を描いていられるならそれでいい。会話とか気遣いとかせず絵を描いていられるならそれでいい。絵は好きだがそれ以外の全てが煩わしいのは…その通りだったんだ。
だから私は…小さく頷く、すると先生は嬉しそうに笑い。
「だが一介の画家となると多くの煩わしい事が付き纏う。クライアントとの関係の維持、画材の調達から資金の管理、納期、作業機関の確保…それら全てを一人でやらなくてはならない。今は私がそれらを肩代わりしてやれるが…独り立ちするとそうもいかない」
かもしれないな、と私は軽く受け流す。でもそれでも良いと思っている…だってそれは絵で食べていくという事であり、好きな事でお金を得るためには必要な工程だと割り切っているからだ。
確かに絵を描くのは好きでそれ以外の全てが煩わしいからと言って私は食事を取らないわけじゃないし睡眠しないわけじゃない。そうしなければ絵が描けないならする…それくらいの分別はある。だからそれがいくら険しいものでも受け入れるつもりで……。
「しかし私はねアルタミラ、君の才能は至上の物だと思っている…君の才能が絵画以外の何かに潰されるのは惜しいと思っている。だからどうだろうか…一人前になっても私と共に仕事をしないか」
「え……?」
「君は絵を描いてくれればいい、それ以外の全てを私が肩代わりするんだよ。資金の管理やクライアントとの交渉、個展の開催や物品の買い揃え、全てをやる。まぁその代わり君の絵を世に出す時は…私の名義になるが、いいだろう?君は絵を描けるわけだし」
「…………」
つまり私の描いた絵を、私以外の名義で出す…先生の名義で先生の絵として出す、ということか。
私が理解したのは今私は岐路に立たされているという事。先生は私の絵を本当に評価している、だからこそ…自分の絵にしたいと言う願望が生じた。
この時私は知らなかったが、先生は指導者として有名になりすぎたが故に『貴方の絵が見てみたい』と各方面からせっつかれる事が多くなった、なら絵を描けば良いのだが先生は既に画家の道を諦めていた…。
何より、先生は知名度の割に絵はそこまで上手くない。指導だって実はそんなにやってない…だから絵を描けば自らの知名度に傷がつくのではないかと恐れ、のらりくらりと誤魔化してきた。
そこに…絵を描く以外に興味のない人間を見つけた、剰えそいつには才能があった。だから先生は欲しがった…絵を描けない自分の代わりに絵を描いてくれる人間を。
「ああ大丈夫、私は既に多くの取引相手を持っている。君の絵が売れないなんてことはない…しっかり世に出して見せるさ。その方が君にとっていいはずだよ、知名度もなくなんのコネもない君より…ずっと上手くやれる。私は君の為を思って…言っているんだ」
「…………」
私が感じたのはこれだ、先生の欲望…どうにも我慢出来ず手を伸ばしてくる浅ましい心に私は忌避感を感じたのだ。
確かに絵を描くだけでいいならそれでいい。…いいのか?絵は私の物なのに世界中の人間全てが私の絵だと認識しない、それでいいのか?
「君は別に、画家としてチヤホヤされたいわけじゃないんだろう?」
そうだ、別に持て囃されたいわけじゃない。
「君は別に、金が欲しいわけでもないんだろ?」
そうだ、金が欲しいわけじゃない。
「なら…どうだい?」
なら、受けてもいいのか?…いいのだろうか。分からない…受けてもいい理由は思い浮かぶし受けない理由は上手く言葉に出来ない。だが今は私は得体の知れない拒否感に襲われている。
絵を描くだけでいい…絵を描くだけでいい、この言葉が引っかかってしょうがない。別に持て囃されたいわけでも金が欲しいわけでもない、絵を描いた結果周囲に認められたいわけじゃないし、先生に任せればそれこそ売れる。
父も母も売れなかったから苦しかった、苦しかったから必死に私のために動いてくれた…なら、私は出来る限りそれを回避するべきじゃないのか?売れない苦しさを回避するべきじゃ……。
「答えは出ないかい?」
「…………」
「そうか、まぁすぐに答えは出さなくてもいい。絵が完成する時また話を聞かせてくれ…それでこの話は他言は無用だよ、分かったね?」
「はい………」
その日私は答えも出せず、すごすごと逃げるように帰ることしか出来なかった。
どうすればいいか分からなかった、断る言葉を探している自分を見つけては『なんで断るの?都合がいいじゃん』と声をかける、すると断りたい私は何も言わずに逃げてしまう。でもまたすぐに断る言葉を探し出す。
断りたいのか?私は、受ければずっと絵が描けるじゃないか…分からない。
分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない…私は絵が描きたいんじゃないのかそれ以外どうでもいいんじゃないのかそれ以外どうでも良くなくないなら私は…今なんでこんな風になってるんだ。
親からも引き離され周囲からは疎まれ指導者たる人間から食い物にされそうになってる今の状況は?絵以外に目を向けると今の私はこんなにも悲惨じゃないか、絵を描いていればそれでいいのならこれらは気にしなくてもいい…けどそれ以外に目を向けるのなら、今私は…途方もなくどうしようもない。
(苦しい…絵を描きたい、絵を描いていたい…)
私はそのままアトリエに走り、描きかけの自画像の元に走る。せめて絵を描いていよう…くだらない現実からは目を背けよう、そう思い私はアトリエに走り…自画像の前に走り、そして……。
「え……?」
愕然とした、下書きは終わった、これから次の工程に写ろう、絵の具を使って色をつけよう…線を描こう、そういう段階に至っているというのに。
私が家から持ってきた…愛用の絵筆が。
折られていた。
「え?」
「ああごめーん、なんかさっき物運んでる時にぃ、間違ってぶつかって踏んじゃったみたいでぇ〜」
床で転がりへし折られて粉々になっている絵筆、私の分の絵の具も全部めちゃくちゃにされていて、とても絵が描ける状態じゃない、それを見てショックを受けている私に…さっきのリーダー格の子が答え合わせにやってくる。つまりそういう事だ、つまるところそういうこと。
そんなにも、私が憎いか…。
「私は全く悪気はなかったんだけどぉ…」
(結局そうじゃないか、私は絵を描くこと以外できないじゃないか。周りの人間から疎まれ、嫌われ、肝心な絵を描くこと自体否定されるんなら…そういう面倒なこと全部誰かに押し付けたっていいじゃないか)
「でもこれじゃあ絵、描けないねぇ。ごめんね〜!もうすぐ定期審査なのにこれじゃああんた下書きのまま出すしかないねぇ〜!」
(だったらそれでいいじゃないか、父も母も私が売れることを望んでる…先生に任せれば売れるんだし、折を見て独立なりなんなりした方が賢いだろ、ならそれでいいじゃないか…それが私の画家としての人生でも──────あ)
その瞬間、私はひらめきを得る。断る言葉を探していた私の中の私が…私の言葉を拾い上げ突きつけてくる。
『私の画家としての人生』…そうか、それが答えだったんだ…私がなんとなく先生の言葉に忌避感を持っていたのは。結局私は…そうやって生きたかったんだ。
「……ごめん退いて」
「はぁ?何キレてんの…ってあんた、何を…!」
「………」
一刻も早く絵を描きたい、絵筆がないけど絵を描きたい、絵を描いていた方が答えが出る。そう考えた私はとにかく絵を描くため…道具を手にする。
それはナイフだ、誰かがキャンバスを切り裂くために持ってきたものか、或いは油絵を削るために持ってきたそれを手に持った瞬間…リーダー格の子が異様に怯えたのが目に見えた。
「…………」
「ち、違…私がやったんじゃない!他の奴が!」
「……退いて」
「は…?」
私はそのままリーダー格の子を押し退けて、椅子に座り…そして静かにナイフを手に持ち。
「えッ…あんた……」
ナイフを私の腕に突き刺した、その瞬間私の腕からは真っ赤な血が溢れ…ポタポタと床に滴る。
今の私には、絵筆も絵の具もない…だから代わりを用意する必要がある。故に私はナイフが突き刺さったままの腕に静かにもう片方の手を当てて、指先に血をつけて…。
「………………」
「血…を、塗料にして…絵を描いてる……」
指に血をつけ、髪に色を塗る。指で色を伸ばし、重ねて調整し、無数の赤を使い私の自画像…その髪に色を塗る。
ああ、絵を描いていると…頭がスッキリする、思考が鮮明になる。やはり私はこれがしたかったんだ、こうして生きていたんだ。
私は絵を描いて生きていきたいんじゃない。画家として生きていきたいんだ。
父も母も芸術家として苦しい思いをした、それは芸術に一途だったから…苦しかったんだ。それは私にとってとても羨ましいことだった。売れない、苦しい、辛い…そう思いながらでも芸術に打ち込むだけの熱量が欲しかったんだ。
誰かに虐げられても、食い物にされそうになっても、私は私…画家として生きる。私の絵はそんな私の思想の結晶だ…誰にも渡せない。
例え売れずとも、例え辛くとも、画家として生きていくなら…名を捨てるわけにはいかない。私は…アルタミラなんだ、画家アルタミラ・ベアトリーチェなんだ!
「………ふふふ…」
「く、狂ってる…狂ってるよこいつ!」
髪に色を塗り、瞳に赤を塗り、恍惚と笑う。答えを得た嬉しさと絵が完成した嬉しさに私は笑う。
一歩引いてみればそこには私がいる。髪色は血の赤で染められ瞳は赤く燃えるように輝いている。それ以外は一切塗られていないがだからこそ美しさを感じる。
完成した…絵だけじゃない、この時を持って画家アルタミラもまた完成した。絵を描くだけだった私は今絵を描く理由もまた手に入れた。
私を捨てた親も、私を疎む同輩も、私を食おうとする下卑た大人も、今は全てが愛おしい…。
「これが私だ…そうだ、これからの私がこれだ…これこそが私だ」
究極の赤によって塗り上げられた私を見て、私は今一人の人間になった。もう絵だけを描いている時間は終わった…私は画家として生きていく、ならば……やることは決まっている。
……………………………………………………………………
「待てアルタミラ!このアトリエを出るとはどういうことだ!?」
「そのままの意味です、私は答えを得ました。今までありがとう名前も覚えていない師匠」
「は、はぁ…!?」
そして私は先生に私の自画像を渡し、そして同時に叩きつけたのはアトリエからとの脱退届け…私はここを出ることにした。私は即座に荷物をまとめここを出ようとしたが…先生はそれを引き止めようと私の手を引いた。
「待て!私の言葉が不快だったなら謝る!だからもう一度考え直してくれ!」
「いえ、私は先生から学びました。私は絵を描くだけの生き物ですが絵を描くだけの生き物なりの生き方があると貴方から学んだんです、その生き方をするには温かいアトリエの中にいては成り立ちません、だから出ます」
「何を言ってるんだ!?なぁアルタミラ!私はお前を評価してるんだ!私以上の天才なんだよお前は!」
「ありがとうございます、ですが天才でも凡才でも私は私です。私は画家アルタミラ・ベアトリーチェです、この名を抱えて生きていきます、今までありがとう」
「だから待てと!」
「待てません、苦しいんです…一刻も早く絵を描かないと」
「ッ……」
「失礼します」
私はそのまま先生の手を振り払い、数少ない所持金と幾ばくかの画材を拝借して出ることにした…そんな私の背を見送る先生は…。
「諦めないぞ!私は!お前を!アルタミラァッ!!!」
「…………」
そんな咆哮を背にただ前をだけ見て歩いていた……。
そこからは、私の画家としての人生が始まった。
「あの人…雪の中で絵を描いてるわ」
「手が悴んで震えてるのに、全く絵を描くのをやめないなんて…余程困窮してるのね」
「……………」
家には帰らなかった、ただ名も知らない街に行き絵を描いた。アトリエはないから雪の中でキャンバスを立てて絵を描いた。これに値札を張り絵を描いた。時にその絵は二束三文で売れて、でもそれは画材の調達に消え毎日ロクに食えない日々が続いた。
「おいテメェ!こんなところで絵を描いて…邪魔なんだよ!」
「ッ……」
時に、酔っ払いに描きかけのキャンバスを蹴り飛ばされ怒鳴られることもあった。
「あれ何かしら、ホームレス?」
「木の板に絵を描いてる…なんだあれ」
「ってあれ、塗料…血じゃないか…?」
困窮に困窮を重ねた時はゴミ捨て場から木板を拾ってきて、それに血を塗って絵を描いた。物好きが買ってくれて、画材を買った。
お世辞にもいい生活とは言えない日々が…大体一年くらいかな、それくらい続いた。毎日毎日明日生きていられるかも分からたい日々が続いた…。
こんなことならアトリエを出なければ良かった、親の下に帰ればよかった、どこかに転がり込みたい、画家を辞めたい、苦しい、辛い…そう思えば思う程に。
(楽しい……!!!)
私はその状況に恍惚とした。煩わしい全てが愛おしかった、絵は私を見てくれる…絵を私は見ている。
楽しかった、楽しくて楽しくてたまらなかった。やはり私には絵しかない…絵しかないんだ。
「私にとって、お前だけが…全てだ」
そう言って、ゴミ捨て場で私の絵を抱きしめて眠る。そうしてまた明日が来る……。
そうだ、この頃から私は少しおかしくなっていた。今までの束縛や排他が私にねじ曲がった道を見せたか、或いは私は元々こういう奴だったのかは分からない。
だが、…それでもやってくる。転機だ…狂気的な活動をしつつも未だ常識の領域に足を置いていた私が、完全にラインを超える…その時が。
…………………………………………………………………
「お前を、盗作の疑いで逮捕する」
「は?」
ある日、私はいつものようにゴミ捨て場で目を覚ますと…街の憲兵が私を囲んでいた。突きつけられた書状には『盗作疑い』の文字が羅列されていた。
この芸術家の国エトワールに於いて、芸術は人間性そのものであり盗作とは即ち人間性の否定、殺人にも迫る罪となる。そんな罪が今私に降りかかろうとしている。
「待って…待ってほしいです、私…盗作なんてしてない…!」
「お前が先日画商に売った絵は別の人間が描いたものであると通報を受けた、一緒に来てもらうぞ」
「待って!待ってください!私は何も!」
唐突だった、私は憲兵に捕えられ…瞬く間に罪人の如く手枷を嵌められ晒し者にされながら街を歩かされ、独房へと打ち込まれた。
何が何だか分からなかった、私は盗作なんかしていない。しているわけがない、私は私の絵を描いて生きていきたいのだから…誰かの真似事なんかしても満たされるはずがないんだ。
「その画商と話をさせて欲しい!誤解を解きたい!」
檻を掴んでそう叫ぶが、誰も答えない…嗚呼、だめだ…ここには。
「ならせめて!筆をくれ!紙をくれ!絵を描かせてくれッ!私は…私は画家なんだ!絵を描いていなければ…画家じゃない!」
どれだけ寒くても、お腹が空いても、下に見られ蔑まれ疎まれ捨てられ傷つけられても耐えられる。けど絵が描けないのは耐えられない、手枷を嵌められたままじゃ絵が描けない、ここには筆も紙もない。
何を否定されてもいい、だが絵を描くことだけは否定しないでくれ…そう叫ぶが、それは虚しく木霊するばかりで…私は人生で初めて、絵を描かない数日間を過ごした。
それは途方もなく苦しかった、湧いてくるインスピレーションに頭が爆発するかと思った、やり場のない怒りに壁に頭を打ちつけもした、流れる血で絵を描こうともした…だがだめだ、ここじゃ絵が描けない。
描きたい、絵を描きたい…画家として生きさせてくれ、それがダメなら死なせてくれ…!
そう祈りに祈り…そうしてようやく、例の画商がやってきた。
「お前か、私に偽物を売りつけた詐欺師は!」
「お前が……」
「なんだそのツラは、髪が血で濡れて…気味が悪い」
頭を打ちつけ血が流れ、真っ赤に染まった髪を振って私は画商に向かって走り出し、檻に食らいついた。
「誤解です!私は盗作なんてしてません!ここから出してください!!」
「何を言うか!お前が描いた絵ではないことは分かりきってるんだ!」
「そんなことはない!なんならここで絵を描いてみせる!だから…お願いです!」
「フンッ、そんな必要もない…これを見ろ」
そう言って画商が持ってきたのは…一枚の絵だ。額縁に飾られ、綺麗に装飾された絵は…私の顔だった。
赤く塗られた髪、赤く染まる瞳…この絵は間違いない。一年前私が先生に突きつけた絵…私の絵だ。
「これはな、さる先生が十数年ぶりに展覧会にて発表した名画…『狂気の赤』だ。今までの界隈に蔓延っていた常識、価値観、歴史全てを覆す…名画中の名画だ。私をこれを買う為に今まで集めたコレクションも、自宅さえも売り払った…それほど価値のある絵だ」
「なんで…これが、…なんだって?…これの作者は」
「言ったろう、私の知り合いの…『先生』だよ」
そう言って、画商が振り向くと…そこには、一年ぶりに会った…あの先生がいた。前見た時よりも身なりが良い、恰幅も良くなっている。先生は私を見るなり憐れむような視線を向け…。
「久しぶりだね、アルタミラ」
「先生……」
「随分見窄らしくなって…おまけに、盗作だなんて」
察した、全てを…ああ、先生は結局私の絵を自分の絵として発表したのか。私の…絵を……。
「それ…私の絵だ…」
「違う!こちらの先生が狂気の赤の作者様だ。聞いているぞお前はこの先生の弟子でありながら勝手なことを言ってアトリエを抜け出し、剰え金に困って先生の作品の盗作をしたと」
「アルタミラ、君には才能があったが…それを盗作だなんて形で発揮するとは悲しいよ。これは確かに君をモデルに私が描いた作品だったが…何を勘違いしたのか自分の絵だなどと、君はただのモデルでしかないだろう」
「違う…その子は…その子は私の子だッ!!!」
ガシャガシャと音を立てて檻を揺らす、許せなかった…許し難かった。盗作だなどと謂れのない罪を着せられたことじゃない…私の描いた私の絵を、別の誰かが利用していることが許せなかった。
私の絵だよそれは!私が愛する私の全てだよそれは!私の芸術は私の全てなんだ!それを…それを!!
「喧しい!先生は今まで多くの絵を世に出している、時にはゴミ捨て場にあるような木版で素晴らしい絵を描いたこともある…それをお前は!」
「ゴミ捨て場の…木版」
それは、私が画材がなくて困って描いた絵と同じ…いや、まさか…。
「お前ッ…!」
こいつ、私が今まで描いた絵も!買い集めて自分の作品に変えていたのか!私の画家としての生き方さえ!こいつは…!!
「それを証拠に、ほら…先生の新作だ。お前の作風と同じだろう…!」
「…………」
そうして次に出された作品は…私が数日前に売った絵と同じ、いや違う…色が違う。雪景色の中に映える古屋を描いた作品なのに、これは古屋の色が変えられている、周りに木々も追加されている。
手を加えたんだ、先生がより一層自分の作品にする為に…私の絵に…手を加えて……。
「これもこれも、これも全部先生の作品だ!お前が真似たのは先生の作風そのものだろう!」
そうして次々と画商が部下に持って来させた絵は全て私の絵だった、が…そのどれもに手が加えられていた。何かが付け足されていたり、何かが削られていたり…色が変わっていたり、全てそのままの物は一つもなかった。
私が苦しい思いをして、地獄の中でそれでも良いと描き続けた結果が…全てそこにあった。それはつまり…。
「なんて…凡卑で…凡俗な色使いだ…何もかもが台無しだ……」
殺された、私の作品が…そう感じた。全てが総崩れだった、センスのカケラもない…計算され尽くして作り出した色も配置も全て変わってそこにあった美が消え失せている。これはもうただ紙に絵の具を塗りつけただけのものに過ぎない。
私が生み出した何もかもが、なくなってしまった…私の画家としての人生全てが否定された…。
「分かったか、お前が先日売った絵は!先生の盗作なんだよ!」
「まあまあ、彼女も生活に困ってしたこと…金のない画家の苦悩は私も分かるつもりです、何より彼女は私の教え子だ…少し話をさせてください」
「先生……分かりました、では」
そう言って画商は部下と共に席を外し…その場には崩れ落ちた私と、私を見下ろす先生だけが残された。
「分かったか、アルタミラ…これが芸術家の世界だ。芸術とは金とコネの世界なんだ…お前がいくら金のない中で絵を描いても、私はそれを容易く覆すことが出来る」
「………」
「お前が路傍で売った絵は、全てその後私が買い集め…私の絵として添削した。より一層大衆ウケするものにな…お陰で、もう子供に教えるなんて細々した生活しなくても済むようになったよ」
「…………」
「お前の絵は売れる、私なら売れる…!だからアルタミラ!今すぐそんな生活はやめて……」
「なんで、私の絵に手を加えた……」
「は?」
今まで先生は私の絵を追い集めて来た、その全てが先生の手にかかって殺された。そこまでは分かったよ、けど…なんで殺したんだ、私が必死に書き上げた、紡ぎ上げた軌跡を…どうして塗りつぶした。
「……言ったろう、あの方がいいからだ」
「……は?」
「狂気の赤はその時点で大衆の目に留まっていたから手を加えられなかったが、私ならあれはもっと鮮明な色合いにする、背景は色鮮やかに、とりどりの色を使う…お前にはない発想だろう」
「………」
「その結果、実際に売れているしな。だからお前の絵を買い集め私が手を加えて売ったんだ、私の腕ならそれができる」
「………出来てないだろ」
「何?」
「出来てないだろッ!なんだあの絵は!全部台無しだ!何もかもが台無しだ!凡人以下だよあの色合いはッ!全て…全て私が地獄の中で見出した究極を注ぎ込んだ!それが分からないのか!?あれが私の究極の美だったのに!」
「何をバカな…」
フンッ!と鼻で笑う先生に…絶望する。伝わらないとのか?あの究極が…分からないのか?同じ画家なのに、あれがどれほど計算され尽くした絵だったのか。
はは…ああそうか、伝わなきゃ…意味ないな。そりゃそうだ…ははは……。
「それよりアルタミラ、絵を描け…分かったろう、お前の絵は売れる…だがお前じゃ売れない、私が売った方が金になるんだよ!」
「………」
「私が画商に一言言えば、お前に恩赦を加えることもできる。だがお前はもう芸術家として死んだも同然だ…もう表で真っ当に絵は描けない、アルタミラには盗作画家の名が乗ったからな…それでも絵を描くなら、私の名前で出すしかない!」
「…………」
「さぁアルタミラ、絵を描け…私のために、そうすれば出してやる…絵を描かせてやる!」
結局先生は、そうしたかったから私に盗作画家の名を被せたんだ。実際に盗作しているとは先生の方だと言うのに…世間はそれを認識しない。私は今…画家として最低のことをした人間に成り下がった…そう思われた以上画家としてはやっていけない。
嗚呼そうか…そうなのか、先生はそんなに…私を……。
「……絵を、描かせてください」
「絵を描きたいんだな、私のために」
「なんでもいい…描かせてくれ」
私は、口を開き、頷いた…すると先生は私を閉じ込める檻を開ける。どうやら鍵は先生が持っていたようだ…。
私は項垂れながら、手枷を外され…先生に絵筆を押し付けられた。
「早速だ、ここで描け」
「ここで……?」
「今日の午後にブオナローティ家の方と話す機会があるんだ、そこで絵を売りつけたい…だがお前が普段あんな安い画材で描いてる絵ではダメだ!豪勢で豪華で!高い絵を描くんだ!」
「………私の絵筆じゃない」
「なんでもいいだろ!道具なんか!さあ描け!」
「…………」
…言われるがままに絵を描く、絵を描けないのは嫌だったから…でも、なんだろう。
(楽しくない……)
絵を描いていて、楽しくないなんていつ以来か…ああ、両親に束縛されている頃以来だ。あの時はなんで楽しくないか分からなかったけど今なら分かる。
これは私の画家としての活動じゃないからだ、私は好き勝手に画家として生きたい。絵を売って、売れなくて、苦しんで…困窮して、それでも絵を求めていたいんだ。なのに今はどうだ。
画家アルタミラとしてのそれは死んだ。先生に殺された、私の画家としての今までもまた先生に殺された。今と私は空っぽだ…何もない、何もないから…楽しくない。
苦しかった、まるで水中で溺れるように苦しかった。そうしながら…下書きを終え絵の具を塗った瞬間。
「違う!違う!違うアルタミラ!こんな絵じゃダメだ!」
私が描いていたキャンバスが先生によって蹴り壊され、壁に当たって割れてしまった…。
「え……」
「お前は私を上回る天才なんだ!それが…こんな凡百な絵を描くなんて!」
先生の声が…ボンボンと木霊してよく聞こえない。なんだって?なんて言ってるんだ?先生はなんで…私の子供も同然の絵を壊したんだ?え?どんな理由で…私の全てを殺したんだ、また…私の目の前で。
「さぁ描け!描くんだアルタミラ!お前にはそれしかないんだ!絵を描く以外許さない!…さぁ早く描けェッ!」
「先生…」
私は呆然としながら…絵筆を地面に落とした。この人は私の絵を殺した…絵は私の全てだ、全てを殺した、全てを殺したってことは…私を殺したってことだ。それがどんな理由であれ…許せない。
ああ、許せない…許せない…許せない許せない許せないッッ!!
『なら殺そう、殺されたのだから殺そう。それが因果だ』
(……殺そう)
何処からともなく聞こえる声に、私は動き出し…静かに指を動かし先生に向けて。
「先生、それを」
「あ?ナイフ?…そう言えばお前は、狂気の赤をナイフで描いたらしいな…いいぞ!これと同じ絵を描けば!ブオナローティ家にも取り入れる!王族に気に入られれば私は画家として大成出来る!若き日に夢見た!挫折した夢を今叶えられる!さぁ描けアルタミラ!」
私は先生からナイフ受け取った、今まで内向的で…自分の中で完結していた私の価値観は今…初めて。
刃と共に…外側を向いた。
「あははは!これで私は!画家としてェッ……えッ…?」
「……先生、私は…画家ですか」
「な…ッ…ァッ…!?」
ボタボタと足元に血が滴る。先生の腹に食い込んだ刃が肉を切り裂き…血を溢れさせる。殺されたから…私も殺すよ、先生の全てを…けどこれは。
画家としての、生き方なのか?
「あ…ぐぇ……」
「………」
そして先生は、刃を腹に刺したまま…苦しそうに悶え、私が描いて、先生が台無しにした絵に縋り付いて、断末魔もなく…死んだ。
「殺した……」
その時ハッと気がついた、殺したことを…殺してしまったことを、この手で…私は、先生を……。
「あ、嗚呼…あああ!私は…なんて事を!」
唐突に噴き上がってくる私の正気が私を苛む、何をやっているんだと…こんなこと許されるはずがないと、でも…殺してしまった。ああ!殺してしまった!こんなの画家じゃない!私は…私はなんてことを!
許されないことをしてしまった…そんな、私は…こんな…こんな事がしたかったんじゃ…こんな生き方がしたかったわけじゃ……。
『いいやアルタミラ、これがお前の生き方さ』
「え……」
その瞬間、声がした…画商が置いていった、狂気の赤から声がした。赤い髪と赤い瞳の私がこちらを見ながら…何かを言っている。
『お前は狂っていたんだよ、狂っている。だがそれの何が悪い…お前は追い求めた結果狂ったのだからそれはお前が目指した姿そのものだ』
「ち、違う…私は……」
『まともなフリはやめろ、大丈夫…ここからは私が、上手くやるよ…だからお前はもう、眠れ。アルタミラ…殺された画家よ』
そうして、絵は…大きくなって…私を飲み込んで…そして、そして……。
「なんの騒ぎだ!…ッ!?先生!?」
「そんな!先生が殺された!?」
「アルタミラ!お前がやったのか!」
少しして、画商と憲兵達が戻って来た。彼らが見たのは…血を吐いて絶命している先生と先生の返り血を浴びて、嬉々として絵筆を持つ私の姿…。
さぁこれで言い逃れができなくなったぞアルタミラ、だがそれでいい。蝉の裁判官は君に罪状を告げる、だが刑を受けるにはまだ早い…私達は今、ようやく…新たな画家としての生き方を見つけたのだから。
「やぁ…初めてまして、諸君」
「は、はぁ?お前何言って…」
「君達に聞きたいんだ、アルタミラの名前がこいつのせいで使えなくなってしまったんでね、新しいペーンネームで活動しようと思うんだが君達は何がいいと思う」
人を殺し、それを目撃されたと言うのに…まるで朝目覚め清々しい覚醒を得たかのようなテンション感で喋るアルタミラに周囲の人間は怯え出す。
「まだ…まだ私は終わらない、まだ終われないから、まだ続ける…その為に新たな名前が要る、新たな私に…相応しい名前が」
「こ、この殺人者が…」
「殺人者、うーん…的を射たいい名前だがそれは衆生には伝わりにくいんじゃないかな?もっとパンチが効いていて…それでいてキャッチーな名前がいい、一緒に考えよう…ねぇ、考えよう」
ペタペタと音を立てて近づいてくるアルタミラに憲兵達は怯えて剣を突きつける。するとどうだ、牢獄の闇に隠されていたアルタミラの姿が外の光を浴びて…鮮明になる。
その姿は、狂気に飲まれたアルタミラの姿は…明らかに先程までとは違っていた。
「お前……髪が」
その髪は真紅に染まり、瞳もまた紅蓮に染まり、別人のように口角を上げ笑い…その姿は、画商が名画と呼んだあの絵と同じだ、アルタミラの狂気の根源と同じだ…そう。
「狂気の赤が…動いてる…!」
「狂気の赤……?」
アルタミラは見る、向けられる刃が鏡のように自らの姿を反射するのを、そこに映る血よりも赤く血よりも悍ましい自らの姿を、かつて描き上げた狂気の赤と同じ姿となった己を見て…歯を見せ笑い。
「赤…赤、狂気の赤…いいね。ならルビカンテ…なんてどうだろうか、ルビカンテ・スカーレット…いい名前だと思わないかい?君達の感想を聞きたい」
「く、来るな…来るなあぁぁっ!!」
「ふふふ…」
そして、憲兵達は…その剣鋒をルビカンテに向け斬りかかり─────。
「私の人生は闇に満たされていた、それはマイナスな意味合いじゃない。暗いからこそ己を顧みて己を見つめ直し己の中で価値観を成熟させ続けていた…だからこそ私は己の道と在り方を見つける事ができた、今は闇に感謝している」
静かに…地下牢獄の扉が開き、光が満ちる外界へと…それは歩み出す。
「これからの私は光の世界を歩む、光の世界は自分以外の誰かに意識を向け、己の価値観を晒し生きる世界。ならば私も示そう、示そうよ。アルタミラ・ベアトリーチェという画家の生き方とルビカンテ・スカーレットの狂気を……」
ひたりと外に出るルビカンテ、その右手にはズタズタに引き裂かれた憲兵の亡骸と画商の血、それらで全身を染めたルビカンテは太陽を見上げ…笑う。
「さぁ始めよう、作業を始めよう仕事を始めよう、狂気と言う絵の具で…私と言う絵筆で、描きあげる!私の美を…!」
この日、この時、アルタミラ・ベアトリーチェは死んだ。自らの芸術品と共に死んだ…そして生まれた、狂気の芸術性で名画を生み出しながらもその裏であらゆる破壊行動を行う狂気の化身ルビカンテが。
……そうしてルビカンテはエトワールを出た、エトワールを出た彼女は己の狂気のままに生きやがてマレフィカルムの末端組織だったマーレボルジュを見つけ、その力により構成員、頭領全てを狂わせ殺し合わせ、人員を半分に削りながらも自らが組織の主導権を握り…。
彼女の力によりマーレボルジュは肥大化、一気に組織は巨大化し八大同盟の一員となった。
全てはこの日から始まった、そしてこの日以来アルタミラの人格は眠ったまま…今日まで過ごすこととなった──────。
────────────────
「これが、私の過去…私はこの手で…先生を殺し、ルビカンテを生み出してしまった。アイツは私が望んで作り上げた狂気の人格…私自身なんです」
「……………」
腕を組んで、サトゥルナリアは聴き終えた…アルタミラの過去を。ただ恵まれなかった…周りの人に、狂気の素養はあれどそれが芸術の方面に昇華しようとしていたのに、足を引っ張られ狂気は他者を傷つける凶気に進化してしまった。
それは不運とも捉えられるし、アルタミラの生き方上仕方ないとも言えるし、それでも受け入れられないとも言える。
(売れない芸術家の苦しさ…か)
それは僕も一応知ってるつもりだ、だがその苦しさも自分が愛する道によって生まれたと思えば、苦しささえも愛おしくなる。それはとてもよく分かる…だが彼女はそんな苦しささえも否定され、ただただ地獄であったと言う結果しか残らなかったんだ。
「そうして、ルビカンテは生まれ…貴方はルビカンテに体を奪われたと」
「正確に言うとどうなんでしょうね。ルビカンテこそが本物の私なのかもしれないし…私という人格はアルタミラにとっての一時の気の迷いなのかもしれない。そう思うと…もう何が何だか分からなくて」
ルビカンテの覚醒によりアルタミラさんは暫く眠りについたと言う。意識はなくその間ルビカンテが体を動かし…気がついたら八大同盟の盟主だったと。
自分を守るために作り上げた別人格が…覚醒によって全く別の自我を得て体を奪うか。恐ろしい話だ、けど同時に思うわけだ。
(……やっぱりルビカンテは消えるべきだ、奴の存在はアルタミラさんにとって害にしかならない)
元はと言えばアルタミラさん自身の狂気だ、でもそれが暴走し今アルタミラさんを傷つけているなら…ルビカンテは倒すべきだ。
「……ナリアさん、貴方はルビカンテを倒すと言っていますが、私はどうにもそれが出来るようには思えません。私が画家として生きていく上で…狂気は常に共にあった。ルビカンテは私にとって喜怒哀楽よりも強い感情なんです」
「以前も言いましたが狂気って名前の感情はありません、狂気は全ての感情が持ち特定の条件下で発露する心のアレルギー反応です」
「でも……」
「そして感情の悪魔を倒すには、その感情とは真反対の感情をぶつけるしかない…その弱点を知っているからルビカンテは自分がなんの感情を由来としているか頑なに言わないのです」
カルカブリーナを倒した時のように、承認欲求の正反対が羞恥心であるように、ルビカンテにもまた正反対となる感情が存在する。それをぶつければルビカンテの力は大きく削がれることになる。
だから僕はアルタミラさんの過去を聞いた…ルビカンテが誕生した話を聞いた。そして……。
「…安心してください、ルビカンテがなんの感情から生まれたか…分かったので」
「え?今の話で?」
「はい、明確に」
ルビカンテが誕生した経緯を考えれば奴がなんの感情から生まれたか…明白だ、それは恐らく芸術家…いやある種求道者ならば誰もが持ち得る感情だ。それは生きる為に必要な感情であり…、有史以来人が人を傷つける最たる理由になった感情。
「なんの感情なんです?」
「それは秘密です、言ったら意味ないので…さて。それじゃあ早速ルビカンテを消す為に正反対の感情を生み出しに行きますか」
「ちょ、ちょっと待ってください。教えてくれないのはいいとして…いいんですか?」
「何がです?」
「いや…私の過去、聞いたんですよね。私は…人を殺してるんです」
怯えた目で、こちらを見るアルタミラさんは…それでも私を助けるのかと僕に問う。自分は人を殺している、そんな自分を助けるのかと…そこに対する答えは一つしかないよ。
「はい、助けます。だって貴方が人を殺したこと…僕には何の関係もないので」
「え……?」
「誰かを殺した、それは許されない罪かもしれない。だけど罪は貴方の個人的な問題であって僕には何の関係もありません、だからそこは考慮しません。僕は貴方を助けたいと思った…たとえ貴方が何者でも、僕は貴方を助けますよ…アルタミラさん」
突き放すような言い方だが…結局そうとしか言えない。誰かを殺した殺人の罪はアルタミラさん個人の問題でありそこを贖罪するにしても償うにしてもそれは彼女が一人でするべき事、人を殺したからと言って僕に『じゃあ助けません!』って言える権利があるのか?ないだろう、司法官でもあるまいに。
法は人を守り、人は法を守るべきであるが、人が人を守る事に関しては…法は関係ない。これは心の感情の話なんだ。
「貴方は貴方の足で立って、いつかその罪と向き合い贖う必要がある。けど貴方は今一人じゃ立てない…だから僕が手を差し伸べるんです、一緒に立って…自分の過去や未来に立ち向かいましょう」
「………嗚呼、そうですね」
僕が出来るのはそれだけだ、免罪も贖罪も与えられないのなら…せめて彼女が向き合う為に一緒に立ち、歩く。何より彼女は下手に寄り添われたり罪を否定されたりするのは嫌そうだしね…なら、こうするのが一番だと感じた。
「ありがとうございます…」
「納得しましたか?しましたね?よし、なら行きましょう!」
「えっと、何処に…何を?」
「言ってるでしょう?ルビカンテを倒しに…商店街でショッピングです!」
「えぇ…?」
さぁ行くぞ、打倒ルビカンテを目指していざショッピングだ。奴がなんの感情から生まれたかは分かっている、ならその正反対の気持ちをアルタミラさんが抱けばルビカンテは弱る。
けど、ルビカンテが何の感情から生まれた悪魔でその正反対の感情がなんなのか…彼女に伝えたら台無しになる。彼女の性格上きっと下手に意識する、これは下手に意識されると意味がないんだ。
だからやるぞ……観客に、見る者に、あらゆる感情を与える役者として。
役者サトゥルナリア一世一代の大勝負だ!
………………………………………………………
一方、ナリアが花畑にてアルタミラの過去を聞いていた頃…ネビュラマキュラ城では。
「へぇ〜、そんな事があったんですねぇ…」
「もう大変だったんだよ、もう山みたいにでっかい龍が相手でさ」
「そんなに大きいなら見てみたかったですね、それ」
ステュクスは久しぶりに職場に戻りレギナに第二回戦であったことを土産話として話していた。大冒険祭中はレギナから特別休暇ということで騎士として出勤する必要はないことを伝えられているが…まぁだとしても暇な時間が出来たら行くところなんてここしかないわけで。
暫く姉貴達と一緒にいた事もあり…いつものメンツに会いたくなってここに来てしまったんだ。
「いやぁステュクスは本当に、いろんなトラブルに見舞われますね」
「いろんなトラブルに見舞われてるの…俺かな、どっちかっていうと姉貴な気がするけど」
「姉貴…そう言えばエリスさんとはあれからどうです?やっぱり険悪?もうそろそろ八回くらい殺されました?」
「一回も殺されてないから、今ここにいるんだよレギナ」
二人で玉座の間の柱に寄りかかりながら話し合う、そこで出てきた姉貴の話題に俺は少し…表情を変える。
「分からなくなった」
「何がです?」
「姉貴の考えてる事…俺、姉貴に嫌われてると思ってるよ…けど姉貴はなんか、俺と距離を詰めようとしてきているように思えてさ、もう何が何だか…」
カルカブリーナと戦った時…まぁ色々酷い目には遭わされたが今までのそれに比べれば大分マイルドな扱いだった。というか大冒険祭でのあれこれを思い返すに…姉貴はかなり俺のことを気にかけているように思える。
嫌われてるはずなのに…よく分からない。
「それ、エリスさんなりにステュクスと仲直りしたいんじゃ?」
「姉貴が?あり得ないあり得ない」
「ステュクスはそう言いますけどね、いつものあの態度もエリスさんなりの照れ隠しかもしれませんよ?まぁかなり、凄く、とても、言い訳が効かないくらい、ちょっとドン引きするレベルの、過激ではありますが」
「あー…いや、ちょっと違うんだよなぁ…」
「え?」
確かに姉貴の俺の扱いは苛烈だし、一度は殺されそうになった。そこは怖いし今でも時折マジビビリすることに変わりはない、けど…それは今の関係性の上に成り立つ話であって俺があの人との関わりを躊躇う理由にはならない。
そもそもマジで殺そうとしてるって思うなら、俺は姉貴にこんなに近づかないしね…思うところがあるから、近づいたり近づけなかったりをするわけだし。
「確かに俺は姉貴が怖いよ、けど…それは不仲なのと関係はない」
「なら、なんですか?」
「前言わなかったか?姉貴はさ…俺の母親に一回捨てられてるんだ。捨てられた姉貴と母親から愛された俺とじゃ…そもそも境遇が違う」
俺は心の何処かじゃ姉貴に同情してる。昔は悪い貴族に捕まってると思っていたしハーメアは悪くないと思っていた。けど大人になり物を知れば…姉貴の立場からの視点ってのも見えてくる。
姉貴からすりゃ、地獄で唯一の寄るべだった母親に裏切られる形で捨てられたんだ。母親に絶望もするし…それが自分の代わりに愛していた息子なんて、憎くて当然なんだ。
「俺ぁ…姉貴に負い目があるんだ。姉貴が欲しかった物を…自覚なく持っていた俺は姉貴からすれば家族ですらないだってさ」
「でも、それステュクス悪くありませんよね」
「誰が悪いって話じゃない、俺がそう思っていて…姉貴がそう思ってると俺が思ってる。それだけの話だよ」
結局は怖いのさ、今の温厚になり始めた姉貴に甘えて近寄り過ぎて…結果またいつかみたいに関係性が破綻するのが。何より俺が…姉貴の憎悪を受け入れつつあるからこそ、そんな甘えも許さない。
置いて行かれた姉貴に対して…俺はどうすればいいのか分からない。手を差し伸べるべきなのか、そもそも見ないふりするべきなのか。仲直りってのも…難しいもんだよ。
「…………」
「レギナ?」
すると、レギナは不満げに俺の顔をジッと見て…。
「例え、姉になんと思われていても…歩み寄るべきです」
「だから、さっきも言ったけど姉貴がそれを望んでいるか分からな──」
「それでもです、例え拒絶されても嫌われても、家族は…一緒にいるべきです。少なくとも私はそう考えてます」
「レギナ……」
思ってみれば、こいつにもいたんだ…兄貴が。バシレウス…って名前だったか、そいつとの関係性は分からないが少なくともレギナはバシレウスを嫌ってない…だがバシレウスはここにはいない。
歩み寄ろうにも、歩み寄る事も出来ない状況に…レギナはいる。
「それに、なんて思ってるかなんて…聞いてみないと分からないでしょう?だからまずはステュクス、貴方から許すべきです…エリスさんを」
「姉貴を、俺が許す…か」
それは姉貴にされたことを許す…ではなく、姉貴という存在に向き合え…ってことなんだろうな。昔みたいに殺されるだなんだかんだって関係じゃなくなったなら…そうするべきなんだろうけど。
……でも、俺は…。
『失礼します』
「ん?」
ふと、レギナと二人きりで話し合っていると…玉座の間をノックする声がひとつ。珍しいな、この時間帯に玉座の間に来る奴がいるなんて…とレギナと見つめあっていると、そいつは返事も待たずソッと扉を開けて。
ひょこりと…顔を出す。
「ステュクスさん、お話を…一つ」
「ハルさん?」
そこにいたのは、ハルさんだ…ハルモニア。彼女がそこにいたんだ。そして彼女は…こう言う。
「結婚について、お話があります」
それは…まるで、姉貴との関係性のようにのらりくらりと逃げてきた俺に降り掛かる問題の一つとの、決着の時を意味しているのであった。