593.魔女の弟子と魔法の修行
魔女様達から与えられた『トラヴィス卿との修行』と言う試練。力不足を感じ始めていたエリス達に取っては渡りに船とも言える話を受けたエリス達魔女の弟子はトラヴィス卿の修行場『魔仙郷』の奥地へと足を踏み入れた。
これからエリス達はトラヴィス卿の修行によって『全員が完璧に防壁を会得する』段階まで行く。それは魔女様達があまり教えてくれなかった魔力闘法での戦い方に通じる部分だ。
魔女様達は防壁以外の魔力闘法を軽んじている。あくまで戦いに必要なのは防壁だけ、それ以外は魔術で攻撃すればいい。そう言う考え方なためエリス達は防壁以外の鍛錬をあまり積んでいなかった。
だが激化する戦いの中、武器は一つでも多い方が良いという事で師匠達は急遽方針を変えエリス達に魔力闘法を与えることにした魔女様達によって…この修行は開始された。
そしてエリス達は…。
「みんな、着替えてきたかな?」
「えっと…」
木々で織りなされた巨大なドームのような魔仙郷の奥地に立つ指導役のトラヴィス卿とアンブロシウスさん、二人の前にエリス達は並ばされたのだが…。
「えっと、本当にこの格好で修行するんでしょうか」
エリス達は修行前にアンブロシウスさんよりそれぞれ簡易的な衣服を渡され着替えるように言われたのだ…が、これがかなりの薄着。黒いパツパツのスーツ、それも袖は肩口までしかなく、裾も太もも丸見え。
トラヴィスさんがそういうすけべ心を持っているとは思えないが…は、恥ずかしい。
「魔力闘法は魔術と違い腕以外からも出せる、つまり全身を使って修行をする。動きやすさと衣服による魔力阻害をなくし肌で魔力を感じ取れるように急いで作ったトレーニングスーツだよ」
「私が自ら作成いたしました。魔力に反応し極微量の刺激を放つ特別製なので自身の魔力の動きが感じ取れるでしょう、そして魔力もよく通します。トラヴィス様が考案された代物なので一般的ではありませんが効果は十分かと」
「なるほどな、よく伸びるし動き易い。師範と修行する時に着る道着によく似てる…うん、いいもんですねこれ」
「け、けどこれボディラインが丸見えですよ!?恥ずかしくないですか?エリスは恥ずかしいです」
「何お前、そんな羞恥心とかあったの?東部の温泉では素っ裸で男湯乗り込んできたくせに」
「だまらっしゃい!」
「ぐふっ!?」
失礼なことを言うアマルトさんを一発で黙らせる。エリスはね、緊急時には恥も外聞も捨てられますよ、けど今はそうじゃないでしょ?なんでもないのにこんな格好するのは恥ずかしいと言うかなんと言うか…まぁ理屈はわかるので文句は言いませんが。
「それでトラヴィス様、まず我々は何をすれば良いのでしょう」
「うむ、まずは各々の魔力防壁の状態を確認したい。先程アンブロシウスに確認させたのは飽くまで簡易的なもの、本格的に質を確認する…」
「防壁の質…ですか」
エリス達の中で確実に防壁が張れるのはエリス、ラグナ、メルクさん、メグさん、ネレイドさんの五人。アマルトさんは防壁をアンタレス様から教わっているが未だ習得出来ておらず、ナリアさんはまだそこまで実力が達していない…そして。
「はい!私防壁張れません!」
デティだ、デティもまた防壁を張れない…いや、具体的に言うなれば張れないのではなく…張る必要がない。
「おや?何故かな?」
「私結果魔術を使えます!それも最高峰のダイヤモンドフォートレスを」
そう、デティは基本防御は魔術で行う。故に魔力防壁の必要がない、高度も範囲も魔力防壁を遥かに上回る結界魔術があるから習得していないんだ、多分スピカ様から教えられてはいるんだが…それを実戦で生かす機会もない。
師匠の言っていた『魔法で出来る事は魔術でならそれ以上に出来る』と言う言葉は…つまりこう言う事なんだろう。
「なるほど、流石は魔術導皇様です」
「えへへ」
「ですが今の修行のコンセプトは魔力防壁の習得なので今は何もできないものとします」
「酷い!」
「んで?防壁を見るってどうするんですか?またそこにいるアンブロシウスさんの攻撃を耐える…とか?」
ラグナが視線を鋭くしながら防壁を展開する、先程エリス達はそこにいる髭巨漢のアンブロシウスさんにど突かれている。そこで防壁の質を簡易的に確かめられているのだが…どうやら今回は違うようでトラヴィスさんは首を横に振り。
「違います、次はこうやって…見ます」
すると、トラヴィスさんは杖を大きく振りかぶり…。
「フッ!」
殴りつける、エリス達をじゃないですよ?近くにあった巨木をです。このドーム型に展開される魔仙郷を形成する多くの巨木…城くらいある巨大な大木を杖で叩くんだ。
ただそれだけで、見上げる程巨大な樹木がグラグラと揺れる。恐らく魔力闘法を応用し衝撃波を生み出したのだろう。ラグナやエリスが渾身の一撃を放ちようやく同等の揺れを発生させられるかどうかと言うレベルの衝撃を軽く腕を振っただけで用意したトラヴィスさんによって…木は揺れる。
「お、おお?」
木が揺れれば、当然上部の枝葉はもっと揺れる。天井のように遥か頭上で展開される巨木の葉がガサガサと揺れ、葉の中に隠れていた鳥達が騒ぎ、…そして。
「な、なんなんだ?何が起こるんだ?」
「シッ…メルク様、この音は…」
葉が擦れ揺れる音と共に、何かが聞こえる。枝葉の天井の中から…何か音が…。これは…葉に水が当たる音?
「ッ…何か降ってくるッ!」
「え!?え!?」
その瞬間、葉の中から大量の水滴が雨のように降り注いだ。恐らくこれは木の中に溜まっていた雨水だ、雨の後木を揺らしたら水滴が落ちてくるように、この巨木も揺らされたことにより雨水が落下し始めたのだ。
ザーザーと音を立てて振ってくる水、それを咄嗟にエリスとラグナ、メルクさんとメグさん、そしてネレイドさんと防壁を用意できるメンツはそれぞれ防壁を用意し雨水を防ぎ…それが出来ないデティとアマルトさんとナリアさんはあっという間に雨に打たれてびしょ濡れになる。
「ぶぇっぷ!?いきなり雨が降ってきやがった!」
「うぇー、びしょびしょですよー…」
「うう…私達だけぇ…?トラヴィス卿、これが修行ですか?」
「ああ、雨水を防壁で防いでもらう…今のはちょっとしたお手本、次はもっと長く降らせるからそれを出来る限り防ぎなさい」
「防ぎなさいって…それだけですか?」
「ああ勿論、因みにだが…雨水を防げなかった場合、ちょっとした罰もある」
「罰?…濡れるのが罰ではなく?」
そう聞いてみるとトラヴィスさんは静かに首を振る…罰って、濡れるのが罰ではなく他にも何かが?と思い、雨水に濡れたアマルトさん達を見てみると…エリスは異変に気がつく。
「あ、アマルトさん!ナリアさんもデティも!大丈夫ですか!?」
「え?何が?」
「何がって!全身真っ赤ですよ!?」
「へ?」
そう、雨に濡れた三人の肌がもう真っ赤に腫れていたのだ…どう考えても異常なことが起こっているのに三人は平気そうに…いや、赤い肌を見た瞬間三人は。
「うわっ!まじじゃん…つーか、なんか痒い」
「なんでしょうこれ…っていうか、痒い…」
「うーんムズムズする…いやムズムズっていうかこれ…」
「か、痒い!?メチャクチャ痒い!」
「ぎゃー!全身痒いですよー!!」
そう言いながら三人はその場で倒れ込み全身を掻きむしりながら悶え始めたのだ。痒い…あまりにも痒いともんどり打って悲鳴をあげる三人を見てトラヴィス卿はニコニコと微笑み。
「この大木はね、タイタンアーム…『巨人の腕』と呼ばれ太古には天を支える木とも呼ばれた大木でね。大量の雨粒を葉に乗せそれを養分とする事で成長する木なんだ、ただね…この木の葉には毒性がある」
「毒!?」
「と言っても直接食べたりしない限りは大丈夫、ただ長期間葉に乗った雨粒にはその毒が染み込んでね。それに触れると…十数分ほど激しい痒みに襲われる、つまりこうなるんだ」
「なんか全身に汗疹出来たみてー!痒いーッ!」
「こうなりたくなかったら、死ぬ気で防ぎたまえ」
そうこう言ってる間にアンブロシウスさんが痒みにのたうち回るアマルトさん達を引き連れて安全な場所まで去っていく。
つまり、今から降り注ぐ雨を防壁で全て防ぎ切らないと、ああなると…。触れただけでめちゃ痒くなる水がを全身に被ったりなんかしたら…うう、想像しただけで背中が痒くなる。
「さぁ本番行くぞ…!耐えてみろ!魔女の弟子!」
「ッ…!取り敢えず乗り切るぞ!」
「はいッ!」
そして再び、トラヴィスさんは木を叩く、すると再び天から雨水が大量に降り注ぐのだ。このサイズの木だ、溜め込んでいる雨水も相当な量だろう…まだまだ降ってくるぞ。ッ!来た!
「展開!」
全員で防壁を展開した瞬間、バケツをひっくり返したような大雨が降り注ぎエリス達に降りかかる。それをエリスとラグナとメルクさんとメグさん、そしてネレイドさんに防ぐ。うん、防ぐ分には防げる…けど。
「ははは、いいね。その調子で頼むよ」
「ちょ、まだ叩くんですか!?」
トラヴィスさんの手は止まらない、まだまだ木を叩き揺らし続ける。これじゃあ雨が途切れない…休憩が出来ない…。
「一体いつまで続くかだけでも教えてもらえないだろうか!」
「この木の雨水がなくなるまでだ」
「えぇ…この木って…これ?」
ラグナが思わず天を見上げる。まるで天蓋のような巨大な木、山一つ分くらいあるこの木の雨水がなくなるまで続くって、一体いつになるんだそれ…ええい!余計なことを考えるな!集中しろ!
(大丈夫、まだまだ全然余裕がある…)
これでもエリスは防壁をみんなより早く習得している、それに師匠から直接教えてもらった流障壁は消耗が少ない特別な防壁だ。これなら多分…いけると思う。
「うん、やはりエリス君は防壁の質が一番いいね。その段階にあって特殊防壁を会得しているだけはある」
トラヴィスさんも防壁を展開している、しかもこれがエリス達の物よりも随分硬そうで、何より形も整っている物だ。それが雨粒を防ぎながら全てを弾いている。
魔女様をして『魔力闘法の達人』と言わしめるだけの腕…これがそうなのか。
「きゃっ!?」
「え!?メグさん!?」
ふと悲鳴が上がる、見ればメグさんの腕に丸く…赤い跡が出来ているんだ。まさか雨粒が当たったのか?でも防壁は維持しているのになんで…。
「消耗を抑えようと、防壁を薄くしようとしたら…しすぎました、ミスって、腕に…痒い」
「効率を考えすぎたなメグ君、雨粒全てを完璧に弾こうと思えば全身を均等に防壁で覆う必要がある、薄くしようと試みただけで意識の何処かに粗ができる。その粗はそのまま防壁の質に直結し、当人も認識出来ないような小さな穴を作ってしまう…そこから雨が入り込むのさ」
トラヴィスさんの説明を聞いてようやくこの修行の趣旨を理解する。全身を均等に、そして完璧に防壁で覆い包むのは言ってみるより神経を使う。どうしても意識した部分は濃くなり意識してないところは浅くなる。
その上で更に別のことに気を取られると防壁をより一層乱れ小さな穴が生まれてしまう。そこから雨粒が入り込むから…常に全身に神経を張り巡らせないとダメなんだ。
雨を防ぐこと自体は簡単だ、だが防ぎ続けるのは…これは聞くよりも相当神経を使う。
「ッ……くっ!あ…ああ!」
そして、痒みにより意識を乱されたメグさんの防壁はより一層ぐちゃぐちゃになり、どんどん雨が侵入し…そして。
「あひぃー!痒い!もうダメー!」
「ふむ、下手に手を巡らせようとしたな。存外考えるタイプかな?だがそれが裏目に出た。失格だ」
「ひぃーん!」
メグさんはその場で倒れ込みカリカリと腕やら足やらを掻きむしる。痒そうだ…あのメグさんが悲鳴をあげるほどなんて相当────。
「エリス!…余所見はやめとけ」
「ッ…ラグナ」
そうだった、エリスも今は雨の中。別の場所に意識を向けたらその分防壁が乱れる。もし雨の一滴でも侵入を許せば、そこから瓦解する…。
集中だ!極限集中!雨が終わるまで…耐え凌ぐんだ!
そして三十分が過ぎた。三十分間絶え間なく雨が降り注ぎ続ける…こんなにも長い時間全身を防壁で覆ったことがないエリス達の頬には、それぞれ冷や汗が伝い始める。
「はぁ…はぁ…」
「ふぅ…ふぅ…」
まず限界が来始めたのは…エリスとメルクさんだ。集中し続け魔力を維持するというのは存外に難しい、特にエリスは魔力を一点に留めておくのが非常に苦手だ、メルクさんも防壁を完璧に扱えているわけではないから疲労も溜まりやすい…けど、これはエリス達が体力的に劣っているというより。
「ふぅー…はぁー…」
「……………」
「ラグナ君とネレイド君は自分の疲労の処理の仕方を心得ているね、素晴らしい」
ラグナとネレイドさんのスタミナがバカ凄いのだ。ラグナは独特の呼吸法で常に体力を一定に維持し、ネレイドさんは黙々と天を見上げながら頑強な防壁を築いている。二人とも全く揺らぐ気配がない。
凄い…二人ともこんなに長時間防壁を維持出来るなんて…。
「ウッ…もうダメかもしれん」
「メルクさん!しっかり!」
「なんか…思考がごちゃごちゃして来た。何処に意識を向けてるか分からん」
「継続して全身を防壁で覆うというのはそういうことだ、まだ君達は自分の体の形を正確に把握出来ていない、そして間合いの把握もね。何処をどう塞げば完全に覆えるのか…これを思考せず無意識で出来ないと下手に消耗してしまう」
「無意識で…」
「ああ、私くらいの人間はみんなこれをやっている。魔女様はもっと凄いぞ?防壁を複数枚張って外気温すら防ぐ…魔女の弟子ならそこまで辿り着いてみせろ」
そう言えば昔師匠も言っていた、エトワールについた時…師匠は白い呼吸を吐いていなかった。何故かと聞いた時師匠は『魔力の断層を複数枚用意している』と言っていた…当時エリスはエリスには理解出来ないと即座に切って捨てていたが。
つまりこれか、こういう事なのか…!師匠は今のエリスと同じことを日常的に、それも複数枚用意しながらやってるのか!
「あっ!やばっ!痒ッ…!」
瞬間、メルクさんが声を上げたと思ったらそこからはあっという間だった。一瞬出来た小さな穴から雨粒が入り込み、太ももに当たったかと思えば即座に赤くなり…その痒みが思考を乱し、もう数秒も持たずに防壁が瓦解し全身ずぶ濡れになってしまった。
「うっ!くぅぅう〜〜!痒い…ッ!」
「メルクさん!」
「集中ッ!!」
「は、はいっ!」
痒みに倒れる仲間を心配するも、トラヴィスさんから放たれた渇にエリスは即座にギュッと目を閉じ集中する。本当に一滴でも入れたら終わりだ…いや、そもそも防壁とはそういうものか。
(攻撃を通さないための防壁なんだ、少しくらい通してもいい…なんて思考自体が間違いなんだ)
通していい攻撃なんてない、攻撃が通った時点で戦況は悪化する。だからこそ常に防壁を維持しないといけない…けど、こんなにも長時間全身を覆ったことがないから分からなかった、負荷の大きさと消耗の激しさ。
エリスは…こんなにも非効率な展開の仕方をしてたのか。
「………ッ…」
「苦しそうだね、ネレイド君」
そして、次に粗を見せ始めたのは…なんとまだまだスタミナに余裕がありそうだったネレイドさんだ。彼女はやや苦しそうに目を歪め…不思議そうに眉をひそめている。
「おかしい…いつもはこんな感じじゃないのに」
「君、防壁は師匠から学んだかい?」
「うん…きちんと指導は受けた」
「なら…師匠以外で影響を受けたであろう人物は?」
「……山魔モース・ベビーリア」
「ははは、大物の名前が出て来たな。しかしそうか…彼女の姿は私も一度見たことがある、魔力の流れも当然知っている、あれは先天的超人の部類だね、君と同じ」
「…うん、けどそれがなんの…」
「モースはね、超人であると同時に卓越した魔法使いなんだ。長年潜った修羅場の中で防壁の展開の仕方をマスターしていた…が、私から言わせればあれはモースだからこそ成立する荒技だ。君…彼女の魔力の放出のさせ方を下手に模倣したね。防壁を過剰に展開させ過ぎだ」
モースの防壁は洒落にならないくらい分厚い。ネレイドさんが防壁破壊術を使ってようやく破壊出来る硬度…つまり真っ向からの物理攻撃での破壊は不可能なレベルだ。それはモースという人間が独自に編み出した防壁…。
ネレイドさんはモースとの戦いで防壁の使い方を模倣し、モースの技を真似て技を開発していた…、リゲル様の教えにモースと言う雑音が混ざってしまっていたんだ。
そう…つまり。
「防壁に余計な手を加えたね、モースの真似をして防壁の硬度は上がっているがその分消耗もデカくなっている。なまじスタミナと魔力量が多いから表出化しなかったから今まで気が付かなかったのだろうが…今の君は相当メチャクチャな放出の仕方をしている。まずはそこから矯正すべきか」
「うっ…まだまだ元気なのに…魔力が…」
過剰に防壁を展開し過ぎた…とはつまり必要以上に魔力を出し過ぎたと言うこと。ただでさえ大きな体をすっぽり覆い、かつ三十分以上も展開し続ける異常事態にネレイドさんの歪みが表出化した。
それにより彼女は魔力防壁を維持し切れなくなった。天才過ぎたんだ…ネレイドさんは、見ただけで相手の防壁の運用の仕方を理解してしまうほどには、そしてそれを成立させてしまうくらい天才だった。
そこが失敗だった…ってことか。
「うぅ…」
そして一瞬乱れた防壁の間から雨が差し込み、瞬く間に穴は広がりネレイドさんの体は雨に濡れて…。
「……なんか、ヒリヒリするかも?」
「ふむ、毒があまり効いていないな。体が大きい分許容範囲も広いのか。ともかく失格だ、向こうに行っていなさい」
「はい、頑張ってね、二人とも」
「は、はい!」
なんか…あんまり毒が効いてないな。流石ネレイドさんだ…と言うか。
(気がついたらエリスとラグナだけになってしまった…)
チラリと隣にいるラグナを見れば、彼は目を閉じて心を落ち着かせている。防壁に揺らぎはまるで見えない…流石ラグナだ。
「ふむ、魔女様が認めるだけあってやはり天才的だね。特にラグナ君はこの修行の中でも学んで防壁を修正している。君ほどの天才は見たことがない」
「普段あまり防壁で防御しないから、考えさせられるよ」
「だが…随分余裕がないな」
「え?」
もう一度ラグナをジッと見る、けど余裕がないようには見えない、寧ろかなり余裕そうだ。エリスと違って汗もかいてないし、表情も非常に穏やかで…。
「防壁で防御し続ける経験はあまりないかな?」
「普段、攻撃にばかり使っているから…こうして全身覆うような防壁は正直あまり…」
「なるほど、通りでやり辛そうにしている…だがそんな慣れない作業にも真正面から向き合って、素晴らしい」
「サンキューです」
「さぁ続けなさい」
慣れない作業にラグナはエリスが想像しているよりも色々気を使っているようだ、なんせ彼はそもそも肉体が鋼並に頑強だ、用意する防壁よりも体の方が硬いから防壁で防ぐ意味があんまりないのだ。
しかしラグナでもやっぱりキツイのか…でも彼なら案外耐え抜けるんじゃないか?
「あ、ミスった」
「え?」
ふと、ラグナが呟く。バッ!と音を立ててそちらを見てみれば…そこには防壁を解除してずぶ濡れになっているラグナが居て、エリスとラグナの視線が交錯する。
……何してんの?ラグナ。
「はぁ、慣れない作業の中で防壁を修正し過ぎたな。しかし間違えて防壁を解除してしまうなんて論外だ」
「嘘でしょラグナ…」
「うう、防壁をもっと最適化しようとしたんだよ…けど出来なかった、ミスって解除しちまった」
「失格だ、君には後から基礎を教える」
「はい…うぅ、痒い…」
トボトボと全身を真っ赤に腫れさせながら体を掻いて退場していくラグナを見送り…エリスは周りを見る。誰も居なくなってしまった。
「さて、君だけになったね。エリス君」
「正直、意外です。ラグナが残るかと」
「確かにラグナ君は天才的だが『防壁で守る』と言う意識がやや希薄だった、彼は防壁術よりも魔力衝撃術の方が向いているだろうね。そう言う点で言えば君が残ったのは想定内だ」
「え?そうなんですか?」
「君だけだったぞ、退場していく人間を見送る余裕があったのも、視線をキョロキョロ動かす余裕があったのも」
「あ……」
そう言えばエリス、メチャクチャ四方八方に視線を動かしていたな…。でも別に余裕があったわけじゃないし、この修行が簡単なわけでもない、勿論集中していないわけでもない。
でも…。
「すみません、エリス喋りながらとか動きながらとか、別の行動をしながら魔力運用に集中するの、慣れてるんです」
「ほう…」
極限集中を技として使ってから随分経つ。極限集中で魔力の流れを再現し詠唱せずに魔術を使う…これはエリスが高速で動いたり殴り合いながらでないと十分に効果を活かすことが出来ない。
だからエリスは戦闘に集中しながら魔力を動かすことにも意識を一定以上割くのに慣れてるんだ。
「魔力防壁のランクも君は頭一つ飛び抜けている、レグルス様は君にどれほど魔法を教えてくれた?」
「全く、防壁が使えれば十分だと言ってこれだけしか教えてくれませんでした」
「逆に言えば余計なことは教えず防壁の修行に注力したとも言える。と言うことは他の部分は天性のセンスか、ラグナ君と言い本当に弟子達は凄まじい才能の持ち主達だね」
「才能があるかは分かりません、けど修行は一生懸命やってきました」
「なるほど、これは…魔女様達から育成を預かった身としては気合を入れ直さねばならないかもしれないね。生半可な育て方では逆効果になりかねない」
そう言いながらトラヴィスさんはより魔力を強め木を殴る。すると更に木は強く揺れ…とびきり大きな音が頭上で鳴り響き凄まじい量の雨が降り注ぐ。
「さぁ気合を入れろ、少しでも気を抜いたら瞬く間に水浸しだぞ!」
「はい!」
気合を入れ直し防壁を安定させる、余計なことはしなくていい…『いつも通り』。これを維持し続ける、何故ならエリスにとってのいつも通りとは即ち実戦だ。実戦で十分な効果を挙げられているなら今更何か手を加える必要はないからだ。
そして、防壁を維持するエリスを見てトラヴィスは頷き。
(やはりエリス君の防壁の安定度は別格だ、魔力を維持し続けるのはやや苦手としているようだがそれを補って余りあるほどに彼女には経験がある。才能に加え経験と知識がある…これは一流の魔術師になれる)
弟子達の練度の高さに息を巻いていた。いやここまで来ている時点でそれなりの腕前なのは分かっている、必要な分も既に魔女様が教えてある。今課題として残っているものも多分だがここでトラヴィスが何も教えずともあと数度修羅場を括れば自ずと皆自覚する事ばかりだ。
だがそれでも不足というのなら…。
(現役を引退し、残る余生を静かに過ごすものと思っていたが…未来を切り開く若者達の一助となれるなら、このトラヴィス…全身全霊を尽くして有望な彼等に全てを授けよう)
本来ならば、息子にしてやるべきだった事を、代わりに彼等にしてやろう。そう静かに決意しながら…雨の中佇むエリスを眺め、今はただ時を待つ。
……………………………………
そして、そこから更に二十分程経って…ようやく。
「痒いーッ!」
エリスは倒れた、純粋なスタミナ切れだ。防壁の回転を維持するための体力がなくなりそのまま防壁が防御力を失い、全身水だらけ。全身真っ赤で魔仙郷の只中にゴロッと寝転がる。
「大丈夫?エリスちゃん」
「大丈夫ですー…痒いだけですー」
「すげぇなエリスの奴、一人でメチャクチャ持ち堪えてなかったか?」
「ああ、私達ももっと精進しなくてはな」
「でも、全員耐えられなかったね…雨が止むまで」
「一時間近く揺らしても落ち続けてくるってどんだけ雨水溜め込んでるんだ?あれ」
雨水が止むまで耐える、という修行に物の見事に全員が脱落。一体どれだけ耐えれば良かったのかいまだに分からないが…それでも失格は失格だ、レグルス師匠の弟子として不甲斐なし。
「一時間だ、この木に溜め込まれている雨水を一時間持たせられるペースで叩いていた。エリス君はあと数分耐えれば合格だった」
「と、トラヴィスさん」
エリスは咄嗟に飛び起きる、まだ全身が痒いし疲労感もあるけど…それでも指導役の前でだらしない格好は出来ない。そこは魔女の弟子達にとっても同じ、『教えてくれる人に対する礼儀』は最初に叩き込まれる、故に全員即座に気をつけをしてトラヴィスさんを出迎える。
「フッ、よく教育されている」
そう言って軽く笑うトラヴィスさんは全く疲労を見せない。思えば彼はエリス達と同じように雨の中に居て、ずっと防壁を維持し続け、その上で木を叩き続ける作業をしつつエリス達に指導まで行っていた。
やったからこそ分かる、これがどれだけ凄いことかを。そして今エリス達とトラヴィスさんの間にどれほどの差があるかを。
「さて、物の見事に全員不合格だ。うち三人はそもそも土台にすら立てていない始末」
「う…」
「面目ないです」
「情けなーい」
「だが、心配せずとも大丈夫。きちんと教える、それぞれに合ったカリキュラムを組む…まず防壁が展開出来ない者はアンブロシウスと共に防壁展開の為のトレーニングをしてもらう」
「よろしくお願いいたしますよ皆々様、僭越ながらこのアンブロシウスがビシビシ行かせていただきます」
防壁を出せなかったアマルトさんとナリアさんとデティの三人はアンブロシウスさんと防壁を完璧に出せるようにするためのトレーニングを…。三人とも基礎がないわけじゃない、多分みっちり勉強する時間があれば習得自体には然程時間はかからないだろう。
問題は…防壁を習得している残りのメンツ。
「さぁね困ったのは防壁を出せるが完璧ではないメンツ、各々癖が出来てしまってるからね…それが個性であるなら伸ばせばいいが悪癖ならば強制しなくてはならない」
「どんな修行でもしますよ、俺たち」
「ふふふ、それはいい。なら…」
すると、トラヴィスさんは一瞬で顔つきを変え…杖で地面を叩くと同時に吠える。
「防壁展開!」
「ッ…は、はい!」
それが命令であると認識したエリス達は即座に防壁を展開する。これは師匠達がよくやる抜き打ちでの指令、これに即座に反応出来なければレグルス師匠の場合お叱りの言葉が飛ぶ、アルクトゥルス様の場合拳が飛ぶ。なので全員すぐに動くことが出来た。
それに満足したのかトラヴィスさんは何処からともなく…『ソレ』を取り出し…。
「全身を覆わなくてもいい、だが君たちはこれから寝る時以外は常に頭上に防壁を展開させ続け…防壁の上にこれを乗せて生活しなさい」
「これ、コップ?」
コトリ…と音を立ててエリス達の頭の上の防壁に置かれるのはコップだ、それも大きめ。お酒とかを飲むタイプの長い筒状のコップがエリス達五人の防壁に乗せられる。しかも感じ的に中に何か入ってるな…。
「中にタイタンアーム…先程の木の葉を煎じた水が入ってる」
「え?確か葉には毒が…」
「ああ、刺激性の毒がある。だから浴びれば感じる痒みは君達がさっき味わった物の数倍だ」
「危ないじゃないか!?」
「そうだ、だから落とすな。落としたらまた新しい物を即座に乗せる。落とさないように君達はこれを乗せて生活する…私が許可した時以外は常に防壁を展開させ続けコップを落とさないようにするんだ」
「う……」
「おっとっと…」
コップを揺らさないように頭の上に平らな防壁を用意して全員がバランスを取る。これ結構難しい…コップを落とさないように体でバランスをとってたらキリがない、だから防壁をなるべく平行に展開しなければならない。だが防壁を平行にしようと思うとそれなりの意識が必要になる。しかもこれを日常的に…全身展開と違って消耗は少ないけどそれでも難しいことに変わりはない。
「なるほど、防壁を無意識的に使えるようにする特訓ですね」
「ああそうだ、最終的にそれを忘れるくらいにはなってもらう。勿論、ここにいる全員が…だ、そうなったらマレフィカルムについて話をしよう」
「うへぇ…いつになるんだそれ」
取り敢えず今の目標は防壁の安定化、および完全習得か…。先は長いように感じるが…でも今は指導してくれるトラヴィスさんを信じよう。信じてエリスも励むんだ。
「さて、ではこれから個人鍛錬に移る。防壁習得組はここで、防壁習得済みの組みは私についてきなさい」
「え!?まだ修行するんですか!?」
「俺達今日ここにきたばっかなんですけどー!まだやるんすかー!?」
「当たり前だ、それとも今日は休むか?ゆっくり一時間かけて食事をして、楽しく一〜二時間友人と談笑して、ぐっすり十時間ぐらい就寝するか?」
「………」
咄嗟に文句を言ってしまったエリスとアマルトさんは互いに視線を合わせる、みんなもまた黙って見つめ合い、無言の相談をする。
今ここでやめる分には楽だろう…多分やめると言えばトラヴィスさんは従ってくれる。けど…一時間食事をする間にどれだけ進める?二時間談笑する間に何を得られる?十時間寝る間にエリス達は何にどれだけ置いていかれる?
一日に使える時間は限られる、増やすことは出来ない、なら…他を全て削って一つのことに専念するしかない。何かを極めるということはそういうことだ。トラヴィスさんだって領地運営の実務があるのに付き合ってくれているんだ…師匠達はエリス達に期待をしてトラヴィスさんに頼んでくれたんだ。
今、この状況が、当たり前だと思うな…。
「いや、やるよトラヴィスさん」
「すみません、寝言言いました」
「俺も…反省しましたわ」
ラグナが声を上げる、エリスとアマルトさんが頭を下げる。皆話し合わずとも心は同じだ。疲れてるのは当たり前、苦しいのは当然。根を上げるのは簡単だ、諦めるのはもっと簡単だ、だがそれをせずここまで来たのはエリス達だ、苦しいと分かりながらも進んできたのは自分達だ。
なら、時間も、生活も、体力も、魂も…全て削って努力を積らせる。
エリス達は魔女の弟子…いつまでも魔女様におんぶに抱っこではいられない。
「フッ…それでこそ!魔女様より次代を託された者達だ!なら早速取り掛かる!言っておくが手は抜かない!全力で教えるから全力で取り組めッ!!」
「はいッッ!!」
投げ出さない、魔女様から授けられた試練とトラヴィスさん用意してくれた課題、これに取り組み強くなるんだ…エリスはもう、自分の無力さに涙するのはもうごめんだ!
……………………………………………………………
そうして、エリス達の修行は本格的に始まった。さっきの防壁維持は謂わばエリス達の実力を見るための試練…ならば今から行われるのは本物の修行だ。
防壁を習得していないアマルトさんとナリアさんとデティはアンブロシウスさんに連れられ防壁を習得するための訓練を開始した…一方エリス達はトラヴィスさんに連れられ魔仙郷の奥地へと連れ込まれ、再び何かの木の前へと並ばされる。
「では本格的に魔力防壁訓練を開始する。君達に必要なのは何か?取りも直さず防壁の維持だ、慣れること…そして順応する事。これが重要だ」
トラヴィスさんはエリス達の前に立ち目を伏せながら防壁の重要性を説く。そんな中…話を遮るように手を上げるのはメグさんだ。
「はい!」
「何かなメグ君」
「防壁の維持が重要なのはなんとなく分かりますが、実際維持が出来るようになったらどのような利点があるのでしょうか。私達は防壁での防御はある程度出来ます、それで今までやってこれましたが…その上で維持が重要なのでしょうか」
真っ向から指導を否定するような質問だな…、でも確かに。トラヴィスさんは何をおいても防壁が重要だと語る、魔女様も語る、みんな必要だと言ってるからエリス達も重要だと思う。だがそこを言語化して教えて欲しいって話だ。
事実その質問を受けたトラヴィスさんは嫌な顔をせず笑みを浮かべ。
「ふむ、いい疑問だ。確かに言語化して伝えた方が分かりやすいだろう…まず防壁というのは戦闘面に於いての利点以外にも多く利点がある」
「それはなんでございましょう!」
「防壁は魔力闘法の中で最も…いや二番目に習得難易度が高い。魔力衝撃なんかはセンスがある人間なら肌感覚で使える、ただ現代に於いて魔力衝撃はサブウェポン以外になり得ないから習得難易度は低いが優先度も低い。対する防壁は戦闘で最も多用する上に防壁を習得できるだけの実力があれば他にも潰しが効く」
「つまり防壁を覚えれば他の魔法も自ずと上達すると?」
「そう、君たちが目指している上の段階は魔法を完璧に使えて当然の領域だ。今から一つ一つの魔法を懇切丁寧に教える暇も必要もあまりない、だから必要な防壁を一気に習得して魔法を極めてしまおうという魂胆…つまりこれそのものが魔法全体に通ずる訓練となる」
「魔法を使えて当然…」
確かそれはアンタレス様も言っていた。『出来て当然』『使えて当然』そう語りながらエリスに魔法を見せてくれたんだ…そして、バシレウスもルードヴィヒ将軍も、アーデルトラウト将軍もゴッドローブ将軍も、他のセフィラも…何よりダアトも。
みんな魔法を使って戦っていた。つまり第三段階の領域はこれをマスターした段階なのだが。だから他の魔法にも応用が効く基礎たる防壁の習得に重きを置くわけか。
「まぁ、防壁を覚えていて損はないってのが一番大きな要因かな。卓越した実力を持つ者の防壁は『防壁単体』で武器になる」
エアリエルもそうだった…防壁単体が武器になる…か。確かにあんな風な事がエリスにも出来たなら…戦略の幅は大きく広がるだろう。
「と、いうわけで。君たちにはまず動きながら防壁を使う修行に勤しんでもらう、普段なら私が君達をボコボコにするからそれを防壁を使って防げ…と言いたいが今の私は足を悪くしているからね、これはやめておく」
(トラヴィスさんって本当にスパルタなんですね…)
(涼しい顔ですげぇこと言うな、この人)
「なので君達をボコボコにする役目は、代わりに彼にやってもらう」
「どの道ボコボコにされるんですね…って、代わりって?」
周りを見るが、エリス達をボコボコにする役目を担った者は見えない、ここにはエリス達とトラヴィスさんしかいない。なんせここはグランシャリオの私有地、通行人なんかがいるわけがない。そう思っているとトラヴィスさんはコンコンと杖で後ろの木を叩く。
「これだよ、これ」
「また木?」
そこには一本の木が生えていた。タイタンアーム程ではないが平原に立ってたら目を引く大きさ、街に生えていたら待ち合わせ場所になるくらいの大きさの木。それが黒く太い幹を伸ばし青々とした葉を実らせていた。
これが…エリス達をボコボコに?またなんか水が飛んでくるんだろうか…そう思っていると。
『キシャァアアアアア!!』
「うぉっ!?」
突然木が吠え草の中から何かを飛ばして来たのだ…、まるで弾丸のような速度で飛んだそれはラグナの足元に突き刺さり摩擦熱で足元の芝を焼き白い煙を漂わせる。
「な、なんだ!?」
「この木はね…魔獣なんだ」
「魔獣!?」
「『ガーディアントレント』と言う木に擬態する魔獣でね、刺激されると周囲に固く青い果実を投げつけ攻撃する」
「い、いやいや!危険じゃないんですか!?と言うかこの森魔獣が出るんですか!?」
「出る、だが危険な物は排除し修行に使えそうなのは放置する。それがこの森の管理法だ…ここには修行に最適な魔獣が山ほどいる、どんな魔獣に出会えるかワクワクしておいてくれ」
「ワクワク出来ません!」
魔獣を飼い慣らしているのか?いや…これはこの森に自然発生した魔獣を厳選してるんだ。この森は巨大なクルフィーマングローブに囲まれているから魔獣はこの中で生まれたら外には出られない。その中で凶悪そうなのを狩り使えそうなのを残す…所謂剪定作業をして森を修行場として管理しているんだ。
なんか凄いことしてるな…でも確かにこの森が修行に最適なのは分かったぞ。
「君達は実戦慣れしているからね、最初から実戦形式で行く。今から君たちは放たれる果実を防壁で弾くか避けてもらう。私が良しと言うまでそれを続ける…いいね?」
「いいねって、あの…これ乗せたまま?」
ラグナが頭の上を指差す、そこには防壁の上に乗ったコップがある。そう、エリス達はまだ例の激痒液入りのコップを乗せたままなのだ、これを乗せたまま激しい動きで回避なんてしようもんなら一発で溢れる。防壁で防ごうにも頭に一つ作った上で別のをまた作るのは難しいですよ…流石にこれは降ろしても…。
「私は私の許可があるまで乗せておけと言ったはずだ、いつ降ろしていいと言った?」
「え…じゃあ」
「乗せたままだ」
「こ、これを!?でもそんなの…」
「同じ質問には一度しか答えん、さぁやるぞ…気張れよ」
「ちょ、ちょっと待っ…!」
瞬間、スパーンッ!と音を立ててトラヴィスさんが木を…いやガーディアントレントをぶん殴る。するとそれに激怒したガーディアントレントはギロリと木の幹から眼球を表出させエリス達を睨むと同時に葉を揺らし中から青く固い果実を弾丸のように次々と射出し始めた。
まるで雨の如き弾丸を前にエリス達は咄嗟に防壁を展開するが…。
「グッ!危ない…頭上の防壁が疎かにになるところだった!」
「前面には硬度を、頭上には平行性を…二つの事を同時にやらねばならないとは、マルチタスクは大得意でございますがこれは些か!」
「しかもこれ、そこそこ威力ありますよ…」
メグさんとメルクさんとエリスでより集まり防壁で弾丸果実を防ぐが、同時に頭上の防壁まで維持しなくてはいけない。それもそれぞれ求められる方向性の違う防壁。神経を最大限研ぎ澄ませなんとか凌ぐが…これいつまで持つかな。
「よっ!ほっ!そいやっ!」
「あ、ラグナ!」
「こうすりゃ楽だろ…?」
そう言いながらラグナは拳で果実を粉砕し蹴りで弾丸を蹴り弾く、確かにそれをすれば頭の上の防壁にだけ注意を払えばいいから楽だろうけど…でもそれは───。
「『サンダーインパクト』ッ!」
「えっ!?ギャッ!?」
拳で果実を叩き落とした瞬間、ラグナに向け彼でさえ反応出来ない速度の電撃が飛びラグナの体を一撃で感電させる。そして痺れたラグナはゴローンとひっくり返り、同時に防壁を解除してしまった為頭の上のコップがくるりと一回転し中身がラグナに…。
「あぎゃーっ!」
「誰が手で防げと言った!防壁で防ぐか回避しろと私は言ったはずだ!修行の趣旨を理解させるところから始めた方がいいか!?」
「す、すんません!」
あまりの痒みにのたうち回るラグナにトラヴィスさんの怒号が響く。手で直接防いじゃダメですよラグナ…一応防壁の特訓なわけですから。
多分、同じ理由で魔術で防ぐのもダメだ、けど回避はOKなのか…ならそっちの方がエリスらしいかな。
「一点により集まると攻撃が激化するぞ。散って単独で防げ!」
「は、はい!」
「トラヴィス様、こう言うのはアリでしょうか!」
すると動き出したメグさんは手の先に防壁を展開してそのまま手を振るい防壁で弾丸果実を弾き落とす。動き的にはラグナと殆ど同じだ、違う点があるなら防壁を盾のように扱い防壁で落としている点だろう。
「良い、防壁で弾けば良いわけだからな…防壁を使っていればどんな防ぎ方でも構わん」
「とは言え、その防ぎ方は長く持たんぞメグ」
メルクさんが目を細める、確かにメグさんの防ぎ方は長く持たないだろう。真っ向から弾きつつ防壁を二方向に展開し続ける、これにより消耗するのは魔力だけでなく体力まで減ってしまう。
「トラヴィス卿!この修練はいつまで耐えれば終わるのだ!」
「私が良いと言うまでだ、続けなさい」
「またそれか…!ええい仕方ない!エリス!分かれるぞ!一点に集まっていては捌ききれなくなる!」
「はい!」
そしてエリス達は二手に別れる…とは言え、一人で防壁を展開し果実を弾き続ける…と言うのは、本当にこれで正しいのだろうか。
(なんか、違う気がする…やり方が)
トラヴィスさんは最初、これは実戦形式だと言った。つまりこれが実戦だと仮定するなら、エリスは今敵の攻撃を前にただただ防壁を展開して突っ立っているだけと言うことになる。
それは果たして理想的な形か?否だ、ならばこれが実戦ならエリスはどう動く…恐らくは。
「よっと!
「む…?」
トラヴィスさんの視線がエリスに向く。エリスの動きが変わったからだろう、腰を深く落としつつコップが倒れないようバランスを取ったエリスは…そのまま迫る弾丸果実を前に…。
「ホッ…!ヨッ…!」
飛ぶ、側転し、バク転し、弾丸を前に回避を続ける。アクロバットなその動きにガーディアントレントはついてこれず弾丸は空を切る。
トラヴィスさんは防壁と同時に回避も許可していた、ならばこうやって動きつつ…。
「展開!」
避けきれない分、どうしても回避しきれない分は防壁を必要最低限だけ展開し防御する。メグさんのように防壁を弾くように動いていては魔力と体力を必要以上に使ってしまう。だが必要最低限の分だけ防壁を作るようにすれば少なくとも魔力の消耗は抑えられる。
そして、防壁が必要最低限なら使う神経も少なくなり精神的消耗も軽微で済む!これだ!
トラヴィスさんはエリス達にこうやって動いて欲しいからあんな前置きをしたんだ!恐らくこれが…この修行の本来の形!
「これですよね!トラヴィスさん!こうやって動くのが!正解なんですよね!」
飛び交いながら、避けながら、エリスはトラヴィスさんに向くて叫ぶ…するとトラヴィスさんは力強く、首を振る。
「違う」
…横に。それはつまり…え?
「違うの?」
「防壁を維持する訓練だと言ってるだろ、必要最低限だけで展開してたら意味がない」
「あ…」
その瞬間、呆然とするエリスの頭をスコーンと弾丸果実が打ち、バランスを崩し倒れるエリスの上にコップが…。
「あんぎゃーっ!?」
「余計な考えを巡らせたり、修行の本質を見極めようとしなくていい、言われたことだけをやれ。今のところネレイドが最も正解に近い」
「なんだと…?」
痒みに悶えてのたうち回るエリスを置いて、メルクさんはネレイドさんを見る…するとそこには。
「………ブイ」
防壁を前面に張りつつ、攻撃を見極めながらその強弱を調整し防壁の維持に集中するネレイドさんの姿があった。つまりこれは…普通に防壁を展開し続ける訓練…ってこと?
「か、考えすぎた…痒い……」
「はぁ…優秀すぎるが故の懊悩か?難しいな、これは」
眉間に指を当て大きくため息を吐くトラヴィスは、修行の行末に対し…やや、不安を感じるのであった。
………………………………………………………
それから、防壁維持の訓練は数時間続いた。魔力が切れて息も絶え絶えになったら少し休憩を挟みまた別の修行へ、エリス達は今日だけ幾つもの修行を経験させられた。
いきなり池の中に沈められ防壁の中の空気でどれだけ長く潜ってられるかの修行。
全力で走りながらコップを落とさないよう木々の隙間を縫うように走る修行。
目を閉じて唐突に殴ってくるトラヴィスさんの杖による殴打を防壁で防ぐ修行。
その全てをコップを防壁に乗せたまま行ったんだ。今日ほど自分の魔力と防壁に向き合った日はないんじゃないかってくらい修行した、辺りが暗くなっても松明に火をつけて続行した。
文字通り半日だ、半日修行した…そしてもうバテバテになったところで。
『明日は朝日が登り始めたタイミングから同じ修行をする。ベッドの中で反省点を洗い出しておくように』
とのトラヴィスさんの言葉で終わった。つまり明日はこの二倍の量をやる…と言うことだ。出会った当初に抱いていた柔和な雰囲気は何処へやら、今はトラヴィスさんの背中に鬼が見えるよう。
まぁ…そこは良いとしてだ。とにかく魔力を酷使し色々と無茶やったエリス達は這々の体で館へと帰ってくる事となる。
館の入り口でばったり再開したのは…。
「よう、そっちも大変そうだな」
「アマルトさん…!?」
そこにいたはもうボッコボコになったアマルトさんとナリアさんだ、ズタボロ…まるで崖から落ちたみたいな有様で特にアマルトさんなんかは顔が二倍くらいに膨れ上がってる、コブで…。
「何があったんですか!」
「いやいや、ただ防壁習得の訓練は基礎をある程度教えられて、そこからひたすらボコボコにしてくるアンブロシウスさんの攻撃を防壁で防ぐよう頑張るって特訓だよ」
「お陰様で今日一日だけでそれなりにコツが掴めました、あと数日でそちらに合流出来るかと」
「マジですか…」
文字通り死ぬほどのスパルタ、だがその甲斐もあってかたったの一日で二人は防壁のキッカケを掴んでしまっている。元々二人の中に経験値が累積していたと言う点もあるのだろうが…それでもそれを一日で開花させるなんて、アンブロシウスさんやトラヴィスさんの指導はやはり凄まじい程の精度なのかもしれない。
「にしてもデティは?怪我ならデティに治してもらえば良いのでは」
「治してたよ〜、けどバテちゃって…」
「あ、デティ。そこにいたんですね」
するとアマルトさんに背負われたデティがヨロヨロと手を上げる。その顔はもう精魂尽き果てたと言った感じ、恐らくアマルトさんとナリアさんはすごい勢いで怪我しまくったんだろう、デティはそれを治し続けていた、数時間ぶっ通しでずっと。
流石に数時間もぶっ通しで古式治癒は辛いだろう、さしもの彼女もノックダウンしてしまったのか。
「ごめんねーアマルト、もう少し休んだら治癒かけてあげられるから」
「いいよいいよゆっくりで、それより今日の夕食ってどうなるんだ?」
「このお館で食べさせてくれるって話ですよ」
「ふーん、じゃあ一旦館に帰るか…」
「はい………ん?」
そうしてため息混じりながらも裏口から帰ろうとするアマルトさんを見て…エリスは何かに気がつく。と言うより…違和感に気がつく。
さっきまでパンパンに腫れていたアマルトさんの顔面のコブが…今は若干引いて小さくなっている。この短時間で…ちょっと治ってるんだ。その変化量はエリスでなければ気が付かないほど小さい、数秒前の記憶と照らし合わせてようやく気がつくレベルだ。
言ってみれば微細な変化だが、確かに変化している。つまり…この短時間でアマルトさんは傷から回復しつつあると言う事…けど、なんでだ?アマルトさんってそんな異常な治癒能力なんて持ってたか?
「…ん?どうした?エリス」
「い、いえ…なんでもないです」
けどそんな事、とてもじゃないけど口には出せない。ただ違和感を違和感として捉えながらエリスはアマルトさんの背中を追うように歩く…けど、やっぱり治ってるよな…傷。アマルトさん自身も気が付いてないけど…なんなんだあれ。
「それよりトラヴィスさんはどうしたんですか?エリスさん達と一緒じゃないんですか?」
「トラヴィスさんは先に館の方に戻られました、明日のトレーニングメニューを組むって」
「へぇー…厳しかったですか?」
「うーん、なんか懐かしい感じがしました」
みんなで館の裏口を潜り指定された部屋へと八人揃って進む。にしても懐かしい感じがした…昔、師匠に扱かれまくった頃の記憶が蘇ると言うか、ともかくがむしゃらに修行してた頃を思い出す。
なんて言うと…。
「分かる!分かるぞエリス」
「確かに、懐かしい感じがしたよな。俺も昔は師範にあんな感じの…いやもっとやばい無茶振りをされたか」
「あー確かに、なつー」
弟子のみんなから共感の声が上がる、なんせここにいるのまでみんな魔女様から厳しい特訓やら修行やらを課せられ、それを乗り越えてきた人達…魔女の弟子達だ、ある意味修行の思い出は共有せずとも共通の物だ。
だからだろうか、みんな疲れてヘトヘトだし、いきなりの無茶ぶりだけど…。
「ふぅー、んじゃ明日も頑張るかー」
「…だね」
「明日はどんな修行なのでございましょう」
誰一人として、やめたい…辛いとは言わない。なぜなら慣れっこだから、だからみんな疲労困憊の中明日の修行に思いを馳せることが出来るのだ。
と…言うか、エリスもそうだ。明日は何をするのか、何を得られるのか、楽しみで仕方ない。だって修行をしたら強くなれるのは分かりきってるから…。
「みんなー、明日の修行に思いを馳せる前にさ、晩御飯は?」
「おっとそうだった、ダイニングに行くんだよな…こっちでいいのかな」
ふと、デティの言葉で現実に戻される。そうだ、今エリス達はダイニングに向かっているんだ…トラヴィスさんは既にそこで待っている。エリス達は暫くこの館に滞在することになる、それがどれだけの期間になるかはまだ決まっていないが、暫く泊まるのだ。
となった時に、衣食住はどうするのか…と心配するよりも前にトラヴィスさんが修行以外の事に気を取られないようエリス達に食事と部屋を与えてくれると言ってくれた。そして今エリス達はその食…つまり晩餐を得るためにダイニングに向かっている。
すると、だんだんといい匂いが漂ってきて…。
「ん、いい匂いする…」
「確かに…これは、肉か?」
「ひゃっほー!肉だー!」
「あ!ラグナ!」
ふと、廊下の只中に漂っている肉の香り、それもこれは牛の香りだ、それを油で焼いて…そこに多少の香辛料を加えた芳しい香り。疲れた体に染み渡るような匂いに釣られて廊下を歩くエリス達の足取りも早くなり、ラグナなんかはピョンピョン飛び跳ねながら真っ赤な絨毯の先にあるダイニングへと向かう。
そうして歩いて行った先にあるのはだだっ広いダイニング、…と言うよりまるで食堂のようだ。長いテーブルが複数個並び、着飾る事なくただただ大人数が一斉に食事を取れるよう作られているその有り様は…トラヴィスさんとアンブロシウスさんしか住んでいない館のダイニングにしては、なんだが妙な作りをしていて。
「ここがダイニング?まるで学園の食堂みたいだな…」
「二人暮らしの館にしては妙な作りですね」
「それより肉は?」
エリスとメルクさんで周囲に視線を走らせる…すると、ズラリと並ぶ長机の一角に着く一つの影が徐にこちらを向き…。
「やぁ、今日はご苦労様」
「トラヴィスさん!」
「久々で気合が入ってしまった、少々やりすぎたかな?」
トラヴィスさんが一人で座っていた。彼は修行の時と異なり再び柔和な笑みでこちらを見ながら杖を突いて椅子の上で体勢を変えこちらを見ようとする…のをエリス達は手で制しつつトラヴィスさんの前の椅子に揃って並ぶように座る。
「すごく立派なダイニングですね」
「ああ、ここがウルサマヨリ王国だった頃の名残でね。かつてはここに館を守る兵士達が詰め掛け皆で食事をとっていたらしい、とはいえ私が子供の頃には従者も殆どおらず、…ここの机が埋め尽くされた場面というのを見たことがないがね」
「ウルサマヨリ王国だった頃の名残か…なるほど、歴史を感じさせる」
「私にとっては自宅だからね、感じる感慨もない。…だが」
すると、トラヴィスさんは目の前に並んで座るエリス達を見て目を細める。目を細めて…そこから何を言うでもなくただただ何かを想う様に優しげな笑みを浮かべる。
どう思いますか、黙ってこっち見てアルカイックスマイルだけを浮かべられると言う状況を。エリスなら不気味に思いますよ、トラヴィスさんはいい人ですけど…不気味です。
「あ、あの…なんですか」
「……昔を思い出していた」
「昔?」
「ああ、今でこそ…この館には私とアンブロシウスしか住んでいないが。昔は違ったんだ…」
「え?他にも住んでる人がいたんですか?…奥さんとか?」
「いや、昔…私は───────」
「父上?」
「む?」
ふと、トラヴィスさんの言葉を遮ってダイニングの奥。開けた厨房の扉の奥から銀の食台をカラカラと押して現れた彼はトラヴィスさんどころかエリス達の視線を独占する。この部屋に入ってからずっと感じていた芳しい匂いの正体を台に乗せて、ピンクのエプロンを着込んで…こちらに歩いてきながら、彼は…首を傾げる。
「もしかして待たせてしまいましたか?」
「いや、彼らも今来たところだ…イシュキミリ」
「イシュ君!?」
「あんた確か…エルドラド会談にいた」
そこにいたのは、白銀のローブを着て、肩まで垂らすように金髪を伸ばした翡翠の瞳を持った麗人。柔和でありながら何処か厳格な印象を持つトラヴィス卿に似て、優しさの中にキリリと締まるような凛々しさを持った風貌と風格、そして何処とない気品を持った彼の名はイシュキミリ…。
『魔術界の麒麟児』イシュキミリ・グランシャリオ。トラヴィスさんのご子息にして彼から七魔賢の座を継いだ文字通りの麒麟児だ。何よりエリス達は彼に一度会っている。
エルドラド会談、そこでハーシェル一家を迎え撃つのに手を貸してくれのが他でもない彼なのだ。その際凄まじい実力を持つことをメグさんから聞いていたが…そんな彼が、ピンクのエプロンを着て厨房から現れたのだから驚きだ。
「イシュ君何してるの!?」
「デティフローア様、すみません…デティ様が来ていると知っていながらご挨拶が遅れて」
「い、いやいいんだけど」
同じく魔術の道を歩む者として、イシュキミリさんと親交を持つデティはぴょんこと椅子から飛び降りイシュキミリさんに近づくと、彼はそれに反応する様にサッと行儀よく頭を下げる。よく教育が行き届いていると言うか…流石はトラヴィスさんのご子息だ。
「すまない、言い忘れていた。実は我が息子イシュキミリも職場の都合で暫くこの館に滞在する事になっていてね。丁度良いので皆の修行のサポートを頼んでいたんだ…」
「え?いいの?イシュ君」
「勿論、魔術導皇様の鍛錬に手を貸せるのは魔術師にとってこれ以上ない名誉。それに魔女の弟子の皆様の力もこの目で見たいと思っていたので苦ではないですよ」
「な、なんか悪いなぁ」
「いえいえ、それより先程私が厨房で食事をご用意しました。皆さんで召し上がってください」
「イシュ君料理できるの?」
そう言うなりイシュキミリさんはエリス達の前にそれぞれ料理を並べ始める。イシュキミリ・グランシャリオといえばつまり魔導卿トラヴィスの後継となる男だ、順当にいけばマレウス屈指の影響力を持つ貴族へと成長し、尚且つ世界中の魔術界隈に対してもそれなりの権限を行使することが出来る立場に君臨する事になるだろう。
言ってみれば物凄い高貴なお方だ、そんな人がエリス達の修行のサポートをしてくれると言う、剰え今日の晩御飯を作ってくれたと言うのだ。なんだがびっくりというか…本当にトラヴィスさんもイシュキミリさんも、気がいいと言うかなんと言うか。
「何これ」
ふと、アマルトさんの淡白な言葉に現実に引き戻され、エリスは目の前にどかりと置かれた料理を見て…目を見開く。これを作ったのはイシュキミリさんだ…けど、これ作ったのか?
まず見えるのは陶器の器だ、白に青いラインが入った美しく玲瓏な作り、恐らくはトツカ本国で作られたものを輸入したトツカの品だろう。前に見たことがある…多分これはどんぶりと言うやつだ。
問題はその大きさ、サラダボウルくらいの大きさのどんぶりに真っ白な粒…よく炊かれた米がぎっしり詰められ、やんわりと山を作っている。そしてその上に、デンデンデンと切り分けられた巨大なステーキが乗っており…。
うん、どでかい白米どんぶりにステーキ直乗せ…何これとしかいえない。
「ステーキ丼です」
「ステーキ丼?」
「はい、ご飯上にステーキ乗せて、ステーキ丼」
「それはウルサマヨリの名産品か何か?」
「いえ?私考案です、皆さんお腹が空いてるかなと思い大量の米と肉を仕入れて来ました」
「……………」
この人、なんかセンスがズレてるな…。いや別にいいんだけどさ…にしたっても量よ、どんぶりだけでエリスの頭より大きいよ?そこにぎっしり米…全部食ったら腹破裂するよ。
「すまないな、イシュキミリは昔から高貴な食事ばかり与えていたせいで…価値観が逆転しているんだ」
「へ?」
するとトラヴィスさんが頭を抱えて大きくため息を吐き…。
「『豪華絢爛なフルコースは通常のもの』…『ジャンキーな食事は特別な物』…そんな風に思い込んでしまっていて…」
「ち、父上!私はもうそう言う勘違いはしてませんって!父上がいつも与えてくださった料理は私の身分相応の物であると!こう言う言い方をしたら鼻につくかもしれませんが誇りに思ってます!」
「だがお前はいつもこっそり誰にも見られない様にハンバーガーを作って一人で食べてるじゃないか…」
「えっ!?なんで知っ…いや!してませんから!と言うか人前でそう言う話はやめません!?」
「そう言うわけだ、イシュキミリにとってはこれが歓待の意なのだ。どうか気を悪くしないでやってくれ」
「〜〜〜!!」
…どうやら、貴族として相応しい食事…フルコースや珍味美味を幼い頃から食べすぎていて、そうではない食事。言ってみれば下賎な料理に若干歪んだ憧れを持って育ってしまったようだ。
実際そう言うことがあり得るのか…と言いたいが、アマルトさんやラグナ、デティなんかが『分かる分かる〜、城下町の露店で売ってる様なご飯ってめっちゃ憧れたよね〜』と微笑んでいるあたりあり得るのだろう。貴族王族あるあるなんだろう。
まぁいいや!お腹すいてることに変わりはないし!
「ではいただきますね!イシュキミリさん!」
「はい、け…けど無茶はしないでくださいね。ちょっと作りすぎてしまったので」
意識はあったんかい。なんて感じつつエリスは箸を不器用に使いながらもイシュキミリさん謹製ステーキ丼をかっ喰らう…みんなも一緒にかっ喰らう、修行で疲れた体には肉が効く。と言うか今日何も食べてないのでお腹ぺこぺこだ。
「ガツガツむしゃむしゃ!」
「ステーキはともかくその下にある米は南部で主要とされる穀物の米です。あまり南部の外には流出させていませんが…どうです?これが美味いでしょう」
「ああ、美味い!肉も美味い!」
「しかし米ってのも不思議な食べ物だな、小麦とは全然違う」
「魔女大国で一部栽培されているものより若干短く丸みを帯びていますね、色艶も良いし…」
「ふぅむ、やはり土壌がいいのだろうか…と言うか、喉越しがいいな、これ」
「トツカ人には不評ですが、我が領地の米は何処の国のどの米にも負けるつもりはないありませんよ、はははは」
みんなで白飯をゴクゴク飲む様に食べ続ける。小麦…つまるところパンとはまた違った食感だ、なんか歯応えのある水を噛んでるみたい。
「よく食べ、それを己の土台へと変え、そしてよく育ち、より多くの物を守り叶えられる様になる。食事はその一歩目だ…遠慮せず食べるといい」
『はーい!』
「フッ、若いとはいい物だな…」
兎にも角にも腹が減ってることに変わりはないエリス達はどんぶりを持ち上げ喰らいつく様に食べるエリス達を見て笑みを浮かべるトラヴィスさん。
久しく教鞭を取ることになったトラヴィスは、その懐かしさと、やはり自分は誰かに教える為にこの知識を蓄えたのだと実感する。
(やはり…これが正しいんだろう、知識と技の継承…それこそが、私の望む永遠なのかもしれないな…)
あの日降した決断、己の身を顧みず出した答え、その正しさをより一層実感する。若者達の成長はトラヴィスという男に、希望を見せる………だが。
「………………」
その一方で、無感情に弟子達を見つめるのは…トラヴィスの息子、イシュキミリだ。表面上は笑顔を取り繕いニコニコと愛想よく振る舞っているが…その内心は。
(よくもまぁ…懲りずに何度もやるよ、トラヴィス…それともお前は、忘れたのか?…自分の弟子を、お前は弟子を二度も見殺しにしているだろうに…どこまでも中途半端な奴だ)
渦巻く怒り、蔓延る憎悪、トラヴィスという男は何処までも半端で…結局の所魔術王になるだけの器量もなかった男だと唾棄する。
やはりトラヴィスという男は、救いようがない。『師匠』が言った通りだ、彼はあの日降した決断を間違えた。だから彼はそこで止まった、あれだけの才能を持ちながらも立ち止まった。
自分は違う、元より根底から価値観の違う自分は、トラヴィスとは違う道を行くべきなのだと…一人、眉間に寄りそうな皺を必死で押さえているのであった。