541.魔女の弟子と其れは天狼に有らず
魔術の歴史は長い、八千年前に魔術流祖シリウスが完成させて以来片時として離れることなく魔術とは人類の繁栄と共にあった。
当時、まだ正気を失う前だったシリウスが魔術を組み上げたその真意は一つ。『力無き人々に力を、抗う選択肢なき者達に選択を、この残酷な世界を生き抜く権利を凡ゆる人に与える為』だった。
そのシリウスの心に沿うように、彼女の作り上げた魔術のおかげで人類は強く逞しく育ち、今の繁栄と文明がある。
だが同時に、魔術という力を万民が手に入れたことにより…生まれた戦争もまた計り知れない。魔術によって死んだ人間もまた計り知れない。魔術などなくとも人は争ったと言えばその通りだし、魔術がなければどの道人は人を刃で殺したと言えばそうなのだが…それでも魔術は戦と死を生んだのは事実だった。
その戦と死を少しでも減らし、混沌とした世界に光の柱の如く揺るがぬ秩序をもたらす役目を負ったのが魔術導皇。
シリウスを討伐し終えた魔女達によって作られた現行の人類に於ける一番最初の役目にしてディオスクロア文明圏に於ける原初の王こそが魔術導皇。魔術を統べ魔術を管理して魔術を育てる事を永遠に義務付けられたのが魔術導皇と言う存在なのだ。
双宮国ディオスクロアの女王カノープスのお付きだったゲネトリクス・クリサンセマムを初代魔術導皇に据えて以来一度も途切れる事なく続いたクリサンセマムと言う家系は一個人が負うには重すぎる定めを負いながらも八千年間魔術界の秩序を継続した。
その八千年の間クリサンセマム家は数多の魔術師の血を取り入れ続けた、魔術の王なら優秀でなくてはならないとその時代最も高名な魔術師と婚姻し、魔蝕当日に産むという仕来りを八千年守り、優秀な血統を取り込み優秀な血統を生み優秀な血統を育み続け…。
続けに続けた命脈は…今もなお咲いている。
『天仰ぐ大花』とも形容されるクリサンセマム家、八千年の歴史で個の全体化を目指したクリサンセマム家、魔女でさえ傅く……シリウスに次ぐ魔術の権化。
そのクリサンセマム家の無限の命脈の果てに辿り着いた八千年の集大成にして史上最高傑作こそ…彼女。
「…………コバロス」
「ウッ…!」
デティフローア・クリサンセマム。八千年という歴史を積み重ねたクリサンセマム家の最高傑作であり、八千年間生まれ続けた凡ゆる魔術師の限界値を大幅に更新した彼女はその瞳で魔術研究者コバロスを追い詰める。
彼女に追い詰められたコバロスは、自室に戻り冷蔵保管庫に保存してあった無数の注射器を手に…こちらに迫ってくるデティフローアを見遣る。終わらせに来たのだ、彼の暴走を。
「諦めて、貴方はもう終わり」
「うるさい…五月蝿い!私はまだ終わらない!全人類を根絶し…魔獣の世を作るんだ」
「そんな物は作れない、私が許可しない」
「それは人間のエゴだ…この世はお前の物では無い…ッ!」
その瞬間、コバロスの体が鳴動し、水蛸のような触手が地面を突き破り大地を隆起させデティを取り囲み部屋を覆う、まるで大地に食い込んだ網を引き上げるように、床の標高が高くなり天井が近くなる。
「生命の進化と歴史は!より適切かつ完成された種の存続とそうではない存在の淘汰によって生み出されて来た!数千年と進化を放棄した人類はさながら溜池の澱んだ水に等しい!やがてウジが湧いて死に絶えるのは目に見えている!ならば今こそより優れ適切に進化した存在へと人類は昇華するべきだ!変革が必要なんだよ人類には!」
「今のあなたは人類では無いでしょう」
「人類の定義は、誰が決めている。人だよデティフローア、人類の定義を定めているのも所詮人類に過ぎない!ならば私達の比率が上回った瞬間…私達が人類になるんだ!『人類』の席に座るのは誰でも良い…なら我々でもいいだろうッ!」
「だから…私の言いたいことが分かりませんか?貴方の論法で言うなら…より優れた存在が存続し人類を名乗り、劣っている者が淘汰されるなら。淘汰される側はお前だと」
「ッ黙れぇぇええ!!!」
大地が弾け、一気に地面の中から触手が飛び出てデティフローアを狙う…しかし。
「『スラッシュゲイル』」
空気が鳴る、振動が木霊し立てられたデティの人差し指から輝くような斬撃が炸裂し迫る無数の触手が引き裂かれ血液が宙を舞う。
「がぁっ!?」
「進化を放棄した…本当にそうですか?八千年間人は全く進歩していない…本当にそうですか?コバロス。違いますよ…キチンと進歩しています、だから…私が生まれたんです」
「ぅぐ…ッ!この…ッ!」
「私こそが、人類進化と文明繁栄の象徴…人そのものです」
触手を切り裂かれ痛みに悶えるコバロスはその手に持った遺伝子入りの注射器を投げ飛ばすが…。
「無駄ですよ、コバロス。今貴方が行う行動は全て悪足掻きにしかなり得ない、そして今この場でその悪足掻きが通る事は無い『グリッターブリッツ』」
杖でトンと砕けた大地を叩けば、それだけで無数の光が宙を飛び交い注射器を全て叩き落とし────。
「私がッ!」
しかし、その瞬間を…デティが魔術を使い注射器を防ぐ瞬間を狙い、右腕を膨張させ一気に爆裂させるが如く勢いでデティに向け叩きつける。魔獣の膂力を活かした凄絶なる打撃、デティの肉体では受け止められない一撃…されど。
「『ダイヤモンドフォートレス』」
「ぐっ!?ぎゃああ!?」
割れる、コバロスの腕が…デティが生み出した防壁魔術によって拳が潰れ血が噴き出る。触れることさえ出来ない、触れる事も許さない…デティフローアの冷たい目が弱っていくコバロスを睨みつける。
「言ったでしょう、悪足掻きだと…駄々を捏ねるのはやめなさい」
「ぐ…ぬぅ…」
魔術の権化。その言葉がコバロスの脳裏に過る。クリサンセマム家が八千年の歴史と数百人の魔術導皇達の命脈によって紡いで作り上げた究極の魔術師…その力を前にして、彼は感じる。
恐怖を…。
(これほどか…魔術導皇……)
彼が所属する魔術理学院本部の院長ファウスト・アルマゲストをして…『本物の天才』と呼ばせた才能。未だマレウスにて絶大な権威を持つ絶対王者バシレウスと並び立ち魔女を超える史上最高峰の才能をコバロスは今痛感する。
魔術が上手い…とか、物凄く強い…とか、魔術師として素晴らしい…とか、そういうチャチな物差しではない。理想像なのだ、デティは…魔術師としての理想像それそのもの。
その場から動かず、魔術のみによって相手を圧倒する。そして相手に『これは何をしても無駄だ』と思わせるだけの技量、それを伴った彼女の姿に感動さえ覚える。
やはり魔術こそ、至高の力だと感じさせられる…だからこそ。
(引けない…私は魔術で、世界を変えなければいけない)
そこにあるのは彼を狂わせる魔獣の本能ではなく、微かに残った人としての…研究者コバロスとしての無意識。彼も自覚しえぬ意地と魔術師という人種が持ち得る生来の狂気。
故に彼は顧みない、己の身を。
「諦める気に…む…」
デティは顔を歪める、コバロスが残った手で冷蔵保管庫の奥に収められた注射器を手に取ったからだ。そこから感じる…異様な気配に彼女は初めて表情を変える。
「やめなさい、コバロス」
「………負けられない、負けたくない、私は…私は…」
コバロスが手に取った遺伝子は、言ってみれば虎の子の遺伝子だ。使うつもりもないし、そもそも使用してはいけない遺伝子だ。それをフラフラとした手つきで持ち…迷う事なく自身に投与した。
「……まだやるつもりですか」
「私は魔獣の世を作る、その魔獣の世で私は君臨する…なら私はならなくてはいけない、魔獣の王に…魔獣王に」
「…………」
投与された遺伝子により変質する体、ゴブリンの肉体は引き裂け、内側から骨が顕になる。顔が間伸びし…牙が生え、爬虫類の如きフォルムへと変化していく。
───魔獣には様々な種別がある。不定形なスライム型、自然界に存在する動物を模した獣型、植物を模した植物型、実態を持たない現象型、そんな数多くの種別の中で最も危険かつ種族内にて最も強いと言われる種は何か。
……ドラゴンである、巨大な体、堅牢な鱗、高い魔力、その全てが戦闘に適しており冒険者協会に討伐依頼が出される際はどれだけ小さく弱いドラゴンでも複数のチームの共同にて討伐することが定められているのがドラゴン型。
そんなドラゴンの中でも、史上最強、史上最大、史上最悪の異名を持つ究極のドラゴンが…かつてマレウスには居た。その遺骸は魔術理学院にて回収し、研究の材料にされていた。
その遺伝子が…ここ南部支部にはあるのだ。
(これを使えば、間違いなく『飲まれる』…知能は失われ最早二度と人に化ける事も出来まい、だが…)
バチバチとまるで焼いて焦がすようにコバロスの脳裏に刻まれる姿。それは彼の魔獣としての部分が見たい幻影。次代の魔獣王ソティス…世に言う五大魔獣の頭目にして我等が原祖たるシリウス様の御姿を模した究極の魔獣ソティス…。
魔獣は全て、あのお方の言葉に従わねばならない、あのお方が人類の破滅と魔獣の繁栄を望んだならばそうならなくてはならない。
ならばなろう、例え僭称であろうとも…今一時、ソティス様が不完全であるが故に空位となっている魔獣王の座に…私が。
「ぅ…ぐぉおお…ぉがぁぁああああ…ッ!」
コバロスが投与した遺伝子はそれだ。その遺骸から取り出した背骨の中から取り出した骨髄遺伝子。それを迷う事なく投与したのだ。
そう…マレウス史上最強の悪夢と呼ばれた…オーバーAランク魔獣、『灼炎の焉龍』キングフレイムドラゴンの遺伝子を。
「グォァガァアアアアアアアッッ!!」
バチバチと音を立ててコバロスの皮膚の下から鱗が生える、爪は伸び、牙は生え、頭部が間伸びし…変わっていく、トカゲの頭蓋へ。
「ドラゴン…ですか」
腕部が肥大化し、失われた足に変わって地面を捉え、背中に生えた紅蓮の両翼で瓦礫を吹き飛ばす。成っていく、最強の魔獣…ドラゴン、いやこの場合は龍人…ドラゴニュートと呼ぶべきか。
「ガロロ…!」
「…コバロスの意識が消えた、もう完全に魔獣に成り果てましたか」
彼の姿が異形の龍と化したところで…彼の魂から人の匂いが消える。今しがた取り込んだ龍の遺伝子は余程強力なものだったのだろう。コバロスの掠れていた魂ではとても耐えきれないほどの魔力の激流により、彼のちっぽけな人としての部分は消し飛び今ここに新たな魔獣が誕生した。
フレイムドラゴニュート…、マレウスを襲った悪夢の亡霊が今再び地上に君臨したのだ。
「ガァ…ゴロロ…」
龍は不思議そうに瞳を動かし周囲を窺っている。恐らく彼は今混乱しているのだろう、肉体は再現されたが魂の内部構造…即ち記憶や知識までは受け継がれない、自分が何者かも分からずただただ混乱し訳もわからず周りを見ることしか出来ない。
ただそんな中、デティの姿を見た瞬間。
「グルル…」
牙を剥く、何も分からずとも本能に刻まれた命令だけは理解出来る。彼が生まれた時から持っていた使命とキングフレイムドラゴンが終生を掛けて追い求めた未来はその細胞に刻まれている。
即ち人類の鏖殺、デティという人類を前に…彼もまた牙を剥く。
「仕方ありません、魔術の暴走の結末たる貴方が人類に牙を剥くなら…調伏するのが我が使命、相手になります」
「ゴァァアア……ッ!」
拳を握る龍人と、錫杖を片手に構える魔術導皇が睨み合う。…人と魔獣が相対した時、何をするべきか。それはもう…知識や記憶などに頼る事なく、決まっているのだ。
「ゴギャァアアアア!!!」
「………あ!うぉおおお!ってやばいやばい!『ダイヤモンドフォートレス』ッ!」
瞬間、展開する魔力防壁。と同時に襲い来るドラゴニュートの拳、肥大化し膨張した筋肉と共に放たれた拳はデティの防壁を打ち据えその体ごと吹き飛ばすのだ。
「ぅぐぅっ!?『ウインドカーテン』!…こいつ、なんてパワー!」
「グルルガァッ!!」
吹き飛んだ体を風で整え着地すると同時にドラゴニュートに視線を向ける。腕を使い地面を掴みながら体を投げ飛ばすようにこちらに向け飛ぶその姿はまさしく魔獣そのもの。いや…それ以上のものか。
「ぅがぁぁあああああ!!」
「キングフレイムドラゴンの遺伝子…オーバーAランクの力の一端がこれか…!」
巨大な腕を振り回すドラゴニュートの暴乱を前に小さな体をせかせか動かして逃げ回る、この力は元はキングフレイムドラゴンの物だ、オーバーAランクの大魔獣の力の一端。その力を不完全ながらも再現したのがこれだ。
並のAランクを遥かに上回る身体能力と破壊衝動、魔力防壁の上から殴ってそれごと殴り飛ばすなんて正直デタラメだ。これを相手に私は今からバトルで勝たないといけないわけで…困ったなぁ。
(私、魔術戦なら得意だけどラグナみたいなフィジカル勝負を挑んでくる奴とか苦手なんだよねぇ…)
デティフローアは典型的な魔術師タイプの戦闘法を得意とする、遠距離からひたすら自分の『得意』を叩き込み続ける戦闘スタイル。その魔術戦ならばデティは天下無双だ、この世の頂点にいるケイトさんやトラヴィス卿以外は相手にならないくらい強い。
反面、身体能力やフィジカルで勝負を挑まれるのは苦手だ。短いおててと可愛いあんよ、ミニマムな肺とちんまい筋肉…そのどれもが魔蝕の影響で五歳児の段階から一切成長していない。
故にこうしてひたすら接近して殴りかかってくるタイプには滅法弱い。ドラゴニュートはそのタイプだ。けど…。
「ゴギャァァア!」
「『アラウンドゼログラビティ』!」
「グルルッ!?」
振るわれる尻尾を前に無重力魔術で天高く飛び上がる。
確かにドラゴニュートはとんでもない怪物だろう、私がここで一人で戦いを挑んだのは無謀だろう。けれど…私がなんの勝算も無く戦いを挑んだと思うか。
「私がここで一人で来たのは、一人じゃなきゃ…全力で戦えないからだよ」
今、アマルト以外のみんなは意識を失っているに等しい、そんなみんなをアマルトが介抱している、つまり今…私の近くには誰もいない。コバロスでさえ、意識がない。
なら…使えるんだ、私が今まで禁じてきた…魔力覚醒が。
(私の魔力覚醒は…誰にも見られるわけにはいかない。私の魔力覚醒は…史上最強だから、下手に見られたら…魔術界の発展すら妨げかねない)
進化とは、答えが出ていないから続けられる物。人はゴールに向けて走る物、既にゴールしていることに気がついてしまっては走れない。
つまり私の魔力覚醒とは現代魔術の答えであり、人の進化のゴールにある物だと考えている。これは驕りかもしれない、あまりにも傲慢すぎるかもしれない。けれどそれでもその可能性があるなら私はこの覚醒を使えない。
私の存在が、魔術界の進化の妨げになるなら…私はこの覚醒を認可できない。だから本当は使うべきじゃないのかもしれない。
だけど…。
「お前を倒すのは私の役目だから、…だから…ごめんね」
胸に手を当て謝る、…嗚呼。私はこの覚醒と向き合えるんだろうか…少なくとも、今は…無理だ。
「────魔力覚醒」
逆流する魔力、その力が私の中で目を覚ます。
私の覚醒、種別を『神象魔力覚醒』…分類不能型の中にさえ入らない異形の覚醒、唯一類似するかものがあるとするなら、それはあの日…レグルス様の体を乗っ取ったシリウスが使った『イデアの影』だけ。
つまり私の覚醒は、あれと同じく時や空間や可能性を凌駕した所に存在する覚醒。星を超えた神の覚醒…その名も。
「『デティフローア・ガルドラボーク』」
それは、凡ゆる束縛を打破する…『今現在最も正答に近い魔力覚醒』。
…………………………………………………
「ァガッ!?」
ドラゴニュートがその時、その瞳で見た物は。何か、彼は瞬時に理解することが出来なかった。
バチバチと迸る魔力の波動の中、立ち上がるそのシルエットを見ただけで…理解を拒んでしまったから。
「ア…ア…ア……」
彼の脳内に浮かぶ言葉を抽出するなら、今彼が相対している存在を人の言葉で形容するなら。
『膨大』『別次元』『究極』『総決算』…いや、正しいのは魔術の神…『魔神』か。
「恐怖しますか?龍人…」
「アッ!?」
瞬間飛んできたのは何か?分からない、攻撃だと思う。だって今自分は体を高く打ち上げられ全身が痛んでいるから。だがその衝撃以上にドラゴニュートが感じているのは…煩わしさだ。
彼はかつて、何処かでこれを見たことがある気がする。けれど思い出せない、喉に小骨が刺さったような…そんな煩わしさ。
「大人しくなるまで、私は貴方に痛みを与えます。徹底的に磨り潰すような…懲罰的な激痛を、絶え間なく」
「ゴガァッ!?」
地面に叩きつけられた、相変わらず攻撃の正体が判然としない。だが今の攻撃で何か思い出せそうだ、そうだ…彼はこれを見たことがあるが、彼自身は見たことがない。
「グガアァアアアアアア!!」
抵抗とばかりにドラゴニュートは腕と尻尾を振り回して魔神を相手に立ち回る…が、当たらない。
いや違う、当たってはいる。感触はあるし衝撃は確かに魔神に伝わってはいる。だがどう言うことか、魔神に攻撃が当たると、魔神の体は一時的に崩れて乱れ…その次の瞬間には元に戻っているのだ。まるで煙を殴っているように無為に感じる、見えない幻影を相手に喧嘩をしているように感じる。
自分では触れない高位の存在が、そこにいるように感じるのだ。
これは、本能の奥底に刻まれた共有記憶。かつて…我らが祖先たる魔獣王タマオノが見た景色に…よく似ている。
「『不倦不撓のベナンダンディ』…」
「ゴァッ!?」
轟音が響き渡る、怒涛の勢いで体に無数の穴が開く、何かが体を貫通して行った。龍の鱗と大魔獣の膂力を持つ自分が…一切の抵抗が出来ない。だがこの絶対性…タマオノが見た『アレ』と同じ。
燃え盛る丘の上、ゲタゲタと下品な笑い声をあげ、世界の破滅を望み事実破滅の手前まで事を進めた人ならざる怪物。
「これで分かりましたか?」
「アァ…アァ……」
ダクダクと流れる血と崩れる体が、そいつの背後姿を見る。その姿は…そっくりだった。
体を包む白い法衣、背中まで伸びる白い髪、光り輝く赤い瞳、間違いない…これは。
我らが祖…シリウス・アレーティア?
「誰が、『絶対』か…」
いや違う、シリウスそのものではない。シリウスなどでは無い、これはそれさえも超え得る存在。シリウスが究極ならばこれは無欠…完全なる、無欠だ。
間違いない、こいつは…デティフローアは…。
魔女が八千年間到来を恐れ、遠ざけ続けた…それでもいずれ来る物と諦めていた事象そのもの。
遂に地上に君臨したのだ…。
シリウスに続く新たな災害、『第二の大いなる厄災』が……。
「呆気ない、大魔獣の亡霊がこの程度…けれどまぁ仕方ないですよね。私…結構怒ってますから、貴方に…」
メラメラと燃えるそれを前に、ドラゴニュートが出来ることは…何もなかった。
「止めです…」
拳を握る魔神の手が、渦巻くような魔力に呑まれる。一挙手一投足が魔術と同義として顕現し…放たれる一撃を前にドラゴニュートは…。
「『不折不曲のセイラム』────」
その意識を…刈り取られ……。
…………………………………………………
「ハッ……」
「気がつきましたか?コバロス」
コバロスが目を覚ます、ようやく意識を取り戻した彼が見たのはズタボロになった研究所の一角…まるで巨大な魔獣が暴れたかのような光景を前に自分の目論見…キングフレイムドラゴンの遺伝子を取り込むと言う作戦が上手くいった事を悟る。
と同時に、今こうして自分が倒れている事実に…混乱する。
「わ、私は…何故、元に戻っている」
「私が貴方の体の時を、一日分巻き戻したからですよ。絶命する寸前にね」
「時を?…馬鹿な、そんな事できるわけが…」
出来る、倒れて死にかけたコバロスの時をデティは究極の治癒魔術…『永劫輪廻之逆光』にて一日分遡行させたのだ。これでキングフレイムドラゴンの遺伝子を時の矛盾の中へと消し去り彼を元の状態に戻したのだ。
と言っても、未だゴブリン人間であることに変わりはないが。
まぁつまるところ、コバロスは負けたのだ。龍に意識を乗っ取られている間の記憶はないが、それでも事実だけが物語る。キングフレイムドラゴンとなり大暴れしたコバロスは…デティフローアを相手に完敗したのだ。
「ぐっ…バカなぁ…」
「すみませんね、貴方に慈悲を向けるなら…もう少し戦いに付き合ってあげたほうが良かったのかもしれませんが…私は怒っているんです、私の友の尊厳を傷つけたお前に対し、私は魔術導皇が持つべきではない憤怒を得ている…」
「ッ……」
「諦めなさいコバロス、お前の計画は潰えた…もう観念して───」
「ククク…カカカカ!計画が潰えた…だと?」
「………?」
しかしそれでもコバロスは笑みを崩さない。ゴブリンの口がニタリと笑い、ヨロヨロと立ち上がりながら彼は瓦礫の中を歩き始める。
確かに負けた、コバロスは負けた。だがそれはこの場限りの話、大局的な視点で見れば…コバロスは勝っているのだ。
「馬鹿な女だ、私が…なんの考えもなしに、お前達から逃げたと思うか?」
「何が言いたいのです」
「これはな、時間稼ぎなのだよ…世界中を魔獣人間で満たす計画の時間稼ぎ。そして…もう時は満ちている」
コバロスは、壁に取り付けられたレバーを手に取る。そう、彼がここに逃げたのはデティを『あそこ』に近づけさせない為の罠だった。そもそも彼はどうやって世界を魔獣人間で満たすつもりだったのか?
決まっている、その手段は既に用意されており、計画遂行の為の弾丸は既に装填され…引き金を待っている状態にあるのだ。
「ドリームパークだよデティフローア…、あそこにある食べ物達。アレこそが私の計画の要なんだ…アレを使えば簡単に世界中に魔獣の遺伝子を振り撒くことができる」
「………まさか」
「その通り、このレバーを引いた瞬間。ドリームパーク内部に魔獣の遺伝子が散布され、同時に隷獣達が外部に放出される仕組みになっている。魔獣の遺伝子を体に付着させた隷獣達が世界中に飛び立つのだ…!当然、それを食えば!経口摂取にて魔獣人間になる…」
隷獣達を食べても魔獣にはならない、だがその表面に魔獣の遺伝子を付着させれば…食べ物と一緒に遺伝子を取り込むことになる。その為遺伝子散布の仕組みをコバロスは急ピッチで組み上げていた…その為の時間稼ぎだった。
本当はデティ達がドリームパークを訪れた時点で…これをするつもりだったが、想定よりも早くデティ達が着いたせいでその計画も潰えてしまった…が、今度はそれを逆に利用し魔獣遺伝子付きの隷獣達を外部に放ち、世界中に遺伝子を振り撒くつもりなのだ。
外部に放たれたそれを食べた人間は魔獣人間になる、隷獣達は進んで人間達に食べられるように設計されている…必ず食べる人間はいる。そうやって世界中に魔獣人間を増やせば…この計画は続行される。
「やめなさい…!コバロス!」
「もう遅い!私がこのレバーを引けば!それだけで遺伝子散布と外部放出が始まる!今更お前が私をどうしようとも!この腕は!止まらん!」
「ッ…!」
そしてコバロスは勢いよく、レバーを引く。魔獣人間が…世界中に解き放たれる!
「ハハハハハ!今日から魔獣人間が!世界へ躍進する!その始まりが!今日!この日なのだぁーッ!!!」
そうしてレバーはコバロスの手によって降ろされ…まるで鳴動するような轟音があちこちから鳴り響き始める。これでコバロスの計画は…魔獣遺伝子大量散布計画は、実行に移され────。
「あれ?」
と思った、その時…コバロスの手元でボキリと音が鳴り響く、見てみれば…彼の手元にあったはずのレバーが、ポッキリと折れているではないか。ゴブリンの力にレバーが耐えられなかった?そんな間抜けな話があり得るか?
いや違う、耐えられなかったのは『レバーを設置している壁』の方だ。レバーと共に壁が崩れ、ガラガラと壁が崩れ、大穴が開き…その先が見える。壁の向こう側はドリームパークだ、レバーを勢いよく引いて壊れてしまったのはドリームパーク内に『異常が発生していたから』だ。
「あ……え?」
コバロスは穴の向こうに見える光景を見て思わず口を開く。自分はドリームパーク内の隷獣達を利用して世界中に魔獣の遺伝子を振り撒く計画を講じていた。それが計画の全容であり要だった。
だがどうだ?今目の前に見える光景は、私が今見ている光景はなんだ?分からない…一瞬理解が出来なかった。
だって…今、穴から見えるドリームパークの様子は…。
「か、空ッぽ…?無い!?無い!?!?」
思わず穴から飛び出しドリームパークに飛び込むが…無いのだ、何も。ベーコンの鳥もパンの犬も、キャベツの山もキノコの森も!何も無い!『更地』だ!まだ隷獣の放出はしていないのに!何もいない…完全なる虚空、ただただ土と川だけが空虚に広がる空間がそこにはあった。
「馬鹿な!馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な!何処だ!何処に行った!私達の研究成果!努力の成果は!あり得ない!何処かに隠れてるんだろう!出てこい!早く!」
死に物狂いでコバロスは地面を掘る、もしかしたら土の中に隠れているのかもしれない、或いは残った奴がいるかもしれないと土を掘り、何も出ない事を確認するとまた立ち上がり右往左往と走り回る。
「なんで!なんで!さっきまで居たじゃないか!昼間まで!昼間…まで……」
そうして、走り続けたコバロスは…見つける。ようやく見つける、何もいないドリームパークの中心に動く影を。だが隷獣じゃない…あれは…あれは……。
「ガガッ…ゴゴーッ…むにゃむにゃ…」
「ラグナ…アルクカース……?」
部屋の中心で大の字になって眠るラグナがそこにいた、虎の遺伝子を取り込み虎耳を生やし虎のように振る舞う彼が…部屋のど真ん中で寝ていた。口にいっぱい…食べかすをつけたまま。
まさか…こいつが…。
「食ったのか…?全ての隷獣を…」
「ググーッ…」
ラグナ・アルクカースは虎の遺伝子を取り込んだ瞬間、仲間達に牙を剥かず…何処かへ一目散に走っていた。虎になった彼はその強い飢餓感と食欲に抗えない…だから肉食獣の本能として草食獣の仲間達を襲うはずだった…が。
それでも虎になった彼は覚えていた…『もっと美味しいものが、もっとたくさんある場所』を。つまり…彼が一目散に向かったのは。
「ドリームパークに向かい、今の今まで一人でここにある隷獣を食い尽くしていたのか…?」
肉食獣になりタガが外れた食欲により、彼は隷獣を食べ尽くした。キノコの森もキャベツの山も一つ残らず、ベーコンの鳥もニンニクの虫も一匹も逃さず。虎として狩りを行い…食い尽くしてしまったのだ。
と言うことは…もう、コバロスの計画は……。
「ど、どんな胃袋してんだよぉ〜〜…」
ヘロヘロと力が抜け、膝を突く。完全なる誤算、こんなことになるくらいならラグナに肉食獣の遺伝子なんて与えなければ良かった…。
「彼を侮りましたね、コバロス」
「すげー、全部食いやがったんだなぁ」
「ハッ…」
そして、背後に目を向ければ…そこにはデティフローアとアマルトが居て…。
「んじゃ、もう終わりにすっか?もう研究員も仲間も全員元に戻したし…後はお前だけだ」
「ま、待て!私は!」
「もう語ることもありません…アマルト!やーっておしまい!」
「アイアイ!任せろってぇ…」
瞬間、拳を握るアマルトが迫る。やめろと…やめてくれと、命乞いをするコバロス…いや命乞いをしているのは彼の中の魔獣か。しかしその言葉は受け入れられず…。
「のッッ!!」
「ゴブフッ…ッ!?」
叩き込まれる拳にコバロスの顔面が歪み、グルグルと切り揉みながら吹き飛び…空中で彼の体が変質し、人間へと戻っていく。体の中の魔獣の遺伝子が消えていく。
そうして一回転し地面に叩きつけられる頃には彼の体は完全に人の物に戻り…、意識を失う。アマルトの呪術によって人へ強制的に戻されたのだ。これでもうゴブリン人間はいない…って!事で。
「悪ぃな、殴る必要はないんだが。ダチの尊厳傷つけた借りだよ…クソ野郎が」
「ハイ!終わり!」
「だな…じゃねぇや!ラグナ戻してねぇ!」
「取り敢えずみんな元に戻しておいて、そしたら私が治癒で状態を固定化するから!」
「おう、ってかお前さ」
「んぅ?なに?」
「……いーや、なんでもねー」
「?」
取り敢えず、これで終わり…ってことで、一件落着…なのかな?
……………………………………………………
「う…ううん、あれ?…俺なにして」
「お、目を覚ましたか?ラグナ」
「アマルト…」
目を擦り、体を起こすラグナが見たのは更地になったドリームパークと、ラグナを見てニッと笑うデティとアマルトの顔。それを見たラグナはホッと胸を撫で下ろし。
「この感じから察するに、うまくいったか?」
「まぁーねー、お陰様で全部上手く丸く収められましたぁ」
そう言ってデティが指差す先には人の姿に戻り眠っているコバロス達と研究員達が。
デティの言う『わざと負けて相手を油断させ引き摺り出す』と言う作戦はうまく行ったようだ。途中から俺も意識を失って…どうなるかと思ったが、やはりデティ達に任せて正解だった。
寧ろ危うかった、俺達がじゃなくてコバロス達がだ。デティが提案してくれなければ俺は彼らを魔獣として殺していた。まだ元に戻れる余地があったのに殺してしまうところだった。…殺してしまったら、取り返しがつかなかったからな。
「みんなは?」
「あっち、もうみんな戻ったよ」
そして次に指差す先には、元の姿に戻ったよみんなの姿があった…けど。
「うう、私はなにをしていたのだ?全く記憶がないのが逆に怖い…」
「大丈夫でございますよメルク様、メルク様は何も変なことはしていません。はい猫じゃらし」
「ぐぅううう!体が勝手に反応する〜〜!ちょいちょいしてしまう〜!何故だー!」
「太腿パンパン…兎飛びした後みたい…、いいトレーニングになったかも」
「ほっ、みんな元に戻れたみたいで安心ですよ。ところで僕は何になってたんでしょうか、出来ればウサギとか白鳥みたいな美しい動物がよかったんですけど…」
メグの猫じゃらしをちょいちょいと猫の手で叩きながらヒンヒン泣くメルクさんと、太腿を撫でて満足げなネレイド、そして何処となく不安そうに苦笑いを浮かべるナリアを見て、もう一度安心する。
みんな元の状態に戻れたようだ。アマルトが戻す…とは聞いていたが、それでも不安だったからな。にしてもみんな何処か動物だった頃の本能を残しているように思える。
これは多分変身魔術の影響だろう。いつだったか俺達が馬に変身して馬車を引いた時も似たようなことがあった。俺もあの時元に戻ってからも無性に人参が食べたくなってたし…と言うか俺は何に変身してたんだろう。なんか無性に腹が減ると言うか、肉が食いたくて堪らないんだけど…まぁこれはいつもだしな。
「…あれ?エリスは?」
「まだ起きてない。みんなより長く変身してたせいかも」
「マジで大変だったぜ…いや何がとは言わんけどさ」
起き上がり始めたその奥に、白い毛布を被せられ丸くなって眠るエリスの姿があった。彼女の頭からは犬の耳が消えており…うん、元に戻れたようで何よりだ。
「ん…んん」
なんて思っているうちに、エリスは目を擦り徐に起き上がり…白い毛布が彼女の肩から滑り落ち…、彼女の白い肌が露わになり……。
って!?まだ裸かよ!
「いや服着せてやれよッ!?」
「寝てる人間に服着せるのって大変でさぁ、みんなが起きた後でいいかなって」
「いや!流石に可哀想で…」
「ん…ん〜?」
するとエリスは半開きの目で周囲を伺い、寝惚けたように口を開き…俺を見て。
「わんっ!」
「は!?」
「わんわーん!」
「な!ちょっ!」
そして突っ込んでくる、犬のような声を上げ犬のように四本足で駆け抜け服を着ないまま一気に俺に突っ込み、押し倒すように俺に覆い被さり…ってやばい!何がやばいって!やばいのがやばい!やばい!
「おい!元に戻ってんじゃねぇのかよ!」
「戻ってるはずなんだけど…」
「わんわんっ!ベロベロ」
「ギャー!エリスダメだー!」
「んー、アマルトどう思う?」
「寝ぼけてんだろ、おいエリス〜起きろ〜?色々とんでもないことになってるぜ〜?」
「わんわん…わ…は?」
ベロベロと懐くように俺に抱きつき腰をガンガン当ててくるエリスは、アマルトのチョップを受けようやくその目に光を宿し、…フッと無表情に戻る。
見る、まずは周りを。
見る、まずは自分の体を。
見る、俺の顔を。
そしてアマルトに視線を向け。
「アマルトさん、エリス今何してました?」
「なんだろうね」
「デティ、エリス今何してました?」
「なんだろうね」
「……ラグナ」
「見てない!見てないよ!俺何も見てない!大丈夫!」
「……………」
ふつふつと、エリスの体に魔力が宿る。燃えるような魔力は…やがて彼女の中に火を灯し。そして…。
「魔力覚醒!『超極限集中状態』ッ!」
「いやなんで!?」
「ここにいる全員の記憶を消すッ!識の力を使って全員の記憶を抹消するッ!」
「やめろエリス!落ち着けって!」
「なら忘れてくださいラグナ〜!!」
「その前に服着てくれーッッ!!」
「うわーん!なんでエリス裸なんですかーッ!」
「はぁ〜、エリスちゃんもラグナもイチャイチャしてるねぇ〜」
「こうやってみるとエリスの胸ってデカいよな」
「フンッ!」
「ぐふっ!冗談冗談、見てないって」
くだらない事言い出したアマルトの腹を錫杖でド突き上げる、こいつは本当にノンデリなんだから…。偶に言っちゃいけない冗談を平気な顔を言いよるからに。
「で…目は覚めた?コバロスさん」
「う……私は、なにを…いや、うっすら覚えている…私は、とんでもない事を…」
チラリと背後に目を向ければ、ようやく目を覚ましたコバロスの姿がある。彼はこの中で一番長く変身したおかげか。ゴブリンになっていた記憶が微かにあるようだ…だからこそ、彼は自らの顔を覆い、とんでもない事をしてしまったと嘆き始める。
やはり、根は善人で…そしてどうしようもないくらい普通な人のようだ。
「元に戻れたようで何よりです、コバロスさん」
「デティフローア様…これは、なんと…お詫びして良いやら」
「構いません、貴方がやったのではないのです。全ては魔獣の仕業なのですから」
「ですが、その恐ろしさを何よりも理解している筈の研究者たる私が…軽率な事を」
「確かにそこは、反省するべきですね。魔術とは前提として恐ろしいもの、人の身に余る力であると言う基本の知識が欠如していたと言わざるを得ませんね」
「仰る通りです、遺伝子組み換え技術…この力があれば、数多の人を救えると思っていた…そこに、考えを囚われ過ぎていた…馬鹿でした。世界を救えると言うことは、世界を覆す事も出来てしまう。私が新人時代に習っていた事を忘れていたとは」
コバロスはその場で正座をして、膝の上に手を置き…涙を浮かべながら頭を下げて懺悔する。
確かに、彼の始まりは『この技術で世界中人を少しでも助けたい』と言う立派なものだった、だが…いつしかその努力は彼に引き返すと言う選択肢を奪い、守るべきものが信念からこの技術そのものに変わってしまっていた。
故に、無茶をして…多くの人を巻き込み。最悪世界を転覆させるところだったのだ。
「貴方が止めてくださらなければ…どうなっていたことか」
「それが私の、魔術導皇の役目ですから…気負う必要はありません」
「なんと、慈悲深いことか……」
するとコバロスは一瞬、迷いを見せ…膝の上の手をトンと叩き決意を浮かべると。こちらに目を向け。
「こうなってしまった以上、責任を取らなくてはなりません。本来なら私が院長を降りる事で手打ちとするところですが…今回の一件はそれに収まらない。故に…私は責任を持って、この技術の研究…その認可申請を取り消したいと思います。遺伝子組み換え技術は…その研究成果諸共焼却し未来永劫…凍結する事をお約束します」
先人達の百年と自らの人生を賭けたこの技術の研究そのものを、破棄する事を宣言する。それが大人の責任の取り方だと…彼はデティフローアに宣言する。
魔術導皇に迷惑をかけ、人類そのものを危機に陥れたその事実はあまりに重い。ここまでしてもなお責任は取りきれない、ならば研究凍結の後に自首し自ら投獄される事を望む。
けど……。
「…コバロス、私はまだ認可するかどうかの答えを出していませんよ」
「え…?」
「『保留』…それが私の答えです。今はまだ答えを出す時ではない、この技術は確かに人の為になる…けど、今はまだその域に無い。貴方が今回の一件に責任を感じるならば、資力を尽くして完成させなさい、今度こそ…暴走や悪用の余地が無いほどに、完全なる救いの魔術として」
「魔術導皇様…しかし!私は…!」
「私は全ての魔術師の味方です、私は貴方の味方です。だから…頑張りなさい、私が魔術導皇をやっている間に、今度こそきっちりしたもの、見せてくれる事を期待しますよ」
「ぁ……うっ…」
コバロスは思わず立ち上がりながらも、顔を伏せる。なにも言えなかった、自分には決定権がない事を理解していたから。
これは見逃されたのでは無い、許されたのでは無い、責任の負い方を指定されたのだ。つまり進み続ける事…それこそが贖いであると。ならばそこに異議を唱える事はできない、なら…それはもう。
「…畏まりました、魔術導皇様…ッ!」
跪き、従うより他なかった。自分はもう引くことはできない、ならば…これよりは使命ではなく、責任感ではなく、ただ一心によって魔術界の貢献のためだけに生き、必ずやこの技術を真なる意味での『完成』に持っていかねばなるまい。
例えそれが、どれだけ遠く険しい道のりでも…だ。
「うん…よしっ!」
それを見届けたデティは腕を組み大きく頷くと共に、クルリと振り返り。
「みんなー!終わったよー!ごめんね付き合わせて!」
「む?終わったか?」
「あら、最後はあっさりでございましたね」
「ん、ならそろそろ出る?…夜明けも近いし」
「ラグナ〜ッ!待て〜ッ!」
「いや待つのはエリスだって!服着て!服!」
終わった、全部。一件落着大団円!ならばもうここにいる必要はない!と皆に宣言し帰ることを進言する。
「も、もう行ってしまわれるのですか?魔術導皇様、せめてもう少しお休みになられては…」
「んーにゃ、私達他にも行くとこあるから。それに…これ以上ここに長居は出来ませんからね」
「そんな…」
「頑張りなさいコバロス、私は貴方の道行を応援していますから…それで、早いところ美味しいご飯を作れるようになってね!」
にひひっ!と笑いながら歩き出し、仲間達と共に横並びになりながら去っていくその背中を…コバロスは見送ることしかできなかった。
『なに?私は猫になってたと?』
『おう、にゃんにゃん言ってたぜ?ちなみにメグは馬な』
『なんと、以前私だけ馬に変身出来なかったのが唯一の悔いでしたが…これで夢が叶いました』
『そんなに気にしてたの…?楽しそうだったよ…メグ』
『あの…僕はなにになってたんですか?せめて教えてくださいよ、なんでみんな顔を逸らすんですか?』
『ラグナ…本当は見たんでしょ?…言ってくださいよ…嘘つかないで…』
『嘘じゃないって…、そんな悲しそうな顔しないでくれって』
私のせいで被害を被ったと言うのに、彼らは私に対して恨み言の一つも言わず…やることだけやって帰っていった。まるで彼らにとってはこのくらいの事…日常茶飯事であるかのように。
「…なんというか、とんでもない人だった…」
「コバロス院長…私達はこれからどうすれば」
すると、呆然としているコバロスの背後から部下達が声をかけてくる。自分達はこれからどうするばいい?と…。元に戻り正気を取り戻した者たちは皆混乱しているようだった。彼らにはまだ記憶の混濁が見られるようだ…だが。
「私達はこれからも、研究を続ける」
「ですが研究所がこんな有様ですし…」
「何より、本部からの支援もないのでは…資金も底を尽きそうですし」
「それは私がなんとか……」
研究は続ける、だが苦しい状態にあるのに変わりはない…だがそれでもと口にしかけた瞬間。
「ん?」
ふと、自分の服の裏に、何か入っていることに気がつく。それは…紙だ、服の内ポケットに巧妙に隠されていた紙を見つける。こんな物…入っていたか?と紙を広げ、中を見てみると…。
「なッ…」
そこには、達筆な文字で…こう書かれていた。
『これを読んでいる頃には既に私はその理学院を去っている事でしょう。故に表立って言えぬ事をここに書き留めます。コバロス殿、貴方の努力と魔術界への献身を私は高く評価します、故に貴方に当面の資金援助を行いたいと思っています。差し当たって金貨数千枚を貴方の自室の倉庫に隠しておきました、それと一緒に置かれた魔伝を使えば密かに私に連絡が取れます…是非ご活用してください』
(これは…デティフローア様の?)
ハッとしながら仲間達と談笑しながら何やら足早に立ち去っていくデティフローア様背を見る。まさか長居出来ない理由はこれか?
…マレウス魔術理学院はマレウスの公的機関。それがアジメクという他国にして仮想敵国でもある国から援助を受けたとなれば問題になる。故に表立っては支援は出来ない。
だから、早々に立ち去り…秘密裏に行った資金援助がバレないようにしたのか。
(……ははは、どこまでも…貴方は魔術師の味方、なのですね)
私達の身の事まで慮って敢えて早々に立ち去る決断をなされるとは。敵わない…どこまでも。
「院長…」
「大丈夫だ、なんとかなるよ…私達には魔術導皇様がついているのだから、だから…迷う事なく研究を続けよう、まずは研究所の片付けからだ」
「は、はい!」
(にしても……)
チラリと再びデティフローア様の背中を見る。
素晴らしいお方だと思う、凄いお方だと思う、あのお方は確かに魔術導皇足る器だと私は理解した…しかし、それと同時に思うことがある。
(素晴らしいと思う反面、恐ろしいお方だとも思う…)
恐ろしい…そう感じるのだ。なにせこの大団円を導く為に…一度は仲間達を犠牲にする判断を迷うことなく、そして顔色一つ変えることなく行えるのだから。仲間達はそれを信用したかもしれない、事実なんとかなったかもしれない。
だが普通は迷う、何処かで躊躇する。されどあのお方はしなかった…元に戻せるのだからノーカンと言わんばかりに。
(治癒術師だからこそ、変化に対して疎くなる…という話は聞いたことがある。今回の一件も最終的に元に戻せるからどれだけ味方を犠牲にしても良いとデティ様は判断なされたのだろうか…だとしたわ)
あのお方は、最終的に『元に戻る』という結果を出せるのなら、過程で…どれだけの犠牲も、変化も、災害も…許容してしまうのではないのだろうか。
元に戻せるから良い、それが治癒魔術を極める者の思考…。もしデティフローア様に世界の命運が託されるようなことがあったら、その時は。
(あのお方は、過程でどれほどの変化と犠牲を許容するのだろうか…)
過程を無視した思考、その危険性に…コバロスは一人、恐怖するのだった。
「デティフローア様…、ですが私はデティフローア様がどんな決断をしようとも貴方の味方をしますよ、貴方が全魔術師の味方であるように、全魔術師も貴方の味方なのですから」
荒れに荒れた研究所の内部を掃除し始める部下達に軽く礼を言いながら私は足速に自室へ向かう。慌ててそちらに向かえば…まぁこちらも酷い有様だった。
魔獣になった私は、ここで大いに暴れたらしい…剰えキングフレイムドラゴンの遺伝子まで使って…、その後の事はよく覚えていないがそれさえもデティフローア様がなんとかしてくれたようだ。
「ふむ、冷蔵保管庫の中は全滅か…。追い込まれていたとは言えゴブリンの遺伝子なんかを取り込むべきではなかったか」
この方面でのアプローチが失敗に終わる事はなんとなく分かっていた、ゴブリンに人の遺伝子を投与し、ゴブリンの脳を人間並に肥大化させる事に成功したが…結局そいつらも人の事を理解せず、人間に敵意を持ったまま…研究所から逃げ出してしまった。
一応そちらは冒険者協会に討伐を依頼しておいたが…。やはり人と魔獣は相容れない存在、魔獣の力を人が獲得することも、魔獣が人の力を獲得することも無い。これを身に染みて理解出来たのが…この事件唯一の収穫と言える。
いや、それ以外にもあったな。
(魔獣に心を乗っ取られる寸前に見た…あの景色。あれは…)
私は一人、崩れた瓦礫の中から机を引き摺り出し、椅子を置いてノートを広げる、こんな状況でするべきことでは無いのかもしれないが。それでも…私は研究者としてのサガを捨てきれない。
無数の魔獣達が感覚を共有し合い、一つ一つが脳細胞のように連結し合い擬似的に巨大な脳を形成していた…あの景色は恐らく人類の中で唯一私だけが見た景色だろうと確信出来た。だからその件に関する考察だけでもまとめておきたかった。
(先人達の研究の末分かったこと…。魔獣は長い時をかけて世界への順応を果たそうとしている事、恐らく魔獣を作り上げた存在は『完全なる生命の誕生のプロセスを再現しようとしている』…と言う考察があった)
カリカリとノートに文字を書き、考察を纏める。これは魔術理学院が得た一つの答え。これが正しいかは分からない、だがそう考えると魔獣の適応進化への必死さと言うか…使命感にも似た多数に枝分かれする進化の説明がつく。
人間に敵対するだけなら、もっと殺戮だけに特化した姿に変化するはずだからだ。それでも獣を模倣したり植物を模倣したりするのは…そうなる理由があるから。私達はこれを『真理探究』と呼んでいる。
そしてそれが真実なら、大前提に魔獣を作った存在がいる。こんな事をするなんて…そいつは神に近い存在か、或いは我々研究者のような狂人としか思えない。
…そしてもう一つ。
(魔獣はそれそれで感覚を共有し、感情や情報を伝播し合っている…その為に空や海に順応し、あらゆる情報を皆で分かち合っている可能性が高い)
これは私が見た光景に関する考察、魔獣達は言葉ではなく魔力に近い何かで情報のやり取りを行い、それは距離や場所に関係なく行われる。その様を俯瞰した時見えたのはまるで脳細胞の神経伝達にも似た光景。
そして、その中心にいる…ソティス。魔獣の王を自称するアイツが魔獣達の感覚共有の中心にいる。
ここで私は一つの考察をしてみる。
(もし魔獣を作った存在がいるなら、この魔獣の情報伝達機能は…そいつにとって必要のない物だ。だって創造主にとって魔獣とは『人類への敵対行為』であり『真理探究の実験過程』でしかない…魔獣同士で情報を交換する必要性は皆無)
長年の考察と私の考察が正面から衝突する。どちららが間違っているとしか考えられない、でなければ魔獣と言う存在には二つの存在意義がある事になる。
『創造主が望む実験』と『情報伝達用の脳細胞的な役回り』…創造主の意図が読めない以上確かな事は言えないが、なんだかこの二つは両立しない気がする。
…そこで私が考えたのは…一つの仮説。二つ目的があり、それらがぶつかるなら、…もしかして『魔獣を使って何かしようとしている存在は二人いるのではないか』と言う物。
つまり…。
(実験をしたい創造主と、情報を集め脳細胞代わりにしたいソティス。これらは…両者共に別の目的のために動いている可能性)
…魔獣は既に、創造主の意図しない方向へ向かって動き始めている可能性だ。長い年月かけて進化するうちに魔獣はこの世界に対する適応を果たした、なら…するんじゃないのか?
創造主そのものに対する適応進化も…。創造主の意図から脱却する為の適応も。
もしこれが本当なら、魔獣は…もう、創造主の手から放たれているのかもしれない。
(なんて、仮説に仮説を重ねただけの妄言か…)
私はノートを閉じる。この考察に意味はないかもしれない、だってそもそも創造主ってのは何者なんだ。魔獣を作るってどうやってるんだ、八千年も前からいるのに…。
「はぁ、妄言の記録はここまでにしておいて…。一応これからも理学院本部と付き合っていかねばならないわけだし…、遺伝子組み換え技術の代替として寄越された研究について、少しだけ調べておくか…なになに?」
机の引き出しから、本部から寄越された未開封の便箋を開き、中を見る。今理学院が力を入れている研究内容、それが書き記された手紙を見てみると…。
「何?『魂の輪廻転生についての研究』?人は生まれ変わることがあるのか…だって?ははは、私の研究よりも眉唾について研究しているのか、本部は。これなら魔獣の魂について研究したほうが余程価値がありそうだ」
全くお笑いだ、死んだ人間が生まれ変わるなんてこと…あるわけがないのにな。
………………………………………………………………
「およよっ!?…ありゃまぁ」
「おん?どうしたんじゃあそんな間抜けな声をあげて」
遠視を使って、遥か遠方を見る。ふと気になって南部魔術理学院の様子を見てみたら…いやまぁ大変なことになっていたので思わず彼女は声をあげてしまう。
古風な木製の椅子に腰を下ろしていた彼女は…思わず立ち上がり。
「魔獣の遺伝子研究、なんか潰されたっぽいですよ。シリウス様」
「はぁ?」
木組の穏やかな小屋の中、ウルキは手元に置かれた小箱の中に入ったシリウス様…の頭部に語りかける。窓の外から差し込む木漏れ日に目を細めるシリウス様に、体はない。
まぁそんな事はどうでもいいんだ、この人に体は必要ない。体の方は魔女大国に置いてきてしまったから無いのは当然なのだ。別にいいんだが…。
「魔獣の遺伝子研究ぅ?そんなことしとったんか?」
「あれ?言ってませんでしたっけ?」
「聞かされとったら止めておったわ、あんなもん研究する価値もない。あれは一種の『物の試し』…もう施行する余地も残っとらん惰性の研究じゃ」
「そうなんですね、私は魔獣の体が何かに使えるんじゃないかとガオケレナちゃんにお願いして色々研究させてたんですよ」
「ほーん、でその研究が潰されたと…誰にじゃ?」
「魔女の弟子にです」
「ふーーーん、まぁ別にええが」
シリウス様は興味なさげだ。まぁ魔獣を作っている本人様だから特に研究に対して興味が湧かないのは当然なのだが。しかし遺伝子研究の方が弟子に潰されるとは驚きだ。
あれを使って色々と悪巧みを考えていたのですが、まぁ別にもういいか。シリウス様の言うように私にとってもあれはもう『惰性で続けているだけの終わった実験』…完成品はもう既に存在しているのだから。
「魔獣の遺伝子研究…、今更潰しても意味ないんですよねぇ〜もう完成品はありますしねぇ〜」
「およ?完成しとったんか?」
「ええまぁ、ホラ〜!アレですよアレ!」
「ああ、あれか。と言う事は…『ヤツ』に渡したのもその類か」
「ええ、あっちはもっと完璧なものですがね」
いや、あれが完璧に挙動したのは彼女の『あまりにも特異な魂』故の物。あれほど凄まじく…そして非常に珍しい体質は私でさえ他に見たことがないほどに特異な肉体だった。魂の特異性ではミツカケと同格と言ってもいい。
あれをマレフィカルムに渡してやるのは惜しいので、私がこっそりいただいちゃったくらいですよ。ごめんなさいね?ガオケレナ…二重の意味で。これを聞いたらあなたは怒りますか?この辺りに関してはちょっと分からない。
「ぬははは、にしても面白い事になってきたのう…」
「ですねぇ、こんなにもワクワクしたのは八千年ぶりですよ」
「じゃのう!体があったらテケテケと踊っておったくらいじゃわ!…おう?」
ふと、シリウス様が視線を移す。目は扉の方に向いている…どうやら、彼が来たようだ。
『失礼します、ウルキ様…今よろしいですか?』
「ああ、リーヴですか?どうしました?」
「いえ、お話をしたくて…失礼します」
そう言うなり、まるで耳に吸い付くような美しい声を持った彼は、扉を開けて流れる金の川のような髪を払いながら翡翠の瞳をこちらに向けて、ニコリと微笑み一礼をする。
「シリウス様とお話し中でしたか?」
「ええまぁ、でも他愛もない雑談なのでいいですよ?リーヴ」
「それは良かった」
リーヴ…そう呼ばれた青年は銀の法衣を着崩しながら小屋の中へと歩み…私の前に立ち、シリウス様にも一礼をする。
「で?御用は?」
「ええ、遠征が終わったので報告をと思いまして。みんな元気にしてましたよ」
「そりゃ良かったミネちゃんとか元気にしてました?」
「ははは、元気すぎるくらいでしたよ?ところでウルキ様、遠征も終わり…私のするべき事に今ひと段落がつきました」
「そうですねぇ、次は何をしたいですか?」
「会ってみたい人がいます」
「誰です?」
「エリス…と言う人物です、以前ウルキ様が仰られた妹弟子のエリス」
「…何故か、聞いても?」
なぜ、今それを言うのか。彼にとってその言葉がどれほどの意味を持つのか、分からない子じゃないはずだ。その行動が招く事態がどう言う物なのか…だからこそ聞く。何を考えている?と…しかしリーヴは毒気のない顔で笑い。
「会ってみたいだけですよ、だって彼女は……」
リーヴは窓の外を見る。エリスのいる方角を見る、そちらに向け想いを馳せるように…光の笑顔でこう語る。
「彼女はいずれ、私達の唯一無二の王となられる方なので。今のうちにお顔を拝見しようかと」
なーんて言うんだ、本当に…私の気も知らないでさぁ〜。
……エリスちゃん?私との約束、ちゃんと覚えておいてくださいねぇ?




