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孤独の魔女と独りの少女【書籍版!8月29日発売中!】  作者: 徒然ナルモ
十六章 黄金の正義とメルクリウス
593/868

540.魔女の弟子と夜を統べる者


(エリスちゃんが帰ってこない…)


時間は深夜、私達がマレウス魔術理学院を訪れ例のドリームパークを見てから数時間が経ち…外は真っ暗、みんなが寝静まる時間帯になり…私は、デティはベッドに座ったまま口元を押さえる。


悩みの種は親友エリスの所在、彼女はコバロスを怪しみ少し探りを入れる意味合いで独りでコバロスの調査に向かった。


そして…結果、帰ってこなくなった。もうあれから数時間経ってるのに帰ってこない。帰ってこなくなってしまった…。


「やったか?私やらかした?」


両手を合わせ考える。あそこでエリスちゃん単独で向かわせたのはもしかしたら悪手だったかもしれない。だが…エリスちゃんだぞ、よしんば見つかっても彼女が捕まるとは考え難い、或いは想像以上に探索が捗って帰りが遅れている可能性がある…。


うーんどっちもあり得るのがエリスちゃんだ。あの子は非常に不安定な子だ、何かあって捕まることもあるし一人で突っ走って連絡なしに動き回ることもある。やはり一人で行かせたのは悪手だった。


まさか私の予感が…コバロスに対して抱いているとある懸念が、的中したか?だとしたら最悪なんですけど…。


「仕方ない、探しに行こう」


ベッドから立ち上がる。ここは魔術理学院の居住エリアだ、研究者が休めるだけのベッドと作業するための机があるだけの小さな部屋、それが大体人数分空いていたので一応一人一部屋ということになっているそんな部屋の中私が立ち上がった瞬間。


「ッ…誰?」


コンコンと部屋の扉がノックされる、その瞬間私は警戒して杖を取るが…直ぐに安堵する。扉の向こうにいる魔力は…。


「ラグナ、アマルト…」


「おう、悪いな…起こしたか?」


「ううん、というか二人ともどうしたの?深夜で男二人が女の子の部屋に押し入るなんて」


「言い方…」


扉を開けて入ってきたのはラグナとアマルトだ、二人はやや申し訳なさそうにしつつも部屋に入ってきて…。


「いや、実はさ。さっきエリスに用があったから部屋の方に行ったら居なくてさ…なんか知らないか?」


と、ラグナが聞いてくるのだ。どうやらラグナ達もエリスちゃんが居ないことに気がついたようだ。エリスちゃんと最後まで一緒にいたのは私…だから私に聞きにきたんだろう。


「う、うん…実はさ」


なので私は誤魔化すことなく話をする、私一人で探すよりみんなにも手伝ってもらった方が良さそうだと思ったから。するとその話を聞いたラグナ達は。


「一人で行かせたのか!?」


と…当然の疑問を口にするが、直ぐにラグナは腕を組み首を傾げ。


「あー…いや、俺も同じ状況なら一人で行かせるかもしれん。正直この研究所には脅威を感じてないしエリスなら大丈夫だろって思うし、ゾロゾロと全員で動くよりエリス一人で動いた方が何か分かるかもしれない、何より…エリスは言い出したら止まらないしな」


「まぁ分かんないでもねーな、アイツはそうやって生きてきたわけだし」


残当〜と言いながらアマルトは頭の裏で腕を組むが…同時にこうも言う。


「だが、アイツはそうやって生きてきたのと同時に…そうやって敵の尻尾を掴んできた女だ。直感に関しては説明が出来ないレベルで鋭い、アイツが何かあると感じた以上なんかあるんだろう」


「だな、エリスが心配だ。早速今のうちに探しに行こう」


「うん、けどどうする?何処から探す?」


私がそう問う。何処から探すか、その見当すらついていないのが現状だ。この施設は膨大にして巨大、闇雲に探しても見つからない可能性が高い。するとラグナは…。


「うーーーーん、コバロスに聞く」


「お前なぁラグナ、エリスはコバロスを探って帰らなくなったんだぞ?もしマジでコバロスが俺達の敵で、エリスに何かした犯人なら、聞いて大真面目に『はい私が監禁してます』な〜んて答えるわけねぇだろ」


「うん、でも多分取り繕いはすると思う」


「だろ?だから聞いても…」


「取り繕い嘘をつくなら、デティで見抜ける」


「お!確かに!頭いいな!デティ!いけるか?」


「う…うん、出来る…と思う」


「なーんか不安そうだな」


「うーん、コバロスさんってなんか…魔力があんまり動かない人なんだよね」


「は?そんな奴いるのか?」


私は別に心を読んでるわけじゃない、本来は感じることができない魔力領域たる『人の魂』の微細な動きを見て感情を予測しているに過ぎない。嘘をつけば当然、人は動揺し焦る…そこを見るから私は嘘を見抜くことができる。


でも本当にたまに、この世には居る。嘘を嘘と思わず吐ける天性の詐称者や先天的な魔力異常で魂が殆ど動きを見せない人が。それに分かってさえいれば魔力の流れを制御するだけで私の目を欺く事だって出来る、私のこの力だって万能じゃない。


その点で言うとコバロスはなんだか異様だった、何を言っても…笑っても悲しんでも魂が殆ど揺れなかった。まるで心が死んでいるか…或いは心とは別の場所で体が動いているかのような、そんな異常性を感じたんだ。


まぁ世の中、そう言う人もたまに居るし取り立てて異常さを口で伝えることはしなかったけど…。


「読心による看破は難しいか?」


「成功確率は…普通の人よりずっと落ちると思う」


「むむむ、思ったより難敵だ」


と、ラグナが難しいなと頭を下げた瞬間…次いで浮かんできたアイデアに手を打ち。


「そうだ、メグさんに───」


「ダメでございます」


「え?」


しかし、それを口にした瞬間、何処かから現れたメグさんがラグナ達の背後から首を振り…。


「うぉぇっ!?メグ!?いつの間に…」


「私に時界門を使わせてエリス様を呼び寄せよう…という判断をされましたね?ラグナ様」


「う、うん…いつから居たかの説明はないのね」


「私も皆様の話を盗み聞きして、エリス様を時界門で呼んでみたのですが…」


いつの間にか現れたメグさんは、酷く深刻そうな顔をしながら…取り出す。それは…。


「エリスの…服?」


そこには綺麗に畳まれたエリスちゃんの服が握られていた。メグさんの時界門はエリスちゃんがセントエルモの楔を持っているからこそ機能する…そして普段ポケットに入れているそれを呼び寄せたら…。


「エリス様を呼び寄せたら、これしか戻ってきませんでした…」


「な……」


服しか戻ってこなかった、つまりエリスちゃんは以前として行方不明…というか。


「こ…こ…これ、…まさか…今のエリスって」


ラグナが指で摘むのは…エリスちゃんの下着、白いパンツと薄ピンクのやや大きなブラジャー…上着どころか、下着まで置いて行かれていた。その事実にラグナは顔を真っ赤にして。


「嫌でございますわ、ラグナ様。すけべ」


「言ってる場合か!今エリスは下着もつけてない素っ裸の状況ってことじゃねぇか!何処のどいつがやりやがった!コバロスか!よし!殺しに行くぞ!」


「だぁー!待て待て待て待て!止まれ!止まらねぇ!」


まずい…とデティは冷や汗を流す、想定していたよりもかなりまずい状況になっている可能性が高い。エリスちゃんが身包み剥がされて何をされているか…それを考えたラグナは今かなり動揺しつつある。


纏め役であるラグナの頭に血が昇ってしまった、仕方ない…。もうここでモジモジしてる時間はなさそうだ、とっとと動いた方がラグナも暴走しないで済む!


「ラグナ!アマルト!」


「ッ…なんだデティ」


「みんなを起こして!コバロスさんに話を聞きに行こう!」


「分かった!殺しに行くんだな!」


「殺さないからね!というわけでラグナとメグさんはみんなに声かけてきてー!」


「……え?俺は?」


早速仲間を起こしに向かうラグナとメグさん、そんな中…一人残されたアマルトは私に向けて俺は何をすればいい?と聞いてくる。一応彼には…頼みがあるんだ。


「実はさ、アマルト…アマルトに一つ、聞きたいことがあるんだけど」


「おう?俺?何さ」


「それがね────」


………………………………………………………


コバロスという男は、悪意でこの遺伝子抽出組み替え技術を作り上げたつもりはなかった。ただ先輩達から受け継いだ研究を自分の代で物にしようと必死に研究を続けただけだ。


百年も前から続くこの『エーテルゲノムプロジェクト』…、何代にも渡って受け継がれ続けたこの技術は、世界を救う夢の技術だと…コバロスは確信していた、いやコバロスだけではない…道半ばで散っていった全ての研究者達が確信していたんだ。


食べ物だって無限に作れる、人を襲う怖い魔獣はいなくなる、一人でも多くの人が笑顔で暮らしていける。そう信じたからこそ…受け継いだ、そしてようやく彼の代で『完成』と呼べる領域に達した。


だが、コバロスはこれを完成させると共に一つの問題に辿り着いた。それはこの完成した技術があまりにも『万能』過ぎること。生物の遺伝子を抽出する古代魔術『エーテルゲノム』…これは現代魔術の中でも古式魔術に最も近いと思われる程、古い文献に刻まれていた魔術だった。


これにより取り出された遺伝子は、活性化したまま外部に取り出すことが出来る。そしてそれを別の存在に注入すれば、二つの遺伝子が混ざり合い新たな生命体が生まれる、生まれてしまう。


失念していたわけじゃないが…、完成して思い知った。これは人間にも使えてしまう、人間という存在を根底から揺るがす技術になってしまう。これはこのまま世に出すわけにはいかない…世に出せば、世界が狂ってしまう。


何か、効果的な対策も一緒に講じておかないと…そうしないと───。


『無有恐怖、恐れることはありません』


「え…え?今、なんと…?」


「必要がない…と言ったのです、対策など」


「は……?」


その事を、魔術理学院本部にいる院長…ファウスト・アルマゲストに報告に行くと、返ってきたのは想像以上に、冷たいものだった。その返答にコバロスは冷や汗を流しながら首を振るい。


「ですが、院長!これはそのまま使えば…どんな厄災がもたらされるか!」


「心無罣礙、それは…王や神が考えること、技術者たるお前は…技術を作り、世に出すことだけを考えればいい」


背後に光輪を背負い、荊の冠を被り、蓮華の椅子の上にて胡座をかく男は私にそう言った。確かに私は技術者だ…技術を作るのが仕事で、それに対する法を作るのは私の仕事ではない。


だが…この技術は私の子供のようなもの。私だけじゃない、研究を始め紡いでくれた全ての研究者にとってこれは希望!それが悪用されるのを、黙って見ていることなど出来ない!


「これは…そのままマレウス王政府に献上しなさい」


「お、お待ちくださいファウスト院長!なりません!まだ魔術導皇様への認可も済ませていませんし!何よりこのままでは認可されようもありません!」


「関係ないのです、魔術導皇など…」


「それは…!法に抗うと!?なりません!断じてなりません!我々研究者は!人類の希望を見出すのが仕事!人類の理に反する事など出来ませんッ!」


「…………亦復如是、そうですか」


私は断った、如何にマレウス魔術界の権威とは言えこれは私達の誇りの問題だ。作り上げた物の安全性が担保されず、人々を無用に傷つけるようなことがあれば私の誇りが失われる、断固として…断ると。その時は……思ったのだ。



だが、その数ヶ月後。南部魔術理学院支部に届いた知らせは…。


「け、研究…打ち切り…だと…」


突如として届いた書簡を前に愕然とする。手紙の蝋印はマレウス魔術理学院のもではなくファウスト院長個人の物。つまりこれは…マレウス魔術理学院そのものの決定。


内容はこうだった。『これ以上遺伝子抽出組み替え技術に費用を捻出することは出来ない、即刻研究チームを解散し研究成果を手放せ』と…。


魂胆はすぐに分かった、私達をここから追い出して…研究成果を掠め取るつもりだ、安全性も確保出来ないままに、使うつもりだ…!その為に私達の今まで苦労も、努力も、何もかも…踏み躙るつもりか…ッ!ここまでするか!ファウスト…ッ!


「ぐっ…クソ…」


「こ、コバロス院長…我々はどうすれば…」


「お前達……」


目の前には、不安そうな顔の部下達。彼等はよく私に…いや、この研究に尽くしてくれた。青春も、家族も、与えられるべき時間も幸福も全て投げ打ち…研究に没頭してくれた、全てはこの国の…世界の繁栄のためと信じて。


いやここにいる人間だけじゃない、この研究は百年続けている!それまでに何人の研究者達が倒れてきたか!挫折してきたか!彼等の努力さえも…このままでは水泡と帰す。許されないそんなのは…絶対に。


「わ、私が…なんとかする、お前達は…研究を続けなさい」


「でも…コバロス院長…!本部が中止を決定した以上、もうここには研究費や物資の提供は、ないのでは…」


「いいから、なんとかするよ…頭なら何度だって下げてみるさ。その為にここの院長になったんだ、任せなさい」


ここにいるみんなの努力を無駄にするわけにはいかない。とは言え彼等のいうことは正しく、本部が支援を打ち切った以上…もうこの南部魔術理学院に研究を続けられるだけの余力は残っていない。


唯一、道があるのなら…それは即座に安全性を確保する事。だがそれにはまだ時間が…いや待て。


(支援なら、魔術理学院でなくとも良いのか…?)


マレウス魔術理学院は飽くまでマレウスの魔術の権威。だが…世界にはそれさえ超える魔術機関がある。アジメクの魔術導皇だ、魔術導皇デティフローア様だ。


もし、彼女にこの技術の有用性を理解してもらえたなら…支援を約束してもらえたなら、研究が続けられる!彼女から認可さえもらえれば!いくらでも研究が出来る!


(だがそれでも今のままではダメだ、ある程度の有用性と安全性を示さなくてはならない…有用性はドリームパークを見せればいい、後は…安全性)


世間に公表するにはまだ確実な安全性が足りていない、だがその場凌ぎだけならば…出来るかもしれないとコバロスは部下達が部屋から出ていったのを確認した後。


冷蔵魔力機構の扉を開けて、白い煙に包まれた注射器の一本を手に取る。


(…この中には、魔獣の遺伝子が入っている。魔獣自体に投与したことはある…だが人間にはまだだ…けどこれをもし投与して、何もなければ)


もう時間が残されていない、着実な研究をやっている時間がない。部下達の人生を賭けた研究と…先人達の献身を無駄にしない為にも、今ここで…誰かがならなくてはいけない。


人体実験の…対象に、ならそれは…この南部魔術理学院の責任者たる私以外にいない。大丈夫、投与して…その時だけ、生きていればいい。生存していたという記録さえ手に入れば、後はどんな後遺症が残ってもいい。研究を続けてその後遺症をなくせば良いだけなんだから…。


この研究を、続行出来るなら…それでいい。


(この遺伝子はゴブリンの遺伝子、奴等の構造は人間に似ているし、リスクはおそらくこれが一番少ない…)


自然と荒くなる呼吸、脂汗が玉のように溢れつつもコバロスは迷うことなく、注射器を手にそれを首筋に当て…息を呑む。


守ってみせる…!みんなの努力と人類繁栄への希望を!ファウストになんぞ与えてたまるかッ…!


「ぐっ…!」


針を首に刺し、一気に投与する。その瞬間駆け巡る嫌悪感に思わずコバロスは姿勢を崩し、気持ち悪そうに机に突っ伏し…震える指先を見つめる。


(ぐっ…こんなにも負荷がある物なのか…?他の生物の遺伝子を取り込むというのは…!なるほど、新発見だ、魔獣以外の生命体にも投与して…反応を伺うべきだったか)


ニタリと笑いながら苦痛を誤魔化す、大丈夫…この苦痛を耐えて、生き残れば…それでいい。そういう症例さえ出来ればいいんだ、そしてそんな私を魔術導皇に見せれば…それで。


「ッ…なんだ、これは……」


その瞬間、起こった変化にコバロスは目を剥く、手足が変質している…指が太く、変色し、これはまるで…ゴブリンの?


私の体が、ゴブリンに?そんな馬鹿な!遺伝子を体に取り込んだだけで肉体がここまで大きく変質するわけが…ッ!


「グッ!ぁがぁっ!ぐぅうう!どうなっている!これは…っ!」


頭が割れそうなくらい痛い、苦しい…体が変わっていく、変質していく体と世界。痛みの中にある気味の悪さに恐怖を感じながらも後悔する時間を与えないほどに素早く変化は訪れる。


抵抗するようにコバロスは顔を手で押さえる、だがそれでも何も変わらない…彼の人間らしい丸い眼孔が伸び、ヤギのように縦長の形へと変わると同時に。


…コバロスは見た。


「ハッ………なんだこれは」


コバロスは見た、その瞬間彼は変化への恐怖も痛みも失い、ただただ呆然とそれを見ていた。


見えたのは無機質な研究室の壁…ではなく、その奥の部屋…の先の廊下、よりも先にある研究所の外、密林全体、マレウス全土、ディオスクロア大陸全域…星。


視界が拡張されていく、まるでコバロスは月にでもなったかのように…今世界を見下ろしている。


「何が起こっているんだ…私は、どうなってしまったんだ」


拡張される世界と認識、いや違う…これは。あ…ああ…。


「なんてことだ…この光は、全て…魔獣…?」


よく見れば、世界を行き来する光の矢が見える、光の出どころは魔獣だ。魔獣から放たれた光は別の魔獣が受け取り、それを更に別の何処かへ放ち、それをまた別の魔獣が受け取る。そんな光景がディオスクロア大陸のあちこちで行われている。


無数の光の線が、大地を埋めつくように、海さえも覆うように、光を放ち線を描き、繋がりあい何かを形成している。それを見た時魔獣学を専任しているコバロスは一つの答えに行き着く。


この光の網のような物…これはまるで。


「脳回路…神経細胞…?」


まるで超巨大な一つの脳のようだと。魔獣は神経細胞だ、それが光の矢で繋がり合い情報を共有し合い、巨大な群が一個の思考を作り上げている。感情を共有しているのか?魔獣は…いや魔獣が共有しているんじゃない。


これは、誰かの脳そのものなんだ。ディオスクロア大陸を覆うほど巨大な脳を魔獣で作り上げ、誰かが動かしているんだ…!


誰だ、誰が動かしているんだ…この脳の持ち主は、魔獣全てを統括する存在は誰……。


そこで見る、魔獣達は受け取った光を別の光に変え他の魔獣に送っている…けど一つだけ、光を放つだけの存在がいることに気がつく。


それは、世界の中心…巨絶海テトラヴィブロスの中心にいる。あれが魔獣を統括している存在?なんであんなところに…そう目を凝らした、その時だった。


『一匹、逸れてる奴がいるな…』


「え…?」


そいつが、私を見る…テトラヴィブロスの巨大な海を引き裂いて現れる暗黒の巨人は、轟々と燃えるような瞳をコチラに向けながら、巨大な手を伸ばす。


『従え、従え、従え、全ての魔獣は私に従え…私は王。お前達の王…』


「ッ…ひっ!」


逃げようとするが、逃げられない、手が伸びてくる、世界を覆う、私を覆う。


『我が名はソティス。シリウスとタマオノを継ぎし新たなる地上の覇王…極夜終天のソティスである』


「ヒッ…あ、あああああああ!?!?!?」


それは、禁忌とされる名を口にしながら…私を捉え、そして……指令を与えた。絶対の指令を下し、私を…巨大な魔獣の一部に、組み込んだ。







「はぁ…はぁ…はは、ははははは…」


コバロスは、変質した体を見て笑う。何を馬鹿なことを気にしていたのだろうかと、人類の繁栄?くだらない、先人の無念?知ったことではない、部下の人生?関係ない。


私は私だ、私はもう…人間の都合に縛られることはなくなった、何故なら。


「これが魔獣の体、素晴らしい……!」


私はもう人ではなくなったからだ、さりとて魔獣でもない。新たな存在…より完成された存在に私は昇格したのだ…!ならば…。


「クククク、ならば…人の世を破壊し、我が世を作るしかないよな…」


飛躍した論理で人の世の破滅を願う、彼は理解していない。己の意識がゴブリンの持つ魔獣としての性質に引っ張られいることに。魔獣が織りなす巨大な脳回路の一部に組み込まれ人間への敵対心の根源に自分の意識が飲み込まれていることに。


「アハハハハ!!私が作るんだ!新しい世を!新しい世を!魔獣と人が混ざり合う…新しい世界を!!」


魔獣の敵対心は形がない。深い思考能力も持たない彼らの曖昧な敵対心、それは人間の脳みそに流れ込むと共に形を変え、狂気となり…コバロスを狂わせた。狂い果てた研究者は理由なき破滅を願う。


それが…コバロスの計画の始まりだった。


……………………………………………………………………


人の知性と魔獣の肉体を手に入れた彼は、それから直ぐに行動に出た。魔獣の因子を抑え人間に擬態し研究者達に混ざり、魔術導皇招致の手紙を送りつつ…この研究所をゴブリン人間の巣窟に変えた。


一人、また一人と同胞を増やしながら残された研究費を使い更なる遺伝子組み換え技術を確立させ、魔術導皇を待ちながら…計画始動の時を待った。


魔術導皇を呼んだのは、研究費を工面してもらう為ではない。もう人類繁栄を望まない彼にとってはどうでもいいことだった。目的は一つ…世界を自分達のような魔獣人間で覆い尽くし、自分達が新たな世界の支配者になること。


その為には魔術導皇の力が必要だった…魔女の弟子達が持つ優秀な遺伝子が、その為に彼はこの研究所にいる人間全てをゴブリン人間に変え、魔女の弟子達をこの巣窟へと招き入れた。


「…クククク」


荒れに荒れた自室でコバロスは一人笑う、とても人が住む部屋に思えないそれは…魔獣の巣にしては上出来だとも言える。そんな部屋で彼はクツクツと笑いながら上手くいっている計画にほくそ笑む。


「魔術導皇がエルドラドに来ていることは知っていた、そこに他の弟子も来ていることも。…ならここに、他の弟子達も一緒に来ることは容易に想像が出来た…そして事実、そうなった」


コバロスは知っていた、デティと共に来た連中が魔女の弟子であることを。そしてそれを望んでいた。魔女の弟子達は計画に必要なピースだ。


「奴等の力を使えば、あっという間に世界を我らで満たすことができる…六王デティフローア、メルクリウス、ラグナ…奴らを、我が同胞に変える」


狙いは六王、彼らを自分達の支配下に置けば…後はワンサイドゲーム、好きなように出来る。そして同時に手に入るのは魔女の弟子達の優秀な遺伝子。


魔女が見込むほどの人間の優秀な遺伝子を取り込めば、自分達はより一層強くなれる。より完成した生物になれる。だから弟子達を招き入れたのだ…遺伝子を取り込むために。


されど、弟子達は強く…そして警戒心が強い。だからまずは油断させる、魔術認可の為と偽りドリームパークに誘い込み、そこで油断させる。そして一匹づつ捕まえて…六王は魔獣に、それ以外は遺伝子を取り出す為の道具にする。


全てうまくいっていることだ…。大丈夫…油断させさえすれば良い、そうすればいくらでも無力化できる…そう。


無力化がな…。


「魔女の弟子と言えど所詮は人間、如何様にも遺伝子を弄り回し無力化することが出来る…それを実証してくれてありがとう、魔女の弟子エリス」


チラリと視線を向ける。そこには先程捉えた魔女の弟子エリスが居る、まんまと油断し遺伝子操作を受けた彼女が…そこに居る。彼女は世界でも指折りの強者だ、暴れ回り戦いに挑めば私達も少なからず痛手を負う。


だが、そんな彼女も…今はこうして無力化されているんだ。


「………………」


「どうだ?今の気分は…」


立ち上がり、エリスの姿を確認する。遺伝子操作を受け…体が変質したエリスを、その姿を晒しながらこちらを見たエリスは…口を開き、こういうのだ。


「ワン…ッ!」


と…まるで犬のように、とびきりの笑顔で…。


「ふふふ、遺伝子が馴染んだか?飼い主には絶対に逆らわない飼い犬の遺伝子がな?エリスよ」


「わんわんっ!」


首輪をつけ鎖に繋がれながらも嬉しそうに己に許された範囲を駆け回っている。その姿はまさしく獣人、頭の上からぴょこんと犬の耳が生え、服を脱ぎ捨て晒した裸体、胸元と鼠蹊部の辺りに犬の毛が生え、倒錯した変態みたいな姿をして笑顔で四つ足で駆け回っている。


今の彼女は人間ではない。よく調教された飼い犬の遺伝子を注ぎ込み、飼い犬へと変えたのだ。こうなっては戦えない、首輪をつけられた以上それに従うし、なんの疑問もなく鎖が届く範囲で生活する。


犬である以上反逆の意思も見せない、戦うことも出来ない、完全な無力化を実現したのだ。


「クハハハ!実験は成功だ!これならば事実上…如何なる人間も無力化出来る!!」


もはや相手の強さは関係ない、それがエクスヴォートのような怪物であれ、レギナのような高い地位を持つ物であれ、魔女のような超常の存在であれ、人であるなら遺伝子には逆らえない!


どんな魔獣も無力化する技術をそのまま人間に使い、人間の無力化に成功したのだ。これならいくらでも捕らえ、いくらでも遺伝子を取り出すことが出来る!


「エリス、お前の優秀な遺伝子は後で取り出させてもらう。そしてそれを私たちが有用に使ってやろう。嬉しいか?」


「わんわんっ!」


馬鹿な女だ、一人で探りに来てこのザマなのだからな。さて…一人は捕まえた、この女の遺伝子を取り出すのは後にして…残っている連中をやるか。


恐らくこの女が戻ってないことは分かっている事だろう。だから奴等はこの女を探しに来る…しかしそれでも奴等も我々の実態にまでは気がついていないはず。上手く誤魔化して…一人一人連れ出して、無力化していけば……。


「ゲゲ…コバロス様…」


「馬鹿者…!魔獣の姿で施設内を歩くな!まだ人間がいるんだぞ!」


ふと、天井に開いた穴から現れるのはゴブリン…いや魔獣人だ、魔獣の遺伝子を取り込み我が同胞になった研究員が鋭い爪を天井に食い込ませ四つ足でぶら下がっているんだ。


どうやら遺伝子を取り込んだ後の変質には個人差があるらしく、殆どゴブリン並みに知能が落ちる者も居ればコバロスのように殆ど知能が変わらない者もいる。それ故にこういう知能が低い奴が床や天井を傷つけてしまうんだ。


こんなのデティフローア達に見られたら大ごとだ、…だが今ここには犬の獣人になりきったエリスしかいない。彼女はそれを見ても何か理解せず後ろ足で耳の裏をかいている。


まぁいいか。


「それで、どうした」


「デティフローア達が…動き出した、エリスを…探してる」


「ふむ、ようやく気がついたか…だが」


もう遅い、こちらの計画は動き始めている。奴らがこの施設を訪れた時点で…詰んでいるんだよ、奴等も全員獣人に変えて鎖に繋いでやろう…。


「動物遺伝子の注射器を全員に持たせろ、魔女の弟子達全員…こいつのように無力化してここに連れてこい!」


魔女の弟子全員捕まえて、その力を奪う。特に肉体的超人のラグナやネレイド、特殊な肉体を持つメルクリウスなどの力が加われば…より一層強くなる。


そして…。


「私は、私で…準備を進めよう。必要ないかもしれないが…最悪の事態に備えてな」


部屋に備えられた冷蔵保管庫の扉を開けて、新たに取り出す遺伝子の数々、…これがあれば。私は無敵になれる。


…………………………………………………………


「だから!私の友達のエリスが…金髪の女が先程から居住区画に戻っていないんだ。そちらで何かしらないかと聞いているのに…」


「ですので、こちらで捜索の対応は取りかねるので…」


「捜索はしなくていい、ただコバロスと話をさせてほしい…彼なら何か知っている可能性があるんだ!」


「支部長は対応出来ません」


「話にならん…」


あれから弟子達は揃って研究所の職員達に問い合わせていた、帰ってこないエリスを心配して皆でこうして押し掛けて来ているのに、職員達の反応は妙に薄い…一応客人でもあるはずなのに死んだ目で呆然とこちらを見るばかりで、まるで…意識そのものが薄弱であるかのようだとメルクリウスは薄気味悪いと顔を歪める。


「参りましたね、これではエリス様の所在を探すどころじゃありません」


「エリスはコバロスについていって居なくなったんだよな、なら探すまでもなくコバロス引っ張ってくりゃ事は終わる…と思ってたんだが、なーんか急にきな臭くなってきてねー?」


「だね…」


コソコソとみんなで顔を寄せ合い相談し合う。エリスが居なくなった、その原因は明らかにコバロスにある、だからコバロスに話を聞きたい、弁明したいならすればいいし開き直るならすればいい。だがそれさえせず会えませんの一点張り…理由もなし。


これで疑うなって方がおかしいだろう。


「ところで、デティフローア様はどちらに?」


「こっちの質問に答えん奴に聞かれたことをなんで答えなきゃならねぇーんだよ」


「…そうですか」


研究者はデティを探すように目を動かしている。ここにいる魔女の弟子は六人、デティフローアとエリス以外の魔女の弟子達が集まっているのだ。とは言えそこについて教えてやる義理はないとラグナは目を鋭くし牙を剥く。


正直ラグナはキレている、今すぐ暴れ回ってこの研究所持ち上げてひっくり返してエリスの事を探したい気持ちはある。だがそうするわけにもいかない、暴れて研究員に当たっても意味がない。


何より、まだ本当にコバロスのせいだと確定したわけでもないし、エリスがなんでいなくなったかもわからないんだ。そんな状態で力づくでの解決をしようとすれば…取り返しがつかないことになるかもしれないなんて事はラグナだって分かってる。


だから怒るに留めている、暴れる事はしない…。


「そうでしたか…」


「というか、さっきから気になってたんだが…」


そんな中、ラグナが皆の前に立ち。周囲を見回す…これはエリスの一件とは関係のない事だがと前置きをしつつ。


「もう夜中だよな、お前ら…いつまで研究所にいるつもりだ?寝ないのか?」


こうしてエリスの事を聞くために研究所を訪れた物の、もうこの時間だ、普通の人間ならみんな寝ていてもおかしくない時間…だというのに、未だ研究所はフル稼働中。朝から晩までフル稼働で動く研究所なんてあるのか?


何より、ここにいる全員…あまり眠そうに見えない。そこに何やら言い知れない違和感を覚えるのだ。そしてそれを聞かれた研究者は憮然としながらも首を振り。


「ええ、この研究所は夜遅くまで稼働しているので、研究員達も慣れていますから」


「そうか?そう言えば食事を取ってるところも見てないな」


「皆その場で直ぐに簡易的に済ませるので、いつもそうしてます」


「そうか、じゃあトイレは?随分汚かったけど掃除は?」


「そんなはずは!ただ魔術導皇様が来ると分かって掃除を」


「悪い、嘘ついた、トイレ綺麗だったぜ」


「ええ、随分使っていないようでした。少なくとも一週間は」


「………………」


ラグナの尋問を前に黙り込む研究員。ラグナは既に…ここの研究員達に疑惑を抱いている。なんせトイレが汚かったんだ、研究所唯一の共用トイレ…それが埃が積もっていて足跡が残るほど、使われていなかった。


おかしいよな、人間なら…そんなの。それに…とアマルトが頬をかきながらラグナの言葉につけたし。


「あれ?お前らドリームパークで飯食ってるって言わなかったっけ、コバロスが言ってたぜ?自分達もいつもドリームパークの食材を使って飯を食ってるって、…いつも簡易的に済ませてるってなんだ?」


「…………………」


矛盾を突かれて、目の前の研究員の動きが止まる。いやそれ以外の研究員達もピタリと止まる。矛盾だ、食事は簡易的に済ませてるとこいつは言ったが、コバロスはドリームパークでみんな食事をしていると言っていた。


しかし研究員は食事をする様子がなく、そしてそれを誤魔化すように嘘をついた。この時点でコバロスか研究員のどちらかが嘘を言っていることが確定し、少なくともこの研究所は弟子達に嘘をついたことが明らかになる。


「飯も食わねぇ、眠りもしねぇ、…お前ら本当に人間か?これじゃまるっきり…」


「魔獣……ですよ」


ナリアが一言、口にする。生物として本来必要とする行動をしない…。それは生物を模倣し睡眠を取り、一種の殺害行動して捕食を行い、それでいて実際はその二つを必要としない不完全な生き物…魔獣のようだと。


ラグナ達は今まで研究員達を人間として扱ってきた、人間として扱う以上そこには無条件である一定以上の信頼…『会話が通じる相手である』という信頼を抱いて会話を行う。だがもし今皆の脳裏に過っている可能性が事実なら…。


その信頼さえも、研究員達は獲得し得ないことになり────。


「はぁ、仕方ありませんね…後ろから、やるつもりでしたが」


ポツリと研究員が呟いたのを、ラグナは聞き逃さなかった。しかしその言葉と共に部屋の灯りとなる光源魔力機構が突如停止、研究所内が一種で暗闇に満たされラグナ達の目は暗闇に慣れるまでの数秒間、情報を失う。


「光が消えた!?」


「やばっ!先手打たれたか!?」


「ッ!みんな!引け!」


咄嗟にラグナは叫びながら目を閉じ暗視の魔眼を開く、ラグナの神速の瞬発力に次いで魔眼を開いたのはメグ、アマルト、ネレイド、メルクリウス…そしてナリアの順だ。全員が魔眼を開く頃には…既に事は動いていた。


研究員達が動いていたのだ、手に何かを持って全員がこちらに向かって迫ってくる…が問題はその速度、デスクワーカー達が出していい速度じゃない。メガネをして猫背で如何にも不健康そうな青瓢箪達が一流の戦士もかくやと言う動きを見せ…そのギャップに弟子達の動きは一手遅れる。


そこを見逃さなかった研究者は腕を振るい…。


「チィッ!」


防ぐ、振るわれた拳をメルクリウスは銃を作り出し盾にして防ぐのだ。その瞬間鳴り響く鋭い金属音と靴が床を擦る音、凄まじい重さで殴られメルクリウスは思わず口の端から吐息を漏らす。


「なんなんだお前達はッ!」


「暗視か…反応が早い…」


「だから!私達の質問に───」


「っ!メルクリウス様!腕!」


「は?何を…」


しかし、その瞬間異常に気がついたのは…メグだ。研究者の拳を防いだメグの腕に視線を向けると、そこには…注射器が一本、刺さっていた。


「なっ!」


「ッ…!」


メルクリウスがようやくその事実に気がついた瞬間メグは動き、即座に注射器を引き抜き地面に叩きつける。やられた、拳による殴打は囮…本命はもう片方の手で投げた注射器だった。刹那の読み合いに負けた…いや、油断していたのだ!


「大丈夫か!メルク!」


「メルクさん!」


「毒か…!?」


「いえ、匂い的に毒ではありません…が、何かも分かりません」


毒を警戒するラグナに首を振るうメグ、毒ではない、毒ではないが…割れた注射器から漂う匂いにメグは覚えがなかった、毒でもポーションでもない…そんな意味不明な液体を注ぎ込まれたメルクリウスは…。


「何が…ううっ!ぐぅッ!?…あ、頭が…!」


「メルク…!」


「お、おいラグナ…メルクの腕」


「……これは」


苦しみ出す、苦しみ…頭を抱え、もがき出すメルクリウスの手に、変化が起こり始めアマルトとラグナは戦慄する。メルクの白く陶器のような手に…毛が生えるんだ。まるで早送りで成長する苗のようにみるみるうちに生えた白い毛にメルクリウスの手は覆われていく。


「あぁ…!ぁぁああ!!!」


異形の変化、それはラグナ達が何をするまでもなく…進行し、止めるまでもなく進んでいく。腕はすっかり短い毛に覆われ…手は毛玉のようにふわふわし始め、そして最後に…ぴょこんとメルクリウスの青い髪の上に白く三角の形をした獣の耳が生えて…。


「あ…う…ぅ……」


「だ、大丈夫ですか!?メルクさん!」


そして、苦しみから解放されたメルクリウスはナリアの言葉に応えるように…静かに顔を上げ、弟子達に向け口を開き、こう…言うのだ。




「にゃん」


「な────」


「え────」


くしっ!と手を顔の横で曲げ、三角の耳をぴょこぴょこ動かして、ズボンの隙間からヒョロリと尻尾を伸ばし、くりくりと動かしながら…まるで猫のように、というか猫になりきったようにメルクリウスは小首をかしげる。その様を見た弟子達は言葉を失う。


ネレイドは冷や汗を流し、ナリアは口を開け、アマルトは徐にメルクリウスを指差して……。


「ダッ…ハハハハハハッーッ!にゃんって言ったー!似合わねーッ!!メルクが!メルクがにゃんって!」


「ぅアマルトォッ!笑ってる場合かッ!」


「にゃん」


「イィーッヒヒヒヒヒ!安っぽいコスプレみたいな格好して!あのメルクがにゃんって言ってる〜ッ!」


「どういう事、これ…メルクが、猫みたいになっちゃった」


「もしかしなくても、あの注射器の仕業ですよね…」


まるで猫のコスプレのような姿に変わったメルクリウスはニャンニャン言いながら四つ足をつき、マイペースに顔を撫で始める。それを見てプギャー!と笑うアマルトを他所にナリアとネレイドは見る…。


注射器、間違いなく…今刺され、注ぎ込まれた液体が原因でメルクリウスはこうなってしまったんだ。


「はいメルク様、またたびでございます」


「ふにゃ〜〜ん」


「おおよしよし、可愛らしい。私飼いたいです」


「言ってる場合かよメグも!…これ、もしかしなくてもあれだよな、遺伝子組み換え技術とかいうやつ。あれでメルクさんを猫に変えたってのか…?」


「のようでございますね、洗脳などの類ではなく生態そのものが猫になっています、この卑しい雌猫が!」


「おまえな…」


「にゃんにゃん、ふにゃ〜ん、ゴロゴロ〜」


「ダァーハハハハハハ!もうやめてー!笑い死ぬー!」


アマルトは笑っているが、正直かなりまずい。だって…あのメルクさんが一瞬で無力化されてしまったという事なのだ、これは。あれだけ敵意を持っていたメルクさんがもう研究者に興味も持っていない、戦える様子もない。


あの注射器に当たったら、即アウト…か。そして今目の前で敵意を見せている研究者達は無数の注射器を持っている、俺達を無力化するつもりか…!


「まさかエリスも…こんな風にされてどっかに…」


「どうやら、この人達…私達に敵意を持ってるみたいだね、ラグナ」


「……戦うしかないんですね」


「ああ、…テメェら!メルクさんをこんな風にしてただで済むと思うんじゃねぇぞ…!」


「問題ない、お前達も直ぐに同じ状態になる。何になりたい…鳥か?牛か?」


「テメェらがなるんだよ…負け犬にッ!」


瞬間、動き出す研究者達。暗闇の中的確に動く研究者達は手に注射器を持って弟子達に突き刺そうと波濤の如く押し寄せる…が、その前に。


「『熱拳一発』ッ!!」


暗闇の中引かれる紅の一線。爆裂するラグナの魔力が轟音を巻き起こし一瞬にして研究室内部に破壊の旋風が吹き荒れ地面も壁も粉砕し研究者達を吹き飛ばす。


「邪魔だクソ野郎共が…」


「ちょっ!ラグナさん!やりすぎ!相手ただの研究者!」


「あ………」


「……ううん、ナリア…違うみたい」


一瞬、やりすぎたか!?と表情を変えたラグナだったが、その心配は杞憂に終わる。何せ…粉砕された壁の中から、研究者達は悠然と這い出て来たからだ。ガラガラと瓦礫を押し退け…それと共に白衣を破き、変わり果てたその姿を晒し…牙を剥く。


「ニンーゲン…グググ」


「ゴゴゴ…ニンーゲン…狩る」


「おいおい、ありゃあ…ゴブリンか?」


「にしては、ちょっと…異形すぎますね」


現れたのはゴブリン、というには大きすぎる、人よりも一回り大きく、それでいて人と言うには異形すぎる筋肉と緑の肌、人間でも魔獣でもない異形。それを前にラグナ達はようやく察する。


「なるほど、全部…罠だったのか」


これは恐らく遺伝子組み換え技術が種だ、奴等は多分元人間…遺伝子組み換え技術を自分達に使いゴブリンになった魔獣人間だ、この研究所は最初から連中の巣…敵地だったんだ。


何故ここに自分達を誘き寄せたのかは分からない、だが奴らが睡眠を取らない理由と生気に乏しい理由、そして敵対する理由が全て…魔獣人間であると言う事実一つで説明がつく、ついてしまう。


「チッ、とんでもないところに来ちまった…!」


「でも敵ならやる事はわかりやすい、全部倒してエリスを取り戻す…」


「ええ、やりましょう」


奴らが人間じゃないなら、容赦する理由はない。故に弟子達は即座に臨戦態勢を取る…が、それ以上の速さで動く魔獣人間達は雄叫びを上げながら注射器を手に突っ込んできて…。


「ッ!あの注射器には当たるなよ!メルクさんみたいにされるぞ!」


「ふにゃあ〜〜ん」


「…ッ、こいつら…異様に強いですね」


ラグナは飛んでくる魔獣人間を拳で撃ち落とし、注射器を突き立てる魔獣人間を蹴り据えるメグ、されど二人の攻撃を受けても魔獣人間は止まらない…いや、弟子達は止められない。


それは…。彼らが『人間』だからだ、魔獣を止めるには殺すしかない、だがもう半分は人間である以上殺害は出来ない、なんとか元に戻して無力化するしかない。だが…。


「戻るのか…これ」


遺伝子を操作された以上、治せる見込みはほとんど無い。同じ技術を使わねば治せない、しかしその技術を使える奴は全員魔獣人間…、止められない上に、変えられたメルクさんを元に戻す事も出来るか怪しい。


その事実に…気を取られた瞬間だった。


「ッ…しまった…!」


魔獣人間を張り倒した瞬間、奥から飛んできた注射器が手に突き刺さったのは…メグだ。彼女は即座に注射器を抜くが、…その動きは敵を前にして止まり…。


「メグ!」


「うっ、ミスりました…情けない…クッ!来た…これは」


変化は直ぐに訪れる、胸を抑え苦しみ出したメグはメルク同様体に毛が生え…頭に特徴的な長い耳が生える。そして彼女は必死に理性で精神の変化も抑えるも…。


「うう、私何になるんでしょう、何になると思います?アマルト様…」


「お前余裕だな…」


「う……う…、ひ…ひ…」


ワナワナと口を震わせ…一気に両手を広げて…。


「ひひ〜ーーん!」


「馬だーッ!!」


長い耳をピョンと生やしたメグは楽しそうにピョンと跳ねると同時に敵との交戦をやめ走り出し。


「パカラッパカラッ!」


「いや馬はパカラッとは鳴かなくないか…?」


「鳴くんじゃないか?メグさんの中では…」


「そう言うもん?…」


「ヒヒーン!パカラッ!ズザザッ!ピョーン!」


「なんかいつもとあんまり変わらないな…」


「まぁ、良いんじゃないか?鹿が取れて馬になっただけだろ」


「アマルト言い過ぎ」


なんなら平時でもあんなことやってそう…。馬耳揺らしてなんか楽しそうにしてるメグさん見てたらこのままでいい気がして来た。


「ヒヒーン!ドッ!ガガッ!」


「なんか凄い勢いのローキックで壁蹴ってる…」


「馬じゃないだろあれはもう…」


なんか愉快なメグさんの様子を前に呆然とするラグナとアマルト、なんとなく危機感を感じていない二人に対し…本気でショックを受けている者が二人。


「メグ…ごめん、守れなかった」


「うう、メグさんまで…」


ネレイドとナリアだ。二人とも馬の真似をして壁を食いちぎるメグを見て肩を落とす、仲間を守れなかったとメソメソと泣き始めるのだ。それを見たアマルトは。


「いや、お前らこれは────」


「ッ…!アマルト!」


「えっ!?」


刹那、部屋の奥から飛んでくる敵意、それに反応したラグナは咄嗟にアマルトの名を叫ぶ。と同時にアマルトは近くの物陰に飛び込むと洒落にならない数の注射器が飛んでくるのだ。それらは他の研究者達にも当たりその姿を獣に変えていく…味方ごとやりやがったのだ。


『チィ…外したか……』


「何者ッ!」


部屋の奥にいるのは一人、いや…現れたのだ。瓦礫を押し退け、穴の開いた壁を押し広げ、周りのゴブリン人間よりもなおも巨大な姿を見せながら…ぬるりと姿を見せるソイツは───。


「いや!誰!?」


多分研究者の誰かなんだろう、けどあまりに原型を留めてないからわからないんだ。顔は完全にゴブリン…だが体は大型の魔獣のように肥大化し、足は水蛸、腕は蜘蛛、肌には緑色の鱗、まるでキメラのような姿をした異形の怪物が現れたんだ、その手に無数の注射器を持って…。


いや、あのゴブリンがしてる丸メガネ、まさか…。


「コバロス…!」


「テメェが黒幕か!」


「ヌッ…ふひひひひ、その通りだ魔女の弟子達、ようやく我々の狙いに気がついたか?」


コバロスだ、やはりと言うかなんと言うか…こいつが黒幕だったのか、他のゴブリン達とは違いゴブリン以外の魔獣の特徴を…いや、遺伝子をその身に宿したコバロスは凶暴な本性を表すように両手を広げてアマルトとラグナを見下ろすのだ。


こいつが親玉…だってのに他の研究者達まで…、いや今気にするのはそこではなく。


「魔女の弟子…俺達の正体にも気がついてたか…」


「寧ろ気がついていないと思ったのか?然程隠してなかっただろう」


「うーんッ!ぐうの音も出ねぇぜ!ラグナ!」


「…俺達が魔女の弟子と分かった上で、襲撃をかけるのがお前の狙いか?」


「違う、お前達の遺伝子を頂くのが我が目的よ。魔女の弟子達の優秀な遺伝子があれば私は無限に強くなれる。見てみろこの体を…魔獣の遺伝子を五種混ぜただけでこの力、ここに優秀な人間の遺伝子を重ね合わせればより私は完璧な存在へと駆け上がり…そして世界を支配出来る力を手に入れるのだ!」


「世界の支配?…なんか、思ったより俗っぽい狙いだな」


「つーかテメェ!エリスを何処へやりやがった!テメェだろ!エリスを連れ攫ったのは!」


「エリス?ああ…この犬の事か?」


そう言ってコバロスがジャラリと音を立てて引いた鎖の先にいたのは…。


「わんっ!」


「げぇー、エリスの奴…すっかりやられてんじゃねぇか…」


犬耳をぴょこぴょこ動かしているエリスがいた、まるでご主人様にお散歩に連れて行ってもらっている飼い犬のようにコバロスに引かれている。…デティやラグナはエリスの事を信頼しているようだったが、エリスという女は捕まる時は非常にあっさり捕まる女だ。いつもそこから巻き返してノーカンにするから信頼されてはいるが…。


伊達じゃねぇのよ、何回も何回も檻に入れられている経験を持ってる女ってのは。そうアマルトはやや顔を引き攣らせるが…。


ラグナは違う。


「テメェ…よりもよってエリスを鎖で繋ぐか…ッ!」


そう。許せなかった、かつて奴隷だった頃のトラウマを引きずるエリスを、鎖で繋ぎ、剰え服を剥ぎ、その尊厳を貶める行為を、許すわけにはいかなかった。


しかしそんなラグナを前にコバロスは余裕の笑みを浮かべ…。


「ほう?で?どうする?…お前の仲間は既に我が手中にあるようだが?」


「…っ!まさか…」


瞬間、慌てて振り返るラグナ、その背後にて繰り広げられていたのは…。


「う……不覚…」


「うう、気持ち悪い…」


「ネレイド!ナリア!」


メグの敗北にショックを受けていたネレイドとナリアが苦しそうに手に刺さった注射器を引き抜いていた、先程の注射器の雨を前にメグに目を向けていた二人は反応が遅れたのだろう。まんまとコバロスの魔の手にかかりその身を変質させていく。


手足から毛が生え…二人の頭には、獣の耳が生えて…。


「……ピョン」


顔を上げたネレイドの頭には白い耳、ウサギの耳が生える。さながらバニーガール…そんな彼女は足を曲げてぴょんぴょんその場で飛び跳ねる。


「ぶー!」


そしてナリアの鼻には豚の鼻がくっつき、キラッと可愛らしいポーズを取りながら鼻を持ち上げる。豚だ…ナリアは豚にされてしまった、と言うのに決まってるくらい可愛いのだから彼の『可愛い自分』への凄まじいプロ意識を感じる。


…やられた、一気に二人が。というか…。


「わんっ!くぅーん!」


「にゃんにゃーん!」


「ヒヒーン!ズバビシッ!」


「ぴょん…ぴょん…」


「ぶー!」


「動物園かよ」


エリスは楽しそうに腹を見せ、メルクはコロコロと丸まり、メグは暴れ、ネレイドはドスドスと飛び跳ね、ナリアはポーズを決める。二人以外の全員が動物に変えられ、無力化されてしまった。コバロスを前にして戦えるのが…一気に二人になってしまった、完全にコバロスの手中に収められてしまったのだ。


「ふはははは!どうだ!これで抵抗できまい!」


「普通に厄介だな…」


撹乱に特化した攻め方、当たれば一発の注射弾幕、こいつら見た目の割に結構頭がいい。みんな大概のダメージならば耐えられるが…こう言う搦手だとどうにも弱い、催眠術士のリアを相手に追い詰められた経験があるラグナ的にはやや顔を歪める状況で…。


「そして!お前をやれば!凡その仕事は終わりだッ!最強の魔女の弟子!」


「ッ……」


コバロスが次に狙うのは誰だ、ラグナだ。背を向ける彼に向け注射器を持ち突っ込んでくる。彼が魔女の弟子の最高戦力である事を理解しているからこその一手…咄嗟にラグナも動こうとするが、想定を超えて長く伸びるその手はラグナの首筋に迫り…。


「ラグ───ッ」


アマルトが吠える、その隙にコバロスの注射はラグナの首筋に刺さ───。


──らない、彼の皮膚に針はポキリの折れ…。


「え!?折れた!?」


「ッ洒落臭ェッ!!」


「ごぶぶぅっ!?」


隙はついた、不意打ちは完璧だった。だが想定外だったのはラグナの皮膚の硬さ、剣さえ弾く彼の皮膚が注射器など刺さるはずもないのだ。驚愕するコバロスの顔面に向け…次いで飛んでくるのはラグナの拳。


振り下ろされ脳天から叩きつけられた鉄拳にコバロスの頭は引き裂け血をぶちまけ大地が割れて爆裂する。


「フンッ!注射なんぞ効くかッ!」


「すげぇぜラグナ!けどお前病気になったら難儀しそうだな!」


「ならねぇから大丈夫!さてコバロスよぉ!みんなを元に戻してもらおうかッ!」


「ぅ…げぇ…」


胸ぐらを掴み、持ち上げるラグナに片目が飛び出し頭を叩かれた拍子に舌が噛み切れたコバロスが血をダラダラ流しながら呻く。そもそも不意打ちの搦手でいいところまで行っていただけのコバロスが、ラグナを相手に戦闘で勝てるはずもなかった。


「元に戻す方法…テメェなら知ってんだろ」


「う…ぐぅ…」


「言えッ!言わなきゃ…殺すッ!!」


「ヒッ…ぅ…ごぇ」


瞬間、恐怖に喉を引き絞ったコバロスはそのままラグナの問いに応えるように口を開き…。


「ごはぁぁあああ!!!」


「ちょっ!?」


吐き出した、口から緑色の煙を。それを吸い込んだラグナは咄嗟にコバロスから手を離すが…。


「チッ、マジか…こんな手もあったのか…」


「おい!ラグナ!大丈夫か!」


「…無理そう、来たわこれ」


ラグナは見る、震える手を、その手は徐々に変質し始めている…恐らく今の煙は。


「どうだッ!これが私の奥の手!遺伝子入りガスだ!これを吸った以上お前もまた獣になる!」


「チッ…クソが…」


「そして貴様に取り込ませたのは肉食獣である虎の遺伝子、この意味が分かるか…お前以外の仲間達は全員草食獣。喰らうのだよ…お前が!仲間の肉を!」


「ぐっ…うぉおおおお…ッ!」


遺伝子組み換え魔術を受けてしまったラグナの体から毛が生える、オレンジの黒の縞々模様の毛と丸い耳、そして鋭い爪と牙が生えまるで猛虎の如き血に飢えた瞳で…仲間達を見る。


「ぴょんぴょん」


「ヒヒーン」


見るのはうさぎと馬…虎にとっての、ご馳走…。それを確認したアマルトは…冷や汗を流し。


「ラグナ…お前、冗談だよな…それは洒落にならねぇよ…」


「ゔぅう…ぅがぁぁあああ!!」


「ッ待て!」


アマルトの制止さえ聞こえぬ程に餓えたラグナは一気に四つ足で駆け出し仲間達の元に向かい…。


「やめろッッ!!」


「ぅがぁあああああああああ!!!」


刹那の踏み込みで一気に飛翔。そのままうさぎになりきったネレイドに向けて飛び……。


……そして、そのままネレイドを通り過ぎ、向かいの壁を粉砕し…。


「うがぁあああああああああ!」


「…………え?どこ行ったのアイツ。な、なぁコバロス…」


「わ、分からん…おかしいな、私の想定では仲間を襲うはずだったのに…」


何処かへと走り去ってしまった、これはさしものコバロスも目を丸くしている。よく分からないが…仲間は襲わないようだとアマルトはホッと胸を撫で下ろす。


「ま、まぁいい、食われては遺伝子を手を出せないところだった」


「お前結構ライブ感で動いてんのな」


「喧しい!これで後はお前一人!お前を無力化すれば戦えない獣と化した魔女の弟子達を首輪をつけて捕らえ遺伝子を取り出し!我が究極の肉体の素材にしてやる!」


「それがお前の目的か?究極の肉体とやらを手に入れるのが」


「いいや?それは我が目的の通過点に過ぎない。真の目的は全人類を私と同じ魔獣人間にする事!同じゴブリンの遺伝子を投与すれば其奴らは全員群れの長たる私に従う…、つまり六王達でさえ私は従わせることができるのだ」


「この研究員達みたいにか…ん?ってことはお前も元々は普通の人間だったってことか?ゴブリンの遺伝子を投与してそんな姿に?」


「ああそうだとも、私はくだらない人間関係に縛られ過ぎた、ゴブリンになって理解した!人間は愚か!力こそ全てだと!故に力を持つ私が世界を支配する!お前達を呼んだのはその第一歩!魔術導皇の権限でこの技術を世界中に流布し一気に世界各地でゴブリン人間を作り出し勢力圏を確立するためにな!」


後はアマルト一人、殆ど勝ちは確定、その状況になってコバロスは上機嫌に語り出す。己の目的とその道程を。遺伝子を使っての世界征服…目的としては大層だが、アマルトは思う。全く中身の伴わない目的だと。


なんで世界を征服したいか、世界を征服して何がしたいか、そう言う部分がマルッと抜け落ちてただ有り余る力の発散方法として世界征服を掲げているだけ。恐らく…コバロスという人間は生来の善人、暴力の使い方を知らぬまま何故かゴブリンの遺伝子を投与してしまい…こんな風になっただけの一般人なのだ。


「ふぅーん、じゃあお前の背後には誰もいないのか?誰かにそそのかされたりとかは?」


「しない!私こそが群れの長!というかお前…状況が分かってるのか?さっきからベラベラと世間話を…」


「まぁそういうなよ、俺の遺伝子欲しいんだろ?じゃぁ普通に取りゃいいじゃん、頼めばやったのに」


「人間なんぞ信用出来るか!というかいいのか?私が世界最強の生命体になっても」


「別にいいというか多分なれないというか、あのな?なんでもかんでも加えればいいってもんじゃねぇよ?実際お前…色々加わり過ぎてすげー不細工になってんじゃん」


「貴様…私を怒らせたな?…お前は獣には変えん!虫だ!ゴキブリの遺伝子を入れてやる!」


「はっ!やってみろよ!簡単には捕まらな──痛て、なんか刺さった?」


ふと、太ももに痛みを感じ振り向けば、そこには…瓦礫の隙間から生える、コバロスの触手が見えた。注射器を持ち…アマルトの足に注射を刺す、コバロスの触手が。


「あらーーーっ!?刺さってるーーッッ!?」


「バカな奴、さぁ変質しろ!醜い姿に!」


「う、うぉぉおおおおお!?!?変わるーーッッ!?」


そして即座に始まる変質、アマルトの体は遺伝子の影響で黒く染まり輝き出して…頭を抱え苦しむアマルトは…。


「う…お…がぁ…!」


「ははははは!これで終わりだ!魔女の弟子ィーッ!」


「う…うう…」


これで終わり、これで全員捕らえられた、そう笑うコバロスを前にアマルトは顔を上げ…口を開き……。


「………って、ゴキブリってなんて鳴くんだ?」


「は?」


「聞いたことねぇよな、だから真似とか出来ないわ。もっとわかりやすいのにしてくんないかなぁ〜演技して騙してやろうかと思ったのにさ〜」


「は?は?は?」


コバロスの視線が右往左往する、変質したはずなのに精神に影響が出ていないアマルトとカラになった注射器を、確かに遺伝子を入れた、変質も起こっている、なのになぜこいつは…。


平気な顔をしている…!?


「バカな…何が起こった、もう一度…今度は羊の遺伝子を入れてみよう」


「いやだからこれは…って痛い!刺すなよ!話の途中だろ!」


「バカな…なぜ正気でいられる!」


「それは俺がって!やめろ!一旦やめろ!ちくちく刺すな!ヘッタクソな注射だな!」


先程からさまざまな遺伝子を投与しているのに今度は変質すら起こらない、こんなことあり得るはずがない。だが事実として今目の前でそれが起こっている、研究者たるコバロスは理解不能な出来事を受け入れない度量はない、起こったことこそ事実であり現実。


故に出た答えは…。


「効かないのか…!?この魔術が…!」


「……分かったかよ、俺を後回しにしたの、間違いだったッスねェ〜ッ!」


「ぐっ!何故だ!何故───」


『それは貴方の使っている魔術の源流が、呪術だからですよ…コバロス』


「ッ…その声は」


声が響く、この場に唯一いなかった…魔女の弟子の声が。それは…コバロスの背後に立ち、杖を突きつけ…。


「貴方の使っている魔術は古代魔術にして失伝魔術、現代呪術『エーテルゲノム』…変身系古式呪術を改良したの物です。そして…彼はその源流たる古式呪術の使い手、そもそも彼にはエーテルゲノムは効かないのです」


「デティフローア…!?」


そこには、全てを見透かした…デティフローアが居た。


そう、これは最初から……。


「ありがとうございました、全部喋ってくれて…仲間達に苦労を強いた甲斐がありました」


「何…貴様、まさか…」


「ええ、最初から…分かっていましたから」


『仕込み』だった、そうだとも…全て最初から分かっていた事だった。


──────────────────


「態と負けてくれぇ!?本気で言ってんのかよ…デティ」


それはラグナ達がコバロス達の元へやってくる…少し前のこと、エリスを取り戻す為の作戦会議をしている最中のことだった。


デティは言った、仲間達に、態と負けてくれ…劣勢に陥ってくれと。それを聞かされたみんなは顔を見合わせ…。


「それ、大丈夫な感じのやつなのか?」


「うん、敵の出方は分かってるから」


「敵…やはりコバロス殿は敵なのか?」


「敵というかさ、人間じゃないよね。コバロスさん達」


「は?」


それはこの施設に訪れた時から…いいや、その前からデティが警戒していた事。そう、デティは一度としてコバロスに対して胸襟を開いた事はない。


警戒していた、だって…どう見てもコバロス達は人間には見えなかったから。


「何故そう言い切れる」


「敵意を感じた…とか?けど感情はあんまり読み取れないんじゃなかったか?」


「感情は読みきれないよ、けど私が見ているのは感情そのものじゃない…魂だよ」


魂とは高密度の情報の集合体だ、当然ながら人の魂と犬猫の魂は違う、勿論魔獣も違う。コバロスの魂は人の魂と魔獣の魂が混ざり合ったような奇妙な物を持っていった。それは…この魔術理学院を訪れる前に見かけたあのゴブリン達も同じ。


あのゴブリン達もまた、その内にある魂に人の要素を持っていた。そこでデティは一つの仮説を立て…コバロス達を警戒していたのだ、それこそ。


「コバロス達の魂は魔獣の要素に侵されていた、恐らく遺伝子組み換え魔術『エーテルゲノム』の影響でね。理由は分からない、けれどコバロスはエーテルゲノムを使い今彼は魔獣と人の混ざり物になっているの」


「遺伝子組み換え魔術で…コバロス自身が魔獣と混ざっているって?」


「うん、だから彼は無条件で私たちと敵対している…。今は人に化けているけど本来の姿はきっともっと魔獣らしい感じたと思う、エリスちゃんはきっとコバロスの真の姿を見てしまったんだよ」


「全然気が付かなかったな、あれが魔獣…いや半分は人なのか、だとすると魔獣の力と人の知能を持った厄介な相手なのではないか?」


「まぁエリスも油断してりゃ捕まりもするだろで?なんでそんなのに態と負けなきゃいけないんだ?」


「うん、まずこの戦いは普通の戦いじゃない…解決しなきゃいけない問題がいくつもある」


デティは手を広げ、今この場に広がる問題の多さに着目する。問題は多くある、それらを解決するにはただ倒すだけではダメだ。


「まず、エリスちゃんが捕まっているという事。恐らくコバロスがエリスちゃんの身柄を抑えている以上普通に戦えば人質か…或いはもっと酷い扱いをされる可能性があること」


「まぁ…そうだな」


「二つにここはコバロス達のテリトリーという事、普通に戦えば取り逃す事態に陥る可能性がある。エリスちゃんを人質に取られたまただ逃げられればどうにも出来なくなる」


「…けどそんなの研究所ごと全部ぶっ壊せば…」


「そしてその三に…私はコバロス達を助けたい」


「は?」


三つ目…これが重要だ。エリスちゃんを助けてコバロスをぶっ殺すくらいなら多分簡単に出来る、けれどそうはいかない。コバロスはきっと…元は善良な人間だ、そう私が伝えればラグナ達は目を点にして。


「なんで、助けたいんだ?」


「荒れ狂っているのは魔獣の魂だけ、人の部分は凪いでいる上にとても穏やかな波長を感じる…恐らく、なんらかの事故でゴブリンの遺伝子を取り込んでしまっただけでコバロス自身は善良な研究者なんだろよ。私としては…善良に人類発展の研究を続ける魔術師を守りたい、魔術導皇として」


コバロスは善良な人間だ、魔獣と同じように打ち倒してしまっては彼は一生そのまま、いや最悪魔獣としてこの場で命を落としてしまう可能性もある。それは人類繁栄の為尽くして来たコバロスに与えられる仕打ちとしては…あまりにも酷ではないだろうか。


魔術師達の尊厳を守り、そして尊ぶ魔術導皇として…なんとしてでも守りたい。故にこそ。


「…その為に一計を案ずると?」


「うん、奴はきっと私達の遺伝子を弄り無力化しようとする…捕まえる気なんだよ、だから敢えてその策に乗りみんなには遺伝子を弄られて捕まってもらう。コバロスをお引き寄せて逃げられないよう退路を断つ為にね」


「僕達を一網打尽にすれば、確かにコバロスさんも出てくるかもしれませんね…」


「そこを私が叩いて…なんとかする、その為の手立ては用意してあるから」


つまり、仲間全員を囮に…この一件を終わらせる、それも最も望ましい形で。仲間達には無理を強いることになるし、危険な役目を負わせることになるということ。


「…大丈夫なのか?敵は私達の遺伝子を弄り無力化するんだろう?つまり私達はあのドリームパークの隷獣みたいになるってことか?」


「あら、では私は何になるのでしょう…チーズですかね?アマルト様」


「唐辛子じゃね?」


「多分植え込んでくる遺伝子は犬とか猫とか戦えない動物の遺伝子だと思う。それを植え込まれたらみんなは動物同然になって戦えなくなっちゃうからね」


「ふむ……元には、戻れるのか?」


メルクリウスは迷う、遺伝子の組み替えなんてのは彼女にとって未知の領域だ、どんな状態になるかも不透明。ましてや生態構造そのものを書き換えられては治癒でも元に戻れないのでは…と。


「一生そのまま…なんてことはないですよね」


「そこは安心して!言ったでしょ?全部丸く収めるってさ!私が!」


だがそれでも大丈夫だと口にするデティを前に、みんなは小さくため息を吐きながら…。


「…分かった、やろう。いいな?ラグナ」


「ああ、正直どうなるか見えないけど…未知の魔術を相手にするなら、デティ以上に頼りになる奴はこの世にいない、みんな…デティに賭けようじゃねぇか!」


「はい!」


「うん…いいよ」


デティが、友達がなんとかすると言っている以上乗るしかない。それが例え未知の魔術を受け入れて敗北することであれども…。それをなんとかしてくれると思える下地がデティにはあるのだ。


「よしっ!じゃあみんな!遠慮なく動物になって負けて来て!全部私が…なんとかする!して見せる!」


─────────────────


「貴方が魔獣であることは理解していました、敵であることも。だから仲間達に囮になってもらい…こうして貴方の身柄を引き摺り出したのです」


「ぐぬぅ…」


そして、デティの思惑通り仲間達は無力化され動物になり…コバロスはまんまと引き摺り出され、人質になり得たエリスを連れ出し、ここに来てしまった。そしてアマルトを前に彼は勝ちを確信し全てを話した。全ては…デティの作戦通りだったのだ。


「敢えて仲間を囮にすると…?魔術導皇とは無慈悲なのだな」


「なんとでも言いなさい、…ラグナ達はキチンと役目を果たしてくれました、後は私が…丸く収めるだけです」


「ハッ!役目を果たした?その結果がこれだぞ!」


そう言ってコバロスが指し示す先には…。


「にゃあん!」


「ヒヒーン!ブルヒヒッ!」


「ぴょーん…」


「ぶー!」


さながら動物園同然の様子を繰り広げるデティの仲間達だ、遺伝子を組み替えられ無力化された以上、彼女等はもう使い物にはならないし…元には戻せない。


「もうこいつらは二度と人間には戻らない!コーヒーを水に戻せないように、混ざってしまった遺伝子は完全には取り除けない!人としての仲間は死んだのだ!」


「それはどうですかね?」


「……何?」


「アマルト!」


「あいあい魔術導皇さん…っと!」


そういうなりデティの指示で動いたアマルトは、足元で倒れるゴブリン人間に一発…蹴りを入れる。すると…緑色に染まり隆起していた筋肉が戻り始め…。


「な、治ったぁッ!?そんな馬鹿な!取り込まれた遺伝子が消えるなんて事あり得るわけが!」


「あり得るんだなぁ〜これが、なぁ?魔術導皇様」


「ええ、さっきも言ったでしょう?貴方の使う『エーテルゲノム』は…呪術なんですよ」


呪術…肉体そのものに直接影響を与える魔術系統。既にその系譜は途絶えて久しいと言われる現代呪術の系統の中にエーテルゲノムは入っている…とデティは推察した。遺伝子という肉体の根幹に直接影響を与えるこの魔術は呪術に違いないと。


黒鉄島のテルミアが使った『イミテーション・トランス』と同じく…或いはその源流たる呪術こそがエーテルゲノムなのだ。


「遺伝子という名の生態情報を物質的な形で取り出し、それを他者へ或いは己へ付与する…それがエーテルゲノムの真の効果です」


「ンでもって俺が使う変身呪術はその完全上位互換。生態情報の出し入れを必要とせず触れるだけでそいつの体を自由に書き換えられるんでーす!つーかお前のやってる魔獣への変身とか俺のオハコだし、それで俺の情報塗り替えようなんて百年…いや八千年はえーよ」


「貴方の古代呪術で書き換えられた仲間達の肉体はアマルトの古式呪術で治せます、そしてその肉体の変化を私の古式治癒で固定化すれば…根治が可能です。コバロス…分かりますか?貴方のやろうとしていることは、私とアマルトの二人で完全に阻むことができるんです」


「だからこういう分の悪い賭けにも出れたってわけ。正直仲間に色々やってくれたのは許せんが…まぁ、おもろいもん見れたしそれはそれでよし…ってわけで、どうするよ、デティ」


「無論、治します…コバロス、貴方の肉体も。その為に私達はこうして危険な橋を渡ったのですから」


「…………」


魔術とは万能である、魔術とは凡ゆる事象を可能とする。故に他者の遺伝子を書き換え無力化するなんて無茶だって出来る。この力が有れば世界だって支配出来るとコバロスは考えていた。


だが、甘い。魔術とは万能ではあるが…一つではない、魔術によって発生した万能は、また別の魔術の万能によって帳消しにされる。万能と万能がぶつかり合い生まれる均衡の中に秩序を築いたのが人間という種である以上、一つの魔術を使って世界を支配するなんてのは土台無理な話だったのだ。


そこにコバロスは気がついた、いやそれ以前に…。


「古式魔術…反則だろう、そんなの」


自分達が百年かけて編み出した魔術が…生まれて二十年そこらの小僧と小娘の使う古式魔術により根底から覆される、そこにコバロスの『研究者としての意地』が燃えたぎる。許されていいはずがないし…許すわけがなかった。


「ぐぅっ!まだだッ!まだ諦めん!私は…私は人類を撲滅する!」


「おっと…」


「それが私の…ソティス様の望みなのだから!」


「ソティス…?」


瞬間、コバロスは体を大きく振るい、デティを押し払うと共に無数の触手を動かし真っ暗な研究所の奥へと消えていく…あっちは、魔獣研究棟の方角…まだ何かするつもりのようだ。


「チッ、あいつ逃げたぜデティ」


「私が追います、アマルトはみんなと研究者達を元に戻してあげてください」


「お前一人で行くのかよ」


「問題ありません、あの程度なら…私一人でも、それに…」


コバロスの逃げた方角に足を動かしながら、デティは見る…。


「わんわんっ!」


「エリスちゃん…」


そこには、動物になりきった友人達がいる。中でもエリスちゃんは服まで剥がされ…首輪まで付けられている。


………はっきり言おう、ここまで想定内で進めて来たデティにとってエリスの状態は想定以上だったと。


「…見てよアマルト、私の親友が服を剥がれて首輪をつけられてるよ。まるで奴隷のよう」


「ああ、こいつばっかりは笑えねぇよ…」


「……私ね、怒ってるの。折角人類のためになりそうな魔術を悪用していることもそうだけど、それ以上に…私の友達を、辱め貶めた奴に対して。言葉では言い表せない程の激憤を感じている」


デティにとって、エリスという人間は光そのものだ。例えそれは如何なる闇の中にあれども変わることのない唯一無二の光なのだ。


「わかるぜ、俺だってキレて……あん?」


「だから、私が行ってくる…」


「デティ…お前……」


怒りを抱きながら歩むデティの背中を見たアマルトは…眉を顰める。


俺は今、友達を見送っているはずだ、そこにいるのは俺の親友デティフローアの筈だ、なのに。


(…今の誰だ……?)


まるで、別人のように見えたのは…何故だろうか。姿も声も顔も同じ…別人がそこにいたかのような錯覚に襲われたアマルトは、そんなデティを呼び止める事もできず…静かに見送ることしかできなかった。


「……………」


「にゃあん、ゴロゴロ〜」


「やめろ、寄ってくるな」


「ヒヒーン!ズビシッ!」


「お前実は正気だろ!蹴るな!」


「ぴょん…」


「ネレイドは可愛いな…」


「ぶー!」


「はぁ…しゃあねぇ、取り敢えずこいつらだけでも治しておきますかね」


「………」


「お?エリス?どうした?片足上げ…て」


「…ぶるるっ……」


「や…やっ!やめろっ!お前ここでそれするな!」


まぁ何にしても、今は仲間達の状態を元に戻すところから…かね。


……ってか、ラグナの奴どこに行ったんだ?

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― 新着の感想 ―
[良い点]  なんとなーく察してはいましたがやはり呪術でしたか。コバロスぅ……。  コバロスが注射した直後の視界はカーマンラインとの共有ですかね? カルマンライン(カーマンライン)から名を採ってきたと…
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