403.魔女の弟子と巨絶海テトラヴィブロス
巨絶海テトラヴィブロスは、元々一つの大陸だった世界をシリウスが二つに分けた際生まれた巨大な亀裂にして星に開いた大穴。そこに海水が流れ込み生まれた内海の中心地に位置する海域の名だ。
ディオスクロア文明がある程度成熟し、海洋への進出を始めた時からその存在は確認されているにもかかわらず、未だ嘗て誰もその海に入って生きて帰った者は居ない。その海の底は魔女にさえ見通す事が出来ない程深く…闇の如き海は今もなお人類最大の謎として大陸に横たわっている。
海に出ない俺たちでさえその名前は知っている。入れば出られぬ死の海、魔女が手出し出来ないこの星唯一の領域、何があるかも分からない未知の世界。色々言われているが…それ以上の事は誰にも分からない。
だって入ったら二度と出てこられないんだ、誰も近寄りたいとは思わない。そんな海を…俺たちは目の前にしている。
「ここが、巨絶海テトラヴィブロスだ」
寄り道と称して宝島から進路を外し、俺達に巨絶海を見せるためここまで船を動かしたジャックは甲板に立ち、俺とエリスを引き連れて海を見る。ここがテトラヴィブロスだと口にして。
「これが、テトラヴィブロス?」
船の手摺に手をかけて俺は見る。巨絶海は内海の中心地にある海域であるが故にこの目で収める機会はない、岸から遠視の魔眼を使っても見る事が出来ないくらい遠くにあるんだ、多分一生見る事はないんだろうなと思っていた海がそこにはあった。
正確に言うなれば俺たちの船は今テトラヴィブロスを目の前にして止まっているらしい、風読士のヴェーラさんが風魔術にて無理やり船を停止させテトラヴィブロスに入り込まないように押しとどめているそうだが…。
「…見た感じ、普通の海とあんまり変わらないな」
そこには、想像よりもずっと穏やかな海があった。入ったら出られないなんて言うからもっと荒々しい海かと思った、雷が降り注ぎ津波が壁のように荒れ狂い山程の魔獣が顔を出す…そんな魔境を想像していた。
だがどうだ、今目の前には風も吹かない穏やかな海が広がっている。青い空とさざめく波音と何処かで海猫が鳴く声がする。至って平凡、見ていて落ち着くくらい普通の海。これがあのテトラヴィブロスだと言われなければ気がつかない程だ。
「なんか、想像と違いますね」
「ああ、俺はもっと波とか荒れ狂う災害みたいな海かと思ってたけど…これが本当にテトラヴィブロスなのか?入っても出てこられそうだけど」
「よく見ろ、波の方角を」
「波?」
そう言われて海をよくよく観察してみると…見たこともないくらい変な動きをしていた。
具体的に言うなれば、海が『ある一定のラインから方向を変えている』、俺たちのいる海は後ろへと流れる波なのに、そこから少し進むと何故か波は前へと…テトラヴィブロスの奥へと流れている。…まるで海そのものが蟻地獄の様に中心へ波を引き込んでるみたいだ。
あり得るのか?こんな海のど真ん中で波がこうも方向を変えていると言うのは。
「テトラヴィブロスはな、波がみんな中心へと流れている…まるで栓を抜いた風呂みたいに、奥へ奥へと流されるんだ。しかもまるで誰かがラインを引いたかのようにある境を決めて、ピタリと波が変わる。こんな現象は俺も長いこと海を見てきてここだけでしか見たことがない」
「…………」
不思議な海だ、けど確かにこれは出られないな。なんせ波が吸い込むように中心地に強制的に向かっているんだから。オマケにテトラヴィブロスだけが何故か無風。帆船ではどうやっても外へ出る事が出来ない。
「テトラヴィブロスが吸い寄せてるのは波だけじゃない、どういうわけか魔術も流されるんだ」
「流される?ってどういう事だ?」
「テトラヴィブロスの内側で魔術を使うと…魔力が海の中に引きずり込まれて使えなくなる。理屈は分からないがあの中では風を作って外に出る事も俺みたいな海を操る魔術を使っても直ぐに無効化されて動けなくなる」
そりゃ…どういう事なんだ、魔力が海底に吸い込まれる?
…そういやテトラヴィブロスの底にはかつてシリウスが開けた穴があるとか言ってたな。ってことはもしかしてその穴が魔力も吸い寄せてるのか?分からん。魔女でさえ海底がどうなってるか見通す事が出来ないんだ、答えなんか誰も知らない。
ただわかる事があるとするなら、テトラヴィブロス内部では有無を言わさず船が中心に流されるという事だ。
「随分詳しいですね、ジャックさん」
「まぁな、一回ここら辺で敵船に襲われた事があるんだ。俺達を始末しようと…テトラヴィブロスの中へ俺達を押し入れようとしてきやがった。あの時は肝を冷やしたが逆にその敵船をテトラヴィブロスの中に突っ込んでやった」
「それであの中に入った船がどうなるか知っているんですね」
「ああ、あの中に入った船は中心に引き寄せられ風もないし魔術も使えないから二度と出てこられない。泳いで逃げようとした奴もすぐに死んだ、あの海の底には魔獣が大量に巣食ってやがるのさ。どうあれ絶対に抜け出す事が出来ない…、そしてある一定のラインまで引きずり込まれたら、どうなると思う?」
「え?まだなんかあるのか?」
「ああ、ある。泣き喚きながら俺達に助けを求めていた船が…ある一定のラインまで進んだ辺りでいきなり…」
刹那、バンッ!とジャックに平手で頭をぶん殴られる。なにしやがんだこの野郎…。
「こんな風に何かに押し込まれるように船がいきなり沈んだ、船底に穴が開いた沈み方じゃない…本当に真上から見えない手に潰されるように沈んだんだ」
出られない上にある一定のラインまで進んだら強制的に沈む…いや何者かに沈められる?なんて恐ろしい海なんだ、致死率100パーセントじゃないか。そんな危ない海を目の前に停泊するとか正気か?と思ってしまうほどにテトラヴィブロスは恐ろしい。
「…なぁ、ゾクゾクしねぇか?」
「ああ、身の毛もよだつような恐ろしい海で…」
「ちげえよ!ワクワクして体が震えないか!?こんな不思議な海は俺ぁ見た事ない!世界中旅してもここより変な海は見た事がない!オマケに魔女も知らない正真正銘の未知だろ?ワクワクするぜ…!」
ワクワク?マジかよ、…全然理解できないぜ。
…ってわけじゃない、分かってしまう。ジャックがワクワクする理由が、強敵を前にした時アルクカース人高揚するように、こいつは不可解な海を目の前して高揚しているんだ。
挑戦に飢えている…そこを理解出来てしまったが故に思う、マジかよ、俺こいつと同類かよ…ってな。
「まるで人を食う海だ、俺はテトラヴィブロスに勝つまで海の支配者は名乗れねぇ!…それにな?この海にはとある噂があるのを知ってるか?」
「知らない、なんだ?」
「テトラヴィブロスの奥底にはかつて、今は滅んだ古の帝国の跡地があり…そこには凡ゆる海を支配する究極の宝『海の秘宝アウルゲルミル』があるらしい
「アウルゲルミル?聞いた事ないな…」
「まぁ船乗りの間に昔から伝わる伝説みたいなものだ。アウルゲルミルは『海の始発点であり終着点』、そもそもこの膨大な量の海と言う名の水はどこから来てどこへ行くと思う?」
「どこから来て…どこへ、そういえば雨とか降ってるのに海って溢れないな」
「だろ?それを管理してるのがアウルゲルミルと言う名の秘宝らしい、手に入れれば正真正銘の海の王になれる。狭い陸地を治める魔女なんかよりもずっと広大な海の支配者になれる…そんな伝説がマレウスには古くから存在している、俺はそれを取りに行きたい、それが俺の終生を掛けて臨む唯一の夢だ」
「夢…お前の…、じゃあお前は海の支配者になりたいのか?」
「さぁて、どうかな…フフフ」
ニタリと笑いながら夢を語るジャックの横顔に気味の悪いものを感じる、海を支配する力?…強ち無いとも言い切れないのが怖いところだ、だってこの海の下には魔女様さえ見通せない世界が広がってるんだろう?だったら何があってもおかしくない。
でももし、そんな物が本当にあるとするなら…一目見てみたいな。
「ってか、アウルゲルミルってのを取りに行きたいなら行けばいいだろ?それとも今から行くのか?」
「バァカ、ラグナ。俺の目的はテトラヴィブロスに行って帰ってくる事なんだよ。帰る算段が立たないのに行って。それっきり帰ってこなかったらどんな宝物も持ち腐れだろ?」
「そりゃそうかもだが…あるのか?帰ってくる算段なんて、発見から数千年と攻略されてない魔の海なんだぞ?」
「一応、目処は立ってる。けどそれにはまだ準備が足りない、今はその準備期間さ…夢を叶えるためのな」
だからまだ行かねーよとジャックはテトラヴィブロスを眺めて浅く笑う。まさか本当にあるのか?テトラヴィブロスを攻略する為の鍵なんて。…あるんだろうな、多分。
ジャックはこれで聡く賢い男だ、大量の本を買い漁り常に勉強を繰り返している男だ。そんなこいつが『有る』というのならきっと有るんだろう。
……果てしない話だが、否定する気になれないのはジャックがただ空想を嘯くだけのホラ吹きでない事を俺は既に知ってるからだろうな。
「俺はこの夢のためなら何をしてもいいと思っている、いつかテトラヴィブロスに挑み打ち破る事ができるならどんな手間も時間も惜しまないつもりだ…、それでよ?ラグナ、実は俺はお前に謝らなきゃならん事がある」
「なんだよ、海賊させてることか?」
「俺はお前らが何者か知っている、魔女の弟子だろ?」
「なっ…!」
ギョッとしながらジャックを見れば、ジャックは相変わらずニッと歯を見せ笑っている。安心しろ…そう言わんばかりに笑うジャックは俺の頭を軽く撫でると。
「アルクカースの若き国王、そっちは俺と同じで陸地を制覇した旅人、だろう?悪いな、知ってる事黙ってて」
「なんで知ってんだよ…」
「理由はいくつかあるな、そもそもお前らは有名人だろ?各地を旅してりゃ話にも聞くし、ご丁寧に八人揃ってるしな」
「ま、まぁ…そりゃ気がつくか」
そもそも気が付かれない方がおかしいレベルだし、あんまり素性を隠してる感ないしな…。
「だが安心しろ、俺ぁ魔女の弟子だからってお前らを攻撃することはないし、他の船員達には黙ってる…気がついてるのは俺だけだ」
「…なんで黙ってるんだ?他の船員に隠し事までして」
「この船にはそういうのがたくさんいるのさ、表沙汰に出来ない素性や身分のやつがな。それに…立場だ素性だは全部陸の話だ、海の上じゃ等しく一人の人間でしかない。だから大した問題じゃないと俺は思ってる、それだけさ」
そう語ると共にジャックは静かに樽の上に腰をかけると、その手を俺に向けながら…。
「そこでだ、アルクカースの国王たるお前さんに一つ聞きたい事がある」
「……なんだ?」
「お前の夢はなんだ?さっきも話した通り、俺はこのテトラヴィブロスが夢であり、生きる意味だ。お前にはあるか?そんな夢が」
「夢…あるよ、国の繁栄と仲間を守る事で…」
「そりゃお前の目標とか目的の話だろ?それは夢とは言わない。身を焦がしその為なら死んでもいいと思える…そんな夢がお前には無いのか?」
夢…そう言われて、即座に返そうとしたが。何にも浮かんでこない、おかしいな…昔はこんな話をしたら色々浮かんできたのに。何にも浮かんでこないんだ。
国の繁栄やエリス達を守ることは夢なのか?と言われれば確かに夢じゃ無い、これは確実に成し遂げなければならないラグナとしての使命だ。それとは別に…目指している俺個人の願望。
…………思いつかないな。
「…特に、思いつかない」
「え!?」
「へ?」
思いつかないと答えればエリスが意外そうな顔で俺のことを見る、な…なんだよ、なんか変なこと言ったか?
「クックックッ、だろうと思ったよ…」
対するジャックは愉快そうに笑いながら腕を頭の後ろに回し枕のようにしながら壁にもたれかかり、チラリと視線だけで俺を見つめる。
「なんだよ、別にいいだろ。そもそも俺はそういう立場の人間なんだ…、夢とか願望とか言ってる暇はない」
「それは陸での話だ、この海に王はいない、お前も王じゃない」
「そんな理屈は……!」
「ラグナ、俺がお前らを拾った理由の一つを教えてやる、俺は間違ってる事が大嫌いなんだ…そして、お前の目は致命的に間違っている。いや間違えている、そいつをなんとなく正してやりたいと…そんな気まぐれを起こしたからさ」
それだけ語るとジャックは立ち上がり、再び船長室に戻ろうとする。
間違ってる?俺が?間違えている?俺のあり方が?何を言ってるんだ、そもそもそんな事海賊やってる身分のやつに言われたくない。間違い加減で言えば海賊の方が……。
……何考えてんだ俺は、言い返せないからって海賊がどうのとか身分がどうのとか、そんな眠たい事言う男だったのか?俺。こんな女々しい答えをもし師範にしたら…ぶん殴られるだろう事が容易に想像出来る。
ほんとに、何かを間違えてるのか、俺は。
「なぁ、ジャック…俺は何を間違えているんだ」
「さぁ、俺は魔女じゃねぇしお前は俺の弟子でもないだろ?そんな大事なことは俺は教えてやれない、どうしても分からなきゃ魔女に聞くか…でなけりゃ自分に聞くしかないな。まぁこれは俺のお節介だし『海賊風情がなんか言ってら!』って笑い飛ばすならそれでいい」
「…………」
「ま、頑張れや。…俺はお前らを拾った、拾った物を好きにする権利は俺にある。だから俺はお前らに好きにさせている。そこだけは忘れんなよ」
それだけ言い残すとジャックは静かに船長室に戻っていく、それを引き止める言葉は俺にはない。ただ漠然と何かを間違えていると言う答えだけを突きつけられて、呆然と…立ち尽くす。
「何かを、間違えているのか?俺は…」
「ラグナ…」
チラリと、助けを求めるようにエリスを見ると。彼女もやや困ったように視線を左右させ…そして。
「エリスの知っているラグナは、もっと色々なことに燃えている人でした」
「そう…か?」
「はい、ラグナは覚えてますか?エリス達とデルフィーノ村にに言った時…みんなで釣りをした時の話を」
「え?いや…釣りをしたのは覚えてるけど」
もう五年も前のことだし、あれから色々あったし、釣りをしたこと自体は覚えてるけど、そん時考えてたことや言った事までは覚えてないよ。
「ラグナは言いました、エリス達と海賊船を襲って宝島を目指したいと」
「……そんな事、言ってたのか?俺」
「言ってました。昔のラグナは夢を語り夢を実現するだけの力が…ありました」
「…そっか」
エリスが言うならそうなんだろう、俺が覚えてないだけで事実なんだろう。けど…あの時とは違うんだ。俺はあの時はまだ子供で、今はもうそんな事を言ってられる立場じゃなくなった。
アルクカースの国王もそうだし、アド・アストラを動かす六王にもなったしアストラ軍を統括する大元帥として魔女世界を守る立場でもある、今は仲間も多くいるしみんなのことも守らなきゃいけない。
夢見がちじゃ、手が届かないくらい今の俺の世界は広いんだ。
「…悪いな、なんか。失望したか?」
「別に夢見てないから失望するとかはないですけど、でも…みんな大人になりますからね。それが間違っている事だとは思いません、いつまでも夢ばっかり見てる大人よりかはいいとは思います…けど」
「けど?」
「ラグナが、どう思うかです。ラグナにとって正しいことはラグナにしかわかりませんから」
「そっか…」
ある意味、ジャックの言葉にも通ずる話だな。ジャックは俺に好きにさせていると言う、つまり好きにしていいんだ。考えるのも考えないのも…エリスの言うように正しいことは俺にしかわからない。
…いい機会なのかもしれない、ジャックの言うように海の上では俺は国王でも元帥でもなくただのラグナだ、俺個人を見つめ直すにはいい機会なのかもな。
「しかし、ジャックの言ってた事は本当かな。本当に俺に俺自身を見つめなおさせるため命を助け拾ったのか?」
「さぁどうでしょう、彼はどうやら嘘をつくタイプではないのできっとそれも本心でしょう。ですが同時にジャックさんは『それも理由の一つ』と言っていました、とするとまだ何かあるのかもしれません、嘘をつかないというのは…本当のことだけを話すとも限りませんから」
「まだ…ね、なんかアイツの掌の上な気がして腹ただしいが、仕方ないか」
「はい、ではエリスは厨房に戻りますね。今日もご飯作って待ってます」
「おう」
また後で、と手を振って立ち去るエリスの背中を見てなんとなく思うのが…最近エリス大人しくないか?
こう言う事を言うのは良くないのはわかるんだけど、エリスは苛烈な人物だ。悪人には容赦せず敵には情けを掛けない女だ、それがどうだ?今は海賊達から女神だの清楚だのと呼ばれている。
大人しいんだ、エリスの琴線に触れるような自体が発生していないからと言うのもあるがいつもならもっと事態解決に動くと思うんだけど、今回は妙に大人しい。もしかして彼女も俺に任せてくれているのかな。
だとしたら頑張らないとな、自分見つめ直すのもいいけどそれ以上に脱出の算段も立てないと。
「さて、どうすっかな…」
再び暇になった、一人になった、何をしようかなと俺は再び甲板を歩くのだった。
………………………………………………
「ティモン!舵をとれ!このまま宝島に行くぜ!」
「ああ、任せろ」
ラグナ達と別れた後ジャックは船頭にて操舵手のティモンに指示を飛ばす、一応向かう先は決まってるにしても船長の号令がなければ船は動かない。
「もう用事は済んだのか?」
「ああ、ラグナにテトラヴィブロスを見せられたから満足だ」
「満足ね…、アイツは船乗りでもなければ海賊でもないだろう。俺達の海のロマンは分からないだろうし、どうせそのうち船を抜け出して何処かへ消える…なのにどうしてそこまで目をかける」
「いいだろ、俺が好きでやってんだ」
ティモンはジャックと長い付き合いだ、まだ若造だったジャックに誘われヴェーラと一緒に三人で小舟を動かして海に繰り出したあの日からずっと側で見てきた。
そんなティモンだからこそ、ジャック・リヴァイアという男のいいところはたくさん知っている。嘘はつかないし義理は通すし何より分かりやすい男だ。ティモンはジャックのそういうところを好いている。
だが…。
「今のお前はよく分からん、何を考えているのか俺でもさっぱりだ」
「そうか?そんな難しい事はしてないつもりだぜ?」
「いいや難しいね、特にラグナに目をかけているのが分からん。ジャック…お前は何を考えている」
「…………」
「俺にも言えないことか?」
「言えない事じゃない、別に言う必要もないだけだよ」
ジャックは俺から視線を外して後ろを見る。船の尻から見えるテトラヴィブロスを見る。名残惜しそうに夢の海を後にする。
「…本当なら、今すぐにでもあの海に飛び込みてぇんだけどな」
「行きたいなら行けばいい、号令を出してみろ、直ぐに向かうが?」
「バーカ、なんの準備も無しに行ってどうすんだよ。あの海に入った船と海賊がどうなるかはお前も見てるだろう」
「ああ、だがこの船はお前の船でこの海賊団はお前の海賊団だ、他の何にも慮る必要はない、お前が望むようにすればいい」
船長の行きたい場所に連れて行くのが操舵手の仕事だ。それが例え死の海であろうとも迷う事なく俺は舵を切れる。けどジャックは…。
「なら船長命令だ、宝のある島へ向かえ。テトラヴィブロスへはまだ向かわない…あそこへ向かうには必要なピースがまだ足りてない」
「…マレフィカルムの言っていた、いやイノケンティウスが言っていたと言う例のアレか?」
「ああ、アイツは信用できる…俺はアイツの言うことに賭けるぜ?」
ジャックは、マレフィカルムと取引をしている。テトラヴィブロスに入り海の秘宝アウルゲルミルを手に入れるためのピースをジャックはずっと探していた。
そして、マレフィカルムの大盟主たるイノケンティウスはジャックにその知恵を与えた。もしかすると可能性があるかもしれない…程度の話だが、もしイノケンティウスの話が本当ならジャックはテトラヴィブロスに入り帰還できる唯一の人類となれるだろう。
ジャックの夢は叶うだろう、だが。
「いいのか、もし本当にイノケンティウスの案でアウルゲルミルを手に入れたら…借りが出来るんだぞ」
「ああ、その借りを返すために俺はマレフィカルムに加入するつもりだ」
「本気で言ってるのか…!、あのジャック・リヴァイアが何処ぞの誰かの傘下に入ると!?」
「しょうがねぇだろ、事実として借りが出来ちまったら返さざるを得ない。物の貸し借りを有耶無耶にしちゃ海賊はやっていけねぇし、何より俺の気が済まない」
もしイノケンティウスの案でテトラヴィブロスに行くことが出来たらジャック海賊団は魔女排斥機関に入ると言う約束が成されているんだ。よしんばアウルゲルミルを手に入れられてもこれから俺たちは魔女排斥のために戦わなくてはならなくなる。
そりゃ、海の上なら将軍級に強いかもしれないが…そんなジャックが誰かの命令を聞いているなんて、ティモンには受け入れ難かった。
出来るなら止めたい、だが止められないのを知っている。ジャックは夢に向かって進み続ける男だ、その前進を止められたものは未だ嘗て居ない、天を遮るような大嵐も空を舐めるような巨大な津波も海を埋め尽くす軍艦の群れも、全てを蹴散らして進んできた男だ…今更止まらない。
「あー…そうなるとやっぱりラグナは…」
「ん?どうした?」
ふと、ジャックが何かを思い至ったように顎を撫でる。ラグナ?あの新入りがどうしたというのか。そう聞くが…やはりジャックは。
「や、なんでもねぇ。こっちの話しだ、それより船を頼むぜ相棒」
「ジャック…」
やはり、ジャックは話してくれない。どんなくだらないこともどれだけ大切な事も話してくれたのに…お前はそんな俺にも話せないような何かを抱えているのか?
…昔のお前はもっと……。
(そういえば、あのラグナとかいう青年…)
ふと、ティモンは思い出す。ジャックが目をかけているあのラグナという新入り。
彼と初めて会った黒鉄島で、彼が我々に見せたあの姿は…。
まだ、小舟で旅をしていた頃のジャックの姿に、よく似ていた気がする。
……………………………………………………………………
「ん、悪いなラグナ。こんな事まで手伝わせて」
「いや、問題ねぇよ、暇だったし。この船にゃ暇人を乗せるスペースはないんだろ?今更海に放り出されたくないしな」
「それもそうだな」
結局、暇を持て余した俺はその後倉航海士であるピクシスの手伝いをする事とした。あんまりぼーっとしてるのもアレだし、何より今は手を動かしていたかった。
何もしないでいると、ジャックのあの問いについて考えてしまいそうだったから。…なんて考えてたけど、いざ何か仕事に手をつけてもやっぱりアイツの…『夢はあるか』という問いが頭に引っかかってきた。
夢、夢か。確かに昔の俺は多くの夢を語った気がする。だがそれは立場が確立されると共に、歳を重ねると共に少なくなり、いつしか夢を語る事もなくなった。
別に俺はそれを悪い事とは思っていないし、国王として必要な事だとも思っている。夢見がちな王なんて害でしかないからな。
でも…。
(海の上の俺は、国王でもなんでもないただのラグナ…か)
国王ではない俺が望む事、別にそんな事考えなくてもいいのに…妙に頭に引っかかるんだよな。
「ラグナ、君は本当に凄まじい怪力の持ち主だな」
「え?そうかな」
ふと、ピクシスに問いかけられて我に帰り今俺が何をしているかを再度確認する。ピクシスがやっている仕事は船に取り付けられた無数の砲台の整備だ、少なくなった砲弾を砲塔のすぐそばに補充する為、今俺は木箱いっぱいの砲弾を持ち上げ運んでいる最中だ。
そんな俺を見て、ピクシスは浅く笑う。
「砲弾いっぱいの木箱を持ち上げるなんて、ウチの船じゃジャック船長くらいしか出来ないよ」
「そうなのか?世界一の海賊団っていうくらいなら、これくらい出来そうなのは何人かいそうだけど」
「いや普通じゃないからなそれ、…世界一なのは船長だけさ。我々はそれに寄りかかっているだけだ…」
そう言いながらピクシスはテキパキとした手つきで残りの砲弾の数などを数え記入していく。俺から言わせればピクシスのような地味で目立たない仕事を率先してやろうと思えるその心意気の方が素晴らしいと思えるがな。
ピクシスはいつ見ても何かしらの仕事を常にやっている。この船を支えているのは彼だと俺は心の底から言える。こういうのが居る軍団は強い。
…そんな風に真面目に仕事をするピクシスを見ていたら、…ちょっと聞きたくなってきたな。
「なぁ、ピクシス」
「なんだ?仕事の片手間でいいなら話は聞いてやる」
「お前って、夢とかあるのか?」
「…夢?」
仕事の片手間に、そう言いながらも俺の問いに思わず手を止めこちらを驚いたような目で見つめるピクシスは、数秒考え込むと。
「あるぞ」
そう断言する。燃えるような瞳で、剣のような真っ直ぐな視線で、彼は俺に夢を語る。
「私の夢は、いつかこのジャック海賊団を船長から次いで二代目船長になる事だ」
「二代目?自分の海賊団を持つとかじゃなくて?」
「ああ、私は…船長のように、ジャック・リヴァイアのようになりたいんだ」
彼は視線を手元のボードに移す。いつも持ち運び色々なことを書き記しているその使い古したボードに視線を移し、静かに砲台の上に座ると。
「私はな、元々捨て子だったんだ。海辺の街で生まれ口減らしの為に木箱と一緒に海に流され…捨てられた所を船長に拾われた。あの人は俺にとって憧れの存在であり恩人であり、…一方的にではあるが親代わりだと思っている」
「ジャックが、お前を…」
「ああ、君のように私も拾われたんだよ。その時からずっとこの船で生きている」
なるほど、ピクシスはエリスのように、或いはこの間戦ったデッドマンのように、誰かに拾われその誰かを親として崇め、その後を追従する者なのだ。だからこそ誰よりもこの船と海賊団を愛している…それがピクシスの原動力なんだろう。
「船長は素晴らしい人…ではないのかもしれない、けど私にとっては全てなんだ。その全てを私はいつか引き継いで継続させたい。それが私の夢かな…まぁどれだけ努力しても船長みたいに強くはなれないが」
「いやぁ、随分強そうに見えるけど?身のこなしも体捌きにも隙がない。相当鍛えてるだろ?」
「分かるのか…?」
そりゃ分かる、これでも一応武術家だ。身に染み付いた武というものは隠そうと思っても隠せるものじゃない、足の踏み出しや物を取る仕草など細かい部分にそう言った洗練された技量が垣間見える。
ピクシスの動きは相当鋭く研ぎ澄まされている。かなりの物だと俺は思う。
「まぁ、確かに鍛えてはいるけど…足りないんだ。船長みたいになるにはまだ…、だが諦めるつもりもない、十年だろうが二十年だろうが俺は船長に付き従い強くなってみせるつもりだ」
真っ直ぐと見つめる彼の瞳を、俺は好ましいと思った。彼は海賊で受け入れざるべき存在だが、それ以前に…何かを追い求めるような瞳に、胸の内に燻った何かを刺激される。
久しく感じるこの感情の名前は…そう、確か。
「俺、あんたの事好きだぜ」
「は?いきなり何言っているんだ…」
「何言ってるんだろうな、俺。あははは」
「……全く、話し込んでしまった」
話が一区切りし、俺は再び砲弾を揃える作業に戻る。一応これでも軍事国家の王様やってるもんだからこの手の兵器のメンテナンスのやり方は分かる、何をどうすればいいか勝手がわかってる分他の仕事よりもやりやすい。
「にしてもすげぇ量の砲弾だな、戦争でもするのか?」
しかし、こうして揃えていて思うのは砲弾の量だ。普通に船に乗せる量のおよそ二倍程の砲弾がこの船には載せられている、砲弾なんて重いもの乗せれば乗せるだけ船のスピードは落ちる、なのにこんなに乗せるなんて…とボヤくと。
「ある意味そうかもな」
「は?」
「戦争って話さ、ある意味じゃこれから戦争になるかもしれない」
「どういう意味だ…?戦争、すんのか?」
「ある意味と言ったろう、次に向かう島には少し問題があるんだ、丸腰で行くには少し怖い島でな…、それを抜きにしても我々には敵が多い。いつどこで戦闘になってもおかしくない」
「へぇ、恨まれてんのな、あんたら」
「他人事のように言うな、今はお前も船員だ。それに恨まれているわけではない…我々は他の海賊に取って目の上のたんこぶだしな、前なんか私達を沈める為に奴らは…」
そう、ピクシスが口にした…その瞬間だった。
「ピクシスさん!大変だ!」
「っ…どうした!」
刹那、外からヨークがドタドタと走りながら血相変えて現れると共に、こういうのだ…。
「襲撃だ!敵船がもうすぐそこに!」
「何…!」
襲撃の報が舞い込んだのだ。何とタイムリーなんだか。