398.魔女の弟子と魔海エンハンブレへ
船乗りと共にエンハンブレ諸島に向かうまでの二週間、エリス達は思い思いの日々を過ごすこととなった。
ラグナの提案で修行と遊びを交互に繰り返す…そんな日々、さしずめエリス達の夏期休暇とでも言おう日々は実に充実していた。
まず遊びは…。
「アマルト様!右です!」
「違います!こういう時のメグさんのこと信じちゃダメです!左です!」
「アマルトー!真っ直ぐ真っ直ぐ〜!」
「物の見事に全員言ってること違うじゃねぇーか!!!」
毎日のように砂浜にやってきてビーチで遊ぶ、今日はみんなでスイカを割る…そんな遊びに興じていた。目隠しをしたアマルトさんに棒を持たせてみんなであれやこれや指示をしながらスイカを割ってもらうという遊びなのだが。
「後ろだ!アマルト!」
「選択肢が全方位なんだけど!?」
「上ですよアマルトさん!」
「どういう状況だよ!」
「スイカが逃げたぞアマルトー!」
「だとしたら止めろよ!」
「そっちだよ…アマルト」
「どっちだよ!」
みんな言うことがあまりにもバラバラ、エリスだけが本当の事を言う始末。まぁこれはこれで楽しいのだが…。
「ええいままよ!ここと見た!セイオリャァッ!」
指示は頼りに出来ない、ここは己の勘を頼りにスイカの位置を見切り裂帛の勢いで一閃…手に持った棒でスイカを叩き切るアマルトさん、流石は普段から剣を使うだけあり穂先はブレず真っ直ぐ振り下ろされ。
「あて!?」
しかし残念かな、アマルトさんの目の前にスイカはない、スイカは彼の左後ろにある。なら彼が切ったのは…叩いたのは何か?頑丈なヤシの木ですよ。流石に木の棒ではヤシの木を割るには至らず棒が折れて反動で声を上げるアマルトさん、しかもそこに降り注ぐのは。
「ぅげぇっ!?!?なんか上から降ってきたんだけど!?マジでスイカ上にあったの!?」
「違いますよアマルトさん、アマルトさんが叩いたのはヤシの木で降ってきたのはヤシの実ですよ」
「ヤシの実?…ってでっけぇヤシの実…」
ヤシの木が揺れ身を落とす、硬く堅牢な実が彼の頭の上に降り注ぎその痛みに堪らず倒れこむ。その痛みに驚いて目隠しを外したアマルトさんは降ってきたヤシの実の大きさに思わず声を上げる。
…たしかに、エリスが知るヤシの実よりも二倍くらいデカイな。
「これはマレウス大ヤシと呼ばれるマレウスの固有種でございます」
「大ヤシ?これマレウスの固有種なの?」
「はい、マレウスのヤシは他の物よりも大きく、かつ中身が詰まっている事で有名なのでございます、アマルト様の頭に落ちてきたこれは中でも比較的小さいもので…大きく成長したものになれば頭をぶつけた人の方が死ぬ、なんで事故も発生するくらいには硬いらしいです」
「あぶねぇやつじゃん、首の骨折れるかと思ったわ…」
「ちなみに殻は硬く穴を開けるのに専用のドリルが必要だそうです、そして中身もあんまり美味しくないそうで」
「害悪しかねぇな、ってかスイカどこ!?あ!あンなところに!テメェらデタラメばっか言うんじゃねぇよ!」
「いえーい!やーい!アマルト引っ掛かったー!さっき私を砂浜に埋めた仕返しだよ〜!」
「あんなとこで寝てる方が悪いだろ」
「ムキー!」
なんて言いながらスイカの方を向かず折れた棒をクルリと振るえばそれだけでスイカがパックリと割れる、それ出来るなら最初からやればよかったのに…。
なんて遊びを楽しんだかと思えば、その日の午後には……。
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「よっ!ほっ!はっと!」
修行です、ボヤージュの街の近くに存在するだだっ広い草原を八人で存分に使って修行に励む。この修行もまた八人全員で取り組んでいる、例えば。
「師範の筋トレは大体こんな感じだ。ネレイドさんなら多分普段から出来ると思う」
「目から鱗だよラグナ…、こんな効率的な鍛え方があったなんて知らなかった…」
「全身の魔力を常に一定以上に保ち続ける修行だよ、これを普段からやっておけば直ぐに魔力を隆起させたり逆に引っ込めたり自由に動かせるようになるかも」
「おお、流石魔術導皇様ですね、デティさん」
「でへへ〜」
「ほう、流石筋がいいなアマルト。デルセクト式の軍剣術を即座に物にするとは」
「まぁ昔から勉強するのには慣れてるしな」
みんなでそれぞれ自分の知ってる事を教え合うという方式の修行形式を取っている。これにより普段の修行では得られなかった物や同レベルの使い手からの技術指南を受けられる為効率も非常にいい。
ラグナはネレイドさんに筋トレの仕方を教えている、リゲル様は筋トレの方法を知らないからこそネレイドさんの実力向上も如実に見えている。
デティは魔術師としての基礎をナリアさんに教えている、プロキオン様が教えられるのは飽くまで魔術陣だけ、そもそも魔術師のイロハを知らないナリアさんにとってはとてもありがたい授業になるだろう。
メルクさんはアマルトさんにデルセクトの軍で使われているマーシャルアーツを教えている、メルクさんと違って近接戦を得意とするアマルトさんにとって手札が増えるのはそのまま実力上昇に繋がる。
そしてエリスは。
「よそ見ですか!エリス様!余裕ですね!」
「おっと!速度を上げてきましたね!」
エリスを囲む複数の砲座から布を丸めたボールが飛んでくる。塗料を染み込ませており当たるとその箇所が塗られ被弾箇所が分かる仕組みだ、それを決められた円の中から出ずに身のこなしと直感だけで避けるというメグさん考案の…というより実際に帝国師団長の中にも同様のウォームアップを行う者がいるという帝国式のトレーニングだ。
メグさんは帝国兵の訓練法や師団長の独自メニューなんかも全て知っている、ある意味体を鍛えることに関しては彼女の知識量はラグナをも上回る可能性がある、そんな彼女と共に修行に励めばエリスはより強くなれるだろう。
「いい感じですね、これ!凄くいいです!」
「これが終わり次第また別のトレーニングがありますからね。フフフ、いつまでその威勢の良さが続くか見ものです」
師匠との模擬戦には及ばないが全力で動き回れるだけでそれなりに修練になる、それにこれが終わってもまた別のトレーニングをメグさんと一緒に日暮れまで繰り返すことになるし、身体能力に関しては幾分の向上が望めるはずだ。
それに…。
「少ししたら休憩を挟んで模擬戦もしよう、いいかなみんな」
「はい!大丈夫です!」
「望むところだ」
弟子同士という同格の相手との模擬戦もやれる。はっきり言って今の修練環境は類を見ないほど良いと言ってもいい。
かつては師匠達もこんな風に知識や力を合わせてシリウスが居なくなった後も鍛錬を続けて強くなったみたいだし…、それをなぞるように行けばきっとエリス達もあの高みに至れるはずだろう。
ビーチで遊び休憩し、草原で体を動かしてトレーニング、我ながらかなりハードな日々を過ごしていると思う。実力もつけて、楽しんで、時に何にもしないで半日寝そべって、時にありえないくらいハードにトレーニングしたり。
みんなで束の間の夏休みを満喫して…。
そして、遂に…その日はやってきた。
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『エンハンブレ諸島に向かう漁船の護衛依頼』
休息修行期間を終えたエリス達の元に届いた、ケイトさんからの特別依頼。漁師協会が特級の危険領域と定めたエンハンブレ海域への渡航を冒険者が守護するという明快にして高難易度の依頼。
それをケイトさんに事前に話を通してレングワード会長が依頼書を出した瞬間エリス達に流してもらい、その依頼を受領。エリス達はこうして黒鉄島行きのチケットを手にしたのだった。
「貴方達が冒険者協会から派遣された護衛の冒険者ですか…?」
「うっす!よろしく」
その日の早朝、エリス達はみんな揃って指定された埠頭へと辿り着くと既に頭にバンダナを巻いた若い船乗りが不安げな表情で小舟の用意をしていた。
「ああ、あなた方が。私は漁師協会から派遣された船乗りのザルディーネです。どうぞよろしく」
エリス達はこの街の船乗り全員に声をかけていたつもりだが、この人は知らないな。エリス達全員とも面識がないようだし…、何者なんだろうという疑念を抱きつつも船乗りのザルディーネさんはテキパキときた様子でヨット船に荷物を乗せていく。
「皆さんは依頼の全容を知ってますか?」
「ああ、ボヤージュバナナの回収とそれまでの護衛だろう?」
「はい、これから行くエンハンブレ諸島の海域はマレウスにあるどの海域よりも危険らしいですよ、気をつけていきましょう」
「勿論だと…も、うん?危険『らしい』?」
ギョッとラグナが目を丸くする、なんだその『らしい』って…他人事みたいに。
いや、思えばこの人、他の船乗りと違うな。何か違うってそりゃ…。
「あはは、実は私今日が初航海なんです。昨日漁師としての資格を得て自分の船を買ったところなんですよ」
「えっ、って事は超初心者…?」
「まぁそうですけど、でも私だってボヤージュの男…海の男なんですよ?講習だってきちんと受けましたし先輩方のアドバイスも受けてますから大丈夫です」
そう、違う点があるとするなら…彼には無いのだ。エリス達が話しかけて来て黒鉄島行きを断った漁師達にはあって彼には無いもの。それは…。
『恐れ』だ、海に対する恐れがない。この街の漁師はみんな海を怖がっていた、怖がって恐れてビビっていた。海がどれだけ怖いかを知っていた、知識としてではなく経験として。
だが…。
「うん、船の調子はいいし海もこの感じならいける、出発出来ますよ」
この人は海の恐れを知らない、嗚呼そうか。こんなにも無防備に海に出ようとする人間が居たら…そりゃあ断る。他の漁師達がエリス達に向けていた冷めた目線の正体が今分かった。
こういう事だったんだ、協会の人達は黒鉄島に行くのが嫌だったのではなく、ジャックが怖かったのではなく、それ以上に海を知らないエリス達と航海する事がこんなにも怖かったのだ。
「ああ、分かった」
でも、それでも海に出ることを選択したのはエリス達だ、今になって事の重大さを知ったのでやっぱやめますは筋が通らない。そんな腰抜けみたいな事口走るようなここには人間いやしない。
乗ろう、船に。そう決めて皆揃ってヨット船に足を踏み入れザルディーネさんに身を預けるように、ヨット船の縁に寄りかかる。
「皆さん強そうですね、これならきっとエンハンブレ諸島からも帰ってこれますよ」
「ああ、海賊が来ても我々が撃退する。しかし大丈夫か?エンハンブレ諸島には複雑な海流が流れているという。経験もなく辿り着けるのか?」
「大丈夫です、そこについては海流の動きを記した本も貰ってますし、朝方の時間は海流の影響も少ないと聞いてますので」
「そうか、到着にはどれほどの時間がかかる?」
「上手く航路を辿れれば三時間もかからないかと、安心してください。必ず送り届けますので…えっと、この後は」
ザルディーネさんは悪い人ではなさそうだけど、最初こそ準備はテキパキとしていたが徐々にその速度は遅くなり作業は朧げになりつつある。新人というのは本当なのだろう。
きっと、レングワード会長としても今回の仕事はなんとしてでも達成させたかったのだろうがそれでも船乗りが見つからず、仕方なしにザルディーネさんという新人を唆して使ったんだろう。そう思えばザルディーネさんも可哀想だとは思うが…。
「ラグナ…」
「ん?なんだ?」
「大丈夫でしょうか、ザルディーネさん…かなり不慣れなようにも思えますが…」
「まあ、そこは確かに不安だがせっかく見つかった船乗りだ…それにさ、都合がいい部分もあるかもよ?」
「都合がいい?」
「ああ、彼が海について知らないなら…例えば」
すると、ラグナは徐に作業をしているザルディーネさんに近づいて。
「なあ、ザルディーネさん」
「はい?なんですか?」
「ところでだがボヤージュバナナが取れる島ってどこか分かるか?」
「へ?あ…しまった、どの辺で取れるか詳しい場所は聞いてなかったな」
「それなら極上のボヤージュバナナが取れる場所を知ってるんだ。黒鉄島ってんだけど…」
「黒鉄島?…そんな島もエンハンブレ諸島の中にあったような。まぁ地図を見ればなんとなく分かると思うんで、ではそこに行きますね」
「ああ、助かるよ。何か俺たちにも手伝える事はあるかな」
「助かります、では帆を張るのを手伝ってください」
「ん、りょーかい」
と瞬く間にザルディーネさんの無知を利用して黒鉄島への渡航を約束してしまった。確かに新人だと言うのならその辺も上手く丸め込み易いか、航海の方もエリス達が補佐すれば案外なんとかなるかもしれないしな…うん。
不安に思うのはやめよう、せっかくラグナが頭を巡らせて手に入れたチャンス、せっかくザルディーネさんが好意的に船を出してくれてるんだ。そこをやっぱお前じゃ不安だから文句言うぜ!はちょっとアレだしね。
「エリスも手伝いますよ!」
「私も手伝います、航海の知識はありませんが多分大体のことは出来ると思うので」
「嗚呼、助かります」
そうして、波に揺れる船の上でエリス達はようやく黒鉄島行きの船へと乗り込むことが出来たのだった。
そうして…。
「よし!、では出発しまーす!」
「おー!」
波と風を捕まえてドンドンと進み出すヨット船。みるみるうちに陸が遠ざかり、揺らめく青の絨毯の如き海を駆け抜けて出航するエリス達。このまま進めばザルディーネさん曰く黒鉄島まで数時間程度で着くらしい。
「しかし、皆さんも変わった方ですね。エンハンブレ諸島に行きたいなんて」
「そうかな」
「そうですよ、さっきも言いましたがあそこは特級の危険領域ですよ?『マレウスの毒山』『灼熱の大地』に並ぶくらい恐ろしいと言われるあの場所に自分から志願して行きたがるなんて、まぁ私もその一人ですが」
真っ直ぐ進む船、あっという間に陸地があんなにも遠ざかって行く、意外に早いんだなぁ。こんな小さな船でも風を捕まえればこんなに早く進めるんだ…。
「毒山?灼熱の大地?物騒だな、海賊が出るからってそんな…」
「海賊だけじゃないらしいですよ、海流もそうだし魔獣も出ますし…何より怖いのは」
ふと、ザルディーネさんの方を見るとラグナの何やら話をしているのが見える。エンハンブレ諸島の話しか。エンハンブレ諸島にある危険…海賊ジャックと海流と魔獣、それ以外にも怖いものはあるとザルディーネさんは語る。
まるで脅かすようにニタリと笑うと。
「あの海には伝説の怪物がいるんです」
と、言うんだ。世界一の海賊に加え伝説の怪物まで…つくづくバラエティに富んだ海だな。
「それって人魚か?」
「人魚?あはは、いるわけないじゃないですかそんなの。それよりももっと現実的に存在が確認されている化け物…その名も『波濤の赤影』」
「波濤の赤影?真っ赤な波が襲ってくるのか?」
「違います違います、これは私も先輩から聞いた話なんですけど…波濤の赤影は魔獣、それもオーバーAランクの大魔獣の異名ですよ」
「オーバーAランク!?」
オーバーAランク…百年に一度出現すると言われる災害級の大魔獣、本来協会指定危険度の最高値たるAランクから明らかに逸脱した存在をオーバーAランクと呼ぶ。
アルクカースに出現した巨大なクラゲ型魔獣ジャイアントハイドロジェリー。
オライオンに出現した巨大なシロクマ型魔獣ディザスターアルバス。
マレウスに出現した巨大なドラゴン型魔獣キングフレイムドラゴン。
それが出現すればその国は瞬く間に滅ぼされ、魔女大国でさえ最高戦力やともすれば魔女自身が出撃せねばならないほどの怪物とされており、現冒険者協会の会長ガンダーマンがあれほど自堕落した生活を送りながらも冒険者からの尊敬を集めるのはこのオーバーAランクの単騎討伐という大偉業を成し遂げたからでもある。
そんな災厄の怪物があの海にいるって?ちょっと信じられないな、ともすれば人魚以上に。
「ってかオーバーAランクの出現頻度は百年に一度だろ?数十年前に出現したキングフレイムドラゴンは既に討伐されてるし、まだ現れるには早いんじゃないのか?」
「ええ、百年に一度の出現頻度なのは変わりません…つまり、この波濤の赤影…その名も『レッドランペイジ』が初めてその存在を確認された二百年前からずっと誰にも討伐されずマレウスの海の底で眠りついているという噂です」
「マジかよ…」
「二百年前に現れた時は海から複数の赤い触手を伸ばし海沿いの街を軒並み破壊し尽くし、当時の冒険者を殺し尽くし、誰にも手がつけられなくなったところでレッドランペイジは海の底へと消えていったそうで…、海の底にいるもんだから誰も手が出せず今日まで生き残り続けてるんだとか」
「そんなのが本当にいるのなら危険どころの騒ぎではないだろう…」
メルクさんの言う通りだ、危険過ぎる。ともすればジャックよりも危険だ、何せジャックは凶悪凶暴な海賊だが人間だ。ある程度のモラルや危機感を持ち合わせた人間、無闇矢鱈に地上や人間を襲うような真似はしないが…魔獣は違う。
自身の保身など考えず人を殺すことだけを考えている。殺意と厄災の権化こそ魔獣だ、もしそれが実在するならジャック以上に危険な存在だ、そんなものまでいるなんて話聞いてないぞ。
「まぁ飽くまで噂ですよ?まだあの海域に居るとは限りませんし、そもそも最後に地上を襲ったのも二百年前。もしかしたら寿命で死んでるかもしれませんよ、ただそういう危険な存在が海の底には居るぞって言う教訓だと思ってます」
「そんなもんかな…」
「まぁ飽くまで噂なので、他にも『上陸したら二度と出てこられない死神の住まう島と呼ばれる翡翠島伝説』とか『見たら死ぬ海に浮かぶドーナツ』とか」
「なんじゃそりゃ」
「そんな噂がたくさんあるんですよ、何せエンハンブレ諸島の調査はまだ完了していないんです。都市伝説も生まれますよ」
「うーん、ただの伝説ならいいが。オーバーAランクか」
そうラグナはちょっとだけ不安げに海を見る。さしものエリス達もオーバーAランクになると分からない、一国が総掛かりで戦っても勝てるか怪しい存在だ。もしそんなのが本当に居てエリス達の前に立ち塞がったら…どうなるのだろうか。
海は広い、陸より広い、未だ文明の光が当たらぬ未知の空間もある。エリスは未知をこそ尊ぶからこそ理解している。
闇の中にある未知ほど、この世に怖いものはないんだ。
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海に出て数時間、エリス達の予想に反してザルディーネさんは優秀でここまで特に問題なく進むことが出来た。もう陸は朧げに見えるほどに遠ざかり、逆に水平線の向こうに見えていたエンハンブレ諸島の数々が明確に見えるようになってきた。
「おおー!すごーい!もうこんなに近づいたんだー!」
トタトタとヨット船の上を駆け巡りデティは近く島に興奮して少しでも島を見ようと身を乗り出そうとした瞬間。
「うぉっ!?」
「キャッ!?」
「っバカフローア!危ねぇだろ!」
刹那、船が大きく揺れてデティの身が海に放り出されそうになりアマルトさんが咄嗟にデティの襟を掴み上げなんとか救出する、危うくデティが海の只中に放り出されるところだった。
「あ、あぶなー…落ちるところだった…」
「馬鹿野郎!お前泳げないんだろ!?はしゃぐな!」
「うえーん、そんな怒らないでよー」
「死ぬところだったって話だよ!」
「しかし急に船が揺れ始めたな…」
「どうやらエンハンブレ諸島の特殊海流に入ったようです。早い時間ならそれほどでもないって聞いたのに…こんなに酷いのか」
いきなり波が鋭く強くなり船が流され始める。どうやらエンハンブレ諸島の海流に入ったようだ。
いくつもの島が迷路のように連なるが為に狭まった波が動き加速するこの海流が、ある意味第一関門でもある、エンハンブレ諸島の海流は時として渦潮を生むともいう。下手に船を動かせばその渦潮に飲まれてエリス達はこの海に放り出されることになる。
そうなればどうなるか…、着衣入水ほど怖いものはない。
「大丈夫か?ザルディーネさん」
「た、多分」
多分か…怖い答えだな…。するとラグナは何かを決めたように小さく頷くと。
「うっし、なら俺が船の後ろについて船を押して泳ぐよ」
「え!?いけるんですか!?そんなの事が」
「いけるいける、メグ!水着出せるか?」
「問題ございませんが…大丈夫ですか?」
「問題ないよ」
スルスルとコートを脱いで瞬く間に水着に着替え…って!ら、ラグナ。なに躊躇いなく全裸になってるんですか…。お尻丸見え…うぉ、すっごい固そう…。
「エリスちゃん、見過ぎ」
「い、いやだってその…」
「そんな童貞みたいな反応しないの」
「せめて処女でお願いします!」
なんて言ってる間にラグナは瞬く間に水着に着替えてポーンと海の中に飛び込み…。
「うん、これなら行けるな。黒鉄島までの案内頼むぜ!」
「え?あ、はいこのまま真っ直ぐ」
「おっしゃぁぁあああああ!!」
海に飛び込み船の後ろにつけたラグナはそのまま船に手をかけたまま…バタ足。バシャバシャと水柱を上げながら泳ぐ。ヨット船だってそれなりのサイズだし、そこに何人も人が乗っているにもかかわらず、ラグナのバタ足によって船は加速する。
それもなんとなく速くなったとかではなく、帆が反対を向くほどの速さで激烈に加速を始めたのだ。
「うぉおお!?なんですかこれ!?冒険者ってみんなあんな超人ばかりなんですか!?」
「いやこれはあいつがちょっとおかしいというか…」
「我ら全員にラグナ程のパフォーマンスを期待されるとちょっと荷が重いというか…」
下手すりゃラグナなら船を持ち上げたまま海の上とか走りそうですよね…。そこまで来たらエリスも流石に引きますが。
「でも凄いよ!これなら直ぐに着くんじゃない!?」
「ええ、黒鉄島は…あちらになりますね」
そう言ってザルディーネさんが指差す先には一つの島がある。名前の通り…とでも言おうかな、黒い岩に囲まれた海岸と鬱蒼と生い茂るジャングル…見ただけで分かる、人の手が介在しなくなって長いと。
あの島にマレフィカルムの本部があるのか?でもここから見た感じ魔力とかは感じない。やっぱりロンディーノは嘘を言ってたのかな。
「どう見る?エリス」
ふと、メルクさんが双眼鏡片手に黒鉄島を観察する。どう見るもこう見るも…。
「分かりません、まだ答えは出せません。上陸して見ないことには…でもここから見るにあまり魔力は感じませんが」
「私も同感だよ、魔力は感じない…だがあのジャングルも少し気になる」
「気になる?何がですか?」
「何か…意図のようなものだ。何者かが何かを隠す目的で植林したのだろう。普通に自生してるにしては木々の数が多過ぎる、恐らくジャングルの向こうにある何かを隠す自然のカーテンとしているのだろう」
ジャングルの中にある何か、ライノさんが見たジャングルの中の漆黒の遺跡か。もしそれがマレフィカルムの本部だとするなら意図的に木の数を増やして隠しているという話も頷ける。
やはり上陸して、調べてみる必要があるか…。
「ん、これだけ近づけば大丈夫だと思います。ここからは手漕ぎのボートで向かってください」
「あいよ、任せな」
十分黒鉄島に近づけた。後は上陸用の小型ボートで黒鉄島に乗り込めば調査を開始出来る筈だ。ラグナが海から這い上がり濡れた犬みたいにブルブル体を震わせている間にエリスとネレイドさんでボートを海に浮かべる。
「いつでも行けます!」
「おう、ザルディーネさんはここで待機しててくれ。直ぐ戻ってくる」
「分かりました、ボヤージュバナナを頼みましたよ」
「はいよ」
八人全員でボートに乗り込めばまぁギチギチだ、それでももしかしたらあの島に本部からあるかもしれないし戦力は十全に連れて行きたい。ザルディーネさんだけをヨットに残してエリス達は小さなボートに乗り込んで櫂を持ち、ネレイドさんがボートを漕いで行く。
「い、いよいよ黒鉄島だよ…」
「ああ、もしかしたら彼処にマレフィカルムの本部があるかもだな。どうする?ラグナ、もしマジで黒鉄島があったら…」
「取り敢えず様子を見て行けそうなら殲滅する、無理そうなら一旦退却してその後方法を考える」
「八大同盟が居るようには見えんしな…」
「というか魔力も人の気配も感じませんね」
「もし居なかったら、また振り出しですね」
「何かを掴めることを祈りましょう」
「わっせ…わっせ…」
ネレイドさんの腕力で荒波を超えて黒鉄島を見据える、彼処に本部があればそれでよし、無ければ…うん、取り敢えず上陸してから考えよう。
「しかしここ、岩礁が多いな…海の底がデコボコしてる」
「海の上に飛びて出る岩も多いですからね。波に濡れて岩が黒くなってます」
「もしかしたらそれが名前の由来かもな」
波に濡れて黒く染まった岩が島の周りを囲むように立ち上る、そんな柱の一つを指差して話し込んでいると…。
ふと、何かが気になって…後ろを見る。
すると…。
「ん?え!?あれ…?ザルディーネさんの船、遠ざかってません?」
「違うぞエリス、我々が遠ざかって…いや待て、ザルディーネの奴船を出してないか?」
「えぇーっ!?」
ラグナが慌てて後ろを見る、みんなも見る、するとそこには畳んでいた帆を慌てて開いてものすごい勢いで島から離脱していくザルディーネさんとヨット船の姿が…いや、いやいやいや。
何してんだあの人!?
「お、おい!ザルディーネさん!なんで船出してんだよ!おい!」
「私達置いていかれてなーい!?」
「え?何?アイツ裏切ったの?」
「裏切ったというか…そもそも裏切るってなんでこんなタイミングで」
まさか嘘をついて依頼を出させたことがレングワード会長にバレた?いやだとしてもこんなことするか?第一こんな…こんな、ダメだ!訳がわからない!
「まずいぞ!こんな小船では帰還出来ん!ネレイド!急いで引き返してくれ!」
「ま、待ってね…」
「……違う、ザルディーネさんは裏切ったんじゃない」
「え?」
ふと、デティが船の上に立ち…ザルディーネさんの船を見据え…。
「あの人は…『逃げてる』の、怖がって逃げてるんだよ!」
「逃げるって何から…」
そう、エリス達が疑問を口にした瞬間…それは音と光景を以ってして答えを出す。
船乗りたるザルディーネさんが恐れ、逃げるものなど海の上では一つしかない。
そう、それこそが…。
『アホォーイ!なんだなんだ!久しく故郷の海に戻ってくりゃあ小魚みてぇな船が俺の縄張りを荒らしてんじゃあねぇ〜かよ』
「っ!?」
反り立つ岩柱の陰から、隠れていたそれが姿を見せる。エリス達が乗ってきた船よりもずっと巨大で…ずっと雄大な船頭がぬるりと現れ、それを見せる。
船の上で、最も見たくないものとは何か?
嵐の雲?壁のような津波?
違う、違う…違うのだ。エリス達がその存在を予測しつつもあり得ないと切って捨てた可能性。海の上で最も見たくないそれが目の前に現れる。
そう、それこそ…恐怖の象徴。
風にはためくジョリー・ロジャー…髑髏の旗、海賊旗だ。
『テメェら、この海が誰のモンか分かってンのかぁ?この海は…海賊の中の大海賊!俺様海魔ジャック・リヴァイア様のモンだって…オカーちゃんから習わなかったかよ』
「嘘だろ…、こんな最悪な偶然…あるのかよ」
ラグナが思わず吐露する、こんな最悪な偶然と。
事実として可能性は低かった、あり得ないと言ってもいいくらい低かった。この広大な海で偶然…偶々ジャック・リヴァイアの海賊船に出くわすなんて砂漠の中から一粒の砂金を見つけるような極々小さな可能性。
だが、どうやらエリス達は引き当ててしまったようだ…よりにもよってな最悪の可能性を。
『沈められても、文句ぁ言えねぇよな』
馬鹿でかい海賊船が現れる、岩の陰にたまたま死角になっていたそこから現れエリス達の退路を塞ぐように現れた巨大な海賊船の淵に立つ眼帯の男が、身の丈程の巨大なカトラスを手に豪快に笑う。
その姿を見ただけで分かる、本人も事実として名乗っていた。
あれが…あの大男こそが。
「海洋最強の男…ジャック・リヴァイア!?」
「ヤベェぞラグナ!こんなボートじゃ太刀打ち出来ねぇ!ウニみたいに砲門ついてるぜあの船!」
「ぎゃー!!出たー!海賊ー!」
「くっ!こんなことがあり得るのか…!?」
皆慌てる、こんな海の上で出会い戦っていい相手じゃない。そもそもあんな巨大な海賊船とボートじゃ勝負にならない。
ザルディーネさんは気がついていたんだ、エリス達からは死角になって見えなかった…島に気を取られて気配すら感じ取れなかったあの船にいち早く気がついて逃げたんだ…。いやじゃあせめて一声かけてよぉ!
「ッ!ネレイド!全力でボートを黒鉄島へ!あの船じゃ上陸は出来ない!陸まで逃げれば取り敢えず迎撃できる!」
「う、うん!」
『あぁ?陸まで逃げれば?…冷めてんなぁ陸の男は。敵を前にしたら…やるこたぁ一つだろうが!』
刹那、ジャック・リヴァイアが飛び上がる、巨大な船から飛び降りてこれまた巨大なカトラスを振りかぶりながらこちらに飛びかかってくる。
砲門を使わず自分で攻めてくるの!?いや…多分、そっちの方が強いんだ。『大砲で撃つより海の上ではジャック・リヴァイアの方が強い』のだ!
「来る…!」
「仕方ねえ!ここで迎え撃って…!」
「迎え撃つって!こんなボートの上で!?」
『もう遅い!』
ジャックの咆哮と共に、その手に持つ刃に蒼の魔力が迸り…。
「うぉらぁぁっ!!」
『おっ!?』
刹那飛び上がるラグナの蹴り、それが振り下ろされるジャックの剣撃を受け止め上空で絶大な衝撃波が打ち鳴らされボートが揺れる。
凄まじい揺れだ、目の前で爆弾が破裂したかのような腹の底に響く重音にエリス達は思わず驚愕の声を上げる。けど…それ以上に驚いたのは。
「嘘だろ、アイツ…ラグナとパワーで互角に張り合ってるぞ!」
「あんなの初めてみました…」
ラグナの蹴りとジャックの剣。それが互いに一寸も引くことなく虚空で鬩ぎ合っているのだ。ラグナの蹴りが…だ、完全に防がれたばかりか一歩も譲ること無く張り合うジャックのパワーに驚愕しているのだ。
(こ、こいつ…強え!?)
「やるもんだな、陸の男もよぉ!」
更にそこから加えられるジャックの連撃、空を切り裂くような斬撃の雨に寧ろラグナの方が押され吹き飛ばされる始末。
ラグナがここまで単独の人間に押されたのはいつ以来か?少なくとも三年前まで遡らなければここまで苦戦した事例は見つからない。
強い、ラグナが冷や汗をかく程に強い。初めて相対したこの世界の裏側を牛耳る巨悪の一人…三魔人の威容に否が応でも背筋が凍る。
だが…。
「ッ!引けねぇ…!死んでも仲間には手は出させないッ!!」
それでもラグナは引かない、クルリとボートの上に着地し構えを取り戦いを継続する姿勢を見せる。相手が強いから恐ろしいからというのは逃げる理由にはならない、今後ろに仲間がいる以上絶対に…一歩も引かない。
そんなラグナの覚悟にも似た視線を見たジャックは浅く笑い。
「へぇ、意気込むねぇ…面白ぇ。なら守ってみろや!俺から!」
刹那、再び剣を振り上げ海に叩きつけるように吼える。ジャックの全身から迸る尋常ならざる魔力、何か大技が来る事は容易に想像出来る。だが例えなにが来たとしても俺はみんなを守る…そんな風に身構えた瞬間。
飛んできたのは。
「『マーレ・ドミネーション』ッッ!!!」
───それは、爆ぜた。
大海に向けて振り下ろされた剣から放たれた魔術、マーレ・ドミネーションはラグナ達のボートに…否、足元の海に降り注ぎ。
その瞬間、海洋が…この雄大にして無限の海が変形し、雲に穴を開けるほどの巨大な水柱を上げて爆裂した。
「なっ───!?」
抵抗の暇などなかった、抵抗の術などなかった。一撃で海そのものを粉砕する一撃が飛んできてエリス達の乗るボートはあっという間に粉々に粉砕され、エリス達を吹き飛ばし海の中へと叩き落とした。
「ガボ…ガガ…」
気がつけばエリスは白い泡を口から吐いて海の中へと沈んでいた、皆もまた沈んでいた。あまりの衝撃に全身が痺れ動くことさえ出来ずエリス達は青い海に飲み込まれていく。
(ダメだ、動いてみんなを助けなきゃいけないのに…もう、意識が…)
黒く染まる視界、力が抜けていく体…。
この日魔女の弟子八人は、海魔ジャックの手によって…一撃で全滅の憂き目を見るのであった