向日葵
ルカが船の側にまで泳いで行くと少女は再び海に飛び込んだ。
少女はルカの体の下に潜り込み、彼の尻を両手で押し、右の腹から出てくる真っ赤な血を顔に浴びながら、彼の体を船の上へと押し込んだ。
ルカは釣り上げられた魚のように甲板へ滑り込んでいく。
それから少しして、息を荒くした少女も甲板へ上がってくる。
「ほ、本当に助かったよ。ありがとう」
ルカは揺れて霞む少女の姿を見つめながら礼を言った。
相変わらず腹からは血が流れ続けていて、手足は鉛のように重く冷たかった。
「ちょっと! ここまでやってあげたのに死なないでよ!」
少女の慌てた声が遠く向こうから聞こえた気がした。
その次の瞬間、ルカは意識を失った。
目を覚ました時、死んでしまったのかと思い違いした。
冷え切っていた体はすっかりと温まっていたし、辺りにはトマトスープの良い匂いも漂っていた。それはまるで、幼い時の暖かな記憶の中にいるようだった。
「起きたのね」
その声がルカを現実に戻した。ハッとして辺りを見回す。
小さな部屋にいた。窓の外は真っ暗。テーブルの上に置かれたロウソクが部屋の中をぼんやりと照らしている。どうやら夜らしい。
ルカは腹に包帯を巻かれてベッドで横になっていた。そして、すぐ隣には赤髪の少女が椅子に座って本を読んでいた。
「ここは、君の船の上?」
少女は「そうよ、」と短く答えた。
それからルカの顔をちらと見て言葉を付け足した。
「お腹が千切れてるとこ悪いけど、明日から働いてもらうから」
少女は本をテーブルの上に置き、淡々と言う。
冷たくはない。けど、気を遣ってくれてる訳でもないようだ。
「働くっていうと、君の《《集金活動》》を手伝えばいいのか?」
ルカなりに気を遣った言い方だった。
しかし、少女はその言い方が気に食わなかったらしい。少しだけ表情が険しくなる。
「そうよ。この辺りにやってきた間抜けな奴らから金目の物を奪うの。でも気にすることはないのよ。この海にやってくるのはみんな悪人だから」
ハッキリとした口調で告げられ、ルカは少しだけたじろいでしまった。
しかしすぐに姿勢を正し、口を開く。
「俺はこう見えても、元――」
「海軍なんでしょ? それも下っ端の方の」
少女はルカの言葉を手で遮ってから言った。
「そうだ」とルカは驚きながら答える。
「そんなに珍しい事でもないわ、時々海に浮かんでるのを見るの。でも面白いのよ、あなた達みたいなのって、みんながみんな悔しそうな顔をして浮かんでるの」
少女はからかうように笑って言った。
「で、あなたは何をしでかして魚の餌にされたの? 軍のお金でもくすねた?」
少女は椅子に浅く腰を掛け、前のめりに尋ねた。
「それよりまず、名前を教えてくれないか? 俺はルカっていうんだ」
ルカはふぅと息を吐いてから言った。
きっと、海に沈んだ事情を話せば笑われるんだろうな。と、ついでに腹も括った。
「可愛い名前ね。私はアリアよ。それでルカ、あなたはどうして右のお腹を裂かれた上に海に捨てられたの?」
アリアは更にぐいっと前屈みになって言った。
数分後に彼女が腹を抱えて笑っている姿が、ありありと目に浮かんだ。
「あ、あなたって夢見る少女みたいね」
予想通り、アリアは腹を抱えて笑った。
「どういう意味だよ」
「だってそうじゃない。正義なんてものを信じてるだなんて……」
彼女はまた大きな声で笑い始めた。
今度は餅を喉に詰まらせたように苦しがって笑った。そして、ヒィヒィと息を吐きながら言葉を続けた。
「正義なんてものを信じるのなんて夢見る少女か本物のバカよ。見た所、あなたは脳みそがちゃんと詰まってそうだし――」
彼女はそこまで言って我慢の限界が来たのか、ついに床を転げ回って笑い始めた。
当然、話を続けられるはずもなく、ルカはトマトのスープを勝手に飲んで暇を潰す事にした。
「なんでやり返さなかったのよ、あなたにとって彼らは悪人だったんじゃないの? あ、彼らっていうのは、あなたを海に放り捨てた上官達ね」
床に寝転びながらアリアは言う。
その瞳は小さな子どもが見せるような、純粋な疑問を投げかける瞳だった。
「どうしようもないだろ、俺は一人だったんだ」
「だから生きる事も諦めて、ぼーっと海に沈んで行ってたの?」
「だから殴り返す事もしないで、行儀良く腹を裂かれたの?」
アリアは矢継ぎ早に質問を投げかけた。
少しだけ、意地の悪い顔をしていた。
「少し眠らせてくれ」
ルカはそれらに答えずベッドの中に逃げ込む。
「はいはい。おやすみなさい、お嬢さん」
アリアはロウソクの火を吹き消し「また明日」と言って椅子の上で目を閉じた。
ルカは何も言わず、波の音に耳を傾けながら眠りについた。
次にルカが目を覚ました時、またも窓の外は真っ暗だった。
前と同じようにロウソクに火が灯り、前と同じように良い匂いがした。
そして、前と同じように横を見ると、やはりそこには赤髪の少女がいた。
「俺はどのくらい寝てた?」
アリアに声を掛ける。
彼女はテーブルに頬杖をついて瞼を閉じていた。
「あら、起きたのね」
彼女は瞼を擦ってからこちらを見た。
そして「二日くらい」とあくび混じりに答えた。
「そんなに寝てたのか、悪かった。明日からちゃんと働くよ」
ルカは体を起こして腹の具合を確認した。
包帯に血は滲んでいない。つい先ほど変えられたように真っ白。
具合が良いのかと思い、試しに傷口を触ってみる。激痛。
「いいのよ。昨日は嵐だったし今日は全く風が無かったの」
彼女はそう言うと、木製の器にスープをよそった。
そしてそれをルカに手渡す時、「丁度良かったのよ」と声をかけた。
「君は魔法使いってやつなんだろ、なんで海賊なんかやってるんだ?」
スープを半分ほど胃に流し込んでからアリアに訊ねた。
スープはやはりトマトのスープで、冷えていたが味は良かった。
「魔法使いなんて呼ばれる程じゃないけどね。魔法だって一日に数回しか使えないし、それに今時、魔法が使えたってお金にならないのよ」
アリアはそう言うと、人差し指の先に火を灯して見せた。
その火は彼女の指の動きに合わせて形を変えた。指をくるっと回せば火の玉に、指を左右に振れば火の縄に、指の関節をクイっと曲げれば、――火は鳥の形になり、生きてるかのように羽ばたき始めた。
「そういうものなのか」
ルカは感心しながら言う。
「そういうものなのよ」
アリアはため息を吐いて返事した。
それから彼女は火の鳥を部屋に放ち、椅子の上であぐらを組んだ。
ルカは火の鳥を目で追いかけながら、アリアに出会った時の事を思い出していた。
周りの水が一挙に消え去り、そこに突然現れた不愛想な少女。
――そういえばあの時、彼女は何かを言っていた気がする。
「そういえばあの時、鯨がどうたらって言ってなかったか? 俺を助けてくれた時だよ」
「あぁ、あなた白い鯨って知ってる? 腹ぺこの白い鯨」
アリアは頬を掻きながら言った。
「知ってるも何も、有名なおとぎ話だろ? 子どもの頃にみんな聞かされる」
ルカは簡単に答えてみせた。
それからそのおとぎ話を思い出しながら口にしてみた。
「たしか、北の海にはいつも腹を空かせてる白い鯨が住んでるってやつだよな」
記憶を探りながらアリアに確認する。
「そう。そしてここはその北の海」アリアが相槌を打つ。
「白い鯨はいつも腹を空かせてて、沖に出た子どもを丸呑みにしてしまうんだよな。――親父に口うるさく言われたてたよ。『一人で沖に出ると白い鯨に食べられるぞ』って」
「優しいお父さんね」アリアが笑う。
「それから、どうなるんだったか……」
結末を思い出そうと頭を捻っていると、アリアが痺れを切らしたように口を開いた。
「丸呑みにされた子ども達は不思議な世界に飛ばされるのよ。鯨の臭い腹の中で死ぬ訳じゃないの」
アリアの赤い瞳は、子どものような強い光を帯び始めていた。
「あぁそうだった。食べられた子どもは親と離れて暮らす事になりました。みたいな暗いオチだったな」
「何言ってるの。ハッピーエンドじゃない」
彼女がそこまで言うと、ルカにもこの話のオチが分かってきた。
嫌な予感を飲み込みつつ、訊ねてみる。
「もしかして、白い鯨を探してこの海に?」
「そうよ」
彼女はけろっと答える。
「もし白い鯨が見つかったら……、食べられに行くのか?」
更に嫌な予感を胸に、訊ねてみた。
「当たり前でしょ。その為に探してるんだから」
彼女は変わらずけろっと答える。
「あれは作り話だ、白い鯨がいたとして、食べられても真っ暗な腹の中。話はそれでおしまいだ。不思議な世界なんてものはない」
「そうなった時は、こうすればいいのよ」
アリアはそう言うと、パチンと指を鳴らした。
その音を合図に、部屋を飛び回っていた火の鳥がボンと音をたて爆ぜる。
「夢見る少女同士、仲良くしましょう」
彼女はそう言って、綺麗に笑った。