夢の変化
「ああ、またか」
渉は夢を見ていた。
結末の分かっている悲しい夢。
今まで何度も見てきた後味の悪い夢。
目が覚めれば内容は忘れてしまうが、悪夢を見た後の胸の苦しさだけはしっかり残る。
夢の内容はこうだ。
女が大蛇に食い殺される。二人の子どもが泣き叫ぶ。大蛇が渉も殺そうとする。そして、目を覚ます。夢の細部が異なることがあっても、大筋は変わらない。
渉はため息をつき、これから起きる悲劇に対して心の準備をする。
(あれ?)
渉は背中に柔らかい、妙な感触を感じた。誰かが背後から自分を抱きしめているのだ。今までにない夢のパターンだ。大抵は、女が大蛇に締め上げられている場面から始まるのだが……
(いったい誰が……)
ドキドキしながら、渉はゆっくりと肩越しにその人を見る。それは大蛇に殺されるはずの女だった。渉の心臓は飛び上がった。
これまでの夢では靄がかかったように、はっきりと見れなかった姿が今、目の前にある。しかし、驚きはすぐに薄れ、渉は女に釘付けになった。
(きれいだ)
素直にそう思った。野性味のある美しさだ。茶色の瞳が哀しく渉を見つめている。そして、ふくよかな唇を必死に動かし、何かを伝えようとしているが、言葉は音にならず、虚しく霧散する。
渉は、背中からまわされている女の手をゆっくりとほどき、対面した。
背は渉より少しだけ低い。肩で切りそろえられたさらさらした赤髪。スリムではあるけど、猫科の動物のようなしなやかさを感じさせる薄褐色の身体。
観察するような渉の視線を全く気にしないで、女は頭を左右に振り、哀願するように一度ほどかれた腕で今度は前よりも強く渉を抱きしめた。渉は焦った。
「あ、あの、あなたは誰ですか?」
女は、渉の問いかけには反応を示さず、目を見て必死に何かを訴え続けている。女の言葉が渉に聞こえないように、渉の言葉も女に届いていないようだ。
「あなたは誰ですか?僕のことを知っているんですか?」
思いは互いに伝わらない。
女の目から涙が溢れ出す。
「どうして泣いているんですか?」
そう問いかけた渉の目からも涙が流れていた。
(あ……れ?なんで僕は……泣いてるんだ……?)
女はそんな渉を愛おしそうに今度は優しく抱きしめ、涙をぬぐってくれた。渉は言いようもない切なさを胸に感じた。
その瞬間、女の身体に太く白いものが巻きつき、すごい力で渉から引き離された。起きるとわかっていたとはいえ、渉は戦慄した。
それは蛇の尾で、あっという間に女の全身をとぐろ巻きにした。女はそこから抜け出ようと身体をよじらせるが、ピクリともしない。
巨大な白蛇。
渉の腰よりも太く、その長さは渉の5,6倍はある。
その姿はいつもより圧倒的な存在感を放っているように渉は感じた。
薄暗い夢の空間で、白蛇に締め上げられている美しい女。幻想的な風景でさえあった。
白蛇は冷たい目で女ではなく、渉を見ている。渉は女を助けようとするが、金縛りにでもあったように足が動かない。足だけでなく全身も同じだ。目だけが目前の残酷な光景を執拗に追っていた。
メキメキ……
声はまったく聞こえないのに、骨が悲鳴をあげる音は生々しく聞こえてくる。そして、いつの間にか現れた二人の子どもが白蛇の両脇ですすり泣いている。下を向いているので顔は見えない。子どもが現れるのは夢の終わりのサインだ。
(またダメなのか。またいつもの終わりを迎えてしまうのか)
渉は悲惨な結末を変えられないことへの苛立ちと諦めを強く感じた。ここまで強烈な感情は今までの夢ではなかったものだ。夢の中で起こった変化は、渉の感情へも大きな変化をもたらした。
白蛇は相変わらず渉を見ている。時々真紅の舌を宙に這わせて、挑発するふうでもなく、軽蔑するふうでもなく、ただ渉を見ている。
(その人を……よくも!)
渉は怒った。これまで夢の中で観察者にすぎなかった渉は今日当事者になった。しかし、結末は変わらない。
メキメキ……ガキ!
今までより強い音が響いたかと思うと、女は血を吐き、絶命した。
渉はその残酷な描写に耐えきれず、目を逸らした。白蛇は動かなくなった女を飲み込み始めた。
(何もできなかった……)
怒りと無力感。
そんな感情の奔流に揉まれながら、一つの疑問が浮かび上がってきた。
(どうして夢に変化が……?)
何度もこの夢を見てきたが、女の顔どころか、その姿はぼやけていて、何とか女性であることがわかったくらいだった。しかし、今日は髪の毛一本一本、瞳の色、身体の動きまでが鮮明だった。白蛇も同じだ。冷たい目、チロチロした真っ赤な舌、鱗一枚一枚の鈍い輝き。以前はここまではっきり見えなかった。
白蛇は女をゆっくり丸飲みにした後、頭を渉の方に向け、ズルズルと這いはじめた。
(夢の終わりか……)
その思いに反して、白蛇が迫る。
鼓動が速くなる。
(まだ、なのか?)
白蛇はさらに渉に迫り、鼻先に赤い舌が届くまでの距離になった。夢の変化はここにも表れていた。いつもなら、白蛇が渉に向けて動き始めた時点が夢の終わりなのだ。
白蛇が口をゆっくり開け始める。渉は心臓を強く掴まれるような恐怖を感じた。口内は真っ暗だった。暗闇から赤い舌がチロチロと不気味に蠢ている。
(夢が……終わらない……?)
渉は頭から暗闇に飲み込まれていく。
(いやだ!こんなところで死んでたまるか!)
その叫びは虚しく暗闇に散っていく。
その時、渉は闇の中に小さな光を見た。光は徐々にだが、確実に大きくなり、そして弾けた。
優しい光の中で渉の意識は夢から現実世界へと引き戻されていく。
「ーーちゃん!わたるちゃん!起きて!朝だよ!」
「うーん、あと5分……」
「だーめ!朝ごはんもうすぐできちゃうよ!凛の言うことを聞かない悪い子にはこうだよ!」
ドスン!
凛はピョンと飛び上がり、お尻で渉のお腹に着地した。
「グハッ!」
その衝撃で渉は跳ね起き、布団の上の凛のおでこに、自分のおでこを衝突させてしまった。
ガツン!!
「「イター!」」
渉と凛は目から火花を出しながら、そのまま布団に仰向けに倒れた。
「う、うーん……凛ちゃん、大丈夫?」
渉はふらふらと半身起き上がり、倒れている少女に声をかけた。しかし、反応がない。
(あ、あれ?もしかしてひどいことになってる?)
渉は凛ににじり寄り、さっきより大きな声を出した。
「凛ちゃん!大丈夫?」
まだ反応がない。少女らしい華奢な身体は布団の上でピクリとも動かない。長いまつ毛がかかった大きな目も、薄いピンクの唇も固く閉じている。
(これは……本当にまずいかも……)
「よし、貴洋さんを呼んでこよう」
貴洋は凛の父親だ。空手の先生で簡単な怪我の治療もできる。渉は立ち上がり、障子を開け、廊下へ出ようとした。すると、「その必要はありませーん!」と渉の背中に凛が飛びついた。
「へっへー。おんぶだよー、わたるちゃん!」
「り、凛ちゃん!?」
「心配した?だましてごめんね!」と舌をペロリ。
「おでこ、大丈夫?」
「だいじょうぶだよ!凛、石頭だから!」と白い歯を見せて、凛は笑った。
渉もつられて笑った。そして、背中に凛をおんぶしながら、ふと思った。
(背中に人……夢で似たようなことがあったような……)
しかし、いつものように詳細は何も思い出せない。夢のせいで悲しみや怒りを感じたことは覚えていたが、凛のおかげで弾き飛んでしまった。
「わたるちゃん、まじめな顔でどーしたの?」
「何でもないよ、凛ちゃん。朝ごはん、食べに行こうか」
「そうだね!今日のお煮付け、凛が手伝ったから、きっとおいしいよ!」
「それは楽しみだ」
渉は凛をおぶったまま、居間に向かった。
庇からポタポタ落ちている水滴が日の光に照らされて輝いている。
方舟サクラでの新しい一日が始まった。