お気に入りの御茶はひとつだけなんです
先日の舞踏会の一件から、私はある習慣がひとつ増えた。
そう、護身術の授業を受けることである。
腐っても爵位持ちの令嬢なのだから護衛を雇おうという提案が多数上がったのだけれど、自分の代わりに誰かに危ない目に遭ってもらうというのはどうにも頷く気になれなかった。それに一人の時間も無くなるし。
そういう訳で此方から申し出たのが護身術を会得すること。
これなら自分ひとりで出来るし、足の速さには昔から自信がある。襲ってきた相手に技をかけて出来た隙に逃げるぐらいなら何とかなるだろう。
とはいえ授業はまだまだ始まったばかり。暫くは基礎の技の繰り返しと体力作りがメインになりそうで、その間はせめて一人にならないようにという両親の意見から、使用人が誰かしら付くことになった。
もちろん使用人には使用人の本来の仕事がある。ただでさえ要らぬ手間暇をかけさせているのだ、それを妨げないようにしようと思えば、自然、用事がなれけば自室から出ないようになってしまう。まぁ元々インドアな性格だからただ本を読み続ける生活もいいのだが、しかし日向ぼっこをしながらのんびりと外を歩くのも好きなので心の何処かがうずうずする。
侯爵家から御茶の誘いがあったのはそんな時だった。
招かれた屋敷の中庭。よく手入れされた花がその花弁に露を纏わせながら咲き誇っている。
紅茶を淹れてから一礼して去ってゆく使用人の後ろ姿をぼんやり眺めながら聞く。
「件の侍女さんにもこうして御茶を淹れてもらってたんですか?」
「唐突だな君は……でも、そうだな。よく貰っていたよ。好きな味だった」
湯気の立つカップを口元へと運びながら彼──レオナルド様は思い起こすように答えた。
「特別卓越したものではないのに、どこか優しい味に思えてね。よくせがんだものだ」
そんなことも、もう、酷く遠いことに思える。
ため息と共に吐き出されたその言葉に、
(……愛しておられるんですね。とても)
そんな分かり切った事しか返せない自分の口を噤んだ。
「──侍女さん。どんな方だったのですか?」
代わりに出たのはこれまたありふれた質問。
けれども個人的には護身術よりも、ずっと大事な授業の場だ。
「彼女……ミリは、まだ幼い時分から家に仕えてくれてね」
十は年上の侍女たちに囲まれて、彼女たちと同じだけの仕事の成果を求められては失敗して叱られて、庭の隅でひとりこっそり泣いている。そういう少女だったらしい。
「最初に彼女を彼女として認識したのも、そんな時だった」
公爵家のご令息の登場には彼女、ミリさんも大層驚いたようで暫くの間、石のように固まってしまったらしい。
「その間も止まらない涙をハンカチで拭いて、そうした時のミリの顔は、赤くなったり青くなったりで」
それはそうだろう。
この王子様然とした見た目の少年に涙を拭かれて頬が赤くならない人がいるだろうか。
そして、仕えるご令息のハンカチを涙で汚して青くならない使用人がいるだろうか。
酷いパニックに襲われたであろうことは容易に想像できた。
「社交界への参加もまだだった当時の俺にはまだ友達が足りなくてね、同じ屋敷で過ごす同じ年頃の子は気になる対象だった。ましてそれが魅力的な子となれば余計にね」
ハンカチは洗って返しますと慌てる彼女の提案に乗って、それがキッカケになって、よく話すようになったらしい。とはいえ話しかけるのはレオナルド様の方。ミリさんは殆ど聞き役となっていたらしい。
「思い返してみれば、彼女から聞けたのは名前と故郷の話ぐらいなものだった」
その故郷はおそらく嘘だった。もしかしたら名前だって。
いや、しかしそもそもそんな素性の分からない人間を侯爵家がおいそれと雇うとは思えない。彼女に、あるいはその周囲に、何かしらのっぴきならない事情があるという結論が浮かぶのは容易だった。
「……俺は彼女のことを何も知らないのかもしれない」
それでも。と、彼は言葉を続ける。
「心の美しい子だということだけは、ちゃんと知っている」
場所を変えようか。
おもむろにそう言ったレオナルド様の後ろをついていき、屋敷の中を歩く。
人払いがされているのか廊下には誰の姿も見当たらなかった。
「──まだ俺たちが幼い頃の話だ」
一人で買い物に出る仕事を任されたミリが心配で、一緒についていったそうだ。
もちろん一介の侍女であるミリはそれを聞いて大層恐縮した様子だったが、レオナルド様に退く様子が微塵もないことにとうとう音を上げた。主人の提案を拒否し続けることも恐れ多かったのかもしれない。
一応の変装としてフードを目深に被ったレオナルド様を引き連れて、屋敷を出て大通りへと向かった。
ざわざわ、と。
いつもの喧騒とは異なる気配を2人は感じた。
人だかりの視線の先を追う。
そこには、まだ小さな黒猫がいた。
馬車にでも轢かれたのだろうか。後ろ脚が潰れているのが遠目にも分かった。
息はあるのだろう。弱り切った高くか細い鳴き声が耳に届いた。
不幸の象徴として扱われがちな黒い猫だが、それを襲った不幸を喜ぶ人はいなかった。
だが同時になんとか救おうとする人もまたいなかった。遠目に見ているばかりである。
そこに飛び込んだのが、ミリだった。
自分の服や手が汚れるのを微塵も躊躇う様子もなく、その黒猫を胸に抱えた。
腕白盛りで好奇心に満ちた年頃のレオナルド様でも触れようとは思えない有り様の猫を。
「──聖母のように思えた」
彼女には治癒魔法は無かった。優れた医療技術がある訳でもなかった。
それでも、眺めるばかりの人だかりを抜けて、救いを求める中心へ、まっすぐ手を差し伸べたのだ。
誰か、と。彼女は言った。
誰か、お医者様はいらっしゃいませんか、と。
彼女の声に応じる者はいなかった。
触るのも躊躇われるものを、死が近いものを、躊躇なく抱えて見せた彼女の異常性が、人々を恐れさせた。
人だかりは、やがて少しずつほぐれていった。
見ないことにして歩を進めることを選んだのだ。
そうして彼女の呼び声はいつもの喧騒に埋もれた。
嗚呼、神よ──血で汚れた手を重ねて祈りを捧げる彼女の姿。
そこから先の数分間を、彼はしっかりとは覚えていない。
ただ、彼女へと手を伸ばしたことと……そうして聞こえた猫の戸惑うような声。それだけだ。
「僕が治癒魔法を使えることが分かったのはその時だ」
血まみれだった筈の黒猫は、それがまるで幻であったかのように彼女の膝にちょこんと座っていた。
潰れていたように思えた後ろ足も、健在に見える。
魔法のような光景に、事実として魔法であったことを彼女が教えてくれた。
ありがとうございます……っ。
まるで神を前にしたかのように、血まみれのまま祈りを組む彼女の両手を、震える両手を包んだ。
「……救ったのは僕じゃない」
彼女だ。
彼女が救いたいと願った。
その彼女を、救いたいと願っただけのことだった。
「さて、そこからだ」
彼女から離れる様子のない猫。血まみれのエプロンドレス。集めてしまった衆目。
それらを誤魔化せる技量はなかった。
あれやこれやと悩んだものの、結局は両親に正直に話すしかなかった。
ひどく怒られると思ったが、しかし両親はレオナルド様に発現した治癒魔法と、その精度の高さの結果である猫の健康な様子に、喜ぶばかりだった。
「此処だよ」
そうして招かれたのは、彼の持つ自室のひとつだろうか。暖色を基調とした管理の行き届いた部屋だった。
「ノワール」
そう呼ばれてのそりと顔を上げたのは、ソファーで丸まっていた黒猫だ。赤いリボンがよく映えている。
「周りが甘やかしたものだから、少し大きく育ってしまってね」
確かに、通常よりも些かふくよかであるように見える。
でも確かに愛情を受けて育ってきたことをその穏やかそうな気性が教えてくれた。
ノワールの喉を撫でながら、でも、とレオナルド様は続ける。
「ミリがいなくなってからすっかり落ち込んでしまった」
それはお互い様だとでもいうかのように、ノワールは間延びした声で鳴いた。