この婚約は秘密の契約なんです
準男爵家当主の長女として生まれた私には、とある問題があった。
まるで貴族のような位を持つ我が家だが爵位としては最下位、実際としては平民だ。しかも出世欲の薄い人間ばかりのよくぞこの位を賜ったと言いたくなるような一族で、私はそれに輪をかけたように淡泊な性格だった。
何かを、誰かを好きになったことすらない。
いや、厳密にいえばちゃんと家族も友人も好きだ。だが、なにかに対して焦がれるような執着を伴う感情を抱いたことはない。有体に言えば『親愛』というものは分かっても『愛』というものがよく分からない。
だが問題といいつつも、私は特にそれを問題視していなかった。恋愛をする予定もなく、婚約者もなく、あって政略結婚だろうから、下手にそんな感情があっても邪魔にしかならないだろうと思ったからだ。
そんな私に飛び込んできたのは、侯爵家の跡取り息子からの求婚だった。
貴族のなかでもとびきり高位の家から、平民に。
社交会で挨拶をしたことはあるが、これといって特別な交流があった訳ではない。私が彼について知っているのは噂ばかりで、それだって本当かどうかなど分からないし、さして興味もなかった。
(──そういえば、婚約者はまだいないという話だったかな?)
だからチャンスはあると他のご令嬢たちが目を光らせていたことは覚えている。こうして求婚の申し込みがあったということはその噂は本当だったのか。傍から見た分には見目麗しく品行方正、これといって問題は見当たらないのに珍しい。それとも実は性格が悪かったりするのだろうかと、思考は些か失礼な方向へと向かった。
いや、現実逃避のひとつもしたくなるだろう。
求婚から数日後。まずは話のひとつでもという相手の申し出で顔を合わせた次期侯爵は、後は若い者だけでと2人きりになった途端にぶちまけたのだ。
「上辺だけの婚約者となってほしい」
と、まぁ、このように。
陽光が穏やかに降り注ぐ中庭のテーブルの向かいに座る次期侯爵。
金の糸で紡がれたかのような御髪。こちらに向けられた碧眼は太陽の光を取り込んで宝石のように輝いている。物語に出てくる王子様然とした目の前の男性は、しかしその外見に似つかぬ外道のような言葉を発したのだ。
「え、ええと、それはどういう」
「心に決めた女性は既にいる」
先の発言に対する悪辣さも、今の発言に対する恥じらいもなく、目の前の男性の表情は真剣そのものだった。
「ならば、その方と」
「我が家に幼い頃から仕えている侍女なんだ。結婚は父が許さなかった」
ほ、ほうほう、幼馴染ということなのかな? まるで本に描かれたような恋模様にちょっとドキドキしてきた。
「周りも早く婚約者をと急かすばかりで、いいかげん鬱陶しくなってきたんだ。それで」
なるほど。それで地位的に、その全く愛のない条件でも逆らえないだろう我が家に白羽の矢が。
いや、えーと、うん。
「──何でですか」
「え?」
「そこは何としてでもその侍女さんを娶るべくお父様を説得するところでしょう」
「え、」
「だというのにあっさり諦めて周りに言われるまま他の女を隣に据えようとは」
「え。」
大声を出せば少し離れたところにいるであろう大人たちにも聞こえてしまう。ギリギリでそう思いとどまって何とか抑えた声で言葉を続ける。そうでなければ両手でテーブルを叩きながら叫ぶところだった。
侯爵家次期当主が決めたことに準男爵家の者が反論する。不敬もいいところだ。何かしらの刑罰が下りても不思議はない。
だが、言わずにはいられなかった。
心に決めた女性がいるのだと彼は言った。
こんな下位の家の小娘に対してすら偽れない、彼女への愛情がそこにあった。
私が知らない『愛』を、この人はその胸にしっかりと持っているのだ。
それを捨てるだなんて、あまりに、
「──あなたの『愛』は、その程度なのですか」
あまりに、もったいないじゃないか。
「……出ていってしまったんだ」
途方にくれたような、心細い声が返ってきた。
「彼女は、俺の足枷にはなりたくないと。そう手紙を残して消えてしまった」
「では探しましょう」
「ああ、だからその時間を稼ぐために、とりあえずの婚約者を……そうすれば周囲も油断して猶予が」
「……ああー……」
なんでそこでそんな小手先を使ってしまったんだこの人は。思わず頭を抱えて呻いてしまった。ご令嬢らしくないのはご愛敬。だって平民ですからね。いや、そんなことより、
「一応の爵位を持つ相手との婚約破棄プラス侍女さんとの結婚……なんでハードルを自ら上げてしまったんですか……」
「……ああー……」
今度は相手が頭を抱えて呻いた。ご令息らしくないから控えた方がいいですよ、そういうのは。
「いや、まぁ、それぐらいは愛の試練として乗り越えましょう」
「あ、ああ……愛? 試練?」
「愛に試練はつきものだと本にありました」
私に『愛』は分からない。だから少しでも知ろうと本を読み、詩を読み、物語を読んだ。
そして知ったのは愛というものには往々にして大小さまざまな試練があることだ。
彼の場合、それは身分の差なのだろう。このたび自分でもうひとつ試練を増やしたけどそれは知らん。
「侯爵という立場にある方がすぐさま前言を撤回するのは外聞がよろしくありません」
「ああ……」
「なので、侍女さんが見つかり周囲への説得が成功するまでは不肖わたくしめが婚約者となりましょう」
「い、いいのか……?」
「はい、お断りはそちらからお願いします。此方から破棄するのは身分上不敬ですので」
「しかし、そちらには何の得にもならないだろう……」
すまない。
彼はそう零して頭を下げた。
確かにその通りだ。
こちらの家の者にしてみれば、破棄が確定しているこの婚約はぬか喜びもいいところだし、私にも『侯爵家の次期当主に袖にされた女』とか『侍女に負けたご令嬢』とかそういう肩書が今後つくことになるだろう。
目の前の人物は、此処にきて自分の言動によって相手へと及ぶ影響に思い至ったらしい。
だがそれが何だというのだろう。
「授業料ということにします」
「は?」
『愛』を知らない私に、彼の『愛』を見せて、聞かせて、教えてもらう。
これはそういう授業なのだ。
侯爵家を揺るがすその『愛』を自分の糧とする。それはなんという贅沢だろう。ならばこれぐらいの代償は払わなくてはならない。
「必ず、その方を迎えに行ってくださいね」
「──ああ」
そう頷いた彼は、胸の奥が疼くほどのとびっきりの良い男に見えた。
「…………という名ばかり婚約なんだ」
「名ばかり婚約て」
なんだ、ちゃんと聞いてたのか。
相槌もなく黙々と作業する背中からの反応に、此方も机の上で寝そべっていた身体を起こす。
幼い頃から通い慣れたこの工房は、自分の部屋以上に落ち着くのでついついこういうだらしのない体勢をとってしまう。工房の主の1人である彼からも「ご令嬢としてどうかと思う」と度々注意を受けるのだが、幼い頃からの癖はなかなか治らない。三つ子の魂なんとやら。
「そっか。なんだ。危うくご祝儀に爆弾を持っていくところだった」
「ええーなんでナチュラルに爆死させようとしてくるのこの幼馴染」
侯爵家の幼馴染は甘酸っぱいというのに何だこの差は。
「まさか今作っているそれじゃないよね?」
「まさか。今作ってるのは懐中時計」
「時計! すごい!」
あれはとにかく細かい歯車が緻密に組み合わさって動いているものだから作るのは大変なのだと言っていたのはまさしく目の前の彼である。子供の頃、作れないと泣いていた幼馴染の成長が今目の前に。なんだろうこの胸に灯る熱は。これが感動というやつか。
集中の要る作業をしているだろう彼の邪魔をしないよう、横から静かにその手元を見る。
指で摘まめるかも分からないような小さな歯車をピンセットで挟み、機械へとはめ込んでいく。ルーペをつけた横顔を見ながら思う。
自分に『愛』は分からない。
でも、だからだろうか。
自分の知らない『愛』を持っている人が。
何かを、誰かを好きな人が、私は好きなのだ。
侍女を愛する侯爵次期当主のように。
物作りを愛する目の前の彼のように。
「やっぱり好きだなぁ」
「またそれ?」
「だってそう思うんだよ。何だろう、ないものねだりってやつかな?」
「じゃあ聞くけど、僕の好きなものって何?」
「機械でしょ?」
「それもあるけど、それじゃ半分かな」
できた。
そう言って彼──リアムは完成したらしい懐中時計の蓋を閉じる。
「エイミ」
「うん?」
「婚約は破棄されるんだよね?」
「そうだよ」
決して安くはない授業料を払うのだ。大団円な『愛』でなくては困る。
「なら、良いや」
カチリ。
時計の針が確かに動いた音が、工房に響いた。