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死神見習いと過ごす最後の一年

作者: 小泉 洸

 呼び鈴が鳴った。ゲーム、いいところなのにな。


あわててデータをセーブしてインターホンの画面を見に行く。


見覚えのない小柄な少女がカメラを見上げていた。


「どちら様でしょうか?」


「えと、江藤勇気さんのお宅でしょうか?」


「はい、そうですが」


なんかの宗教の勧誘か?


「うーんと、ちょっとお話があって参りました」


なんか売りつける気かな。


少し尖った声を出して俺は言った


「なにかの勧誘とかですか、それなら結構です。すみませんけどお引き取りください」


少女は、眼をぱちくりさせて慌てて言った。


「違います、違います。お知らせがあって来ました」


なんだよ、めんどくさいな。俺は言った。


「インターホン越しじゃダメなの?」


少女は画面の中でブンブンと首を横に振って言った。


「ダメです。直にあってお知らせするように言い遣ってきたのです」


俺は溜め息をついて少女に言った。


「誰からの知らせ?町内会??」


少女は真面目な顔をして言った。


「直接会ってからじゃないと言えないです」


やれやれ。


「じゃあ、ちょっと待ってて」


少女は画面の中であからさまにホッとした様子を見せていた。


 玄関のドアを開けた。

そこには金色の縁取りが施された白いガウンのような衣装を着た少女が立っていた。


俺より少し年下かな。

それよりなんのコスプレだ?


黒い缶バッジみたいなものが付いている白い帽子を被って杖のようなものを左手に持っている。

脇にはピンク色の小さなスーツケースが置かれている。

これは間違いなく宗教の勧誘だな。


「で、なんの用?宗教関係とか訪問販売なら話は聞かないよ。パンフレットとかあるなら置いてって」


目を大きく見開いた少女は、慌てた様子で首を振って言った。


「宗教じゃないです、物売りでもないです。江藤さんにお知らせにきたんです」


なんなんだよ。俺は言った。


「じゃあ、手短に話して。今、俺忙しいからさ」


はい、と少女は返事をしてから、一つ大きく深呼吸をしてから俺に言った。


「江藤勇気さんの寿命をお知らせに来ました!」


は? なにいってるんだこいつは?


少女は、わざとらしくコホンと小さな咳払いをしてから言った。


「あと364日後の、来年6月24日の午後9時17分に、江藤勇気さんがお亡くなりになることをお知らせに参りました!」


縁起でも無いし、冗談にもほどがある。

だいたい俺はまだ高校1年生だ。

そんなに簡単に死ぬもんかよ。


俺はムッとしながら少女に言った。


「話はそれだけか?用件は聞いたから出て行ってもらえる?」


わたわたしながら少女は、言った。


「えとえと、まだお話があります。とっても重要なお話です」


なんなんだよ、やっぱり宗教か?俺は皮肉をこめて少女に言った。


「壺でも買えば、寿命が延びるとかか?」


少女は首を振って、小さく笑みを浮かべながら言った。


「あなたの転生先もお知らせするように言われてきてます」


「ほう、なんだ?大スターかなにかに生まれ変わるのか?」


いいえ。少女はキッパリと断言した。


「ダンゴムシです」


ちょっと待った、ダンゴムシ?俺はオウム返しに答えた。


少女は快活に答えた。


「はい、次はダンゴムシです」


あの石の裏とかのじめじめしたところにいる足がいっぱい生えてる黒い丸くなる奴か?


「はい!そのタンゴムシです!」


「お前、頭おかしいんじゃない?せっかくですけどお引き取りください」


俺は扉の外を指さして少女に言った。


冗談じゃない、頭がおかしいのを玄関内に入れてしまった。失敗した。



少女は半泣きになりながら、首をぷるぷると横に振りながら懸命に訴えてきた。


「絶対、江藤さんに悪いようにはしません。私、頭もおかしくないです」


べそをかかれてはこちらも困る。少し落ち着かせてから帰そうか。


やれやれ。


俺は少女に言った。


「じゃあ、ちょっとだけ上がっていきな。で、落ち着いたら帰れよ」


少女はぺこぺこと頭を下げながら、ありがとうございます、


ああ良かったなどとつぶやきながら家にあがった。


 応接間のソファにちょこんと少女は腰を掛けて、俺が淹れた紅茶を少し飲んでから微笑みながら言った。


「お茶、ご馳走様です。美味しいですね!」


泣いたカラスがもう笑ったとはよく言ったものだ。少し落ち着いたようだ。


こうしてみると、やはり俺より少し年下の様子だ。


目は大きく、睫毛が長い。鼻筋もすっと通っていて、


文句無しに美少女と言っていい容姿だ。


かわいらしく紅茶のカップを両手で持っている。


髪の毛は明るい栗色で肌は白く、小柄で華奢な体つきだ。


俺も紅茶を飲んで一息ついてから少女に言った。


「それで、さっきの話なんだけど、なんか証拠でもあるのか?だいたいお前は誰だ?名前くらい名乗れよ」


少女は、はっと気がついた様子で、カップを机に置いた。


そしてシャキッと背を伸ばして立ち上がり、杖を持ち直して俺に宣言した。


「申し遅れました、私はサリエルって言います。サリーって呼んでください。死神です、えとえと、見習いですけど」


頭痛がしてきた。


美少女な死神?サリエル?呼び名はサリー??


俺は少し怒った口調で言った。


「あのさ、冗談はよしてくれる?なんのためにそんなウソつくんだ。趣味が悪いぞ」


びっくりした様子で少女は首をブンブンと振って俺に言った。


「冗談でもウソでもないです。ホントです。江藤さんの寿命は、あと364日なんです」


俺は溜め息をついて言った。


「なんでそんな中途半端な数字なんだよ。せめてあと1年、365日とかならわかるけど」


少女はびくっとしてから、少し沈黙を置いた後、言った。


「場所がわからなくなって道に迷っちゃって。一日遅れました。私、方向音痴なんです」


ホントは昨日江藤さんに知らせなくちゃいけなかったんです、


怒られるかなぁ、とかなんとかブツブツとつぶやいた。


よく見ると、頭に被った帽子の缶バッジには黒地に白いドクロマークが、


かわいらしく描かれている。


これで死神のコスプレをしているつもりか?


あるいはドッキリとか、できの悪い冗談だな。


俺はさすがに相手をするのにも疲れてきたので、少女に言った。


「OK、わかった。サリーちゃん、もう帰ってくれる?用件は聞いたしさ」


少女は大きく目を見開いてから、俺に言った。


「次、ダンゴムシでいいんですか?」


まだ続けるのか。


俺は少し怒って言った。


「ダンゴムシでもコガネムシでもいいよ。帰ってくれ」


あきらめちゃダメです!少女も少し怒った口調で俺に言った。


「少しでもマシなものに転生できるようにサポートするのが私の役目です」


こいつ、なに言ってるんだ?少女は少し笑みを浮かべて言った。


「転生するなら鹿とかのほうが、まだよくありませんか?可愛いし!」


俺は天を仰いでから少女に向き直って言った。


「お前、死神なんだろ。俺を殺しに来たんじゃないのか?」


少女はもじもじしながら口を少し尖らせて言った。


「見習い、って言ったじゃないですか。私のレベルだと人の命を取ることはできないんです。お知らせとサポートだけです」


俺は言った。


「なんのサポートだよ?」


少女は、ぱあっと花が咲くように可愛らしく笑って言った。


「江藤さんが、よりよい人生を送って、少しでもいい転生ができるようにサポートするんです」


そして杖のようなものを俺の方に向けて言った。


「この黄金の鎌に賭けて、江藤さんを守ります!ちゃんとした生き方をしてもらってから死んでもらいます!」


 俺は、食卓で俺の向かいの席に座って美味しそうにシチューをすする少女に聞いた。


「で、これからお前は俺と一緒に暮らすつもりなわけ?」


少女はにっこり笑って答えた。


「はい!一年間、全力でサポートさせていただきます!」


意味わかんないな。自称死神見習い?に、夕飯を食わせている俺もたいがいだが。


「わかった、今晩は妹の部屋を使いな。妹は俺の両親と二年間はアメリカから帰ってこないから大丈夫だ。今日は遅いから泊っていっていいけど、明日には自分の家に帰りなよ」


少女は真顔になって答えた。


「まだ信じてもらってないんですね」


俺は呆れて説教をすることにした。


「信じるもなにも、死神とかダンゴムシに転生とか、そんなめちゃくちゃな話はありえないだろ。だいたい神様ならピンク色のスーツケースなんか持ち歩かないぞ。なんで家出してきたのか知らないけど、お前の親は心配してるぞ。メシを喰ったら親に連絡だけしとけよ」


少女は居住まいを正してから言った。


「私は、家出娘とかじゃありません。ご飯の後、江藤さんのこれまでと、これからをお見せします。そうしたら信じてもらえると思います」


 少女は黄金の鎌の先を俺の方に向けて、真剣な顔でなにやら呪文を唱えた。

世界がぐらりと揺れて目の前が一瞬真っ暗になった。


急に視界が明るくなり早廻しで情景が浮かんでは消えていくようになる。


これがうわさの走馬燈のように人生が見えるという奴か?!



 懐かしいな、これは通っていた幼稚園だな。忘れてた。

こんな部屋だったんだ。


この子には見覚えがあるな。ああ泣かしちゃった。いじわるして悪かったな。



これは小学校2年生の頃だな。


喧嘩をして右手を骨折した時だ。痛みが微かに蘇る。


ギブスの下が臭くて、かゆかったのを思い出す。


なんで喧嘩したんだっけな、ああそうか。


なにかの順番を守らなかったとかそういうのだったな。


くだらないことで喧嘩をしたものだ。



こんどは小学校5年生の時か。


バレンタインのチョコ欲しさにそわそわしていたのを思い出した。


結局ひとつももらえなかったな。


次々に浮かんでは消えていく情景を俺は呆然と眺めていた。


大して大きな出来事もなく、親に迷惑をかけるわけでもなく、


成績も中くらい。呆れるほどに平凡な日々。



 中学校になって入った陸上部も大してまじめにやっていない。


もう少し頑張れば良かったな。


勉強もそれなりというか、試験のときだけやるというか。


つるんでいた友達の顔が浮かんでは消える。


2年生の時B組の女子が好きになったな。


ああ、この子だ。結局、告白もできなかったけど。


夏祭りにはみんなと一緒に行ったな。二人きりになった瞬間があったな。


あのとき好きだと言えば良かったな。


今は彼女とは高校も別になってしまったから、連絡先もすぐにはわからない。


次は高校入試関連か。


塾でできた友達とゲーセンに行って、生活指導の先生に見つかったことを思い出す。


まだあれから一年も経ってないな、先生元気かな。


いい先生だったな。


いよいよ入試だ。ドキドキしたよな。


合格発表、ホっとしたよな。


ついこの間だ。



そして入学式、クラス分け。


急に勉強が難しくなって進度が速くなった感じがした。


高校では陸上部は幽霊部員で、半分帰宅部を決め込んでいた。


 はっと気がつくと、居間のソファに座っていた。少女がにっこりと笑って俺の顔をのぞき込んで言った。


「これが、江藤さんのこれまでの人生でした。次は私が来なかったら続いたであろうこれからの人生です」


そして黄金の鎌の先を再び俺の方に向けた。


 これは大学のキャンパスか?見たことの無い建物。


自宅から通っているところを見るとそう遠くは無いところだな。


友達?かな。一緒に車を借りて東北旅行に行っているようだ。


祭だ。ねぷたか、青森だな。ああ友達の故郷らしい。



合コンか?結構盛り上がっているな。

俺は酒は弱いみたいだな、真っ赤な顔をしている。


一人背の高いすらっとした女子がいる。


あれその子が隣にいるぞ。なんか美人だ。いいな。


あれ?これは結婚式か?


展開が早いな。就職はしてるんだよな。


ああ、あの子と7年間付き合って結婚したんだ。


今度は転勤だな。仕事は事務職だ。


あれ、おれは文系に行ったんだ。


病院。あ、子供が生まれたんだ。男の子か。もう一人生まれた。今度も男の子か。


嫁さんは仕事を辞めた。


単身赴任かな?ここはどこだ。北国だな。雪はそんなに積もらない。仙台だ。


あ、東京に戻った。


子供の小学校入学式だ。


課長昇進か。こりゃめでたい。


そんなに大きな会社ではないけど堅実な印象。小さな喧嘩とかはあっても家庭は円満。



葬式の場面。父親の遺影。随分老けた写真だ。


急に亡くなったんだ。心臓か。タバコ吸ってるしな。


下の子供を高校受験の会場まで送っていく場面。


上の子はバンドをやってるんだ。

同じ高校に通っているな。


文化祭に行ったんだ。


嫁さん、少し太ったな。


職場が変わったぞ。子会社に行ったようだ。


ヒマそうにしているな。もう少し頑張れよ俺。



赤いちゃんちゃんこ?


上の息子が赤ちゃんを抱いている?俺の孫か。女の子だ、よく泣くな。


下の子はまだ結婚してないな。



あれ花束をもらっている。俺、定年になったんだ。


そうか。嫁さんと海外旅行に来ている。


メキシコかな?


いつか見たピラミッドみたいな建物のある観光地で、写真を撮ってもらっている。


あ、新婚旅行のときもここに来たのか。


今度は病院だな。これはCTスキャンだな。医者が難しい顔をしている、あれ、手術か。


結構入院が長引くな。


抗がん剤、そうか、俺は癌になるのか。



喜寿の祝い?俺の?癌は再発しなかったのかな。


嫁さんもだいぶ年を取ったな、でも元気がいいな。


これは町内会の集まりかなにかだな。


あれ俺が救急車に乗せられている。胸が痛い。


俺の名前を呼ぶ声。そして暗闇。



 気がつくと、まだ居間のソファに座っていた。時計を見るとさっきから10分も経っていない。


俺は呆然としてしまった。


あれが俺の未来なのか。


乗り物酔いのような気持ちの悪さを感じて、頭を抱えてしまった。


「大丈夫ですか?」


心配そうに少女の尋ねる声が聞こえる。


俺は答えた。


「ああ、大丈夫だ。乗り物に酔った感じだ」


少女は少し胸を張って笑顔で言った。


「少しは信じていただけましたか?」


俺は、気を取り直してから、少女の顔を見ながら言った。


「催眠術かなにかかもしれないが、一代記を見せてもらったよ。未来の嫁がどんな人かも教えてもらった。でも俺は80歳くらいまで生きるみたいじゃないか。平凡だが悪くない人生だったぞ」


少女は少し顔を曇らせてから俺に言った。


「今、お見せしたのは江藤さんが生きる可能性のあった複数の未来のうち、辿る可能性が一番高かった未来です。でもでも」


少女は少し声を低めて続けた。


「その後の転生が問題なんです」


どういうこと?俺は尋ねた。少女は答えた。


「ダンゴムシなんです」


またか。他の未来はないのかよ。


「私の能力で見える範囲だと、全部次はダンゴムシです」


俺は溜め息をついて言った。


「じゃあ、しょうがないんじゃないの、ダンゴムシで」


少女は、目を大きく見開いて首を横にブンブンと振って言った。


「次がダンゴムシだと、その次もダンゴムシ、そのまた次もダンゴムシかミミズの可能性が高いです。あとは、ずうっとダンゴムシです。太陽が燃え尽きて地球が終わるまでダンゴムシです。人間に一度生まれたならそういう転生を避けた方が良いですし、そのために私は来たのです」


そして少女は俺に言った。


「一年の間、私の全力サポートでダンゴムシへの転生を避けようっていう作戦です!」


俺は少女に尋ねた。


「で、俺はどうすればマシな転生ができるのか?他人に親切にしたりすればいいのか?ボランティアかなにかして、ポイントを貯めればいいのか?」


少女は答えた。


「江藤さん自身の人生を完全燃焼することです」


そして、少し間を置いて、小首を傾げてから付け加えた。


「たぶん」


たぶん?これはまた随分ぼんやりとした回答だなと俺は思った。俺は尋ねた。


「具体的には、どうすりゃいいんだ?」


少女はにこやかに答えた。


「もう夜も遅いので、お風呂に入って明日から頑張りましょう!」


おい、あと364日しかないんだぞ、いいのか、それで?少女は答えた。


「長旅だったので、疲れました」


そして可愛らしくあくびをして、微笑んだ。


いい加減な死神だな。どうにでもなれ、まったく。


「お風呂、先に入らせてもらいますね。覗いちゃダメですよぅ?!」


死神の裸なんか覗くか、アホ。


 

 「なんでお前、うちの高校の制服着ているんだよ?」


 朝食の時に制服姿で現れた少女に俺は尋ねる。


「ずうっとサポートするって言ったじゃないですか。学校内でもサポートです」


少女は答えた。そしてトーストにジャムを付けながら、バターは無いのかと俺に尋ねた。


俺は答えた。


「バターは、切らしているんだよ」


少女は少し怒った顔をして、言った。


「そんないい加減な生活だと、ダンゴムシになっちゃいますよ」


俺は呆れて言い返した。


「お前の機嫌を損なうとダンゴムシかよ?」


少女は澄まし顔で答えた。


「ちゃんとした生活があって、初めて良い人生になるのですよ?!」



 「ええと、こちらが本日からこの学校に転校してきた天本紗理奈さんです。皆さん仲良くして上げてください。席は、江藤君の横で」


担任の教師が指示をした。


俺は隣に座ったサリーに小声で尋ねた。


「おい、どういう魔法を使うとこういうことになるんだよ」


少女は悪戯っぽく笑いながら小声で答えた。


「これでも私は神様の端くれですからね。このくらいは朝飯前です」


そして真顔になって言った。


「それよりちゃんと勉強です。でないとダンゴムシです!」



 「紗理奈って呼んでいい?」


休み時間に、人懐っこい高橋さんが早速サリーに絡んできた。


「もちろん紗理奈でいいけど、ずっとサリーってあだ名だったからサリーでいいよぅ」


「わかった、サリーね」


高橋さんは笑顔で答えて、後で学校の中を案内して上げるよ、

とサリーに言った。


何人もの女子がサリーと高橋さんを取り囲んで楽しそうに話し始める。

IDの交換をしている。

おい、なんで死神なのにスマホ持ってラインするんだ?

それに早くもなんだかクラスになじんでるぞ。


 「おい、勇気」


中学の時からの悪友の佐々木が近寄って来て、

俺を小突いて小声で言った。なんだよ。


「お前、あんな可愛い子と隣になれるとは、ラッキーだな」


死神に四六時中監視されるのがラッキーと言えるだろうか。


それに俺は一年後に死ぬんだぞ、実感は全く無いけど。


もちろんそんなことは言えず、俺は肩をすくめるだけだった。

先が思いやられる。



 「放課後は部活ですよね?」


サリーが俺に聞いてきた。ああ、そうだけど?主に帰宅部だけど今日は出ようかな。


「私も行きます!」


「え?お前、陸上やるの??」


少女は自慢げに胸をそらして言った。


「これでも足は速いほうなんですよ」


はあ、まあ神様だからなんでもありだわな。しかたない。


「じゃあ、部室まで案内するよ、今日は見学な。入部するなら届けを出さないと」


少女はニコニコしながら手にした紙をひらひらさせて言った。


「もう入部届書いてきましたぁ!部長に出せば良いんですよね?」


手回しのいいこった。わかった、一緒に部室へ行こう。


「サリー、もう部活始めるの?」


高橋さんがサリーに声を掛ける。少女は快活に答える。


「うん、今日は小手調べ!」


高橋さんが少しまじめな声をして俺に言う。


「江藤君、ちゃんとサポートしてあげなよ」


わかった、わかった。じゃあ行こうか。



 「お前、もしかしたらポンコツじゃないか?」


サーキットトレーニングとインターバル走の後、


ぜえぜえと荒い呼吸をしながら、膝に手をついてへばる少女に俺は小声で言った。


「久しぶりに、地上で、走ったから、しんどい」


少女はなおも目を白黒させながら答えた。


「空気が薄い」


あのな、俺は説教した。高地トレーニングじゃないんだから空気は普通だ、


お前さんがしょぼいだけだ。


「あのね、勇気」


少女が顔を少し上げて小声で言った。なんだ名前を呼び捨てかよ。


「地上の生活に慣れるまで、ちょっと時間が掛かるかも」


はいはい、わかりました、サリーちゃん。



帰り道で少女が言った。


「今日の晩御飯は私の当番ね!」


当番制なのか。助かるけど、なんで?


「ほら、部屋貸してもらってるし、ただじゃ悪いじゃない?」


俺は言った。


「一人飯でも二人飯でも大して作る手間は変わらないから気にしなくていいぞ」


少女はぷるぷると首を横に振って、俺を見上げて言った。


「私が作りたいから作るのよ」


わかった、任せた。



俺はサリーの作った料理を食べながら驚嘆した。これは旨い。


「美味しいよ。サリー、お前、料理上手なんだな」


へへへ、と少女は照れ笑いをしながら、だから任せて安心よ、これでも神様なんだからと答えた。


「でも運動は、ポンコツと」


俺がからかうと、ぷうっと頬を膨らませて少女は言った。


「身体が慣れれば、私凄いんだから。見てらっしゃい」


はいはい、わかりました。それと、ごちそうさまでした。本当に美味しかったよ、ありがとう。


少女はニコニコしながら言った。


「気に入ってもらって良かったぁ。ほら味の好みってあるじゃない?!」


それから、まじめな顔になって、俺に言った。


「片付けの後は勉強ね。今日の復習と明日の予習!」


はあ?今、なんて言った?


「勉強するの。今日の復習と明日の予習」


そして少女は付け加えて言った。


「全力出さないと、次はダンゴムシだよ?!」


なんとなくダンゴムシに失礼な気もしたが、黙って俺は従うことにした。


そのうちこの娘も飽きるだろう。



 「最悪、全然意味わかんない。なんの役に立つのこれ?」


なんと早々に音を上げたのは、死神ちゃん、もとい、サリーの方だった。


俺は疑問に思って聞いた。


「お前、神様なんだろ?高校の数学くらいちょろいんじゃないの??」


少女は恨めしそうな顔を俺に向けて答えた。


「神様だって得手不得手というものがあるのよ。私は数学が苦手」


ああ、と少女は机に突っ伏すと頭をかきむしった。


俺は溜息をつきながら、少女に数学を教えることにした。どちらかというと俺は数学は得意だからな。


少女は愚痴る。


「めっちゃ難しい」


俺は言った。


「文句ばっかり言うな」


しばらくして少女は今度は悪態をつき始めた。


「勇気の教え方が悪い」


あのなあ、お前、神様だろうが。悪態とかつくのか?


「教え方とかの問題じゃないぞ、これは定義だから覚えるの」


「あー疲れた」


こら、勉強中にスマホをいじるな。


「でもでもメッセージに答えないと仲間はずれになるかも」


俺は呆れかえって言った。


俺がダンゴムシに転生するのを阻止しに来たんじゃないのか?


それとも俺の勉強の邪魔をしに来たのか?


地上に遊びに来たのか??


少女はこちらを少し睨みながら不承不承に言った。


「勇気が正しい。勉強するよ」


やれやれ。



 怒濤のような一週間が過ぎた。明日は休みだ、あと残り357日か。


夜、一人でベッドの上で落ち着いて考えてみる。


あと一年しないうちに、この世とおさらばか。


無性に腹が立ってきた。


なんで、俺だけこんな若くして死ななきゃならないんだ。


ダンゴムシに転生だと?それを阻止するために早死にするだと?


冗談じゃないな。怒りがこみ上げてくる。


みんなが楽しく過ごす中、俺だけ死ななきゃならないのは不条理だ。


こんなひどい話はない。


 俺は怒りのあまり、ベッドを抜け出し、サリーの眠る妹の部屋へ入って怒鳴った。


「おい、起きろ、サリー。俺は死にたくない。黄泉の国の王様にでもなんでもいいから、そう言ってこい。あとはダンゴムシに転生だろうがなんだろうが、俺は構わん。こんな若くして俺は死にたくない」


ふああい?


気の抜けた声を上げて、少女が目をこすりながら起き上がる。


勇気、もう朝なの?


俺は怒鳴った。


「違う。俺は死にたくないと言ってるんだ」


ああ、そうなの?


少女は寝ぼけ声で答える。


「そうだ、不条理だろ、こんな若くして死ぬのは。だから俺が死ぬのを止めろ」


俺は知らぬ間に涙を流していた。


死にたくない、死にたくない。


 少女は真剣なまなざしでこちらを見て言った。


「一年でお別れなの。だからその間全力で生きて、お願い」


お願いって。こっちがお願いしているんだが。命乞いなんだが。


「私、頑張るから、一生懸命勇気のこと助けるから」


いつの間にか、少女も涙を流しながら俺の手を取って言った。


「運命を変えたいの。だから勇気も一緒に頑張って」


 サリーのベッドに寄りかかったまま、俺は寝てしまったようだ。


散々泣きわめき悪態をつき、疲れてそのまま眠ってしまった。


横にはサリーの寝顔があった。


サリーも泣きはらしたらしくまぶたが腫れぼったい。


手は繋いだままだった。



そっと、手を離して、ずれた蒲団をかけ、サリーの部屋を出る。


みっともなかったな。でも、正直死にたくないな。


当たり前だよな。まだ俺は16歳だぜ?


 俺は静かに自分の部屋に戻って時計を見る。まだ朝の四時か。でも眠れそうにない。


俺は一体、どうしたらいいんだろう。


抜け道はなさそうだし、交渉に神様が応じてくれるとも思えない。


でも、生きながらえる方法は無いのだろうか?



 期末試験前2週間となった。俺は勉強に専念した。


少しでも死について考えないためだ。


集中しろ、畜生め。


死が大きな黒い口を開けてこちらに向かってくる悪夢にうなされながら、


起きている間は、そのことを考えないように勉強のことだけを考えるようにした。


死が恐ろしくなったときにはベッドから起きだして勉強した。


泣き言を言うサリーに数学を教え、逆に英語を教えてもらい、


とにかく死を忘れるべく集中した。


少女は言葉少なだった。

一緒に学校へ行くときも、帰るときも何か考え込んでいる様子だった。


 そして期末試験の結果は、自分史上前代未聞の学年総合3位だった。



佐々木が仰天して俺に言った。


「勇気、お前気でも狂ったか?それともカンニングか??」


死にものぐるいでやっただけだよ、俺はマジレスしてしまった。


 試験期間が終わり、部活動が再開された。


暑い。


梅雨がまだ明けずじめじめとした暑さの中、準備運動をする。


サリーがちょこちょこと寄ってきて俺に言った。


「勇気、ちょっと見てて!」


 低いポジションから素晴らしいスタートを切り、ぐんぐんと加速して駆けていく少女の姿が目に入る。


ゴール。


凄い!


タイムを測っていた上級生も目を丸くして驚いている。


「県の記録まではいかないけど、インターハイには出られたかも」


凄いね、サリー、肩を叩かれて、少女は照れくさそうにこちらをみやる。


どう、すごいでしょ。


予選会から出られてたらねぇ


と、上級生が残念そうに言った。でも秋の大会が楽しみだね。



 帰り道に、少女は俺を見上げてぽつんと言った。


「勇気が頑張っているから、私も頑張んなくっちゃって」


ちなみにサリーも学年総合5位という好成績だった。数学さえなければトップだったろうが、


その数学も平均点は行ったようだ。


結果を見せてはくれなかったが、ニコニコ顔で礼を言われた。


「勇気のおかげで、数学も人並みだったよ。ありがと!」



 今日も朝から太陽が本気出してるな。


目が覚めてカーテンを開けた途端にギラギラと差し込んできた陽の光に、


思わず手のひらをかざして目を覆いながら俺は思った。


夏休み1日目。


さて、起きようか。



朝食を用意していると、背後からサリーの元気の良い挨拶がした。


「おはよう!いい天気だね!!」


スクランブルエッグを皿によそいながら、挨拶を返す。


おはよう、サリー。


え?なんで制服なんだ?夏休みだぞ。


「女子陸上部は今日から合宿なんだよ。聞いてなかったの?」


知らん。聞いてない。いつまでで、どこ行くんだよ?


「群馬って聞いた。たぶん今日から3泊4日」


おい、ザックリしてるな。泊まるところだけ後で教えといてくれ。


トーストにバターをたっぷり塗って頬張りながらサリーは答える。


「わかった」


ものを食べながら話すんじゃない、行儀悪いぞ。


少女はしかめっ面をして俺に答える。


「なんだか口うるさいお兄ちゃんみたいだね」


やれやれ、死神の兄貴とは光栄だ。


「ところで、集合時間とか大丈夫なのか?」


サリーは、はっと時計を振り返って見て、ガタンと立ち上がり、慌てて玄関に向かった。


「遅刻する!バスが出ちゃうよぅ!!」


サリーは半泣きで靴を履こうとする。俺はサリーに声を掛ける。


「おい、集合場所はどこで、あと何分だ?」


サリーは靴ひもが絡んで大苦戦中。なにやってんだか。


「学校の校門で、あと10分!」


分かった。


俺はピンク色のスーツケースを掴んでドアを開ける。そして自転車のところにサリーを連れて行く。


「後ろに乗れ、自転車なら間に合う」


涙目の少女を乗せて、俺は全速力でペダルを漕ぐ。


サリーは俺に細い腕でかじりつく。もう一方の腕にはピンク色の小さなスーツケース。


 バスがまさに校門を出ようとするところで到着。


開いた窓から上級生がサリーに手を振って早く乗ってと、叫ぶ。


やれやれ、本当にギリギリセーフだ。


ドアが閉じて、ピンク色のスーツケースが見えなくなった。


間に合った、良かった。


遠ざかるバスの後ろ側の窓が開き、サリーが身を乗り出して、全力でこちらに手を振る姿が見えた。



嵐の去った後のようとは、こういう状況を言うのだろう。


この一ヶ月、泣いたり笑ったり大騒ぎする少女と、ほとんどの時間を共有していたわけで、


サリーの居ない部屋は、ガランとして悲しいほどに静かだった。


スマホで友人と馬鹿話をする気にもならない。


なにもする気が起きない。


しかしなにもしていないと、また自分の死について考えてしまうのが必至、


と考えた俺は、夏休みの宿題に没頭することにした。


スマホの電源はOFFだ。



気がつくと夕方だった。


気分転換に夕飯の準備のため、買い物に出ることにした。


一人で自転車を漕いでスーパーに向かっていると、


ついこの間までの自分が過ごしていた休日の生活を思い出した。


だらだらとゲームをして、気がつくと夜になっていて、


コンビニにカップ麺とお菓子を買いに行くのが日課という感じ。


自炊できないわけでもなかったが、面倒で一切料理なんかしていなかった。


変われば変わるものだ。


まさか美少女死神の健康管理を考えて、料理をするようになるとは夢にもおもわなんだ。



スーパーで薄切り豚肉が安かった。


あ、でも買いすぎてもダメだな、しばらくサリーは留守だったな。


野菜もあまり大量には買えない。あいつ良く喰うからな。


いつもの調子で買い物をしたら腐らせてしまう。


買い物中、妙に静かだと思ったら、


あれもこれも買いたがる少女が傍らにいないことに気がついてしまった。


俺は苦笑した。いれば五月蠅いし、かといって、いなけりゃいないで結構寂しいものだな。



一人で料理をして、一人で食べる。


当たり前だった生活に違和感を感じる。


習慣とは恐ろしい。



さてご馳走様。


やることも無いし、また宿題に戻ろうか。その前に、スマホを一応チェックしておこう。


サリーからのメッセージが入っていた。


なんだか部屋が温かく明るくなった気がした。


内容はサリーとその友達が逆立ちをしている写真付きのくだらないもので、肝心の宿泊場所の情報は皆無だった。


「怪我するなよ」


とメッセージをすると、瞬殺で


「全然OK」


と、リプライが返ってきた。


おい、スマホ中毒にもほどがあるぞ。


俺は


「これから勉強に集中するから返事はしないぞ」


と、リプライする。


また速攻で


「えー?いじわる、感じ悪い、さいあく」


とサリーから返事。


やれやれ、どこが最悪なんだよ。


「じゃあ、今晩はゆっくり休め。夜更かしするなよ。合宿楽しんで」


と返して、俺は電源を切った。


少女が画面を見ながら頬を膨らまして、不満そうな顔をするのが目に浮かんだ。


俺は深呼吸をした。さあ、切り替えて勉強に集中しよう。死の恐怖に飲み込まれる前に。


 次の日も規則正しく起床し、メシを自分で作って食い、


宿題を着々と片付け、飽きたら新学期の内容の予習をした。


夜、スマホをONにすると、サリーからのメッセージが山のように入っていた。


最初は「おはよう」から始まり、


合宿の様子の写真、


変顔、


スイカにかぶりついている写真、


やたらめったら送ってきている。


最後のメッセージは


「返事しろ、ばーか」


となっていた。



頭痛がした。


なんなんだ、この死神は。


「楽しんでるみたいだな、良かったよ。俺はもう寝る、じゃあな」


と返事をすると、また瞬速でリプライが入った。


内容は


「返事ありがと!お休み、また明日ね」


という殊勝なものだった。調子が狂うな。



夜、寝るとき、このまま目が覚めないのではないか、という気分になるのが、最近の悩みだった。


実感は無いが、俺はあと一年生きられないのだからな。


どうしようもないので、疲れ切るまで勉強をするのが日課になっていたわけだが、


サリーがいないというのがこんなに堪えるとは想像もしていなかった。


なんだかんだ言って、俺はあの少女に甘えていたのかもな、そんな気持ちになった。


泣いたり笑ったり怒ったり、小さな台風が傍らにいるようなもので、


俺は随分と気が紛れていたのだ。


俺は大きく深呼吸をしてから、目を閉じた。


サリーの笑顔を、泣き顔を想像すると少し落ち着いた。



 さて次の日も、俺は模範的な優等生の生活を送った。


気晴らしに遊びに行っても、これが最後かもとか思うのがイヤだったのだ。


勉強する分には果てが無いし、どんなに長く生きたって、


全部を網羅して覚えたり、理解することなどできないことがわかっていたから、


時間が限られている自分にとっては、かえって気楽だった。


できるだけやればいいし、どこまでやっても、いつまでやっても途中、だからな。


朝から晩まで部屋に籠もって集中して宿題に取り組んでいたら、そろそろ終わりが見えてきた。


なんてことだ。


中学の時は夏休みの最後になるまで宿題なんか終わらせられなくて、友達のノートを丸写しをしていたのにな。


たった3日間で、夏休みの宿題が終わろうとしている。


高校の方が量も多いし、質もそれなりなのにな。集中力とは恐ろしいものだ。


さて、もうひと頑張りしようか。

 


夜、寝る前にスマホの電源を入れてみると、メッセージが一つだけ入っていた。


そこには真っ黒に日焼けしたサリーが、あっかんべーと舌を出してる写真が載っているだけだった。


どうしようもないな、こいつは。


「お休み!」


と送ると、また速攻で


「明日、家に帰る!お土産買ったよ。お休み!!」


と返ってきた。


早くサリーに会いたい、なんて返事はさすがに俺はできなかった。



 夕方、そろそろサリーが帰ってくるかな、と思うと落ち着かなかった。


宿題はついに終わらせてしまったし、新学期の予習にもなんだか身が入らない。


ダメだな、集中、集中。


しばらく勉強に没頭していた。


 呼び鈴が鳴る、何度も何度も鳴らされた。


ピンポン、ピンポン、ピンポン!


なんなんだ、サリーなら鍵を持っているはずだが。


インターホンの画面を見ると、大写しでサリーの満面の笑顔。


随分、日に焼けたな。俺は言った。


「今、開ける」


まるで注目してもらいたい子供のような行動だな。


ドアを開けると、小さな台風が部屋に飛び込んできた。少女は大声で俺に言った。


「ただいま!」


お帰り、サリー。


「お腹空いた!!」


帰っていきなり、それかよ。シャワーでも浴びてこい、その間にメシを作っておくよ。


それより合宿どうだった?


「楽しかった!でもやっぱり家が一番!!」


あのさ、お前の家じゃないんだけど、とは俺は言えず苦笑するしかなかった。


「あのね、いっぱい話したいことがあるんだよ」


わかった、わかった、食事の時にな。まず荷物を置いて、シャワーだ。


はあい、と元気よく答えて少女は自分の部屋に向かった。


やれやれ、日常が戻ってきた。


俺は単純に嬉しかった。お帰り、サリー。待ちくたびれたよ、とは直接言えないけど。



 ネットバンクの残金が大きく目減りしているのに気がついたのは、男子陸上部の夏合宿が打ち上げになった翌日の朝だった。


ちなみに男子陸上部は人数が多いため、合宿予算が十分に得られず、


なんと学校の体育館に寝泊まりするか、


普通に通うか、


というどうしようもない選択肢を与えられただけだった。


楽しく合宿旅行ができた女子陸上部とは、大きく待遇が違うのは、人数の差だけでは無く、


教職員によるえこひいきが原因である、というのが男子陸上部部員の総意であった。


俺は汗臭い体育館に泊まるという苦行は当然に選択せず、自宅から通った。


これは合宿とは言わないよな。



まあ、それはともかく金が無いのは大問題だ。


洋服のネット通販からの引き落としが原因だ。


俺は使ったことが無いぞ?!


これはもしかしたら。


そう言えばサリーが何回か宅配便を、喜々として受け取ってたのを思い出した。


うかつだった。まったく、もう。



朝ご飯を片付けた後、サリーを居間のソファーに座らせる。


なにかあるなと感づいたらしく、妙に大人しい。


俺は、ネットバンクの通帳画面をサリーに見せながら言った。


「まさかとは思うけど、この洋服のネット通販は、サリーが使ったんじゃないのか?」


わっ、気付かれた,という表情を一瞬してから、開き直った表情になってサリーは言った。


「だって、夏物のお洋服は用意してなかったんだもん」


小学生じゃあるまいし、「だって」、「だもん」じゃないだろ。


俺は溜め息をついて言った。


「どういう魔法を使ったのかは知らないが、その魔法を使ってサリーの洋服代を調達できないのか?」


サリーは答えた。


「うん、できないよ」


そして、てへべろ、としか言いようのない表情をした。


すげえ可愛いけど、そんなものに俺は騙されないぞ。


俺は少女に申し渡した。


「いいか、これからはこういうことをしないこと。それから秋冬物の購入のためにバイトをすること」


えー、と少女は小さな声で抗議の声を上げる。


「私、バイトなんかしたこと無いよ」


俺は、大きく溜め息をついて、ちらしを机の上に置いた。


「通学路の途中にあるファミレスでバイトを募集している。高校生は時給850円。俺と一緒なら大丈夫だろ?」


サリーは、ちらしを手にとって眺めた後、嬉しそうに言った。


「あそこ、制服可愛いからいいね!」


そこかよ。


俺はまた大きく溜め息をついた。やれやれ神様のお守りも楽じゃない。


 「二人とも南高か。シフトは一緒の時間でいいんだね。夏休みの間、週に3日、一日6時間勤務希望、か。結構働くねえ」


店長が、俺達二人を前に座らせて面接をする。


「じゃあ、今日から宜しく頼むよ。制服のサイズは自分で選んでね。仕事でわからないことは、僕か先輩の辻さんに聞いて」


店長が控え室から出て行った。


ふう、と少女は溜め息をついて、はあ緊張した、と俺に言ってから笑った。


じゃあがんばりますか。俺も立ち上がって男子更衣室へ行った。



「天本ちゃんは、江藤の彼女?」


辻さんがストレートな質問をしてきた。こりゃ面倒だな。とっさに俺は言った。


「ええ、そうですけど、なにか?」


辻さんは、残念そうな顔をしてから言った。


「そりゃそうだよな。あんな可愛い娘を放っておく男なんかいるわけないよな」


見かけは可愛いけど、泣き虫で、おこりんぼうな上、とんでもない浪費家ですよ、とは言えず、俺は曖昧に笑った。


「めっちゃ可愛いし、良く気がつくし、江藤は幸せ者だな」


このこの、と小突かれる。痛いっすよ。


それより変な噂がどこから伝わるかわからないから釘を刺しておこう。


俺は言った。


「天本と俺のこと、秘密にしておいてくださいね。学校でも一応秘密なので」


おう、わかった、と辻さんは答えて、じゃあ仕事に戻るわ、といって控え室を出て行く。


「お疲れでーす」


と言いながら入れ替わりに、休憩のためサリーが控え室に入ってくる。


手にはフルーツチョコパフェを抱えている。


「新作だって。試食だよ、試食」


パフェにぱくつきながら、サリーが言い訳がましく言う。


「また太るぞ」


と俺は言って、


ぷうっと頬を膨らませて怒り顔をするサリーを後ろに残して立ち上がった。


さあ仕事、仕事。


 家に帰る道すがら、サリーは横を歩く俺を見上げて言った。


「あのね、今日、辻さんから、勇気は私の彼氏か?って聞かれた」


ああ、裏取ってるんだ。辻さん、サリーに結構気があるのかな。それで?


少女はニコニコしながら答えた。


「そうですよ、って答えた!」


やれやれ。俺は言った。


「俺も辻さんにサリーが俺の彼女かって聞かれたから、面倒なのでそうだと言っておいた」


おお!とサリーは満足そうな声をあげる。

なんなんだお前は。まあ、これでやっかいごとは起こらなさそうだ。


 俺のスマホにメッセージが入る。佐々木からだ。


うーん、これはだめだな。


「どうかしたの?」


サリーが俺に尋ねる。


俺は答えた。


「佐々木から遊園地行こうって誘いなんだけど、ちょうどバイトの日だからな」


うーん、そか、と、サリーは残念そうな声を出す。


しばらく歩いてから、俺はサリーに言った。


「バイトの無い日に、遊園地に二人で行こうか?」


わあ、いいの?と少女が歓声を上げた。嬉しいな!


俺は少しおどけて言った。


「バイト代も入るし、『彼氏彼女』なんだろ、俺達?!」


少女は顔全体で笑いながら言った。


「うん、『彼氏彼女』だからデートで遊園地に行こう!」


そう言って、サリーは手を繋いできた。


やれやれ、世話の焼ける神様だ。



 真夜中に俺は飛び起きた。

汗で身体がびっしょりになっている。


またあの悪夢だ。


大きな口を開けた怪物が俺に迫ってくる。

身体は動かず避けようも無い。

助けも来ない。


俺はそれに飲み込まれてどこまでも真っ暗な闇に落ちていく。


「死」という名の怪物だ。


心臓が早鐘の様に鼓動する。恐怖に身体が硬直する。


俺は唇を噛んだ。畜生。なんで俺は死ななくちゃならないんだ。


こうなったら眠れないことがわかっているので、

俺は机に向かって無理に勉強をすることにする。


いつものことだ。心に隙間ができると、死が忍び寄ってくる。


恐怖を抑えることはできなくても、

心の隙間を無理矢理閉じて、別の方向に意識を向けることくらいなら、

なんとかできる。


俺は数学の問題に意識を集中させた。


 八月も半ばを過ぎると、さすがに太陽も出力を落とし始め、

遊園地出陣の日は、外出するにはちょうどいい暑さだった。


天気も快晴。サリーは御機嫌で、電車の中でも笑顔全開だった。


随分、機嫌がいいな、と問いかけると、少女は背伸びをして俺の耳元に囁いた。


「だって、『彼氏彼女』になって初めてのデートだよ!嬉しくないわけないじゃん!」


そうか、と俺も答えて二人で顔を見合わせて笑った。


麦わら帽子とワンピースが華奢な少女によく似合う。



 最寄り駅に着いて、いよいよ入場。なにから乗ろうか?


「ジェットコースター!」


サリーは即答した。


「私、乗ったこと無いんだ。超楽しみ!」


大丈夫かな?


俺の心配は杞憂に終わり、

きゃーきゃーいう割には、サリーは大いに楽しんだらしく、2回続けて乗ることになった。


「あー、楽しかった!」


パラソルの下で一緒にソフトクリームを食べながら、

次は、なににしようかと顔を寄せながらパンフレットを見て相談する。

本当に恋人同士みたいだ。


こういう瞬間には、死の恐怖も遠ざかる。


「このパラシュートで落ちてくるみたいなのはどうかな?」


サリーが提案する。


随分高くまで打ち上げられるのだけど、大丈夫か?と俺が尋ねると、

サリーが、高いところは大好きだと言うので乗ることにした。


これまた、めっちゃ高い、意外に怖いと、わあわあ騒いではいたが、

結局は楽しんだらしく、降りた時には、顔を興奮で紅潮させていた。


「ちょっと怖かったけど、面白かったぁ」



 次はどうしようか、と相談しながら通路を並んで歩いていると、

いつもは、俺の右手側にいるサリーが、なにも言わず、

表情を硬くして反対側に位置を変えた。


おかしいなと思って周囲を見ると、我々の右側にお化け屋敷の建物があった。


「サリー、もしかしてお化け屋敷が怖いのか?」


横目で俺を見上げて唇を噛み、小さく少女が肯く。


神様なのに?


サリーは小声で言った。


「だって、あっちには、あんな怖いお化けなんていないもの」


そうか。人間の想像力の方がよっぽど怖いものを産んでいるということか。

でも怖がりすぎだろ。


「でもでも、あんなものまともに見たら夜、眠れなくなるよ」


サリーは俺の左手をぎゅっと掴んで離さない。


お化け屋敷の建物の外に掲示されている毒々しい色遣いの絵から、

典型的な江戸のお化け、ろくろっ首が長い舌を出してにやりと笑いかけている。


「じゃあ、早くここを離れて別のところに行こう」


俺は本気で怯える少女の手を引っ張って観覧車の方に向かった。



「はああ、怖くて死ぬかと思った」


とは少女の弁。大げさだな。手は繋いだままだった。


観覧車には、数人のカップルが並んでいる。

そろそろ陽の光が夕方の色を示し始めている。


係員が、ゴンドラの扉を開けてくれる。

二人で乗り込むと、扉が締まった。


ゆっくり、ゆっくりゴンドラは上がっていく。


サリーは窓にかじりついて歓声をあげた。


「わああ、すごくきれい!」


夕陽が街をあかね色に染め始めている。ほんとだ、美しいな。


都会の中とは思えないほど、ゴンドラの中は静かで、

ゴンドラを動かす動力の音が小さく響くだけだった。


俺達は黙って外の風景を眺めていた。


 ゴンドラから降りて、出口に向かう途中でサリーが言った。


「勇気、今日はありがとうね」


こちらこそ、楽しかったよ。ありがとう。


少女は俺の方を見上げて、にっこり笑って言った。


「遊園地でも、家までの道も、家でもずっと一緒だね。こういうのが幸せというものだね!」


なんだか本当にラブラブな彼氏彼女みたいだなと、少女と手を繋いだまま俺は思った。



 新学期が始まって数日経った。


朝、登校して靴箱を開けると上履きの上に、ちょこんと封筒が置かれていた。

俺は固まってしまった。

このIT時代に、なんという古典的な。いたずらかな?


サリーが、こちらの妙な様子に気がついたようで尋ねてきた。


「勇気、どうしたの?なにかあった??」


俺は気を取り直し、素早く封筒をカバンの中に放り込み答えた。


「いや、なんでもない」


そう、なにも起こるはずがないよな。大方、佐々木あたりのいたずらに違いない。


 休み時間、サリーが女子軍団と楽しそうに話しているのを確認してから、

俺はさりげなく教室の外に出た。


普段閉鎖されている屋上への階段の踊り場で、封筒を開けてみる。


便せんが一枚入っている。


開いてみると生真面目な女性らしい文字でこう書かれていた。


「江藤勇気様 突然のお手紙でごめんなさい。お話ししたいことがあります。今日の放課後、体育館の裏の用具小屋の前に来てもらえますか?」


署名は、野上亞紀、となっている。


野上先輩?2年生の、あの野上先輩??


女子バスケ部の次期主将。背がすらっと高くてボーイッシュな特上美人。

周囲にある他の高校も含めて、めちゃくちゃもてて、

告白されまくっているけど、全然男子と付き合おうとしないとの噂。


1年坊主の俺でもそのくらい知ってる有名人。


一度、話しかけられたな、転がってきたバスケのボールを投げてよこしてと。


雨の日の部活時に体育館でサーキットトレーニングをしていたときのことだ。


それ以外に接点は無い、はず。


俺になんの話だろう?見当もつかない。


なんか怒られるのかな。


イヤな予感しかしないけど、心当たりも無い。


便せんを封筒にしまいポケットに入れて、俺は教室に戻った。


どうしようもないな。会って話すか。



 俺は、急いで身支度をして素早く教室を出る。


高橋さんと楽しそうに話しているサリーに一声掛けた。


「サリー、俺ちょっと用事があるから、先に部活行ってるぞ」


こちらも見ずに、サリーは片手をひらひらと振る。


随分扱いがぞんざいになってきたな。全力サポートが聞いて呆れる。


まあ今日は好都合だけど。


後ろから、あははと朗らかに笑うサリーの声が聞こえた。


 人気の少ない体育館の裏に呼び出しというのは、なかなか剣呑だ。


野上先輩の手下かなんかに囲まれてボコボコにされたりして。

それはあり得ないとしても、一体何だろう。


用具小屋の前に人影があった。


野上先輩一人だな。ボコボコ、というわけではなさそうだ。



 先輩がこちらに気がついて、片手を振る。こちらは会釈で返す。俺は言った。


「野上先輩、お手紙ありがとうございました。なんのお話でしょうか?」


相手は先輩だし丁寧語だよな、普通。


少し慌てた感じで、野上先輩は目を見開き、首を小刻みに小さく振ってから答えた。


「あのね、江藤君。あ、江藤君って呼んで良い?」


もちろんいいですよ、それで?


大きく深呼吸をしてから、野上先輩はこちらの目を睨み付けるような勢いで言った。


「江藤君のことが好きです。付き合ってください」


は?なんておっしゃいました??


それにまた随分男らしい告白だ。


俺は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしていたに違いない。


慌てて真顔に戻して一息つく。どう対応したものか?


「あの、まだ野上先輩とは、まともにお話ししたこともないのですけど」


ああ、と先輩は溜め息を一つついて、少しうつむく。


しかし美人だな、そんなことを俺は思ってしまう。


先輩は気を取り直したらしく、すっと顔を上げて話し始めた。


「ひとめぼれ、っていうのかな。この一ヶ月、毎晩江藤君が夢に出てくるの」


え?なんで。俺は自分がイケメンじゃ無いのわかってるんですけど。モテる要素も無いですよ?


野上先輩は、真顔で俺に言った。


「江藤君と私は、将来結婚するの。それで平凡だけど本当に幸せな一生を送るの。そういう夢を毎晩見たら、それは意識するに決まってるじゃないの。で、確かめようと思って」


俺は唖然とした。あの走馬燈に現れたすらっとした美人は野上先輩なのか?

ぼんやりとした印象しかないけど。それに、なにを確かめるんだ??


「なにを確かめようって言うんですか?」


思わず口に出してしまった。野上先輩は、少し微笑んでから俺に答えた。


「私の気持ちが本当かどうか、会ったらわかるかなって」


俺は一つ大きく深呼吸をしてから、野上先輩に聞いてみた。


「それでどうでしたか?」


先輩は、こんどはにっこりと笑って答えた。


「確信したわ。私、江藤君となら幸せになれる」


それに、と野上先輩は付け加えた。


「私は、江藤君を絶対幸せにする」


俺もようやく正気を取り戻した。


こんな無茶な話は数ヶ月ぶりだ。


サリーの見せてくれた走馬燈が頭の中で蘇る。


俺は野上先輩に向かって思い切って言った。


「新婚旅行はメキシコで子供が二人。二人とも男の子で、孫は女の子。平凡だけど幸せに俺達家族は暮らす。それで俺は80歳くらいで死ぬって話、ですか?」


野上先輩は、虚を突かれたらしく大きく目を見開き、手を口元に持っていった。


しばらくの沈黙の後、先輩は小声で俺に言った。


「なんで私が毎晩見てる夢を知ってるの?」


俺は溜め息をついて、どう答えたものか思案した。ビンゴか。で、どうする?


良いアイディアは浮かばない。当然だよな。この場ですぐに解決できるはずも無い。ここは一旦、退却だな。


俺は答えた。


「なぜ俺がその夢を知っているかも含めて、今度、改めてじっくり話をしましょう。それでいかがでしょう?」


野上先輩は、うんうんと肯いてから言った。


「江藤君、私のこと、変人扱いしないでくれてありがとう。連絡先教えてもらえる?」


ああもちろん、と俺は答えた。IDを交換する。


俺、これから部活なんで失礼します。


野上先輩も気を取り直したらしく、自信に満ちた笑顔に戻って、

私も部活だわ、とつぶやいてから、片手を振って、またね、と言って颯爽と去って行った。


いつもの野上先輩だ。さて、どうしたものか。


とりあえず今晩サリーに相談してみるか。


早速、野上先輩からのメッセージが入っている。


「江藤君。さっきは、ごめんなさい。びっくりさせたと思う。私もびっくりした。でも私は本気だからね」


これは、返事のしようが無いな。


 夕ご飯は俺の当番だった。

焼き魚定食といった感じか。


昨日の残りのサリー特製煮物と一緒にいただく。


サリーは御飯のお代わりをする。良く喰うな。

そう言えば少しこいつ太った気がするな。


俺はサリーに言った。


「あのさ、お前、最近太ったんじゃね?」


少女の箸を持つ手が止まる。べそをかきそうな顔をする。


図星だなこりゃ。やれやれ、なんで死神の健康管理までせにゃならん。


大きく溜め息をついてから、サリーは再び食べ始める。そして言った。


「そうなのよね。部活始めてからお腹が空いて空いて。で、少し太った?!」


俺は言った。


「まあ、筋肉がついたためだろうから、体重増加は問題ないと思うよ。でも服とか大丈夫か?」


気を取り直したらしく、少し自慢そうにサリーは言った。


「背も伸びたからね。ちょっと制服の丈が短くなってきたかな」


制服の買い換えか。丈を伸ばせるかな?


うーん、いずれにしても物入りだな。


理由無く親からの仕送りを急に増やしてもらうわけにも行かないし、さてどうする。


学校へ行く道の途中にあるファミレスで、またバイトでもするか。



 ご馳走様でした。あのさ、片付けの後、相談があるんだけど、俺はサリーに声を掛ける。


「いいけど、なあに?」


スマホをいじりながら少女が答える。しかし完全に現代の女子高生だな、この死神は。


俺は言った。


「結構、ヘビーな話題だよ。俺にはどうしたらいいか全然わからない」


サリーはスマホの画面から顔を上げて、こちらを見て言った。


「なんかあったの?」


俺は答えた。


「ああ、色々あった。で、相談したい」


少女は小さく首をかしげてから、うん、わかったと言って、

またスマホの画面に目を落とした。


ちゃんと聞けよ。


俺は、今日起こったことの一部始終をサリーに話した。


「というわけだ。俺はどうしたらいい?それからこの現象は一体なんだ?」


と、聞いたところで俺は驚く。少女は半べそ状態だ。


大きな目がうるうるとしている。


「おい、どうした。サリー?!」


少女は、ポロポロ涙を流してグスグス鼻を言わせながら下を向く。


「大丈夫か?」


しばらく沈黙があった後、泣き止んだ少女は小声で言った。


「未来は変えられないかも」


え?ダンゴムシな未来?俺は聞き返した。


少女は、少し驚いたような顔をしてから、間を置いて、

うんうんと肯いて小声で言った。


「前、勇気に見せた未来が実現し始めている。少し形は違うけど。どうやってもそこに収束するのかも」


俺は、少女に言った。


「でも俺はあと一年もしないうちに、この世とおさらばするんだろ?サリーに見せてもらったあの未来は、実現しないんじゃないのか?」


少女は、またべそをかきそうな顔をする。


おい泣くなよ、俺が虐めてるみたいじゃないか。


泣きたいのは、もうすぐ死ぬ俺の方だろうが。


しばらくして少女は俺に言った。


「あのね、勇気が未来を選択するしかないのよ」


俺は溜め息をついて言った。


「俺に未来は無いぞ。一年もしないうちにあの世行きだろ。選択もなにも無い」


少女はまた涙目になる。


わかった、わかった。少し考えてみるよ、

それで未来とやらを俺が選択する、それでいいな?


少女は、小さくこっくりと肯いて、お風呂入って寝ると言って部屋を出て行った。


サリーのスマホが机の上に置き忘れられていた。

よっぽどショックだったのだろう。


風呂場に行くのを確かめてから、サリーの部屋にある机の上にスマホを置きに行く。


しかし、俺は一体なにを選択したらいいのだ?選択の余地なんか無いぞ??



 眠れない。当然だろう。


走馬燈に現れた野上先輩との未来を思い出してみる。


悪くない。平凡だが、なんだか幸せそうな未来だった。


変な話だけど野上先輩、美人だしな。


悪くないと言うより、実は極上と言って良い未来かも。


あれ以上、なにを望めると言うんだ?

で、その後はダンゴムシ?本当かどうかもわからない転生後の世界。


やれやれ。


 選択肢なんかあるのか?


野上先輩からの告白を振る未来を選択するということかな?

で、一年もしないうちに死ぬと。


でも前者は選択できないんだよな?

そうでもないのか?


選択できると仮定して、俺は野上先輩との未来を受け入れることができるのか、

そうするとすぐには死なないで済むのか?


 考えは堂々巡りをする。


今度はサリーのことを考えてみる。

彼女は俺を救いに来たと言っていたよな、サポートか。

で、寿命を宣言と。少しでもマシな転生のために早死にしろと。


これはまた、酷い未来だな。こっちを選択するバカはあんまりいないだろう、

というより皆無だよな。普通は考える余地無しだよな。でも・・・。


 夜が明けてきた。


俺の気持ちも落ち着いてきた。答えも出た。

俺はスマホにメッセージを入れた。


すぐ既読になった。野上先輩も眠れなかったのかな。


 サリーのテンションが異様に低い。朝は、いつも元気いっぱいなのに。どした?


少女はボソッと呟く。


「眠れなかった」


そうか、俺もだよ。一睡もできなかった。お前大丈夫か?少女は続けて言った。


「学校で寝る」


おい、神様がいいのか?それで??


 次の日の放課後、隣の駅から少し離れたところにあるファミレスで、

野上先輩と会うことにした。


俺と二人っきりで会っているのを誰かに見られて、変な噂でも立ったら悪いからな。


「待たせちゃった?」


背後から野上先輩の明るい声が掛かる。


いや、今、着いたところです。


俺はコーヒーを頼む。私はカフェオレね。


俺はコーヒーを一口飲んでから、背筋を伸ばして一呼吸を置いて、野上先輩に言った。


「俺、先輩との未来を知っていました。俺も同じように夢で見たんです」


野上先輩の目が大きく見開かれる。俺は続けた。


「幸せそうな生涯でした。先輩も幸せそうでした。あれ以上、なにを望むのか、とも思います」


野上先輩が小さく肯く。俺は一旦目をそらして、

コーヒーをまた口に含んでから思い切って言った。


「でも決められた未来を行くのは、ワクワクしないです。俺は未来を自力で築きたいです」


ああ。言っちゃった。


野上先輩はうつむいて唇をかんだ。


沈黙。


しばらくして、うんうんと肯いてから、顔を上げ、

こちらの目をじっと見て野上先輩は言った。


「江藤君は、そう言うだろうなって思ってた」


そしてにっこりと笑ってから続けた。


「私、振られちゃったね」


俺は慌てて言った。


「野上先輩は美人だし素敵です。振るなんてありえないです。あの未来だって素晴らしかった。幸せだった。それがイヤだとか、そういうのじゃなくて」


野上先輩は、俺の言葉を遮って言った。


「わかってるよ。定められた運命みたいなものに全部身を任せるのはシャクだものね」


そうして、野上先輩はカフェオレをぐいっと飲んでから、朗らかに笑って言った。


「あんまり、未来の私が幸せそうだったから、うっかりそれに身を任せようと思っちゃったんだ。私も別の道を探してみるよ」


正直、俺はぐらっと来た。


野上先輩は本当に素敵な人だな。


この人となら一緒にまた別の未来を築けるかも。


しかしここで、べそをかくサリーの顔が浮かんでしまった。

くそ、泣くなよ。俺が虐めているみたいじゃないか。


俺は深呼吸をしてから言った。


「すみません。我が儘で」


野上先輩は、吹っ切れたようにケタケタ笑って言った。


「なに謝ってるの?謝らなきゃ行けないのは私の方よ。ごめんね、変な話して。もう忘れてね。私も忘れることにする」


じゃあまた学校でね、そう言うと、さっと立ち上がって、

先輩はファミレスを後にした。


残された俺は、グズグズと、その後一時間くらい考え込んでしまった。

こんな選択で良かったのかな?


 玄関の錠を開けると、サリーが扉の前に立ち尽くしていた。


え?そこでずっと待ってたのか?


うん、少女は肯くと、俺に心配そうに半分泣き顔で尋ねた。


「勇気は、結局どうしたの?」


俺は、ふうっと息をついてからサリーの目を真っ直ぐに見て答えた。


「俺は好きな道を選んだよ」


少女は、ぽかんとした顔をしてから、小さな声で言った。


「どんな道?」


俺は答えた。


「俺自身が築く道だよ。幸せに決められた未来じゃなくて、一年間無くても自分で切り開く未来だよ」


そして、サリーの肩をぽんと叩いて言った。


「夕ご飯にしよう。サリー、今日はなにが食べたい?」


ぱあっと花が咲くように少女は笑って言った。


「私、今日は何にも食べられなくてお腹空いてるから、なんでも美味しいよ、きっと!」


よし、俺様が腕によりを掛けた料理を作ろう。


「私も、一緒に作るよ!」


俺は華奢な少女と肩をならべて、部屋の中に向かった。



 世間はクリスマスイブと呼ぶが、俺には余命半年を示す記念日、

12月24日を迎えた。


あんまり嬉しくないな、実感は無いけど。


 いつものように朝食をサリーと食べ、いつものように一緒に学校に向かう。


もうすぐ冬休みだ。


しかし半年しか無いという気持ちが、気持ちをブルーにさせる。


いくら人間は死すべき定めのものと言っても、16歳では早すぎる。


サリーはそんな俺の気持ちに気づく様子も無く、


ケーキを予約しただの、チキンを焼かなくちゃだの元気いっぱいである。結構なことではある。


 当然のように、俺の期末試験の成績は総合一位であった。


そりゃあ、死を半年前にして、本当に死にもの狂いで勉強する俺にかなう奴がいるはずも無い。


皮肉なことだが、人間の底力を実感する。


死の恐怖を封じ込めるために勉強に集中するというのは、大変な精神力がいる。


いや、逆か。死の恐怖が、俺を勉強に、部活に駆り立てる。



佐々木が俺に向かって感嘆して言う。


「勇気、ほんとに凄えな」


そうか?


「あんだけ、部活一生懸命やって、生徒会にも首を突っ込んで、いつ勉強してたんだ?」


そうだな、死が怖くて眠ることができなくて、しかたなく勉強に集中してるとは言えないな。俺は小声で言った。


「たまたまだよ」


佐々木が俺の脇腹を小突いて言う。


「たまたまで取れる成績かよ、ばーか」



 サンタクロースは、なにか俺にプレゼントしてくれるのだろうか。


少し、寿命を延ばしてくれるとか、そういうのは無し?



 商店街で流れるジングルベルの曲を聴きながら、サリーと俺は家路につく。


俺は上の空だった。あと半年か、そのことだけが頭を支配していた。


隣を歩く少女が怒り気味に俺の手を引っ張って言った。


「勇気、聴いてるの?」


え、なに?ごめんごめん、聴いてなかった。


「だから、ケーキ屋さんに寄らないとダメだよぉ。ここ曲がんないと」


おお、そうか。そうだったな。サリーはケーキを予約してたんだな。


ブッシュドノエル、フランスのクリスマスケーキだ。

可愛らしく砂糖細工のサンタクロースとトナカイがあしらわれている。


俺にとって最後のクリスマスか。


 家に帰って、夕ご飯の支度をする。今日はサリーの当番だが、

クリスマスだから俺もチキンを焼く手伝いとかする。


気が紛れるしな。


あと半年の命と思うと、本当に気が狂いそうになるから。


そうは言っても、香ばしく焼き上がったチキンの香りがすると腹は空くし、少し楽しみになる。


現金なもんだ。


サリーはニコニコ顔でチキンを載せた皿をテーブルまで運んできて言った。


「できた!勇気、食べよう。なんて美味しそうなの!」


笑顔でいっぱいのサリーと二人で和やかに迎えるクリスマスイブ。


悪くない。


あと半年しか俺に残されてないと考えなければ、楽しい、本当に楽しい夕餉であった。


俺は決心した。


せめてこの瞬間は楽しもう。憂鬱な気持ちになるのはあとでもいい。


サリーがチキンを頬張りながら笑顔で言う。


「んー、美味しいね!」


うん、美味しい。俺も笑う。


サリーは、あっという顔をしてから言った。


「でもでも、あとでケーキもあるんだよ?!おなかに隙間を残しとかないと、ケーキを食べられないかもよ?」


俺は言った。


「サリーは甘いものは別腹なんだろ?」


えへへ、と笑いながら少女は悪戯っぽく言う。


「うん、私は別腹なの。だからたぶん大丈夫なの!」



 楽しい夕ご飯が終わり、片付けも終わって二人でソファに腰掛けてお茶を飲む。


サリーが嬉しそうに言う。


「ケーキ、美味しかったね!少し残っちゃったけど明日の朝、食べてもいい?」


ああ、良いんじゃ無いかな。俺は言った。


そして、懐から用意しておいたプレゼントを少女の前に置いた。


「はい、メリークリスマス。サリーにプレゼントだよ」


意表を突かれたらしく、少女は目を大きく見開いて小箱を見つめて言った。


「プレゼント?」


ああ、プレゼント。


泣き笑いのような顔をして、サリーは小箱を両手で大事そうに持ちあげた。


「開けていいの?」


ああ、もちろん。


「わああ、可愛い!」


サリーの細くて白い指に金色のネックレスが映えた。


「安物だけどな」


俺は少し照れながら言った。


サリーの目に涙があふれる。そして小声で俺に言った。


「勇気、ありがとう。本当にありがとう。着けてみてもいい?」


そのために買ったんだから着けてみてよ。


少女の白い首にネックレスが輝く。ああ、よく似合ってる。


「ホント?似合ってる??」


ああ、似合ってる。ええと、すごく可愛いよ。


少女は、少し驚いたような顔をした。


そして、はにかんだ様子を見せてからもう一度、ありがとう、と繰り返した。


「そうだ、私からも勇気にプレゼント!」


え?用意してくれてたんだ?!


「ちょっと目をつぶってて」


パタパタと部屋を出る音。しばらくして戻ってきた。


スイッチを切る音。部屋が暗くなった。少女が言った。


「もういいよ。上を見上げてみて!」


満天の星空が広がっていた。オリオン座が見える。ひときわ明るい星はシリウスか。


俺の横に座って天井を眺めながら、少女は嬉しそうに言った。


「今のこの瞬間の星空を投影するの」


そして続けて呟いた。


「私のいた世界には、お星様は無かったの。だからこの世界に来て、夜空を見て、びっくりしたの。宝石が散りばめられてるのかと思ったの」


少女は俺の方を向いてニコニコ笑いながら言った。


「だから、勇気には、私の一番好きな、星空をプレゼント!」


俺は思わず、隣に座る少女の肩に手を回して抱き寄せた。


驚いたらしくビクッと少女は身体を震わせたが、嫌がる様子ではない。


俺は一緒に星空を眺めながら言った。


「サリー、ありがとう。綺麗だな」


うん、と少女が肯く。俺は言った。


「あと、俺は半年しかこの綺麗な星空は見れないけど、出来るだけ頑張ってみるよ」


少女が泣いているのを感じる。


この世は美しい。去るのはとても惜しいけれど、俺は精一杯生きてやる。


 新年、明けましておめでとう!


みんな、今年もよろしくっていうか、俺にとっては最後の年だ。


覚悟が決まったわけでも悟ったわけでも無いが、


死と隣り合わせという恐怖をなんとか飼い慣らしているといった感じが続く。


いつ牙を剥かれるかはわからないが、そのときはそのときだろう。



 三が日は混むので初詣に行くのは控えていたが、さすがに松の内の間には行こうということになって、


サリーと俺は、冬休みの最終日に氷川神社へお参りに行くことにした。


それでも結構な人出があって、露店もにぎやかだった。


いいもんだな。


ぴりっと冷たい空気の中、いつもよりさらに清々しい境内に足を踏み入れる。


身が引き締まるとはこういうことを言うのだな。


初詣をすませ、神社の隣にある公園を少し散歩してから帰ろうということになった。


少し奥にある池には、どこから迷い込んだか白鳥が数羽水面に浮かんで、

しきりにくちばしで羽の手入れをしていた。


サリーが俺を見上げながらニコニコしながら言った。


「寒いけど、気持ちいいね!」


ああ、そうだな。天気も良いし。


少女が無邪気に聞く。


「ねえ、勇気は、なにお祈りした?」


俺は絶句してしまった。なにを祈ったかな?


なんか、ありがとうございました、と思っただけだったな。


俺の寿命はもう長くないわけだし。


そうは正直に言えず、健康とかそういうのだよ、と俺は誤魔化した。


少女は言った。


「私はね、いっぱいお祈りしたんだ」


神様が神様にお祈り?


「ほら、神様も色々得意不得意があるから、私の不得意なところをお祈りするわけ」


俺は、どんなこと?と尋ねた。


少女は悪戯っぽく笑いながら言った。


「内緒!でも、いつか教えて上げるね」



そこで、あっとサリーは声を上げた。俺は聞いた。


「どうしたの?」


サリーは答えた。


「おみくじ引かなくちゃ」


神様だと、自由に好きなのが引けちゃうんじゃないの、大吉引き放題みたいな?


少女は首をぶんぶん振って言った。


「そういうときには、運任せにするの。面白くないじゃない!」


なるほど一理あるな、俺は苦笑した。じゃあ境内に戻って、一緒におみくじを引こうか。


「大吉だ!」


少女は満面の笑みである。


なになに、学問成就する、待ち人来る、不動産よし、金運よし、いいじゃないか。


恋愛は「内緒!」


そうか、内緒か。俺は笑った。それでいいよ。じゃあ俺も見てみるか。


 開けてびっくり、これまた大吉だった。


内容はというと、学問辛抱すべし、やがて成る。待ち人、遅くなるが来る。


金運、しばし待て。健康、やがて癒える。


おいおい、大吉っぽく無いぞ。恋愛運は、「大願成就する」?!


まあ悪くないけど、いまさら恋愛で大願成就するって言われてもな。


残った数ヶ月楽しめと言うことか?


俺は溜め息をついた。


サリーが俺を見上げて言った、どうだった?


「大吉だったよ、見る?」


俺のおみくじをサリーは眺めて、すぐに、にっこりと笑った。


「大願成就するって!」


ああ、成就するらしいぞ。今年はきっとモテモテだな、と俺は言った。


少女は朗らかに笑いながら言った。


「そうだね、きっとモテモテだよ!」


まあモテないよりはいいか。俺は苦笑した。そして言った。


「じゃあ、家に帰ろうか」


うん!と嬉しそうにサリーは答えて、もう一度繰り返した。


「大願成就するって!」



 3学期は短い。すぐに中間試験があって、その後は期末試験前になる。


3年生は登校日しか学校に来なくなり、少し校内が寂しくなる。


陸上部も特に大会などは無く、準備期間だ。


まあ、こういう時のトレーニングが後で効くのだけれど。



 俺は相変わらず、徹底的に身体を虐め、

頭脳を振り絞って正気を保つようにした。


少しでも隙を見せれば、恐怖に打ち負かされる。


結果的に優等生ということになるが、動機が普通と異なるから周囲から見たら異様だろうなと思う。


成績を上げたいというわけでも無く、良い大学に行くという目的でも無い。


心に巣くう黒い大きな穴を塞ぐために肉体と頭脳をフル回転させるというわけだ。


 サリーは相変わらず、泣いたり笑ったり怒ったりと忙しかったが、


苦手な数学にも文句を言うことが少なくなり、

どちらかというと機嫌の良い時が多かった。


良いことだよな。


 特筆すべき事件は起こらず、淡々と日々が過ぎる。


3月に入り期末試験となった。


結果は、言うまでも無いだろう。


少し変わったのは、サリーがさらに順位を上げて、

俺とサリーのワンツーフィニッシュになったということくらいだ。


「数学さえ無ければねぇ」


とは少し悔しそうなサリーの弁であった。神様でも悔しいんだ?少女は言った。


「そりゃそうよ。ごまかし無しの実力勝負だもの」


そして言った。


「学問成就する、待ち人来る、不動産よし、金運よし!」


俺は笑ってサリーに尋ねた。


「で、恋愛は?」


少女は悪戯っぽく笑って答えた。


「まだ内緒!」



 春休みも短い。新学年のための勉強と部活であっという間に過ぎていった。


いつの間にか春だ。俺にとって最後の桜、だな。


少し感慨深かったが、暢気に花見をする気分にはなれなかった。



 新学年になってクラス替えになったが、


当然というか、再びサリーと俺は同じクラスで席も隣のままだった。


さすが神様。面倒見が良いというか、そこだけは譲らないというか。



 5月24日、あとこの世との別れまで1ヶ月ちょうど。


朝、目を覚ましたときに思ったのは、そのことだった。


早いな、早すぎる。


朝食を少女と取りながら、俺は考え込んでしまっていた。


この世ともお別れか。あと30回しか朝を迎えることができない。


 サリーがトーストを頬張りながら、俺の顔をのぞき込んで言った。


「勇気、どうしたの?元気ないね。体調悪いの?」


俺は答えた。


「なんでもない。少し疲れているだけだよ。心配させてごめん」


少女は答えた。


「勇気、いつもがんばってるもんね。疲れちゃうのは当然だよ」


少女のトーストを持つ手が止まり、少し小首をかしげる様子。


朝日が、食卓に差し込みカップの中の紅茶の表面に光を反射させる。


揺らめく光と影。なんでもない情景、でもなんてこの世は美しいのだろう、


そんな風に俺は思ってしまった。

 

 俺たちは朝食を終えた。片付けは俺の当番だった。


食器を洗うための水も冷たくて気持ちが良い。


皿に触れる感触までも愛おしく感じる。


これが死ぬ直前の感覚ということなのかな。


目に触れるものすべてが美しく感じる、とある闘病記に書かれていたことを思い出す。


本当にそうだな。



 洗濯を終え、俺とサリーは約束していたとおり、


近くの神社まで朝の散歩をすることにした。


昨晩、夕飯時に少女はにこやかに俺に提案した。


「明日のお休み、朝晴れていたら、早めに起きてお散歩行こうよ。朝の神社って気持ちよいじゃない?清々しくて」


まあ、そうだな。清々しいという言葉がぴったりだ。


5月下旬にしてはひんやりとした朝の空気の中、


俺たちは武蔵国一宮である氷川神社へお参りに出かけた。


長い緑の参道、早朝だがちらほら参拝客がいる。


近所の人の日課なのだろう。


市民ランナーも多い。


死の足音が近づいている実感は無いが、避けられないものなのだろうし、


俺にできることは無い。


自暴自棄になってもいいのだろうが、サリーが心配するだろう。


そんなことをぼんやりと考えながら、二人で鳥居をくぐり境内に向かった。



 境内はいつものように塵一つ無く掃き清められ、


他の場所とは違う清らかな空気に満ちていた。聖域と呼ぶのがふさわしい。


二拍二礼、目を閉じ手を合わせ神様に感謝した。


少なくともこの11ヶ月は、これまでに経験したことの無い充実した日々だった。


ありがとう、神様。そしてサリー。


死神に感謝?


そう感謝しか無い。


隣で一生懸命に手を合わせてお祈りをする小柄で華奢な少女をみやり、俺は思った。


サリーがいなければ、文句ばっかりのだらだらした生活を続けていただろう。


秋の予選会で悔しい思いをすることもなく、


試験で好成績を収めることも無く、


ゲームをしたり、友達とだべったり、喫茶店で馬鹿話をしたり。


そんな平凡な日常が悪いわけでは無いけれど、


流されて行くことにも気がつかずに流され、1年を過ごしたに違いない。


俺はもう一度決意を固めた。あと一ヶ月、精一杯生きてやろう。少女に俺は言った。


「サリー、ありがとうな」


少女は虚を突かれたらしく、目を大きく見開いてきょとんとしてから小声で言った。


「うん、こちらこそ、ありがとね、勇気」



 火曜日、部活を終えた帰り道、俺はサリーに言った。


「あと、一ヶ月ないんだな」


サリーは、はっとしたように、立ち止まりこちらを見やった。


俺は言った。


「俺は精一杯生きてみるよ」


そして続けた


「県大会は、スケジュール的に俺が死んだ後だけど、地区予選は全力で挑む。期末試験は受けられないけど、できるだけのことはしようと思う。それがなににつながるわけでも無いのだろうけれど、たぶんそれがサリーの望みだろうし、俺の希望でもある。がんばってみるよ」


振り返ると、少女は少しうつむいて目に涙をためていた。


俺は言った。


「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだ。大丈夫か?」


少女は小さく微笑み、ハンカチで涙を拭いてから大きく深呼吸をしてから俺に言った。


「勇気、ほんとに強くて格好いいな。私にはできないよ」


俺は笑って少女に言った。


「神様でもできないことがあるんだ?!」


少女は泣き笑いのような表情をして小声でつぶやいた。


「私にはできない、勇気はやっぱり凄いや。もしかしたら本当に・・・」


その後は、声が小さくて聞き取れなかった。



 梅雨の晴れ間となった日曜日、地区予選の決勝に俺は駒を進めた。


100m走。


200mと400mリレーは残念ながら予選落ちだったが。


第三レーン。調子は良し。風が少し強い、向かい風だ。


これはタイムは出にくいな。


女子決勝には、サリーも進出が決定していた。


100mだけエントリーしていて、男子100m決勝の直前だった。


華奢なユニフォーム姿に鉢巻きが可愛らしい。


俺はサリーに近づき一声掛けた。表情が硬いぞ、大丈夫か?


「緊張するなぁ」


おい、神様が緊張するのか?俺は少女をからかう。


「あたりまえでしょ」


少女は頬をぷうっと膨らませて言う。


「人間の姿なんだから、神様の力を使えるわけでは無いし、実力勝負よ」


そうか、頑張れよ。背中をポンと叩くと、少女は力なく微笑んだ。ホントに緊張してるな。


それじゃあ、応援してやるか。


アナウンスが会場に響く。


「女子100m決勝戦、出場選手は集合場所に集まってください」


ウィンドブレーカーを着た各高校の選手が集まっていく。


フィールドではやり投げの決勝が始まっている。ときおり歓声が起こる。


サリーの小さな背中が見える。ウィンドブレーカーを脱いでストレッチを始めている。


次々に選手の名前が呼ばれていく。


「第三レーン、天本紗理奈選手。南大宮高校2年」


サリーが片手を挙げる。観客席から小さな拍手。


俺は大きく深呼吸してから、大声で少女に声を掛けた。


「サリー、ファイト!」


少女はびくっとしてから、こちらを向いて恥ずかしそうに小さく笑って、


手を振ってからスターティングブロックの方に近づいていった。



「位置について」


一瞬の間。風がやんだ。


「用意」


ピストルの乾いた音とともに、低くサリーが飛び出す。いいスタートだ。


グングン加速する。隣の第2レーンの子も早い。

サリーは1mくらい先攻されている。


第2レーンの子は優勝候補だって言ってたな。


サリー頑張れ。


70m付近で追いつく、そしてゴール。


「一着、天本紗理奈選手、南大宮高校。タイムは」


観客席からどよめき。


やったぞ!サリーがんばったなぁ。


「なお埼玉県高校新記録です!」


再びどよめき。


サリーの笑顔が弾ける。


ぴょんぴょん飛び跳ねて、両手を俺の方にブンブンと振り回して喜んでいる。


上級生が笑顔でサリー近づいていって頭をぽんぽん叩いている。


よし次は俺の番だな。


俺はサリーに向かって小さく手を振った。


「男子100m決勝、出場選手は集合場所に集まってください」


アナウンスが聞こえる。ゆっくりと俺はスターティングブロックの後ろに歩いて行った。


俺は結構頑張ってきた。2着までに入って、県大会出場の権利は取りたい、出場できないとしても。



「位置について」「用意」


ピストルの乾いた音が響く。スタートは少し遅れた、でもほんの少しだ。


加速に入る。身体は軽い。先行する選手に追いつく。行けるか?


三人の選手がほぼ同時にゴールラインになだれこんだ。


「一着、江藤勇気選手、南大宮高校。タイムは」


観客席がどよめく。サリーが涙を流しながら、俺に飛びついてきた。


「勇気、すごい、やったね、やったね、私達がんばったね」


よし、俺も陸上部でも、やれるだけやったな。やり切った。


「サリーもおめでとう、凄いタイムじゃないか」


俺はサリーの華奢な身体を抱きしめる。笑顔で見つめ合う、二人とも泣き笑いだ。


上級生が近づいてきた。


「おい、江藤、やったな、おめでとう!」


俺は答えた。


「ありがとうございます」


上級生は、少し困ったような顔をして俺に言った。


「あのさ、お前らいつまで抱きついてるんだ?まだ試合中だぞ」


あ。


「いちゃついてるのかって誤解されるぞ」


誤解?俺は気がついた。いや、ずっと前から気づいていた。


俺はサリーを愛している、心の底から。



 最後の2週間となった。部活も勉強も手は抜かないが、

この世への別れのために、慎重に作戦を考えて、行動を開始した。


友人から借りていたものを全て返し、PCの中のやばそうな電子ファイルは全て完全消去。


日記も焼却した。


死期が分かっているというのは、その意味で大変便利というか、


後に残したくないものを正確に冷静に処分できるのが良い、と俺は思った。


海外にいる家族のためには、遺書というか手紙を書かなくては。


まあ大した内容じゃなくて、感謝の手紙だ。


俺は、これまでずっといい加減で、心配ばかりさせていたからな。


 部室や教室のロッカーも綺麗に片付けた。家も順次綺麗にしていった。


洗濯掃除OK。チェックリストを作ってひとつずつ実行していく。


正直に言おう、そうでもしないと気が変になりそうだった。


そりゃそうだろう、なんの前触れも無く死がやってくるわけで、


その日時を自分が知っているという状況は、気の狂わない方がおかしい。



 準備を進めている間、妙にサリーが静かだったのに気がついたのは、


残りあと一週間となった日だった。


いつもの弾むような声、笑顔が少ない。


俺は夕ご飯の後に、サリーに尋ねた。


「お前、最近元気ないけど大丈夫か?」


少女はびっくりしたらしく目を大きく見開いてから、


唇をきゅっと結んだ。俺は言った。


「俺は、最後の一週間に入ったが、心配しなくて良いぞ。覚悟まではできてないが、冷静に進めている」


そして、少し無理に笑って、少女に言った。


「準備万端整えて逝くよ、悔いは無い。この一年間、俺はできるだけのことを、やったつもりだ」


そして、付け加えた。


「これでも次にダンゴムシに転生するのなるなら、それも良しだ」


少女の目に涙があふれる。おい、泣くなよ、泣きたいのは俺の方だぞ。


「あのね、違うの。そうじゃなくてね」


後は、言葉にならない。サリーはぐじゅぐじゅと鼻をすすり上げて、泣きじゃくる。


俺は小さな肩を抱いてポンポンと軽く叩いて言った。


「俺は大丈夫だからさ」


少女はようやく落ち着いたらしく、じっと床を見つめてから俺の目を見て小さな声で言った。


「勇気は、強いな。尊敬する」


俺は笑って答えた。


「なに言ってるんだ?俺は怖くて仕方が無いんだぞ。だからやるべきだと思ったことを徹底的にやることで忘れようとしてきたんだ。それは最後まで変わらない、それだけだよ」


またぽろぽろと涙を流し始めた少女の肩を俺はずっと抱いていた。



 今日が最後の一日か。


その割に、昨日はよく眠れた、と俺は思った。


天気はまあまあ、雲が少しあるかな。暑くも無く寒くも無し、


逝くにはちょうどいいお日和と言うことだ。



朝食の支度をしてサリーを待つ。


あれ?起きてこないな?珍しいな寝坊か?


最終日に寝坊とは、頼りにならんな。


俺は、サリーの部屋のドアをノックしてから、入るぞと声を掛けて中に入った。


 サリーはまだベッドの中で目を瞑っていた。


おかしい。寝坊していても俺が部屋の中に入ると目を覚ますのが普通だったのに。


俺はベッドに近づいた。


少しサリーの息が荒いのに気がついた。


熱でもあるのか?


俺は少女の額に手を当ててみた。


熱い、やっぱり熱がある。俺は声を掛けた。


「大丈夫か?苦しいのか?風邪でも引いたか?」


少女は小さく肯いて目を開けて言った。


「ごめんなさい。体調が悪いみたい」


俺は溜息をついて言った。


「朝ご飯は、ここで食べるか?それとも起き上がれる?」


少女は小さな声で答えた。


「ちょっと、食べるの無理っぽい」


食いしん坊のサリーが食べたくないというのは、かなりしんどいと言うことだな。


俺は言った。


「少し待ってろよ」


俺は台所に戻り、冷凍庫から氷嚢を取り出してタオルを巻き、


水を汲んで風邪薬を持ってサリーの部屋に引き返した。


背中を支えて少し少女を起こし、薬を飲ませてから寝かしつけ、額に氷嚢を当てた。


少女は小さな声で言った。


「勇気、ありがと。少し楽になった」


俺は言った。


「体温を測ってみようか?」


少女は、首を小さく振って言った。


「大丈夫」


俺は言った。


「そうか。じゃあ、おとなしく寝てろよ。俺が学校には連絡しておくから」


少女は大きく目を見開いて言った。


「勇気、学校へ行くの?」


俺は笑って言った。


「今日は平日だぞ。授業は普通にある。それから」


続けて言った。


「机の中とか全部片付けてこないといけないからな。今日は俺の最終日だけど、だからこそ普通に過ごすつもりだ。サリーはゆっくり休んでろよ、部活は休んで、早めに帰るからさ」


少女の目から涙がぽろぽろとあふれ出す。


俺は、少女の手をぎゅっと両手で握った。サリーも握り返す。


沈黙。


俺は言った。


「俺も休んで、サリーを看病した方が良いか?」


うん、うん、と少女が肯いた。


そうか。一日くらい、ずる休みしたっていいよな。俺の最後の一日だし。


俺はサリーに言った。


「わかった。今日は俺も風邪だってことにして休むよ。ずっと家にいる。最後の日の過ごし方としては、悪くないさ」


続けて俺は笑って言った。


「好きな子とずっと一緒に最後の日を過ごすのは、うん、悪くない」


また少女の目から涙がぽろぽろとあふれ出した。よしよし、と頭をなでる。


しばらくして少女は寝息になった、泣き疲れて眠ったようだった。


俺は静かにサリーの部屋を出て、朝食を取った。


最後の朝飯だ。今日のスクランブルエッグも美味くできた。


朝食を終えて、片付けた後、自分の部屋に行って、


俺は静かに最後の手紙を家族に宛てて書き始めた。父親へ、母親へ、そして妹へ。


書き終えた後、そっとサリーの部屋に行く。まだ眠っているようだ。


ベッド脇の椅子に座って、本を読む。これが最後の読書になるのか。終わりまで読めるかな?



 お昼時になったが、俺は昼飯を食う気にはならなかった。


さすがに死の恐怖って奴が押し寄せてくる。


あと9時間くらいか。


死刑囚は最後に出された飯を食べられないと聞いたことがある。


そりゃそうだ。平気で食べられる方がおかしい。食欲なんて湧くはずもない。


俺は静かに読書を続けた。厳密に言えば、中身はちっとも頭に入らず、活字を目で追うだけだったが。

 

サリーが目を覚ましたのは、午後4時過ぎだった。


溶けた氷嚢を変えると、目をぱっちりと開けて俺の方を見てから、小さく笑って言った。


「ごめんね、勇気。迷惑掛けてる」


俺は少し気持ちが明るくなって、ポンポンと蒲団を軽く叩きながら笑って言った。


「少し体調はマシになったみたいだね。良かった」


時計を見る。あと5時間か。俺はサリーに尋ねた。


「なにか食べるか?おなか空かない?」


少女は首を小さく横に振って言った。


「大丈夫。私、おなか空いてない。勇気はなにか食べたの?」


俺は首を振って言った。


「食欲が無いよ」


そして苦笑いをしながら続けた。


「さすがに今日ばかりは、死刑執行直前の死刑囚みたいな気分だからな、食べる気が起こらない。でも大丈夫だよ、俺は冷静だ。静かにこの世とお別れするさ」


サリーは真顔になって黙り込んだ。なにか考え込んでいる様子だった。


やがて少女は意を決したかのように、ベッドから起き上がり、


俺の方に向き直って改まった口調で言った。


「お話したいことがあります。居間で待っていてもらえますか?」


俺は黙って肯いてから部屋を出た。いよいよ最期だな。


 少女は、一番最初に会った時に着ていた金色の縁取りが施された白いガウンを着て白い帽子を被り、


左手に黄金の鎌を持って、居間に現れた。


長い長い沈黙。


俺は少女が話し始めるまで待った。


少女は床の方を見つめながら小さく何回か肯いてから、


ようやく俺の方に向き直り、目を大きく見開いてから言った。


「私、あなたに、ずっと嘘をついてきました。これから本当のことをお話しします。信じてはもらえないかもしれないけれど」


沈黙。


それから大きく深呼吸をして、再び話し始めた。


「私は、死神ではありません。いくつもの過去や未来を行き来して転生を繰り返してきた魂の一つです。


あなたと会うために、一年だけ許されて、この世に来ました。なぜ会いに来たかというと」


大きく息を吸ってから少女は言った。


「実現する可能性の小さな未来のあなたを愛してしまったからです」



俺は自分のものではないようなかすれ声で少女に尋ねた。


「どういうことだ?お前が一年前に見せてくれた未来とは別の未来に、俺を誘導しに来たということか?」


少女はうつむきながら、小さく肯いた。


「なんのために?」自分の声が遠くから聞こえる。


少女は顔を上げ、俺の目をまっすぐ見て答えた。


「あなたと、またいつか、この世で会うためです」


二人の呼吸する音と、時計の時を刻む音だけが部屋に響く。


俺は少女に言った。


「俺はサリーのことが好きだ。わがままで、気まぐれで、泣き虫で、おこりんぼうのサリーが大好きだ。愛している。でも俺は、もうこの世を去らなければならないのだろう。次の転生先とやらでサリーに会える可能性はあるのか?」


少女はうつむいたまま、首を小さく振ってから言った。


「それも嘘なんです。あなたが、今日死ぬことはありません。この世からいなくなるのは、私です。そして再び会えるかどうかは、わかりません」


時が止まった。


少女は、左手に持った黄金の鎌を掲げながら、話し始めた。


「この鎌の刃は、過去と現在と未来の因果を断ち切る刃です。この刃の力で、今からこの世の現在と未来を断ち切ります。未来がどうなってしまうかわかりません、なにも変わらないのかも知れない」


「私は、サリーとして、あなたに、勇気に、またこの世で会いたいです。もともと会える可能性はほとんどありませんでした。そしてその可能性がこの一年間でどう変わったのかは、わかりません」


「この世に私がどのような形で戻るのかも、そもそも戻ってこられるかもわかりません。無数にある未来から、この世界の未来に来られる確率はほとんどゼロかもしれません。でもね」


少女の持つ鎌が目もくらむような輝きを放ち始める。


少女は小さく微笑んだ。


「おみくじには、恋愛は必ず成るって出てたから。だから」


声が遠く、小さくなっていく。


「戻ってこられたら、一番に勇気を探します。絶対に探し出します。そしてまた一緒に」


俺は絶叫した。


「サリー、行くな。戻ってこい」


急に周囲が暗闇に閉ざされ、すべての音が消えた。


 気づくと俺は居間に一人で立ち尽くしていた。


慌てて時計を見る。時計は午後10時を少し過ぎた時間を示していた。


サリーはどこに行った?



 急いでサリーの部屋に行ってみる。俺は呆然とした。


サリーのために俺が春休みにクレーンキャッチャーで取ったぬいぐるみも、


サリーお気に入りのポシェットも、あのピンク色の小さなスーツケースも、なにもなかった。


俺は床に崩れ落ちた。


床にはうっすらと埃が積もっていた。


まるで一年以上、誰もこの部屋に入っていないかのような風情だった。


妹が両親と一緒にアメリカに行ってしまった、その日から今まで、


この部屋は使われていなかった様相を示していた。


サリーの痕跡はどこにも残っていなかった。


スマホを見てみる。履歴には一切、サリーのメッセージは無かった。


着信も、一緒に写した写真も、なにもなかった。


サリーが送信してきた変顔の写真もなにも残されていなかった。

 

 唯一、サリーに関わるもので残されたものは、天井に星空を投影する小さなプラネタリウムだけだった。


 俺は一睡もできないまま、次の朝、学校に向かった。


予想通り、俺の隣の席にはサリーでは無い別の女子が座っており、


誰一人、サリーのことを覚えている人間はいなかった。


高橋さんは言った。


「天本さん?それ誰?江藤君の友達??私、会ったことある?」



 俺の心の中には、前よりも大きな黒い穴が穿たれた。


今度は死の恐怖では無く、喪失感という名前の穴だ。


その巨大な穴を埋めるべく、俺はこれまでよりもさらに必死にあがいた。


あがくことに意味があるかどうかもわからないまま、


どう生きれば良いのかわからないまま、


眼前に現れる課題に対して徹底的に取り組んだ。まるで敵を殲滅する戦士のように。


 数学が一番得意だった俺は、理科系に進んだ。


そして南高始まって以来、初めて日本で最高の難易度の大学に行き、


取り憑かれたかのように勉強を重ねて大学院に進んだ。


修士課程を卒業後、世界一の売上高を誇る自動車メーカーに就職した。


仕事に没頭した。


徹底的に全てをやり、いつしか社内で研究開発の鬼と呼ばれるようにまでなった。


しかし俺の心の黒い穴が埋められることは無かった。


 サリーに会いたい。会ってサリーの泣き言やわがままを聞きたい。


一緒にご飯を食べたい。朗らかな笑声を聞きたい。


無邪気な笑顔を見たい。一緒に神社にお参りに行きたい。


あの小さな華奢な身体を抱きしめたい。



 仕事は上手くいくことも、そうで無いこともあった。


努力が報われないことも、裏切られることもあった。


プロジェクトリーダーも任された。海外赴任も経験した。



サリーがこの世からいなくなってから10年以上の歳月が流れた。


俺は時々、サリーにもらった小型のプラネタリウムで天井に投影された星空を眺めた。


どこかでサリーもこの星空を見ているに違いない、俺はぼんやりとそんなことを思った。



5月の連休最後の日の朝、呼び鈴がなった。


こんな朝っぱらから誰だ、新聞の勧誘か?インターホンの画面を見た。


そこには見覚えのある、いや正直に言おう、夢にまで見て、恋焦がれた少女の笑顔が映っていた。


首には金色のネックレス。



俺は一応、聞いてみた。


「どちら様でしょうか?」


少女はさらに大きな笑みを浮かべて大きな声で答えた。


「サリーって言います。江藤勇気さんのお宅はこちらでしょうか!」


ドアを開けると、顔全体で笑ったサリーが俺の胸の中に飛び込んできた。


「探したよぅ!やっと見つけた!!」


俺は、華奢な少女の身体を力一杯抱きしめた。


サリーは笑いながら言った。


「勇気、痛いよぉ、力強すぎ!」


俺は、腕の力を弱めて、少し離れてサリーの顔を見て言った。


「随分長い間、待ったぞ。どこほっつき歩いてた?」


サリーは俺の顔を見上げて、ニコニコ笑いながら答えた。


「私、方向音痴だから!」


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


3日間で一気に書き上げたので、文章が少し粗いかもしれません。ごめんなさい。

少しでも楽しんでもらえれば、と思います。


では、また縁があったら、お会いしましょう。


(追伸)

簡単でも良いので、感想をもらえると嬉しいです!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 少女と出会うシーンがとても好きです! 少女の初めのセリフから主人公の名前がわかるのもいいですね!! オチも最高です!! [気になる点] 文字数が多いので最後まで読むのには根気が必要です!…
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