3、那木
空は灰色だった。
鼻を突くような臭いを漂わせて、辺りは少し薄暗い感じであった。
霞ヶ関にある建物の一室。
彼は、窓の中からその重苦しい風景を眺めていた。
そこは、皇居の桜田門前にそびえ立つ、地上18階、地下4階のビル、警視庁である。
「もうすぐ雨が降ってくるな・・・」
誰もいない部屋で一人、彼はそう呟いた。
そして、机の縁に寄りかかり、深くため息を吐いた。
とその時、誰かが部屋に入ってきた。
彼は気づいていたが振り向かなかった。
「あれ、那木さん、休暇中じゃなかったんですか?」
その声に反応するかのように、彼、那木は振り向いた。
「休暇中にちょっと書類を片付けようかと思ってね、来てみたんだ」
整った顔を笑わせて那木は言った。
「那木さんのやるような書類は今のところありませんよ。
というよりも、那木さん、休暇中なんだから書類仕事もしちゃいけないんじゃないですか?」
那木に声をかけた男は悪気の気配をまったく感じさせることなく言った。
「でも、この捜査一課で那木さんが欠けるのは正直言って辛いですよ」
「ハハハ」
那木は苦笑いを浮かべた。
男もつられて笑った。
「でも、那木さん、どうして霧山議員のことを調べまわっているんです?
理由を言ってくれないからこんなことになるんですよぉ」
男は少し甘え気味に言った。
どうやら男は那木の後輩らしい。
「ないわけではないけど、まだまだ言うほどの理由はないんだ」
「まだまだって?」
「まあ、あまり迂闊なことを言うと、俺自身の刑事生命が危うくなるかもしれないんでね。
無難なところで言うと、どうしてあれほどの行動をするだけの金があるのかなぁって事かな」
那木も人が良いのか、客観的なところで対応をした。
「そりゃ、政治家ですからね。お金にはそれほど不自由していないんじゃないですか?」
「でも、聞くところによると、賄賂とかあまり貰っていないって話じゃないか?
いくら政治家とはいえ、あんな高額な援助金やたくさんの施設を建てれるほどの金を持っているとは思えん」
「お金とは別のものがあるんじゃないですか?
霧山議員は国民に絶大な人気がありますし、福祉団体からの援助金とかで賄っているんですよきっと」
「そうかな」
「そうですよ。それに、あの人あまりにも良いことをじゃんじゃん実行してしまうので他の政治家には嫌われていますし、どうして那木さんがそこまでして霧山議員にこだわるのか理解できません」
男は那木をじっと見つめて言った。
那木は男から視線をそらし、遠くを見た。
しかし、男は那木の次の台詞を待つように見つめていた。
那木はその視線に耐えかねてか、小さく咳払いをして言った。
「本当のところ、俺の勘なんだ」
那木は思いっきりの笑みを浮かべた。
男はただ、目をぱちくりさせていた。
■□■
那木はどこかの町の商店街を歩いていた。
靴屋、洋服店、アクセサリーショップ、スーパー、デパート、やはり若さであろう、カジュアルショップの店頭に飾ってある新製品のGパンを手に取り眺めていた。
「熱で色が変化するなんて、おもしろいなぁ」
いろんな種類のGパンを見ながら鼻歌を歌いながら品定めをしていた。
「でも、寮のやつらになんて言われるかわかんねぇしなぁ・・・」
Gパンの色を変色させながら考えているようだ。
「でも、やっぱり買おう!」
そういい、自分に合うGパンを持って店の中に入って行った。
『普通の若者だねぇ』
しばらくして店から出てきた那木は、軽やかに歩き出した。
『今度はアクセサリーか?』
那木は男性専用アクセサリーショップに入っていた。
彼は飾ってある商品には目もくれずにカウンターの方に行った。
「この間注文したやつ、できてる?」
カウンターに前のめりによしかかり、片方の足のつま先を床にトントンとやりながら店主に聞いた。
「出来てますよ、ちょとお待ちください」
店主はそう言うと店の奥に入って行った。
『今は特注で作ってもらえるのかぁ』
「はい、これ。なかなかイカしてますよ」
店の置くからでてきた店主はそう言いながら品物を那木に見せた。
「銃弾をネックレスにするなんて、カッコ良いですよ!」
『へえ、銃弾をねぇ、あの若者なら似あいそうだねぇ』
那木は勘定を払うと店を出た。
歩きながら先ほど買ったネックレスを着けた。
そして、近くに止めてあったフィルム貼りの車の窓ガラスから自分のその様子を見た。
「なかなかイカしてるなぁ」
口の端を思い切り上げてそう言うと、再び歩き出した。
那木は少し、歩くスピードを上げた。
「ひえぇ、なんかポツポツ来てるぞ」
こう言い、コンビにに入って行った。
『うわぁ。雨だよ』
まもなく雨が降ってきた。
那木はコンビニに入ると雑誌類が置いてあるところへ行き、少年誌を開いた。
しかし、その視線はなぜか本ではなく、あちこちに散らされていた。
「・・・誰かに見られている」
那木は心の中で呟いた。
窓に映る店内の様子を那木はじっくり窺った。
暇そうにしている店員は2人、お菓子を選んでいる子供が4人、自分と同様に立ち読みをしている男が一人、しかしこの男は見るからに本に見入っている。
そのまま窓の外を見ると、突然の雨に皆大慌てで近くの店に入ったり、雨のあたらないところで雨宿りをしたり、車は雨の影響をそれほど受けることなく冷静にワイパーを動かしている。
怪しいと思われるものは道に数台駐車している車のうち、中に人間が乗っている者だろう。
一台は父親とその子供達だろうか、おそらく近くのスーパーで買い物をしている母親を待っていると思われる。
一台は仕事をサボっている営業マンだろうか、移動用の車の中で顔に新聞紙をかぶせて眠っている。
そしてもう一台、30代後半ぐらいの男が道に迷ったのか、地図帳を眺めていた。
ふと、その男が那木の視線に気づいたのか、那木とその男の目が合った。
那木は瞬きもせず、その男を見ていた。
その男は、そんな那木の視線に応えるかのように、広げた地図帳をひょいと上げて、苦笑いを浮かべていた。
やたらに口の横に深い笑い皺が目立つ男だ。
那木はその男が何を言いたいのか悟ったのか、そうではないのか、笑みを返した。
「大宮ナンバーということは、あまりこの辺の事を知らないのか」
そんなことを思いながら、那木はその男から視線をはずした。
「気のせいか、でなければ相当のプロだな」
那木はそう呟くと、広げていた少年誌を閉じ、元の場所に戻し、レジの方へ行き、すぐ横にあったいつもよりも数字が膨らんだビニール傘をかい、店を出て行った。
■□■
夜になり、雨は一向に弱まることはなかった。
雨の振る音は周りの雑音をすべてかき消し、自分の語る音以外のすべての音の存在を否定するかのようであった。
「いやぁ、本当にしばらくぶりだなぁ、綾野」
ごく普通の建売住宅の一室にて、片手に水滴のついたビールの入ったコップを持ちながら、中年の男は言った。
「しかし、お前が警察を辞めてしまったのは惜しいことをした、お前に会うたびにそう思うよ」
「まあ、自分の意思で辞めたことだ」
中年男の言葉に困る様子もなく、綾野はつまみの枝豆を口に入れながら話した。
「自分の意志ってお前、あのままいけば長官にだってなれたんだぞ?」
中年男は少し酔っているのか、感情的に言った。
「地位にも金にも興味はない」
綾野は中身の入ったコップを回しながら言った。
時々、中身がコップの外側を伝わってこぼれてくる。
「ま、そういう俺も50を境に警察辞めちまったけどよ。
でも、俺は万年警部補だしな」
「上に行けば良いってもんでもないぜ」
「言ってくれるぜ。下に居るものにすればそんなこと、微塵も思えないがねガハハ」
「それよりもコバさん、景気のほうはどうだい?」
「まあ、ぼちぼちってところかな。
やっぱりこの業界はTVや小説で見るような華やかなもんじゃねぇ。
地味なのばっかりだよ、不倫調査とか企業偵察とか・・・」
「探偵も楽じゃないな」
「そう、今までの刑事の経験が生かせると思ったけどさ、どろどろしたのばっかりで嫌になるぜ。
そういえばさ、聞いてくれよ。
この間の依頼のことなんだけどよ、なんだと思う?
依頼人が美人なんでちょっぴり何か期待しちゃったんだけど、何とペットを探してくれって言うもんでさ、それで、それならばそれ専門のところへ行ってくれって言ったらよ、そこに断られたって言うんだよ。
そこで、いったい何を探すんだと聞いたら「猫の置物」とか言うんだぜ?
そこで俺としては・・・」
「世間話はその辺にして、俺の依頼を聞いてくれよ、コバさん」
綾野はきりがないと思い、コバさんこと小林の話を中断させた。
「おい、そうだったな。で、なんだ?」
小林は話を中断させられたことに怒る事もなく綾野に聞いた。
「あの、国民の支持を受けている霧山賢四郎議員のことを知りたい」
「あの現代の正義の味方と言われる霧山議員のことか?」
「ああ」
「なんでまた、あんな良い奴の事を知りたいんだ?」
「良い奴か悪い奴かは俺にはわからんがとにかく知りたい」
「お前さんの仕事の内容に関係あるのか?」
「まあな」
綾野の返事に対し、小林はビールを飲み干し、しばらく考えた。
途中、小林の奥さんが冷奴を持ってきた。
綾野はお礼を言い、それをつまんだ。
「条件がある」
小林は今までの表情とは打って変わって、真剣なまなざしで綾野を見た。
「なんだ」
綾野も空気を読み取ったのか、まっすぐな視線で聞き返した。
「霧山議員といえばお前も知っている通り、弱気物を地獄からすくってくれている救世主だ。
他の政治家にどんなにバッシングを受けようとも悪いことは悪いときちんと指摘も出来るし、良いことを即実行してくれる立派な人だ。
俺も彼のその行動を評価しているし、あの人がここの区で立候補したら票を入れる。
まあ、お前も仕事だから仕方がないとしてもそんな良い人間を調べるのは本人だけでなく国民に対しても失礼だ、わかるか?」
「言おうとしていることはね」
「そうか、わかってそう言っているのならば俺がなんと言っても彼のことを調べるつもりだな?」
「仕事だからな」
「そうか、まあ、お前が悪いわけではないし、俺もお前のことは嫌いじゃないからな、協力してやろう」
「ありがとう」
小林は綾野の意思を確かめるかのように言った。
綾野は冷奴に醤油を追加しながらお礼を言った。
「それでは、条件を言おう。
実はな、今、警察から探偵協会へとある依頼が来ていてな、協会からそこに所属する探偵事務所全部にその依頼が言い渡された」
「珍しいな」
「ああ、それでその内容が、最近起こっている銀行強盗のことなんだが、その強盗グループはとある人物に頼まれているらしいのだが、その人物がつかめないでいるんだ。
そこで、俺ら探偵に賞金つきでその人物を突き止めて欲しいということなんだが・・・」
「強盗は捕まっているのか?」
「ああ、捕まっていることは捕まっている。
しかし、皆口が堅くて、それでもってどういう訳かすぐに釈放されているんだ」
「変な話だな」
「だろう?だからよ、俺を含めて他の関係者はその「とある人物」の力ですぐに釈放されているんじゃないかって睨んでいるんだ」
「雇われ強盗の口の堅さを見ると、よほどのカリスマ性をもった人物だろうな」
綾野は冷奴を食べ終えて言った。
「で、その人物を俺に突き止めろって事か」
「そういうことだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
今度は綾野が黙った。
箸で皿に残った鰹節と刻みネギをいじりながら「うーん」と唸った。
そして、その手が止まったとき、綾野は口を開いた。
「いいだろう、引き受けよう。
だが、あんたにもうひとつ教えてもらいたいことがある」
「何だ?」
小林は低い声で言った。
「那木貴也警部、いや、あんたのいた頃は警部補だったかな。
若いキャリア刑事のことを知っていたら、どういう男か教えて欲しい」
「あの若者を知っているのか?」
小林は予想もしなかった質問に驚いたように聞き返した。
綾野は「ちょっと訳ありでね」と小声で言った。
「知っているも何も、一年あの男と同じ職場にいたからな。
いい青年だよ。お前に良く似ている」
「どういう男だ?」
「どういうって、そりゃ、絵に書いたような好青年でよ、女の子にも良くモテるんでな、婦警さんの人気の的だった」
「それ以外には?」
「勘が鋭くてな。難解とされている事件をどんどん解決していってな。エリート以上の男だなありゃ」
「で?」
「まあ、俺の聞いた話によれば彼、なんか目的があって警察の道に入ったらしくてな。
俺にはこの世の悪を絶つんだって言ってたっけな。
まあ、俺の見たところ、もっと具体的な目的があるんだろうなと思ったけどな」
「例えば?」
「さあね、俺もそこまで知らねぇ。ただ、俺の勘では誰かを裁きたいんじゃないかな」
「ふうん」
「少しは参考になったか?」
「ああ」
「じゃあ、俺の条件のほうも頼むぜ。俺も一応調べてみるからよ」
「頼むよ」
そう言うと綾野は、コップに並々と注がれたビールを一気に飲み干した。