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 この日の『パンドラ』入りは、彰にとってはある意味で初回よりも遥かに緊張が大きく感じられた。

 だがまるっきりいつもの様子の係員達と接している内、どうやら本当にまだ機関には自分のことは伝わってないらしい、と判って彰は全身から力が抜ける。

 とは言えこれからこの話を英一達に話さないといけない、と思うと新たな緊張が彰を襲った。

 店に急いでそこですべての事情を説明すると、彰は小さく息をついて、向かいで半ば呆然としている英一の顔を申し訳なく思いながら見つめて。

 彰の隣のシーニユは、相変わらずひとかけらの驚きも見せずに座っている。

 前回のログアウト時につい漏らしてしまった「自分がシーニユのデザイン主を知っている」という話については、彰は敢えて触れなかった。ただ、「事前の健康診断で診てくれた医者に偶然再会して仲良くなった、その先生が昔の知り合いに話を聞いてくれるそうだ」というだけの説明にとどめている。

 今日は広場から直接『Café Grenze』に来たのだが、駆け込むように店に入ってきた彰の切羽詰まった様子が判ったのか、彼女は何も問うてはこなかった。

 それを半ば申し訳なく、半ば有り難く思いながら、彰は急いで満ちると姉の諍いとその末の状況を、全部英一に打ち明けたのだ。

「……僕が最後に帰省したのは大学一年終わりの春休みなんだ」

 長い長い沈黙の後に、英一がぽつりと口を開く。

「ちょうど自分が『死人』になった一年前。二年の夏はもうあのバイトを始めてたし、特に用事も無いのに帰省したってお金の無駄だしね。……だから、僕が最後に満ちるに会ったのは、あの子がまだ十一、小学五年生の時になる」

 そう言うと英一は、ふうっと深く息を吐いた。

「大学入って家を出て一年、離れて暮らすのは初めてだったから、満ちるは僕がいない生活に大分こたえてたみたいで、戻る時には往生したよ。『行かないで』『連れてって』って何度も泣かれて、こっちがこたえたっけ」

 まだどこか幼げな面影を残した満ちるの顔を思い出し、彰は胸が痛んだ。その一年後に彼女がどれ程の衝撃を負い、そしてそれからの七年、どれ程の癒えない傷を抱え続けてきたかを思うと尚更だ。

「けど、心のどっかで、所詮子供だと思ってた」

 英一はそう呟いて、わずかに下唇を噛む。

「家を放って遊んでばっかりの父親と子供にもきつくあたる姉、その二人の間で小さくなってる母親、そんな家庭で暮らすのは確かに辛いことだとは思う。でも、大人になれば家だって出られるし僕のことも時間が経てば忘れる、それできっとあの子は幸せになる、そう自分に言い聞かせて、それを信じようとしてた。でも」

 テーブルの上で組んだ両手の指に、英一は目を落として。

「この間、お墓に行った御堂くんのところに会いに来た、て言うの聞いて……ああ、そんなにひきずってたんだ、それ程の……傷だったんだ、て、ショックだった」

「……当たり前だよ」

 今の英一を責めるのは酷だし間違っている、そう思いながらも彰はどうしても止めることができずに、小さく言い返す。

「大事な、ひとだったんだ。本当に。それをいきなり理不尽に奪われて、納得のいかないことだらけで、そんな傷、時間で消せたりなんかしないよ」

 彰の言葉に英一はすっと顔を上げてこちらの目を見て。

 その瞳の中にどうしようもなく濃い諦念が満ちているのに、彰はたった今自分が口にしたことを震える程後悔した。

「……うん」

 自分は今このひとに非道(ひど)いことを言った、はっきりそう自覚しながら彰は何も言えないままで、英一の方も何ひとつ否定せずに目を伏せてうなずく。

「僕は……今までずっと、それを見ないようにしてた。まだ子供だからきっと忘れる、姉達も僕がいない方がずっと上手くやれる、どこにも問題なんて無い、そういう風に……思って、いたかったんだ」

 こつ、こつ、と、ひとつひとつ、石を打つハンマーのように刻まれる英一の声に、彰はどんどん、息が苦しくなるのを感じて。

「だけど、違ってた」

 英一は顔を上げ、ふっと目線をどことも判らない遠くへ向けた。

「全然、そうじゃなかった。僕はここにいて、ずっと勝手にそうだと思ってて、でもほんとは全然、そうじゃなかった。皆が皆、苦しんで、辛くて、でもそれを隠して抱え込んで、爆発寸前の空気の中でずっと生きてたんだ。僕はそれから目をそむけて、皆平和に楽しく暮らしてる、って、そう勝手に決めつけてた」

「美馬坂くん」

「その方が、楽だったから」

「美馬坂くん」

 彰はたまらず立ち上がって名を呼んだが、英一はそれを完全に無視して誰に聞かせるともなく話し続ける。

「そういうことにしてここで生きていく方が、楽だったから。……ねえ、僕はここに、二十歳の時に入って、それから二十一年、ここで暮らしてるんだよ。赤んぼの時のことなんて覚えてないから、もうこっちの方が遥かに、自分にとっては長いんだ。

 もし今度のことが全部明るみに出て、そこで何らかの技術の進歩があったとして、外に出られる、そうなったとしても……僕は、出たくない」

 そう言うと英一は、年老いたマスターの手で顔を覆った。

「出たくない。怖いんだ、僕は。今更外になんて、出られない」

 彰は言葉も出ない程の衝撃を受けて、その姿を見下ろして。

 ああ……ああ、本当に、彼は、彼の家族は、あの実験の為にどれだけ心を、歪ませられたのだろう。長い長い時間の中で受け続けた重圧が、どれ程ひとつの家族を、ひずませたのか。

 いつか実験の時に見た、英一ののびのびとした長い手足の動きと、空にかいま見た鳥の影を彰は思い返した。

 確かにあの時、彼には翼があるようだったのに。

 ふと目を離すと、どこまでもどこまでも飛んでいきそうに自由だったのに。

 今彰の目の前で顔を覆って座っている彼の背には、もう羽根が無かった。

 彰の胸がうずいて痛む。

「だから見ないように、してたのに」

 顔を覆った両手の間から、英一の声が漏れ聞こえる。

「僕は僕の平和を守る為に、外は外で平和だ、って、そう思っていたかったのに」

「……美馬坂くん」

 大きく息を吐くのと同時に名を呼ぶと、一緒に涙までこぼれそうになって彰はそれを必死にこらえた。

「その僕のずるさが、満ちるを追い詰めた」

 殆ど聞き取れない程の小さな声で、英一は呟く。

「多分あの子が人生で一番僕を必要としていた時に、僕は傍にいてやれなかった」

「それは美馬坂くんのせいじゃない」

 たまりかねて彰が声を上げると、英一はそろそろと顔から手を離してかすかに微笑んだ。

「うん。でも、あの子の苦しみを存在しないことにしてたのは僕だ」 

 そしてまるであっさりとそう口にするのに、彰はまた何も言えなくなって。

「それにもう、動き出したんだよね。……状況は動き出した。もう止められない」

 ゆっくりと両の手をテーブルに置くと、大きく深呼吸する。

「なら、覚悟を決めなくちゃ。満ちると同じに」

 ぐっと力をためた声で言うと、ふと目を上げ彰を見て、いつもの人なつっこい笑みを浮かべて。

「よし。やろう、御堂くん」

 彰はまた、ぎゅうっと喉の奥が詰まってくるのを感じながら、ひとつ息をして腰を下ろした。



「それで、どうやって公表するつもりなの? テレビ? 新聞? 雑誌? ネット会見? 今手元に、僕達の証言以外に使える物証はあるの?」

 座るやいなや、すっかりモードの切り替わった英一に矢継ぎ早にそう言われ、彰は先刻とは別の意味で言葉に詰まる。

「……それは」

 確かに、「体がある、死んでない」というのは英一達の証言しかない訳で、それを例えば「長く仮想都市にいた仮装人格の妄想」で片付けられたらお終いだ。きちんとかたちとして出せる証拠が要る。

「一番いいのは、僕達の体そのものを出すことなんだろうけど。でもほんとのこと言っちゃうと、どこにあるかは僕達自身もよく知らないんだよね」

 が、考えた最初に思いついた「最短コースの物証」についてあっさり英一にそう言われて、彰はがっくりして。

「勿論、最初の場所は自分達の会場だけど。その後に筑波にしばらく置いてたのは知ってるんだけど、それからまた動かしたらしくて。本州だろう、てことくらいしか判らない」

「それは、広いなあ……」

 彰は途方に暮れて、大きく椅子の背にもたれて腕を組む。

「すみません」

 と、その隣でシーニユが、小さく片手を上げた。

「え、何?」

「御堂さんのお名前が機関に知られてしまった以上、今のままではまずいと思うのですが」

「えっ?」

 二人はきょとんと顔を見合わせ、それからシーニユを見て。

「御堂さんが『パンドラ』を何度か利用されていることは機関の知るところです。となれば、その際に一体中で何をしていたのか、を解析しようとするのではないでしょうか。そうすると美馬坂さんのことも、知られてしまいます」

「あ」

 マスターの口髭の下の口がぽかんと開く。

「……確かに、そうだ。それはすごくまずい」

 それから早口にそう言って、彰とシーニユを交互に見て。

「御堂くん、君今回で『パンドラ』何回目?」

「えっ? ええっと、六回目」

「そう。じゃ、その六回分の日付と時間、中で彼女と一緒じゃなかった時の行動、できるだけ思い出して。どこに行ったとか、誰と話したとか」

「いいけど、どうして」

「彼女に協力してもらって、君のログを書き換える。別のところでやってたことはできる限りそのまま残して、この店に来たこととか、彼女や僕と会話したこととか、そういうのを全部違う内容に変える。……そうだなあ、映画やオペラ見てたとか、図書館行ってたとか、そういう、他の体験者や人工人格とできるだけ接触しないような内容に」

「判った。……何か、紙と書くもの、あるかな」

「お持ちします」

 シーニユがそう言いながら素早く立ち上がって、カウンターの中から紙とボールペンを持ってきた。

「ありがとう」

 彰はそれを受け取ると、適当に間隔を空けて六回分の日付を書いて、それから各回の自分の体験を思い出せるだけ思い出しながら書き込んだ。



「――Shallows?」

 彰が書き込む手元をじっと見つめていたシーニユが、小声で尋ねてくる。

「うん。あ、これで合ってたかな、綴り。ピアノの弾き語りしてる女の人がいてさ、すごく上手くって。彼女のお姉さんがたまたま隣の席で、いろいろ話聞かせてもらって。……あれ、もう一度聴きたかったなあ」

 しみじみと呟いた彰に、シーニユは彼女達の様子をあれこれと質問して。

 彰はそれに、聞かれるままに答える。

「演奏、感動されました?」

「うん。すごく良かったよ。どこかで公開してくれれば、買うのにな。美人だったし、きっと評判出ると思うよ」

「美人」

「うん。二人とも。美人姉妹だね」

 素直にうなずきながら言うと、シーニユは一瞬黙って、

「そのお二人、人工人格ですよ」

 と一言言った。

「ええっ?」

 思わぬ台詞に、彰は度肝を抜かれる。

「え、だって、姉妹だって」

「そういう設定です」

「いや、でも、歌もピアノも、ほんとに上手くて」

「そういう設定です」

「店にはたまに来るだけだって」

「幾つかの店をランダムに回ってます。体験者の方は最も頻繁に来ても週に一度だけですから、毎回逢える人はほぼおりません」

「えー……」

 すっかり騙されていたことに彰はがっくりしてしまい、ペンも止まってしまった。

 シーニユの基準によればあれは「騙し」では無いのかもしれないけれど、でもやっぱり、憧れの有名人の裏のプライベートの顔、を垣間見てしまったような気持ちだ。素直に応援してたのに。

「なんでそこがっかりするの、御堂くん」

 向かいでコーヒーをすすりつつ、英一が笑って。

「いや、だって……現実でデビューとかしてくれたら、応援したのに。ナマで聴きにも行けるし、音も買ったのに」

「あ、成程ね。そっちか」

 英一は片眉を上げ、シーニユに目線を投げた。

「だってさ。気にすることないよ、シーニユ」

 そう声をかけられて、彼女は無表情な目で彼を見返す。

「何か気にかかるようなことがあったでしょうか」

「いや? 僕には、無いけど」

「こちらにもありませんが」

「そう?」

 淡々と返すシーニユに、英一は破顔した。

「何の話?」

 ひとつ息をついて、気分を切り替えてまたペンを持ち直した彰が聞くと、英一は軽く肩をすくめてみせて。

「別に。シーニユは女の子だな、て思っただけ」

「?」

 彰は訳が判らず英一とシーニユを交互に見る。

 彼女はそれをいつもよりやや冷たい目で見返してから、ふい、と目をそらした。

  

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