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エマージェンシー

  

「……ごめんなさい」

 すっかり肩を、いや、全身から気力を落とし切った様子でうなだれて、満ちるはぽつりと言った。

「御堂さんのこと。言うつもりじゃなかったのに、黙っていられなくて」

 その向かいで、彰は強い焦りを覚えた。

 英一の話では、今でも機関は、わずかながらの金額を毎年彼等に支払わせている。それはつまり、今だに英一の実家と機関には繋がりがある、ということだ。

 磯田にすべてを打ち明けた後に少し話をした際、彼はその件を「つまりはずっと見張っている、ということを相手に意識させておきたいのではないか」と言っていた。たとえ金に困らない状況となっていても、外にばらしたらそれなりの報復がある、というほのめかしではないのかと。

 だとすると、彼女の姉が今度のことを機関に話してしまう可能性は相当に高い。

 ……まずい。

 彰は背中に、すうっと汗がつたうのを感じる。

 自分の情報、名前や住所、それ等はすべて、機関に知られている。もう何度も『パンドラ』を利用していることも。

 勿論、当初の自分の『パンドラ』利用の理由は、仮想都市にいる皐月に会う為だ。英一のことは不可抗力と言うか、いわば成り行きでこうなったのだ。

 だがこの状況では、機関はそうは思ってはくれまい。最初から英一の死について調べる目的で彰が『パンドラ』を調査しに来ている、と考えるだろう。

 彰はいてもたってもいられない気持ちになって、勢いよく立ち上がった。

 満ちるが驚いた顔で彰を見上げる。

 その顔を見下ろして、彰はまた焦った。

 そうだ、彼女、どうしよう……何せ自分の家は機関に知られているのだ。そこへは連れていけない。

 家でなくても、自分と一緒にいることで何かまずいことになるかもしれない。かと言ってこの状態の彼女をひとりにして、不安のあまり無茶をされても困る。

 瞬間的に浮かんだのは磯田の顔だったが、これから今度のことを調べようとしている彼のところはまずい、と考え直す。現時点で彰と磯田に繋がりがあることは機関側には知られておらず、それは大きなアドバンテージだ。磯田には機関側から目をつけられず、自由に情報を探れる位置にいてほしい。

 機関や『パンドラ』と完全に無関係で、大抵誰かが家にいて、確実に信頼できる場所。

 彰の頭には、もうたったひとつしか浮かばなかった。

「満ちるちゃん」

 彰は真剣な顔で、彼女を見下ろして。

「携端は、持ってる? 電源入れたまま?」

「あ、はい」

「それ、すぐ落として。僕がいい、て言うまで、絶対に電源は入れないで。もし他に何か、ネットに繋がる系のガジェット持ってたら、それも全部切って」

「……はい」

 満ちるは不思議そうな顔をしながらも、彰の勢いに押されたのか言う通りに携端を操作して。

 彰もその間に、自分の携端の電源を切る。

「別の場所に移動する。一緒に、来て。今すぐ」

 彰は満ちるの手首を握って立ち上がらせると、早足に店を出た。



 雨が降っていたのは幸運だった、彰はそう思う。

 満ちるはもともと傘を持っていなかったので東京駅で何の変哲もない真っ黒な傘を買っていて、彰の傘も飾り気のない紺色のものだった。

 傘をさしていれば、歩いていても上方の防犯カメラには顔や体が映らない。

 電車の駅などで映ってしまうのは致し方ないけれども、駅を出てしまえば同じカメラが途切れなく追ってくる訳ではない。人混みに入って、傘をさしたまましばらく適当に歩いて、裏道から雑踏を抜けてしまえば、こんなどこにでもある傘を映像で追いかけるのは無理だろう。

 何せ相手は、国の機関だ。やろうと思えば何か言い訳をつけて公共施設や個人の店の防犯カメラの映像を出させるくらいは簡単な筈。

 彰はわざと違う駅で降りてしばらくあちこちを歩いてから、カメラなど殆どなさそうな昔からの住宅街を抜け、宏志の店を目指した。

 慣れた通りに入って、視界に店構えが見えてきたのに彰は心底、ほっとする。

 表通りに面した店の扉は閉まっていて『新年は五日から営業いたします』と書かれた紙が貼られていたが、勝手知ったる彰は脇の勝手口へとまわって呼び鈴を鳴らして。

『御堂? どうした?』

 インターホンからすっとんきょうな宏志の声がして、どう答えようか逡巡した瞬間にぱっと扉が開いた。

「どうしたよ、急に、連絡もしない……で」

 勢いよく声をかけてきた宏志の目がすうっと動いて、彰の背後に隠れるように立っている満ちるの方へと動く。

「御堂……」

「宏志、頼みがある」

 宏志が何かを言いかける前に、彰は口を開いた。

「お前にしか頼めない。他の誰かじゃ、あてにならない。お前とお前のご両親のことを信頼してるから頼む、彼女をしばらく、ここで預かってくれないか」

「って……」

 勝手口の小さな軒の下に立って、宏志は首を伸ばすようにして彰の後ろを覗き込んで。

 満ちるはその視線から逃げるように身を縮める。

「事情は後で、必ず説明する。でも今はその余裕が無いし、万一の時に宏志は逆に、何にも知らない方がいい。多分数日で迎えに来られる。でもその時までは、悪いけど彼女の存在は秘密にして、外に一歩も出さずに、店にも出さないで、誰の目にもつかないようにしていてほしい」

 宏志は唇をきゅっと引き締めると、少し体を動かしてまともに満ちるの姿を見た。

 彼女はますます、身を縮こめる。

 小さく息をついて、宏志は彰に向き直った。

「お前はこの子ここに置いて、どこで何するんだよ」

「言えない。……正直、どうするのかはまだはっきりとは決めてない。でも大体のあてはある」

 我ながら曖昧なことを言ってる、そう思いながらも彰はそう言うしかなかった。彰本人にとっても、この事態は急展開なのだ。

「俺にもまだ判ってないことがたくさんあって、でも多分もう少ししたら全部はっきりするんだ。そうしたら宏志にも話せる。必ず話す。だから無茶言ってるのは判ってるけど、今は何にも聞かずに、俺の代わりにこの子を守ってほしい」

 彰の言葉に、宏志はもう一度満ちるに目を落とした。

「……名前も、聞いたらまずい?」

「あっ、あの、美馬坂満ちる、と言います。羽柴さん、御堂さんのとても良いお友達だと、先刻聞きました。すみません、突然こんな、ご迷惑おかけして」

 宏志の問いに彰が答える前に、満ちるがぱっと傘を脇に落とすように置いて、そう早口に言いながら体を腰から折ると、背筋のぴんと伸びた実に綺麗で丁寧なお辞儀をして。

「ミマサカ?」

 高い背をかがめてその傘を拾い上げ、まだ頭を下げたままの満ちるの上にかざしてやりながら宏志が呟く。

「え、それ、どっかで……あ、宮原の」

 ぴょん、と跳ね上がった声に、彰は仕方なく小さくうなずく。

「宮原の友達の、妹さん。事情があってしばらく預からないといけないんだけど、俺も少し留守にするから、宏志に頼みたいんだ。無いとは思うけど、万一彼女の身内とか関係者とか言う人がコンタクト取ってきても、シラを切ってほしい」

「…………」

 全く同じ姿勢で頭を下げたままでいる満ちるを一瞬見つめてから、宏志はごく軽く、指の先でぽんぽん、と彼女の肩を叩いた。

「もういいよ。頭上げて、傘持って。濡れるよ」

 満ちるがはっとした顔つきで姿勢を戻すと、少しためらいながら宏志の手から傘を受け取って。

「引き受けた」

 と、実に簡単に一言、宏志がそう言って、彰も満ちるもはっとして彼を見直した。

「御堂がさ。俺にこんな風にもの頼んでくるなんて、初めてなんだ」

 目を見開いている満ちるに、宏志は歯を見せていたずらっぽく笑ってみせる。

「それってエマージェンシー、てことだろ。そこは期待に応えるのが、長年の親友ってもんだ」

「……宏志」

「それにこういうの、男の憧れシチュエーションのひとつじゃね? 俺一生に一度は言ってみたいんだよ、タクシー乗って、『前の車の後を追ってください』てヤツ」

 いかにも愉快げな宏志の口調に、呆気にとられていた(てい)の満ちるが軽く吹き出して。

 ……笑った。今日、初めてじゃないか。

 彰はこっちにも驚いて、宏志と満ちるとを交互に見た。

「……ん。良かった」

 その笑顔を優しく見つめて、宏志が小さく言って。

「ありがとう、ございます」

 まだほんのりと笑みの気配の残る唇で、けれど大きな瞳に涙をたたえて、満ちるはそう言うとまた深々と頭を下げた。 



 それから彰は、宏志の店の電話を借りて磯田に連絡を取った。

 急な事態に相手は当然、かなり驚いて。

「……それで、実は明日が『パンドラ』の体験日なんですが、どう思われます? もし既に向こうが、僕が美馬坂くんの死について調べている、てことを知っていたとしたら、僕が『パンドラ』に行くのはまずいですよね?」

『明日、ですか? いや、それならまだ、大丈夫かもしれません』

「えっ?」

 明かりを落とした店の隅で、声をひそめて話していた彰の目がぱっと大きくなる。

『知ってるのは古い、上の人間ばっかりなんでしょう? 今の時期、出社してるのは『パンドラ』の技術者系の下っ端さん達ばかりで最小限の人数でまわしてるんです。お偉い方々はね、正月には仕事の電話やメールは全く相手しませんから。だから、そうですね、五日頃までなら多分、彼女のお姉さんも向こうとは連絡もつかないと思いますよ』

「そうなんですか……」

『だから、明日は『パンドラ』、行った方がいいです。今の状況、中にいるお兄さんに伝えないとまずいですから』

「……はい」

 磯田の言葉にきゅっと身がひきしまるような思いがして、彰は背筋を伸ばした。

 それと同時に、つくづくと英一に申し訳ない気持ちになる。

 巻き込んでしまった。彼女を。それはおそらく、英一が最も望まないことであったろうに。

『御堂さん』

 唇を噛む彰の耳に、磯田の穏やかな声が響いた。

『起きてしまったことは、仕方がないです。と言うより、こうなったのは、七年という時間の中、誰も彼女の気持ちに真剣に耳を傾ける人がいなかったのが原因です。彼女は長年、自分の中で悲しみや不安を濃縮させてきた。貴方のおかげで、彼女はそれを解放することができたのですよ』

 磯田の言葉が、すり傷を負ったようにひりひりしている彰の心の表面をしっとりと覆っていく。

『後はわたし達の番です。彼女や他の三人の身近な人達にきちんと説明できるだけのことをやりましょう』

「はい。……ありがとうございます、先生」

 奥歯で噛みしめるようにそう言うと、彰は画面を入れていない電話に向かって深々と頭を下げた。



 それから彰は磯田の「大丈夫」という言葉を信じて、家に戻った。

 相当警戒はしていたが、マンションのまわりも自分のフロアでも特に不審な人の気配は感じず、ほっと安心する。

 帰ったついでに家の端末からメールを見てみたが、意外なことに清美からの連絡は一切入っていなかった。

 もしかしたらあのやりとりの後、他の従業員や妹や夫にチェックされるのを恐れて、こちらからのメールは勿論、自分が返信したメールさえも全部削除したのかもしれない。だとすればこちらのアドレスが判らなくなっていてもおかしくはない。

 それなら自分のことは機関に伝わらずに済むかも、と一瞬希望的観測を持ったが、でも「御堂」という特長のある名字を満ちるが口にしてしまっていることと、ただ単純に「削除」ボタンで消したメールなど、その気になれば機関側はすぐに復活できるだろう、と思ってそんな甘い考えは即座に捨てる。

 家に帰って当座の荷物をまとめると、彰は新宿の安いビジネスホテルを一週間予約した。人目が多いところの方が逆に安全に思えたのだ。

 ホテルの部屋でひと息つくと、彰は久しぶりに睡眠薬を飲み、不安な眠りについた。

   

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