dear winter.
俺が彼女のことを好きではなくなったのはいつだっただろうか。
何の確証もないのに、ずっと好きでいられると思っていた。彼女もまた――。
俺の人生は、有体にいって決して良いものではなかった。
一番古い記憶から辿っても、ただの一度も両親の笑顔を見たことはない。
毎日飛び交う暴言、暴力。もはや両親に躊躇いや俺への配慮など何もなかった。どうして喧嘩しているのか、お互いにもう理由など関係なく、そうしないといけない使命か何かだと思っているのではないかと幼い俺は本気で思っていた。
その暴言や暴力が自分に向かない日々はまだよかった。
何時間にも及ぶ暴言の嵐と、物が割れるような音が鳴り止むと、隣の部屋でじっと息を殺していた俺のところへ母親が来る。慰めに来たのではない。そんな殊勝な母親ではなかった。父親に決して腕力で勝てない母は鬱憤を晴らす為に俺を殴った。俺が七歳の頃からほぼ毎日のことだった。
幸いというべきか、ほどなく学校側に虐待がバレ、両親とは離れて暮らした。それが九歳の頃だった。
そこからは毎日子供のはしゃぐ声を聞きながら、あの嵐のような日々を思い出していた。
誰にも親のことを話したことはなかった。虐待が疑われたときだって必死に取り繕って、自分で怪我をしただけだなどと散々な嘘を並べた。けれども、いつになっても消えるどころか増え続ける痣に黙っていられる教師はいなかった。もう取り繕えないと思った俺は初めて人前でボロボロ泣いた。
『お願いだから、父さんと母さんを僕から奪わないで』
そう言われても、と顔を見合わす教師たちは結局児童相談所に連絡をした。
どんなにひどい両親だろうと子供の俺からすれば嫌いにはなれなかった。
たとえほんの少しでも幸せな思い出などなくとも、殴られても、離れたくなかった。毎日怖かったけど、それでも父も母も失いたくなかった。今にして思えば、なぜあんな両親に執着したのか分からない。結局、施設に入ってから高校を卒業して出ていくまでただの一度も両親は俺に会いに来なかった。そんな程度の両親だった。
いつからか両親への少しでも良い想いは、砂漠の砂のうちのたった一粒のようにほぼ消え失せた。代わりに砂漠の残りの砂粒を埋め尽くしたのは両親への憎悪と、過去の自分への怒りだった。
ひたすら心を無にし、人に対しての怒りがあってもそれを口にすることはなかった。ただ普通の人間として生活をした。
両親がいないということに露骨に顔を曇らせる人間も中にはいたが、幸い就職は大して苦労はしなかった。受かった会社での面接では両親がいないことに突っ込まれたが、二言三言で済み、その後内定をもらったときは何十、何百という会社を回ることを覚悟していただけにホッとした。
その会社で彼女に出会った。
同期で入った彼女は見るからにお人好しそうな、おっとりとした女性だった。それに加え、下世話な話だが見た目も悪くなかった。
案の定入社してすぐに彼女は会社の男性の多くから言い寄られていた。その様子を意地の悪い思いで見つめていると、見た目に反して彼女はそれらの誘いをきっぱりとした物言いで断っていた。意外だな、と思ったがそれだけで彼女との接点はとくになかった。
ある日の会社帰りに偶然彼女を見かけた。残業で定時より二時間ほど遅く帰ったので、彼女がふらふらとこのへんを歩いているのには少し驚いたが、なんてことはない。このへんは飲み屋街だし、飲んだ帰りだろうと思っていると、スッと彼女の後ろから見覚えのある男が現れた。あいつは確か、同じ会社の二年先輩の田中とか言う奴だ。距離があったので会話は聞こえなかったが、彼女の腕を掴みどこかに連れて行こうとする田中に、彼女は明らかに嫌がっていた。
正直、どうしたものかな、と思った。あまり会社で波風が立つようなことはしたくない。しかし見なかったことにするのも……としばし悩んだが、田中が彼女を引き摺っていく方向は飲み屋街よりもずっと暗い道だ。
くそっ、と内心毒を吐きながら、走って田中に声を掛けた。
「田中さん、ですよね。何してるんですか。彼女嫌がってますよ。ほら、手離して」
「はぁ? 誰だお前。……あー、会社の奴……か……?」
振り返ってこちらを睨み付ける顔は赤黒く、呂律もあまり回っていない。明らかに酔っている。
やはり声を掛けて良かった。
彼女は明らかに怯えた表情で俺を見つめていた。声も出さないし駆け寄っても来ないが、目にはうっすらと涙が見えていた。
「そうです。覚えてませんか? とりあえず彼女のこと離して下さい。自宅に帰るようなら送りますから。家どこ――」
家どこですか? そう言葉が続くはずだったが不意に言葉が途切れた。彼女が小さく、ひっ、と呼吸のような悲鳴のような声を漏らした。
何をされたのかすぐに理解できず、一瞬遅れて殴られたのだと気付いた。
急なことで殴られた拍子に尻もちをついたが、力の篭ってないパンチだったので血も出なかったし、大した痛みもなかったが、殴られたと気付くとカッとなった。
不意に昔母親に殴られたことを思い出し、目の前の景色がスッと影のように真っ黒になった。俺はもうあの頃の力のないガキじゃないんだ。殴り返せる。
田中の胸倉を掴んで拳を振り上げると、誰かの手が伸びて振り上げた腕を掴まれた。真っ黒な景色の中、腕を掴んだ誰かの手は怯えるように震えていた。
ハッとして振り返ると、今にも泣きだしそうな赤い目をした彼女がさっきよりもずっと怯えた目をして俺を見ていた。
俺はこの目を知っている。カッと顔が熱くなった。さっきとは別で、怒りではなく羞恥だ。
すぐに田中の胸倉を離し、もう大丈夫だという意味を込めて優しく腕を下ろすと彼女はようやく少し安堵したように見えた。
田中はかなり酔っていたようで、離した際にフラフラとそのまま道端に頽れた。こんなどうしようもない奴は放っておけばいい。彼女もそう思ったのか、何も言わずに二人でその場を立ち去った。
そのまま、じゃあこれで、と別れるのもなんだか空々しいなと思い、送っていくよ、と声を掛けると彼女は黙って微笑んだ。
「どうして田中と?」
それ以上続けるのは、一度も話したことのないただの同僚としてはあまりに出過ぎたことかと思って続けられなかった。
「近頃ずっと飲みに行こう、とかそういうことに誘われていて……。何度断ってもずっと誘ってきて、あまりにしつこかったので、『では一日だけならご一緒しますので、向こう一年間は誘わないでください』と言って了承したんです」
普段の物腰とはまったく違って、そういったことには厳しい言葉で返す彼女のことは知っていたが、しつこい奴に対してこういう言い方ができるのもすごいし、それでいいと言った田中もある意味ですごい。
「……それで、少し飲み過ぎたのかもう帰ろうとなったときに、先ほど見ていたなら分かると思いますが……。さすがに力ずくだと適わなくて困っていたので本当に助かりました」
俺がもう少しで田中を殴りそうだったことにはあえて触れないのか、ただそれだけ言って彼女は丁寧に頭を下げた。
彼女が何も言わないのであれば俺も何も言わないのが正しいだろうと思い、べつにいいよ、と答えて、彼女の家のすぐ傍まで着いたと言うのでその日は別れた。
きっかけはそんな大したことではないし、王子様のように颯爽と現れて彼女を救出したというにはあまりにも無様な姿を晒したので彼女との接点はそれだけだと思っていたのだが、後日彼女のほうからあのときのお礼と称して食事に誘われ、読書の趣味が合うことをきっかけに意気投合し気付けば付き合っていた。
彼女といると落ち着くというよりは、新鮮で楽しかった。彼女は俺にはない視点で物事を見、楽しそうに話し、表情もよく変わった。
何か物事一つ取っても彼女はそこにいる人物の気持ちを考え、他人のことにも胸を痛められる優しさを持っていた。
感動するような本や映画を見ると人前でもみっともないくらいにボロボロ泣くし、食事をすれば本当に美味しそうな顔で食べる。そういう、俺にはない面にどんどん惹かれていった。
付き合って四年が経つ頃に結婚の話がどちらからともなく出てきて、そうなることが自然の成り行きのように受け入れられた。
そういえばまだ一度も彼女の両親に挨拶もしていなかった。結婚の話を機にご挨拶を、と伺うと彼女の両親は歓迎してくれた。
なるほどこういう家庭で育てば彼女のような人間が出来上がるのだろうな、というような両親だった。
ニコニコと終始優しい顔をしていた彼女の両親がスッと表情を一瞬曇らせたのは、俺の両親の話をしたときだった。
両親の話と言っても、俺の両親はいないから式には出席できないという話だけだ。
一瞬顔を曇らせただけで、すぐに笑顔を取り戻したが、俺はその一瞬の顔が気になってしまい、そりゃあそうだよな、とようやく思った。
健全な両親。健全な子供。しかも一人娘だ。親として結婚相手には注意を払いたいはずだ。俺が彼女の両親でも、世の中、両親がいて、普通に育ってきた人間が大勢いる中でわざわざ外れを引かなくとも、と思う。
何事もないかのように振舞って挨拶だけして失礼させてもらったが、俺はすっかり萎んだ気持ちになっていた。
彼女の両親のことだ。やんわりと遠回りしながら、しかしきちんと彼女に『あの彼は……』ということを話すはずだ。
そのとき彼女はどうするだろうか。これまで大切に育ててもらって、彼女自身俺とは違って両親には感謝してもしきれないといった様子で彼女もまた両親が大切なのだ。
それでも俺を選んでくれるだろうか。――いや、ありえないな。
自分で考えておいて一笑に付して、これまでの四年間のことをゆっくりと思い出した。
彼女の両親に挨拶してしばらく経った頃、待ち合わせ場所には珍しく浮かない顔の彼女がいて察した。
気付かないフリをして、どうしたの? と訊くと、彼女はしかし真っ直ぐに俺の目を見た。
「あの、ね……。親が……」
歯切れが悪い。無理もないか。想像していた通りだが、彼女はきっと想像していなかったはずだ。
「俺のことを何か、言ってきたんだよね?」
優しく声を掛けることを意識した。
ぐっ、と彼女の目がゆらぎ、涙が溢れそうだった。
「……うん。でも、私絶対に諦めない。父と母に反対されてまで結婚はしたくないけど、あなたと離れることも考えられない」
彼女ならそう言うだろうな、と思っていた。心の内でそっと息を吐く。安心したような、そうではないほうがよかったような。
なるべく言いたくはなかったがこうなれば仕方ない。
「俺だって同じ気持ちだよ。でも、別れよう」
彼女は何を言われているのか分からないという顔をしていた。呆気に取られたような顔をしている。少し経って言葉の意味が理解できた頃、
「何を言っているの?」
と言ってコーヒーカップを手にする手は震えていた。置かれていたソーサーにカップが触れると震えのせいで大きな音が鳴って彼女が驚いた。その時ようやく手が震えていることに自分で気付いたのか、そっと左手で右手を覆い隠すように握りしめた。
黙っていると、ゆっくりと息を吐いて彼女がもう一度「どういうことなの?」と訊いた。
「無理だよ。何年掛かってもね。君がどちらか、俺か両親かを選べるならどうにかなるかもしれないけど、両方選びたいのなら無理だよ」
「……どうしてそんなこと言うの? 分からないじゃない。父と母だってあなたに問題があるとかそういうことで言ってたわけじゃないし、私とあなたと説得してたらいつか分かってくれる」
「だからっ、」
焦れた声が一瞬大きくなる。落ち着くために顔を伏せ、大きく息を吐いた。
「だから、俺に問題があるわけじゃないことがダメなんだって。そればっかりはどんなに時間が掛かったってどうにもならないし、君の両親だってどれだけ説得されても納得できないと思う」
まして彼女はまだ二十三だ。これから先いくらでも相手を見つけてやり直せる。
「……どうして決めつけるの……」
投げかける声は小さく、俺に問いかけているのか分からないほど尻すぼみだった。
彼女はそれでもまだ真っ直ぐに俺の目を見つめ、今にも涙で揺れそうな目をしていた。
「……俺が親なら絶対にそうするからだよ」
耐えきれなくなったように彼女は顔を伏せ、深呼吸しているように見えたが、泣いているのかもしれないし、涙が出るのを必死に堪えようとしているようにも見えた。
長い沈黙のあと、彼女はカップに少し残ったとっくに冷え切っているコーヒーに口をつけるとようやく顔を上げた。
「分かった」
短く紡がれた言葉に一瞬頭が殴られたような気がした。
自分で選んだ癖に、いざそうなるとこっちが泣き出しそうになった。
今何か言えば確実に声が震えそうで黙っていると、彼女はまた口を開いた。
「分かった。私はあなたと結婚する。両親とは絶縁することに――」
彼女が言い切る前に俺が机を叩いてその先を遮った。
びっくりして目を見開く彼女に、ごめん、と小さく謝った。
「それだけはダメだよ、絶対に。そんな簡単に両親との関係を無くしちゃいけない。まして君のような……」
君のような、なんだろう。恵まれた? 大切に育てられた?
なぜか言葉に詰まって先が言えなかった。
「大丈夫。いつか分かってくれるかもしれない。案外、子供ができたりすればコロッと手の平返したりするよ」
なぜそんな、ともすれば微笑んでいるような表情でそんなことが言えるのか分からなかった。
絶縁するというのはそんな簡単な話なのだろうか。そんな簡単に、恋人みたいに、別れたりまたくっついたりできるものなのだろうか。
「分かってくれなかったらどうするの。一生君は両親に会えないかもしれない」
彼女はきょとんとするような、そんなはずないじゃない、という顔をした。
ああ、彼女からしてみれば絶縁するというのはそんな別れたりまたくっついたりというような簡単な話だったのだと気付いた。
「それに俺は、子供を作る気はない」
「……どうして?」
「自分と血がつながっている子供なんて考えるだけでゾッとする。養子をもらうとかそういうことならともかく、俺は一生自分の子供はいらないよ」
彼女は何か地球外生命体にでも出会ったかのような顔をした。
日本語を話しているのに、彼女の辞書にはない言葉を話しているせいできっと彼女には理解できないのだと思った。
「ねえ、落ち着いてもう一度考えよう。父も母もきっとそのうち分かってくれるはずだし、子供のことだってそんな焦って考えるようなことじゃないよ」
「落ち着いて考えたって、何度考え直したって答えは一緒だよ。子供のことだって焦って考えているわけじゃない。君との間に子供が欲しくないというわけでもない。そうじゃなくて、ただただ自分の血が誰かに受け継がれるのが嫌だし、子供を育てる自信もない。それなら施設から引き取った子供を育てることのほうがよっぽど想像できる。
君の両親の考えは何年経っても変わらないし、君が絶縁して結婚すると言っても止められるだけだよ」
「あなたは両親というものを知らずに育ったからそんな風に思うのよ」
言われたことが理解できず彼女を見つめると、すぐにハッとした顔をした。
「ごめんなさい。今のは違うの。……忘れて」
お願い、と最後に小さく聞こえた気がした。
黙って席を立つと、彼女は懇願するような目をして見つめてきたが、どうすることもできない気がして立ち去った。
彼女は追いかけてこなかった。
その後何度か彼女から着信が入ったが全て無視した。
やがてメールが来るようになった。
『この間は本当にごめんなさい。もう一度話をさせて。会うのも電話も嫌ならメールでもいいから、お願いだから返事をして』
そんなメールが少し文を変えて何通か届いた。
メールを打っているとき、彼女はどんな顔をしていたのだろう。泣いていたのだろうか。そんなこと、もうどうでもいいか。
あの時言われた言葉に傷付いたわけでも、頭にきたわけでもなかった。ただ、彼女と話していてももう何も進まないなと思っただけだった。
四年間一緒にいた間、全く喧嘩をしなかったわけではない。もう理由も覚えていないようなつまらないことで喧嘩をしたこともあったはずだ。
彼女は思慮深い人だった。言葉が相手を慰めることもあれば、傷付けることも知っていた。だからどんなときも慎重に言葉を選んでいたし、怒っていても相手に言ってもいいことと言ってはならないことを見極めていた。
四年間一緒にいて、あんなふうに失言する彼女を初めてみた。言った瞬間サッと顔から表情が消え失せ、真っ青になったようだった。彼女は瞬時に、取り返しが付かない言葉を言ってしまったことを察したはずだ。
きっと彼女は俺が傷付いたと思っているはずだし、許して欲しい、話をして欲しいと思っているのも分かっていた。
けれど、何て返事をすればいいのかもう分からなかった。
彼女の両親は俺と結婚するのに納得しないだろうし、俺に両親がいなくて愛情というものがよく分からないのも事実だ。今更俺に良く出来た両親はできないし、愛情を理解することもない。何も変わらない。
それなら一緒にいないほうがきっといい。それだけだ。
それだけ。
会社に一方的に辞表を出し、昔住んでいたボロアパートを彷彿とさせるようなアパートに引っ越した。
貯金が大してあるわけでもないし、引っ越してすぐにいくつかのアルバイトを始めた。
もう何も考えないようにした。思い出しても辛いだけだ。とりあえず生きていくためにお金が必要だ。
何も考える暇もないほどバイトに明け暮れ、ろくに食事もしないで、バイトをしていないときはただひたすら眠った。
就職しようかな、とも思ったが、せっかく正規で雇ってくれた会社を自分勝手に辞めてしまったのだ。両親がいないことでただでさえ色眼鏡で見られやすいのに、尚更新しく雇ってくれる会社などない気がして毎日バイトだけしていた。
彼女とは最後に会ったきり、一度も会わなかったし電話もメールも一切しなかった。
同じ会社だ。俺が会社を辞め、逃げるように引っ越しをしたこともすぐに分かっただろう。でも、ずっと変えていない携帯には電話もメールもただの一度もあれから来なかった。
幼い頃からは到底考えられないあの幸福な日々は、ただの夢だったと自分に言い聞かせて六年が経った。
思い出さないようにと必死になるためにくたくたになるまでアルバイトに明け暮れる毎日がずっと続くと、やがてそのうち本当にそんな過去はなかったんだと思うようになった。
彼女の連絡先はとうの昔に消したし、着信履歴にもメールの履歴にも彼女の痕跡は何一つ残っていない。
考えてみれば当然のことだ。あの地獄のような日々を潜り抜けた先に幸福があったなど、そんな良く出来た物語のような話はそうそうない。
ボロいアパートのワンルームしかない一室。帰ってシャワーを浴びて、たまにコンビニやなんかの弁当を食べて寝るだけ。あの頃彼女のいた景色はとうに夢としてしか思っていなかった。
そんなときふと、いつぶりか携帯がメールの受信を知らせる光を放っていた。
店長ならいつもは電話だが、夜半だしメールにしたのかなとメールを開くと知らないアドレスだった。
あの日々は夢ではなかったのだ。
あの時からずっと止まっていた何もかもが、今ようやく色を取り戻し、呼吸が始まった気がした。
明日からはこの先長い間、胸に痛みが付きまとうだろう。
届いたメールの画面を見つめ、子供の頃たった一度だけあった泣いた記憶は、二度目になってしまった。
あれから長い長い月日が経った。彼女はいったいいつまで、俺のことを覚えて、好きでいてくれただろうか?
『お久しぶりです。誰だか分かりますか?
きっともう、私の連絡先も消してしまったと思います。
もしかしたら私のことなど覚えていないかもしれません。
それでも知らせておこうと思ってメールをしました。
来年の春、結婚します。
もうずっと前だけど、あの時はありがとう。
傷付けてしまってごめんなさい。
私もあなたも、もう歩き出していいと私は勝手に思っています。
身勝手かもしれませんが、どうか許して下さい。
お元気で。』