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(10) 4-2.エルバの嵐

 狭いコックピットは空が近い。

 すぐ側の風防越しに、空気が流れている。

 機体が風を切る音が、生身に感じられる。

 グライダーは、今、谷の上空を飛んでいる。


「すごいですね。本当に飛んでますよ」


 セシルは、初めての体験に目を輝かせた。


「デカい旅客機に乗せられてるのとは、ワケが違うでしょ」

「エステラさんは、パイロットだったんですね」

「ええ、そうよ。私の専門はこっち。今は社長業のかたわら、趣味みたいなものだけど」

「このグライダー、いつも一緒に運んでるんですか?」

「まさか。普段はガレージに置いてあるわよ。でも今回は特別ね。営業を休んでる間、気晴らしに郊外で少し飛びに行ってて。点検の後、たまたまつないだままだったの」

「へぇ……」

「置いていこうと思えば、置いて行けたのに。いくら急いでいたからって、何で持って来ちゃったのかしら……」

「世の中、何がプラスに働くか分かりませんね」

「結果プラスになるよう、祈っててね。私も磁気嵐のシーズンに、谷を渡ったことはないから」

「……え? 今、なんて言いました?」

「谷を渡ったことはないから」

「それって……ええっ?」

「動力と補助航法システム無しで、この谷の気流の中、直線距離約四百キロを飛ぶなんて、人間業じゃ無いわ。私が知る限り横断に成功したのは、たった一人ね」

「駄目じゃないですか!?」

「落ち着いて。今回は何も、谷の全行程を飛ぶわけじゃないの。ここからバステアまでは、四分の一ほど、百キロ未満よ」

「因みにエステラさんの記録は?」

「秘密にしておきましょう。何も進んで不安になる事はないわ」

「余計に不安ですよ!」


 事実、ピアノ遺跡までは飛んだことがある。

 つまり、直線距離で二百キロは行ける。

 しかしそれは、磁気嵐シーズン外でのこと、自ら補助航法システムを切って行ったものだ。

 いざとなれば格納してあるモーターで高度を取り戻せる、と分かった上での記録である。

 今のように、あと十五分程度で、確実に補助航法システムとモーターが使用不能になるのとは、状況が違う。


「まったく、目が回りそうね……。熱上昇気流(サーマル)乱気流(ローター)もそこらじゅうにあるわ」


 谷の複雑な地形が、気流を読み辛くしている。

 今、定常的な風は、台地の表層を北から流れている。

 サーマルは、主に日向の崖から。

 合間に下降気流がある。

 そして、気流がぶつかる場所では、端々に乱気流が潜んでいる。

 さらに谷の内部は、構造が複雑に入り組んでおり、その風は想像が付かない。

 場所によって、強烈な上昇、下降気流が生まれ、それもやはり乱気流の元となっている。

 エステラは進行ルートを定めるために、地形、僅かな砂煙、周囲の風を読み、懸命にそれらをシミュレートしようとする。

 が、土台全てを読むのは無理な話だ。

 常に状況は変わっていく。

 突然、機体がガクン、と落下した。


「うわっ!」

「大丈夫よ。これは必要経費」


 狭い下降気流を選んで横断しているのだから、仕方ない。

 次の上昇気流までの最短ルートだ。

 補助航法システムが生きている内に、出来る無理はしておきたい……。


 それから、予報より三分遅れの二〇分後。

 宇宙船がいつものため息をつき、

 グライダーの計器が全滅した。


「あちゃあ、モーターもいかれたか……。格納プロペラは使わずじまいだったわね」

「想定の範囲なんですよね?」

「ええそうよ。単なる保険」


 飛行支持用のモーターも、使用不能になった。

 残るは、特別にあつらえたアナログ式の計測器たち。

 気圧高度計、対気速度計、姿勢指示器。

 自分の五感、経験。

 そして、ペーパーメディアの地図だけだ。


(集中しろ。集中)


 額に汗がにじむ。


「昔ね。ジュンカーっていう、そこそこ大きい航空系の企業があったんだけど」

「はい」

「今はもう潰れちゃった企業ね。そこの娘が、すごくおてんばで。物心つく頃から、自分とこのヒコーキを持ち出しては、大人と一緒になって飛びまくってたの。金持ちの道楽ってやつよね」

「活発なお嬢さんですね」

「で、そこのグライダーの教官がね。『俺は目隠しで五百キロ飛んだんだ』って、まあ自慢げに言うわけよ」

「よくあるホラ話?」

「そうね。でもまあ、あんまりしつこいから、その娘もムキになっちゃって……。試しに上空で目隠しして飛んでみたのよ」

「いやいや、なにしてんですか! 命知らず過ぎるでしょう!?」

「そこそこ飛べたわよ。空間識失調まで五分は持ったかしら。体感では二十分くらいだったわね。失速警報が鳴り始めた時は、さすがにヒヤッとしたけど」

「あとで怒られたでしょう……」

「そりゃもうね。正座させられて、太ももに石を乗っけられたわ」

「地味にきついですね!」

「東洋の伝統的な罰だって、本当にね。今考えると向こう見ずにも程があるわ」


 補助航法システムの動作ランプは、消灯したまま。

 まだ生きていると思われるアナログ式の計器類も、実のところ、どこまで信用できるのか分からない。

 この姿の計器板は、空で見るには不吉過ぎる。


「エステラ・ジュンカー。私の本名よ」

「はい」


 何かを喋っていないと落ち着かない。


「チッ、ちょっと揺れるわよ」


 気がついたら、目の前に乱気流が立ちふさがっていた。

 頻繁(ひんぱん)に気流が移り変わるせいで、直前までの観測がアテにならない……。

 もう回避は不可能だ。

 ある程度の高度を支払って、抜けるほかない。

 グンッ、と機体が持ち上がり、身体がシートに押しつけられる。

 次の瞬間、内蔵が宙に浮く、無重力感。

 抵抗を感じないままの、落下。


「うぐっ」

「吐くなら、エチケット袋にしてね」


 胃がせり上がる感覚に抵抗し、セシルはもだえた。最後まで持つのか不安になってきた。

 機体が再び風を捉え、体重が戻ってくる。


「それで、その子はどうしたんです?」

「企業が買収された直後に、家を出たわ」

「……家出先は、ビノ?」

「そうね。教官がエルバ大渓谷を横断した話を、思い出したのよ」

「もしかして……グライダーを習ったきっかけも、その人の影響とか」

「フン。本人はもう忘れてるんじゃないかしら」


 セシルの吐き気も、少し収まってきた。

 気を紛らわせるために、外を見ると、小さな雲が歪んで見えた。


「エステラさん。あそこに変な雲があります。なんでしょう?」

「あそこってどこ? 方位で言いなさい」

「右……二時の方向です」

「二時の方向、って……はあ?」


 エステラは、それを見て、口をあんぐりと開けた。

 小さかった雲は、縦長に変形し、膨らみ始めた。

 見る間に体積を増し、積乱雲の子供のような形状になっていく。


「これは凄いですね。近い……」

「ちょっとなによ、あれ。成長が早すぎるわ」


 急激な上昇気流による、積乱雲のように見える。

 しかし、異様に成長が早い。微速度撮影のような、普通では考えられない速度だ。


(ピアノ遺跡の磁場漏出で地磁気が乱れて、瞬間的に太陽風の一部入り込んで大気と衝突、電磁パルスが発生、電気回路に障害が発生……まではリファレンス通りよ。問題はその後……)


 風が巻いている。吸い込まれるように、グライダーが滑っていく。


「そうだ、まだ熱・運動エネルギーが残ってる。ああでもそれは、電離層で発生してるはずで……、そんなの影響出るわけが……」

「あの、もしかして、珍しい現象なんですか?」

「珍しいも何も、こんな奇天烈現象! 初めて見るに決まってるじゃない!」

「え、ええっ!?」

「ああもう、冗談じゃ無いわ。なんでピンポイントで、こんな時に! ホント、ツいてない!」

「……貴重な体験をさせてもらいます」


 エステラは鼻息を一つ。

 その間にも、風の音は大きくなっている。

 ゴォゴォ、と乱暴に、機体を中心へと押し流していく。

 地形に気を取られすぎていた。

 もう少し早く異変に気付いていれば、何らかの対処法があったかもしれない。


「下ばっかり見るクセを直せって、いつも言われてたのに。成長しないわね……」

「エステラさん?」

「いいえ、何でも。完全に掴まったわ。もう脱出は不可能。行くしかないわね」

「この機体で大丈夫なんですか? ずいぶん華奢に見えますけど」

「こう見えて意外に頑丈なのよ。機体の心配より、積み荷の心配をしないとね。首は固定しておいた方がいいわ。むち打ちになりたくはないでしょ」

「はい。固定の仕方、教えてください」


 エステラの指示で、セシルは頭を固定した。

 気分は完全に梱包された荷物だ。


「さて、残り時間は……もういいか。行くわよ。覚悟を決めて」

「自信はありませんけど」

「なかなかいい返事ね。……てめぇケツの穴、しっかり締めやがれ!」

「はっ、はい! 頑張ります!」


 嵐の下部では、砂煙が立ち上っている。竜巻も発生しているのだろうか?

 なんにせよ、視界は最悪だ。

 グライダーは風に逆らわず、最小限の姿勢制御で雲に突入した。

 空気の断層を越える。


「ふぐっ」


 途端、暴力的な荷重が足の方へ掛かる。体重が一気に何倍にもなったかのよう。

 エステラは反射的に腹と足に力を入れ、脳の血流量を保つ。

 上昇している……のか、いや、機体が上下ひっくり返っている?

 次の瞬間、荷重が逆転し、頭の方へ。


「おっ、……ふっ!」


 上下左右、どころか、回転まで加わり、空間把握は困難だ。

 エステラは完全に平衡感覚を失っている。


(五感に頼るな。迷ったら計器を見ろ)


 教官の言葉が、また頭をよぎる。

 姿勢指示器、ぐるぐると回転し続けて、用をなしていない。

 気圧高度計……、気圧自体が乱高下している今、アテにならない。

 対気速度計……、突風が吹き意味が無い。


(こんなの、どうしろって、言うのよ)


 とにかく姿勢指示器だけを見て、危険と思われる姿勢だけは回避する。

 もはや水平など諦めて、風に対する主翼と……、機首だけを……。

 機体がギリギリと嫌な音を立てている。

 翼が折れる?

 スペックデータを信用する限り、それはあり得ない。

 可能性は……ないはず、だ。


(……負けるか! ……クソ!)


 対気速度計が反応する、突風。

 気圧高度計が一瞬触れる、空気の層。

 機体の不吉な軋みは、強烈な風圧による運動ベクトル変更の合図。

 信用度の判然としない情報を、ほとんど勘で選択。

 エステラは脳内で、不完全な風と気圧の地図を組み立てていく。

 視線は計器板に固定している。外は一切見ていない。

 あと四、コンマ三秒で、次の流体に合流する。

 機体は緩ロール。ペダルはベタ踏み。空気の断層をスライディング。

 合流地点。

 操縦桿が暴れた。

 サングラスに、汗だかなんだか分からない液体が飛ぶ。

 急激に向き変える機体に、頭が吹っ飛んで行きそうだ。


(バカすんな……。こんなの屁でもない!)


 口角を上げ、歯を剥き出し、目を見開き。

 エステラは無意識に、壮絶な笑みを浮かべていた。


 その頃、セシルは辛うじて意識を保っていた。

 特別な訓練など受けていない少年だ。

 むしろ失神していないのが不思議と、セシル自身、意外に思っている。

 首が動かないため、視線だけを動かして、暗く茶色い雲の壁を見ていた。

 風防のすぐ側で、雲が凄まじい勢いで流れていく。

 流れる方向は一定せず、予想が付かない。

 気を抜くと目を閉じそうになる。

 色彩が薄れ、灰色になっていく。

 セシルは旅客バスの事を思い出していた。


『宇宙船は地に埋まり、翼が壊れて飛べなくなった』


 これぞ恨み心頭。狙い澄ました攻撃か。


『壊れて飛べぬ宇宙船は、空行くものを恨み妬む』


 嗚呼、風に運ばれ、歌声が聞こえる。


『インターセプト! インターセプト! 防空圏を死守せよ!』

『侵入者を撃墜せよ! 防衛ラインを再設定せよ! 対流圏に接触せよ!』


 雲間にカーテン状のスキャナ干渉派が波を立てる。


「彼女の苦しみこそ、オーロラ」


(今、僕は何を見た?)


 一瞬後には忘れそうになる。


(そんなことがあるものか。忘れてなるものか)


 セシルは呟き……否、息苦しい。声が出ない。

 考えた、呟きを。


(ずっと覚えている)


 見当識(けんとうしき)を失いつつある。

 そうしていつしか……

 視界が暗くなり……


 ……セシルは意識を手放した。

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