(1) 0.長距離旅客バス
広大な台地が、悠久の時をかけて、水と風に削られた。
幾本も気の遠くなるほどの時間を掛けて、網目のような谷となる。
その名は「エルバ大渓谷群」。
人がこの星に降り立ち、そこを初めて訪れた時に名付けられた。
しばらくの後、巨大な宇宙船が谷に墜ちた。
宇宙船は地に埋まり、翼が壊れて飛べなくなった。
それから、谷では時々、オーロラが出るようになった。
それから、飛行機がよく墜ちるようになった。
谷の空は飛んではならぬ。
壊れて飛べぬ宇宙船は、空行くものを羨み妬む。
彼女の苦しみこそ、オーロラ。
空行くものを地に落とす。
「と、伝えられとるんよ……。本当かどうかは知らんがねぇ」
長距離旅客バスの車内。
子供が窓際の席に姿勢良く座っている。
隣に座った老婆がとりとめない話を続けている。
車内は半分以上が空席だ。走行音の他は老婆の声しか聞こえない。
子供はずっとそれに耳を傾けている。
年齢は十歳前後に見えた。
亜麻色の髪をハンチング帽に入れ込んでいる。
シャツの上に、ややくたびれたジャケット羽織り、サスペンダー付きのワーカーパンツを穿いて、厚めの靴下を履いている。
靴は床の隅で几帳面に揃えられ、長旅を想定してか頑丈そうな山岳靴だ。
旅装としては一般的で派手さは無く、長距離旅客バスの雰囲気に自然と溶け込んでいる。
そして、その足下には金属質の大型犬ロボットが伏せの姿勢でいる。
忠実そうな機械仕掛けの犬は、唯一の連れだった。
車窓から見えるのは、青い空と強い日差し。雲は一片も無い。
赤茶けた大地が広がり、低木がまばらに生えている。点々とした緑の塊だ。
後方にはバスが引き起こした砂煙が巻き上がっている。
バスは順調に走行中だ。
ホバー推進で地上数センチを浮揚し、結構な速度で進んでいる。
道路は凸凹しているし、バスのダンパーもオンボロなのだろう。地面からは浮いているはずなのに、時折大きく揺れる。
快適にはほど遠いが、文句を言うほどでもない。
席の幅にはゆとりがある。背も倒すことが出来る。
その環境自体に、さほどストレスは感じないのだが、
……それでもやはり、長旅は疲れるものだ。
数日も乗り続け、腰と背中が痛むようになってきた。
停車しての休憩は、定期的にあった。
しかしその時間は充分ではなく、疲れがじわじわ溜まっていく一方だった。
おもむろに身じろぎする。固まった筋肉が、軽くほぐれて心地よい。
ロボット犬が耳を振るわせた。
「あと、にじゅっぷんほどでございます」
音声は残り時間を伝えるものだった。気を利かせて到着時刻を計算したようだ。
子供は安堵の息をつく。
定刻通りに到着するようだ。
色々と不満はあるものの、もうしばらくの我慢。
まもなく、前方に目的地が見えてきた。
延々と視界に広がる山。
そこに、一つの切れ間。老婆の言う大渓谷だ。
谷の入り口に広がる街が、バスの終点となる。
「今は磁気嵐のシーズンじゃ。あの空を飛んではなんねぇよ。あぶねぇあぶねぇ」
上空にオーロラは見えない。昼の日差しが明るいからだろうか。
さて、ようやくの到着だ。老婆の繰り返される徒然話もここまで。
街に着いてからの予定を頭の中でおさらいし、子供は改めて気を引き締めた。