二章「女王と影」④
それからはまた、いつもの日常が戻ってきた。というよりも、よく考えたらあの日だけがイレギュラーな一日だったんだよな。朝っぱらから学校でメアリと二人きりになんかなっちゃったから。
……いや、違うな。確か変な夢みたいなものを俺が見ちゃったのがそもそもの発端だったはずだ。もうほとんど内容も思い出せないけれど。
「――寒い」
あれから一週間が経ち、暇つぶしにあの日の記憶を学校の屋上で脳内再生していたのだが、やはり昼過ぎとはいえ年末の屋外は北風が吹きすさびまともに考え事はできない環境だった。やはりあの、どこか地方の記憶のようなものは俺の最大限の妄想だったに違いない。あの時はそのリアルさにこの世界すら正しいのか疑っていたが、こうして時が経ってしまえば、結局あれは夢だったのだと分かってしまうのだった。
何ならあの日に起きた、あるいは感じた不可思議な感覚も俺の妄想だったということすらあり得る。寝ている間に大仕事を働いていた脳神経たちが眠気半分で見せた幻だったのかも。特に和服のお兄さんとか、あとカメラとか。
「教室、戻ろうかな」
学校はもはや通常営業ではなくなっている。無事に期末テストを終え、残りの日程は学期ごとのカリキュラムの調整に当てられているのだ。とりわけ学期ごとのノルマとやらに無関係な体育などは、体育館で男女対抗バレーなんかやって消化試合と化す。なので冒頭の教員による点呼の時にだけ顔を出し、いざネットを張ろうという場面になったらスッとトイレに行くふりをしてエスケープすれば、このように体育着のまま屋上で時間をつぶすぼっちの出来上がり。まったく運動なんかしないのに通気性の良い体育着で寒空の下でやり過ごすというのがポイントだ。
――ひとしきり虚しい自分語りを終えて携帯の画面に目をやる。まだ授業の終わりまで30分はある。開始五分でエスケープして屋上まで登って北風に一人ささやいていた割には、その所要時間が10分足らずとは笑える。退屈な時間のいかに鈍足なことか。
「……なあ」
「ひゃう!」
一人語りを馬鹿にしてる風の一人語りという割と重傷な状態になりかけていた時、ふと天空から声をかけられた。何せここは校内でも最も高い場所に位置している屋上なのだから、それより上方となればそれはもはや天空しかあるまい。そう思って天界の主の方を振り向けば、なんてことはない。どこの学校にもある貯水タンクだか避雷針だかが置かれた二畳分ほどの盛り上がった場所。そこから男子生徒が上半身だけ身を起こしてこちらを見つめていたのだ。あの場所は何という名称なのだろう。よく少女漫画とかで不良少年がちょうど彼みたいな感じで季節関係無しにふて寝している場所だけれど。まあとりあえずプロ屋上民スペースとしておこう。
「び、びっくりした」
「はあ。それは悪かった」
プロは上半身起こしの姿勢からあぐらへと体勢を変え、こちらをまじまじと見下ろしていた。こいつ、確か同じ学年、二組の人だな。うちの一組とサッカーの合同授業だったときに見かけた気がする。
そうだ、ゴール前で彼がボレーシュートを放ったときに『足長っ!』って思ってそっちに気を取られていたら顔面でボールを受けてしまったんだ。思い出したぞ。
「お前、寒くないのか?」
「え、寒いよ?」
だろうな、とひとりごちてプロこと殺人ボレー君がタンタンとプロスペースをリズミカルに下りてきた。話し相手が見つかってテンションが上がってるっぽい軽やかな足音。
「じゃあ部活の自主練か何かか?」
「体育の授業中だからな」
「ああ、そういえばお前一組か」
さらっと言ったが、他クラスの授業を把握しているとかこいつコミュ力高いな。黒い髪に割と覇気のない目つき。めんどくさがりっぽい印象を感じた。
「なんだっけ、ついきゅう君、だっけ? 名字」
「……そんな感じだよ」
大雑把ながらも、接点なんかほとんどないのに俺の名字を言い当てそうだったのでびっくりした。一方の俺は彼の名前にまったく心当たりがない。
「あれだろ。夏のサッカーの授業で俺の蹴ったボールを顔面ヘディングでセーブしたやつ」
「……な、なんのことかなぁ?」
やっぱりあのときに名前を憶えられていたのか。直撃後に気を失ってしまい、目覚めたときには保健室だったという情けない一件だったので忘れたふりをして通したい。
「あれ、覚えてないか? ボール当たってぶっ倒れたら一目散に黒一さんがすっ飛んできて保健室まで運んでいったじゃないか」
「……いや、それはマジで知らない」
何してんすか黒一さん。女子に担がれる男子とかめっちゃ恥ずかしいじゃないですか。
「そっか。忘れてたならしょうがないな。記憶が飛ぶほど強烈なミドルシュートだったもんな」
「いやそんなエリア外からじゃないから。もろGK(=俺)前でのボレーだったから」
「あれ以来あだ名がバッジオになって大変なんだよな」
「ロベルト違いなそれ。お前はロベカルの方な」
なんで人をボールで蹴り殺しておいてドリブルの鬼みたいなあだ名がつくんだ。
「やっぱ覚えてんじゃん」
「――う」
ハメられた?! いや、むしろあの時の俺の卒倒は欧州仕込みのファウル狙いのオーバーリアクションだと誤魔化せ……ないか、うん。
「ツイキュー君は下の名前なんだっけ」
「そうかだよ」
「そうかそうか」
お、高校生になって初めて聞き飽きたリアクションされた。逆に新鮮だ。
「なんで体育なのにさぼったんだ? サッカーの時は楽しそうにやってたじゃんか」
「別に。バレーは男女混合でやるから」
「なんだ、女子と一緒にやるのが嫌とかガキかよ、はは」
何故かそこで爽やかに笑われた。ダウナーな目つきしていると思ったら急にイケメンっぽく笑ってびっくりだ。そして俺は何故こんなに同性に対して乙女チックな例えばかり思いついているのか。
「まあ俺もクラスの奴がカッコつけでボール回し始めたりするとたまに冷めるけど、まあ高校生ってそういう生き物だしな」
……確かにそうだ。そうやって異性と見え張りあって仲良くなったり付き合ったりし始めるのが高校生だ。俺だってそれが普通だって分かっているから自分の異常性は自覚していたけれど、今まではそれでも特に気にしていなかった。――メアリがうちに転がり込んでくるまでは。
「そっか。あの時は割と天真爛漫なイメージだったけど、意外に人見知りな奴なんだな、そうか」
「……」
「ん、悪い。馴れ馴れしすぎだよな。でも俺は割とそうかは面白いなって思ったよ、今日」
そう言ってぽんぽんと肩を叩かれる。ほぼ初対面なのに壁がないこの感じ、メアリに通じるところがある。
俺はこれ以上話すことはないという意思を込めて視線を元の階下へと戻した。そこには無人の校庭が広がっており、いい感じにサッカー部が朝練で使用したコート跡が残っていた。いいなあ、サッカーやりたいなあ。
「お、コート残ってんじゃん」
殺人ボレー君ことロベカルも気づいたようだ。俺も中学までは普通の中学生だったので、休み時間や放課後のサッカーは大好きだった。当時はテニス漫画が流行ってたので部活はテニス部だったけどね。
「……やるか、サッカー」
「は?」
ぼそりと、購買行こうぜみたいなノリで彼がそう提案してきた。一度も話したこともなかったのに、とんでもない奴だ。
「いや、ちょうどいいじゃん。俺は暇。お前は寒い」
まあ俺は寒いよ、色々と。しかしさ。
「つべこべ言ってないでいくぞ。ハーフコートでドリブル勝負でもいいけど、やっぱPKだな」
なんて強引な……。こいつ普段俺が一人で寂しそうにしてると思って同情しているに違いない。だが俺にそんな情けなんて無用だ。俺はこういう北風の厳しい寒波の中でも一人語ってほくそ笑むことのできるハードボイルドな男だから――。
「……そんなめっちゃ嬉しそうな顔で悪態つかれてもな」
何か言われた気がするが、まあしょうがない。ここは波風立てないためにもこいつに従っておくことにしよう。ほら、校庭はこっちだ。
「勝ったら俺がロベカルな」
「いいけど、今ならテレスとか将来性あるやつにした方がいいんじゃないか? もしかしたらロベカルでもう話通じないかもしれないぞ」
「いいんだよ。話すやつなんかいないから」
下駄箱で靴に履きかえていると、乾いた笑いが隣から聞こえてきた。
「じゃあ俺が勝ったら俺の名前を憶えてもらうぞ。どうせ知らないだろ?」
「う……分かった」
「決まりだな」
こちらが名前すら知らなかったというのに、彼は気にもせずに心底楽しそうに笑う。
昇降口には外からの冷たい風が吹き込んできたが、もう俺は凍えてなんかいなかった。俺は校庭への煉瓦の階段を下りると、その場で何度か屈伸をする。久しぶりだけど、身体は動いてくれるだろうか。
そんなことを考えているうちに相手チーム(二組ユナイテッド)の左サイドバックがどこかからボールを調達してきてくれた。そしてそのままコートの片面を使ってのPK対決が始まった。
……ただの時間潰しのつもりだったけど、変なことになっちゃったなあ。
そんなことを思いつつ、俺はとてもリズミカルに右足を振り上げるのであった。
続