二章「女王と影」③
帰り道で生じたちょっと不思議な体験は、しかし、自分の家の扉の前に立つ頃にはほとんどどうでもよくなって頭から消え去っていた。この先の光景を想像するだけで心がキュウッとなる。
早退していたのだから十中八九メアリは先に帰宅している。彼女は見た目と言動とは裏腹に、気晴らしにどこかへ出かけるような人間ではない。落ち込めば部屋にこもって、昔夢中になったとかいう映画やドラマを見返して精神の浄化を図る。そういう静的な措置を好む奴だ。俺が寄り道して帰ると、たまに目を腫らしたメアリが出迎えてくれるときがあり、俺は極力気にしないふりをしながら一晩を過ごすのである。
「……はたして女王のご機嫌は」
怒っているのならこちらが謝って献上品のスイーツを差し出し、ほとぼりが冷めるのを待てば良い。しかしもし“そうでない”場合。その場合は……。
我が家なのに果てしなく回したくないサムターン錠に鍵を差し込み、俺は極力音を立てないようにして審判の門を開いた。
……部屋はほぼ真っ暗だった。テレビやPCすらついていない。ベッド側の窓からカーテン越しに光が漏れ差しているくらいで、かろうじて部屋の輪郭が視認できる程度の状況だ。怖い、マジ怖いんだけど。
「た、ただいま……」
ささやくようにして室内に声をかける。これで返事があればまだ明るい未来ルートなのだが、どれだけ耳をすませても冷蔵庫と電気メーターの環境音しか聞こえてこない。この感覚はこっぴどく叱られてしばらく後に台所に立つ母親に話しかける感じに似ている。
「……メアリー?」
名前が名前だけに、なんだか米国のホラー映画みたいな雰囲気である。こんな時間にかくれんぼかな? ママに言いつけちゃうぞ。
……そんなことを頭では考えつつも抜き足差し足でビクビクしながら室内へと踏み込んでいく。1LDKなので照明はリビングにあるものを使っており、今その真下にはこたつというダメ人間醸造器が居座っている。
「……ん?」
――と、明かりを点けようと照明に手を伸ばしたところで、こたつの上に何か光る物体が置いてあることに気が付いた。
手に取ってみると、それはメアリのコンデジだった。液晶画面が明るいということは先ほどまで使っていたのだろうか。
すぐに元の場所へ戻そうとしたのだが、手に取ったときについ表示画面を見てしまい、マズイと思いつつも興味を抱いてしまった。
メアリは普段、どのような写真を撮っているのだろう。出会ったときにはすでにカメラを持ち歩いていて、何度か道端や街中にレンズを向けている様子を見かけたことがある。
偶然にもサムネイル? いや、ファイル名だけだから違うか。『5月5日:光が丘公園にて』『6月20日:雨の日の下校時』といった感じで写真ごとにタイトルがつけられていた。
そのタイトルの一つ一つに引っ掛かりを覚えつつも、スクロールしていった先に見えてきた簡潔なタイトルの作品に目が留まった。
『天使』
そのフォルダだけが日付も場所も入力されておらず、何か特別な一枚であるらしいことを暗示させていた。タイトル一覧で見ているのでどんな写真なのかは確認できないが、どうしよう……めっちゃ気になるんだけど……。
「――見たいの?」
「うーん、ちょっとだけどね――」
「ひゃあああああああああ!!」
返事をしてから驚く、しかも情けない声仕様、というコミカルなアクションをとってから、背後に立っていたメアリをようやく視認した。浴室からの明かりを受けて天然の金髪が艶めかしく首元で揺れていた。
「ごめんね、お風呂、入ってたから」
「あ、ああ、そう」
部屋の明かりをつけるまでもなく、メアリからは微かな湿気と愛用のシャンプーやボディクリームの混在した匂いが感じられた。冬なのにTシャツにホットパンツという組み合わせは少しでも汗をかきたくないからという努力(?)らしい。本当に出たばかりだったらしく、髪の毛はまだ湿っていた。見ないようにしていた彼女の顔は上気していて何だか緊張の度合いが変化してくる。
「こっちこそゴメン。勝手にプライベートを侵そうとしてた」
「いいよ。それで、見たいの?」
……。んん。
なんだ、今のシチュエーションが俺に余計な想像を強要している。強いられているのだから仕方ない。風呂上りの薄着な格好で『見たいの?』なんて言っちゃうメアリが悪い、いや悪くない。
「別に見てもいいけど」
「やめとく」
「……そくとー?」
呪文のような言葉が意外にもするっと口から出てきた。よく分からないけど、今日何度目かの己の未熟さを悔いる回だった。
「ちょうどいい。風呂上りにピッタリな物を買ってきてある」
「あー!! パフェグランデじゃん!!」
先ほどの流れなどどこへやら。手提げ袋の中を見せたら途端に部屋の雰囲気すら変わったかのように思えた。メアリの良い部分だ。
「どうしたの? お母さんから臨時のお小遣いとか?」
「仮にそうだったとしても同級生にそんなこと自慢しないぞ」
「……その、学校では酷いこと言ってごめん。俺、どうしても学校だと無意識に気が立っちゃって思ってもないこと言っちゃうんだ。気を付けるよ」
まだ明かりもつけてないけど、ようやく言えた俺の本音。
学校だと気が立ってしまう。それは“学校以外”ならありのままの俺だということ。メアリといるときは気兼ねなく素の自分でいられるのだと、そういう意味の、言葉足らずのメッセージだった。
「そうか君……」
プリン改めパフェグランデを抱きしめながら目元に涙を湛えるメアリ。いかにも彼女らしくってついつい笑みがこぼれてしまう。こういう乙女っぽい仕草を学校の女王はしないから、嬉しくもある。
「じゃあ、ごはん前だけど二人で食べよ?」
「そうだな。お互い着替えてから」
そう言ってそれぞれ部屋に戻って普段着に着替える。一時はどうなるかと思ったけど、仲直りできて良かった。メアリの写真を見てみたい気持ちもあったけど、どこか思いつめたような彼女の表情を見たらついビビッてしまった。いつか日中にでも見せてもらおう。
「分かった。学校ではベタベタしないね?」
「そうしてもらえると助かる」
スイーツをしこたま頂いて尋常ではない幸福感に満たされてるっぽい様子を見計らい、俺は学校でのお互いの位置取りについて再確認させた。少し不満げだったが、虎の子のチョコミントコーヒーを開けるとすんなり納得してくれた。
「当然抱きついたりとかもしないよ?」
「だな」
「ハグもしないよ?」
「同意だな」
一言でダブルミーニングな返事ができる、日本語ってすごい。
「当然手をつないだりも」
「そんなことしたことないだろ! ってか抱き……羽交い絞めとかも今日が初めてだったじゃないか」
冗談なのかマジなのか判断しかねるが、これ以上この話はやめておこう。また彼女の機嫌を損ねてしまいかねない。
「あ、でも一つだけ。普通は友達同士でもハグとか手をつなぐとかしないんだぞ。少なくともこの日本ではしないはず」
「ええ? するよそうか君」
「え、マジで」
「うん。女の子同士でよくするもん」
……そうだな。確かに。ただそうなるとお前の中で普通にハグれる俺って性別バグってないかなぁって。
「分かった。そうか君が恥ずかしいっていうならしないよ」
「ああ。ありがとう」
「……感謝されると複雑ー。あたしだって家ではできないもん……」
うん? 久しぶりに飲んだチョコミントがめっちゃ上手くて聞き逃したくさい。まあいいか。
「……」
俺が気にせず容器にぶっ刺したストローでチョコミントを堪能していると、急にメアリが黙って俺を見つめ始めた。とてつもなく穏やかな視線で。
なんかむずがゆくってテレビのリモコンに手を伸ばそうとしたら、寸でのところでメアリに奪われた。とてつもなく穏やかな視線のまま。
「ふふふ。そうか君って、今時珍しいよね」
「……なにが」
いつもこういう流れから子どもっぽいところを弄られてきたので、今日もそれだと思って表情を強張らせる。
しかし、今日だけは違った。
「自分の気持ちを素直に言えちゃうところ、とか」
「ん? そうか?」
「そうだよ。だって学校の男子って、ちょっと意見が合わないとふざけ半分で相手を馬鹿にして、ふざけ半分で仲直りしてばっかりだから。たまに表面的で形式的だなって感じちゃうときがあるの」
メアリいわく、彼女のグループ内では本気のケンカというものはほとんど起こらず、たいていは笑顔で罵り合って笑顔で和解するらしい。それは仲良しってことなのじゃないかと思ったが、どうやらそのケンカもどきの際に見せる笑顔というのが薄気味悪く思えるときがあるという。そっか。みんなこの年齢から本音と建て前、妥協と協調性を学んでいるのだ。それは多分、生きていくうえで必要なスキルなのだと思うよ。
「だから、そんな建前のみんなと違って本音で語り合えるそうか君は貴重……大切な人だと思うよ」
「経験を積んでないだけだと思うよ。それに本音とも限らないし」
「そうだね。確かに本音じゃない部分もあるよね。喋り方とか」
??
「そうか君は、多分昔はもっと優しい口調で話していたんじゃないかなって思うの。あるいは独り言とか心の声とかはまだ昔のままだったり」
「――な、」
何かとんでもないことを言われてしまった気がして、思わずカップからストローを引っこ抜いてしまう。突然何を言い出すんだこいつは。
「昔何があったのかは知らないけど、そのことでそうか君が自分自身が変わってしまったと思っているなら、あたしがそんなことはないよって言ってあげる。何度でもね」
…………。
……。
しばらく、言葉を失ってしまった。自分の在り方なんてさして興味はなかったが、メアリが思いのほか俺のことを見てくれていたことに不思議な充足感を覚えていた。
――なんだろう、この気持ちは。
結局その直後にメアリのお子様攻撃が始まり、すぐに先ほどの感情は隠れてしまった。おかげでいくつかのことがうやむやのまま夕食となり夜更けを迎え、眠りにつくことになってしまった。
メアリに一言声をかけ、部屋の明かりを落とす。すでに女王は深い眠りについていた。俺も今朝は、えっと、なんで早起きしたんだっけ。とにかく18時間近く起きているのでベッドに入ればすぐにでも眠れそうだ。
…………。
目をつむる前、今一度こたつに視線を向ける。
帰宅したとき、メアリのデジカメは直前まで触っていたかのように画面が明るく、熱を持っていた。そして今にして思えば床も少し濡れていたと思う。
ということは、メアリはお風呂場でカメラを使っていたのだろうか。いや、一覧表示だったから眺めていたのか。それもよく分からないカメラ女子の楽しみ方なのだろうか。
そして、俺が家へ入る直前にカメラをわざわざこたつまで戻しているらしいということ。湿気にさらしたくないならばそもそも浴室まで持って行ったりなんかしない。まるで俺に見てほしいかのように、真っ暗な部屋の中心に置いたメアリの真意はどこに……。
…………。
色々と気になることはあれども、さすがにここで精神の限界だった。まぶたが意思に反して質量を増したかのように、俺の視界を、ひいては自由を奪い、夢の世界へと誘うのであった。
続