03
『拝啓、お父さん、お母さん。
お元気ですか? 一香は元気ではありますが、とても不機嫌です。リオシュタルテに連れ去られて早数日、誘拐犯は全く反省する気配がありません。それどころか、一香にリオシュタルテのことを勉強しろとかいって無理やりドリルの書き取りをやらせてきます。本当、このマスター死ねばいいのに。一香は別にリオシュタルテのことなんかこれっぽっちも興味ありません。そりゃ、生まれ故郷だから気にならないことはないけど、でも一歳の時に地球へ移り住んだのでしょう? 懐かしさもなにもありません。
むしろ地球が恋しい気持ちの方が大きくて、今は早くそちらに帰りたいと願う毎日です。
マスターは、朝昼晩、時間を問わずセクハラ、パワハラもしてくるし、一香のホームシックにも拍車がかかるというもの。本当、このマスター死ねば(略)。裁判所に駆け込めば軽く勝訴できるようなセクハラを平気で繰り返されて、一香の精神はもうズタボロ。このままじゃお嫁に行けなくなってしまいそうです。先日なんか抱き枕代わりにもされました。本当、このマスター(略)。一香は精一杯抵抗しようとしました。なのに、脳がマスターの言葉を命令と認識したらしく、逆らうことすら出来ずに朝まで熟睡です。勿論、起床後しっかり報復してやりましたが、思い切り顔にひっかき傷を作ってやったというのに、あっという間に治癒魔法で治されてしまいました。無念。いつか治癒魔法なんかじゃ治せないような傷(肉体的、精神的問わず)をつけてやろうと思います。
地球のお父さん、お母さんへ
二人の娘、一香より。異世界から愛を込めて。
追伸。
どうして手紙を書くときって敬語になってしまうんでしょうね?』
そこまで書き終えて、一香はつらつらと日本語で綴った手紙の最後にリオシュタルテ語のサインを記した。
数日前よりは幾らか見られるようになったそれ。大分ミミズっぽさが抜け、ぎこちないながらも文字として認識できる。
今回書いた両親への手紙は、セイが、一香の文字書き能力の上達のご褒美として用意してくれたものだ。ご褒美はなにがいい? と聞かれ、一香が真っ先に返したのは「地球に帰りたい!」だったが、それはあっさり却下された。その後何度か押し問答を繰り返し、ようやく『定期的に両親に手紙を送れる』ということが今回のご褒美に決まった。
「マスター、書けたー」
書き終えた手紙を封筒にしまい、きちんと封も施した一香は隣に座るセイを振り返った。
一香が手紙を書いている間、セイは離れがたいからと隣に腰を下ろし、手紙を読むな! と毛を逆立てる一香の言いつけにしたがって、珍しく、本当に珍しく、一香にちょっかいも出さず大人しく本を読んでいた。
「書けたか」
セイはそう言って、文字を追っていた目をとめ、一香を見た。
「マスター、本、何読んでたの?」
「これ? これは、今度一香に教えるこの国の歴史の本。文字の方が上達してきたから、そろそろ地理や歴史に移ろうと思って」
言うセイに、うへぇ……またお勉強か。一香は顔を顰めた。
セイは読んでいた本に栞を挟むと、ソファから立ち上がり、隣室へ向かった。今一香たちのいる場所は応接間のような場所で、隣は書斎兼執務室のような造りになっている。そこと反対側のドアを開ければ二人の(こういうと物凄く誤解を招きそうだ)寝室になっていて、連れ攫われて以来、一香は寝室と応接間、そして書斎にしか足を運んだことがなかった。部屋の外に出ることは許されず、顔を合わせるのもセイだけ。
話し声や物音を耳にすることはあるのだけれど、未だ一香はセイ以外の人間にあったことはないのだった。食事の用意やベッドメイキング、掃除なんかも、全て一香が別の部屋にいるときに行なわれる。別に知り合いがいるわけじゃないから誰に会いたいってわけじゃないけれど、セイ一人しか会話する相手がいないというのはひどく息の詰まることだった。
「マスター、なにしてきたの」
隣室から戻ったセイに、一香が訊く。
「ああ、リクを呼んで来た」
「リク?」
どこかで聞いたような名前だ。
「近くにいるらしいから、すぐ来るだろう。以前、お前が盗み聞きをしていた相手だよ」
盗み聞き! 人聞きの悪い。マスター、あれは聞こうとして聞いたんじゃなくて、声の方が勝手に私の耳に飛び込んできたんだ……って、そうか、リクってあの硬質嫌味男の名前だ! 一香のことを役立たずだ、なんだ、と罵った、失礼なやつ。聞いてないとでも思ったのだろうけど、大間違い。リクめ……ここで会ったが百年目(初対面ですらないけど)、ちょっとでも隙を見せが最期、思う存分引っかいてやる!
ニヤニヤと復讐計画を思い浮かべる一香に、セイはちょっと面白そうに口の端を上げた。
セイの言うとおり、リクはすぐに一香たちの部屋へとやってきた。
コンコン、と礼儀正しいノックの音が聞こえ、「入れ」リクが入ってくる。
硬質嫌味男リクは、セイより少し低い身長(それでも一七〇後半はある)の、無表情で愛想のない黒髪青年だった。濃紺のカッチリとした衣装に身を包み、肩の辺りに不思議な色をした鳥を連れている。
――か、かわいいな、鳥。
燃えるようなオレンジと赤色の羽に、長くしなる尻尾。大きさは三十センチほどで、大人しくリクの肩にとまっている。
あとで触らせてもらおう、と密かに思ったとき、
「なっ、セイ様! なんなんですか、この猫……!」
リクが動揺したような声をあげた。見ればリクの視線は一香に向けられ、入室時の無表情から一点、白い肌に赤みがかり、信じられないといった表情を浮かべている。
「なにがだ? リク」
首をかしげるセイはわざとらしく言い、本当にわけの分からない一香は、この人もしかしてちょっとおかしい? と憐れな視線をリクに送った。
なにせ一香はまだなにもしていない。引っかいて、噛み付いて、余裕があれば一発蹴りを入れてやろうなどと報復の手段を考えていたものの、まだ引っかくの“ひ”の字も手を出していない。のに、リクのこのうろたえ様はなんだろう。
二人の視線を集める中、リクは。
「なにがじゃありません、セイ様! この、破廉恥な猫は一体どういうことですか!」
……破廉恥?
「どういうこともなにも、可愛いだろう?」
「かわっ、可愛くなど。まるで娼婦のような格好じゃないですか」
「娼婦!?」
リクから飛び出た言葉に一瞬呆然とするも、すぐに怒りが込み上げる。
――人を役立たずだ、破廉恥だ、あげくの果てに娼婦扱いとは! ええい、けしからん、成敗してやるっ!!
赤面しながら、精一杯一香から目を逸らそうとするリクに、ついに一香はキレて襲い掛かった。
今日の一香の服装はフリフリのキャミソールにカーディガン、下はローライズの短パン、ニーソックスという出で立ちで、割と現代日本風な格好をしている。こちらに来て初め、セイに渡されたのはキャミワンピ一枚だったのだが(さすが変態)、ワンピース姿だと、無意識に尻尾を逆立てる一香は、知らず知らずのうちにワンピごと後ろの部分をめくって自らパンチラをしてしまうのだ。これに気づいた一香は悲鳴をあげてセイを引っかき、涙ながらに考えた解決策が、短パンニーソのスタイルだった。
なぜ短パンかといえば、そこはセイの趣味。男物の多いリオシュタルテのズボンを(こちらでは女性はめったにズボンをはかないらしい)、一香用に裾上げし、尻尾が出しやすいようローライズにしてくれたのはいいけれど、出来上がってみたら太もも丸出しの短いショートボトムになっていた。
足フェチか、足フェチなのか、ご主人……。
さすがにそれで生足は恥ずかしいと言うことで太ももまで隠せるニーソ――本当はタイツかレギンスが良かったが、尻尾が邪魔になるので――を要求し、今の姿になった。
ちなみに、リオシュタルテでは中世ヨーロッパ風の衣装が主流。こちらの女性たちはズボンを履くどころか、異性に肌を見せる服装はとてもはしたないものだとされているのだが、未だセイ以外の人間に会っていない一香はそんなこと知る余地もないのだった。
「こらこら、イチカ、それくらいにしておきなさい」
数十分、傍らで愉快そうにイチカとリクのやり取りを見守っていたセイはようやく口を開いた。
「うぅ――あっ!」
最初の一撃こそ、不意をついて食らわせることができた一香だったが、その後は魔法で防衛されてしまい、見えないバリアのようなものに全く歯が立たない。いっそのこと自棄になってとび蹴りを食らわせようと助走して飛びかかろうとした瞬間、マスターからの喧嘩中止の命令を下され、無様に床に転げ落ちた。
「いった!」
不服そうにセイを睨むと、セイは一香から目を逸らし「悪いな、リク」と硬質嫌味男に向き直った。
「こんなに非常識な猫だとは思ってもみませんでした」
「なんだと!?」
「やめなさい、イチカ」
「うううう……」
セイに言われてしまえば、逆らうことも出来ない。一香はしぶしぶと引き下がり、代わりに八つ当たりでソファに蹴りを入れた。
「とんでもなくガサツな猫ですね」
「リクも、逆なでするようなことは言わないでやってくれ」
「ですが、このままではいつまでたっても外に出せませんよ」
「気長にいくさ。それで、お前を呼んだ用件なのだけど」
苦笑して、セイは話題を換えた。
そうだ、そんなやつさっさと用件だけすませて追い返してくれ!
リクはセイの言葉に、思い出したように連れてきた鳥――一香との交戦中もずっと優雅に肩にとまっていた――を見やった。
「紅の二番でよろしかったですか?」
「問題ない。おいで」
差し出されたセイの腕に、炎色の鳥が飛び移る。
うわぁ、いいな、それ、私もやりたい。
可愛らしい鳥に先ほどの怒りも薄れ、一香はそわそわとセイの腕にとまる鳥を見つめた。
「イチカ、こちらへ」
「はい?」
もしかして触らせてくれるのかな。どきどきしながら近寄っていくと、セイがすっと手をだす。
「なに?」
握手でもしたいのか?
「そうじゃなくて、先ほど書いた手紙を出してごらん」
「手紙?」
ええっと、どこへやったっけ? 慌ててポケットを探り、周囲を見渡して。
「あ、あった!」
テーブルの下に落ちてしまっていたそれを見つけた。リクが来たせいで大事な手紙がこんなところに(濡れ衣)。埃を払い、皺になってないか確かめた後、セイに渡した。
「マスター、なにするの?」
もしやその鳥に食べさせるつもりか? 不安に眉を寄せていると。
「あちらの世界に送らせる」
言って、セイは鳥に手紙を咥えさせた。
「蒼き四龍島の国へ」
鳥は一度頷くようにして頭を下げ、それから羽根を広げ、上空に飛び立った。
「あぶなっ」
天井にぶつかる、と思ったそれは、けれどぶつかる寸前で黒い穴のようなものが開き、それをくぐって鳥は姿を消した。その後、黒い穴は蜃気楼のように揺らぎ、見上げた場所は元の天井に戻る。
――異世界渡り。姿を消した鳥に、その言葉が思い浮かんだ。今のがそうなのだろうか? 一香が最も欲する、地球へと帰る術。でも。
「マスター、今の……」
禁忌の術だったんじゃないのだろうか。
呆ける一香に、言いたいことが伝わったのだろう、セイは軽く頷いて。
「手紙を送る程度なら問題ないよ。各世界はそれぞれ独立して成り立っていて、地球は地球、こちらはこちら、それぞれが理をもち、それぞれにルールがある。それを侵し、干渉することは絶対に許されないけれど、イチカが両親に手紙を送るくらいなら、きっと大丈夫だろう」
きっと、ですか。曖昧ですね、マスター。
「あの鳥、魔族?」
「緋炎という。大人しいが気高い、炎を扱う鳥だ」
そんなことも知らないのか。責めるような口調でリクが言った。
お前には聞いてねぇ……。というか、まだいたのか。
嫌そうな顔をする一香から視線を移し、
「セイ様、私はこれで」
ペコリ、セイ限定でお辞儀をしリクは部屋を去っていった。
キーッ! 本当にむかつくやつ!
去っていく背にあっかんべぇをしていると、それを見たセイが笑みを漏らす。
む、何笑ってるんだ、マスターさんよ。そもそもあんたがリクを呼んだせいでこんなに嫌な思いをしたんだぞ。そりゃ、手紙を送ってくれたのは助かったけど、別にリクじゃなくて緋炎だけつれてくれば良かったんだ!
「イチカ」
なんだ!
「地球へ、帰りたいか?」
「は……?」
なにを当たり前のことを。急な問いかけに、一香はちょっと眉を顰めた。
帰りたいに決まってる。早く、早く帰って、こんなところおさらばしたいに決まってるじゃないか。修学旅行とかで何日間か家を離れたことはあったけど、こんな、来たこともない異世界なんかじゃない。日本国内だったり、外国へ行ったりしても、広く考えれば地球内だ。お父さんとお母さんだって、電話かければすぐに声聞けた。帰宅すればすぐに顔が見れた。
残酷な問いだ。聞くだけ聞いて、帰してなんてくれないくせに。笑みを浮かべていても、なんにも優しくない。薄い水色の瞳は、最初あったときみたいに凍り付いていて、冷たい。
ガンッ
返事の代わりに思い切りその足を踏んで、一香は寝室へ逃げ込んだ。
大嫌いだ、マスターも、リクも、リオシュタルテも。
まだ何一つ知ることはないけれど。知りたくもない。記憶から消え去って、早く、このおかしな夢から現実に戻して。
※※※※
寝室に閉じこもり、夕食も食べずに布団に包まっていた一香は、きし、という寝台がきしむ音で目を覚ました。断りもなく回される腕。覚えのある感触。確かめるまでもなく、その腕はセイのものだ。
「イチカ、怒ったか?」
だからスト起こしてるんじゃないか。使い魔スト。現実からのスト。お勉強からのスト。嫌なことは眠って逃げてしまうのが一番。……まあ、起きた後の現実にまた落ち込んだりするのだけど。でも、寝ている間は何もかも忘れてしまえる。
「お前は帰れないよ、イチカ」
また、残酷なことを言う。
「帰さない、絶対に」
「嫌だ、帰る。絶対に帰る!」
自分を奮い立たせるように、一香は反論する。
「帰って、お母さんのご飯食べて、お父さんにドライブ連れてってもらうんだ。友達とはショッピングに行って、くだらない話して、テスト嫌だねー、なんて言いながら渋々勉強して。時々お小遣いから奮発してケーキ食べに行ったり。そういう、無駄だけど、大切で、平凡な時間を過ごすの。リオシュタルテのお勉強してる余裕なんかないんだから。もう二年生だし、受験だってあるし、勉強なんか嫌いだけど、大学行かないとお父さん五月蝿いし。と、とにかく、これでも色々やることあるの。使い魔として、マスターに仕えている暇なんてこれっぽっちもないんだから!」
色々と論点がずれながら、それでもまくし立てる一香に、回された腕がきつくなる。
「お前は幸せだね、イチカ」
「はぁ?」
今、そんな話してましたっけ。というか、現在進行形で不幸なんですけど。主に、あなたのせいで。
呆けていると、後ろで身じろぐ気配がした。
「夕食、サイドテーブルに置いておいたから、食べてから寝なさい」
抱いていた腕を離し、一香の頭を二度三度撫でた後、セイは静かに部屋を出て行った。